9.
ブラックローズをはじめ、厩舎にいる馬たちのブラッシングを手際よく終えた。
彼女を馬場に連れて行ったタイミングで、トイレに行ったランスがだれかをともなって戻ってきた。
「やあ、アン」
キースだった。
例のドレスを持ってきてくれたのだ。
「おはよう、キース。まさかあなたみずからドレスを持ってきてくれるなんて思わなかったわ」
「先日、『明日、届ける』と言ったよね?」
「ええ。だけど、あなたが、とは思わなかったから」
キースは、わたしとブラックローズの前までくると両腕を伸ばしてきた。
反射的に彼の腕から逃れようと身をひいていた。彼が気がつかないほんのわずか。
昨日は、彼の店で店主と顧客という立場だった。だから。彼もこんなことはしなかった。しかし、同じ立場でも今朝は違う。
見ているのは、ランスと馬たちだけ。
しかし、やはりここでハグはマズい。
あくまでも挨拶である。しかし、わたしには表向きであろうとマイケルという夫がいる。
キースは、幼馴染といってもいい。だけどやはり、夫以外の男性にきやすくハグさせるのはさすがにマズい。
幼馴染だからこそ、よけいにマズいかも。
ランスは、厩務員というだけではない。マイケルのボディーガードで親友でもある。とはいえ、ランスはこういうことはむやみに話さない。しかし、彼がマイケルに伝えなくても、どこでだれが見ているかわからない。
マイケルにたいしてだけではない。サンドバーグ侯爵家の使用人の中には、他の有力貴族に飼われている人がいる。いわゆるスパイである。
そういう人たちは、こういうスキャンダルっぽい情報を売ることで稼いでいる。だから、必死にアラを探しまくり、掘りまくる。
挨拶でハグされただけなのに、明日のパーティーではキースと寝たことになっている。
尾びれ腹びれ背びれ、なんなら胸びれまでつけた情報がでまわっていてもおかしくない。
マイケルは、わたしがだれかとハグしようが寝ようが気にはしない。自分もやっていることだから。しかし、彼の立場を悪くするような事態を招いたら、彼はぜったいにわたしを許さない。
わたし自身、そういうトラブルはごめんである。
だからこそ、よろこんでサンドバーグ侯爵領にひきこもり、領地経営や屋敷の管理に勤しんでいるのだ。
ここにきてあらぬ噂の元になるなんて勘弁してもらいたい。
というわけで、キースのハグから反射的に身をひいたのだ。
「アン?」
キースの美貌に傷ついたような表情が浮かんだ。
気がついたのだ。
まぁ、他人の機微に敏い彼のことである。わたしのささやかな行動も見逃すはずはないのだけれど。
「ごめんなさい。ほら、馬臭いから。具体的には、馬糞臭いの。だから、握手も遠慮させてね。それよりも、屋敷に戻ってドレスを受け取るわ」
ごまかすしかない。
もちろん、それほど馬糞臭くはない。そのはずだけど。
「ランス、彼女をお願いね」
「ああ。任せておけ」
ランスにブラックローズを託し、厩舎をあとにした。
屋敷までの道中、キースが乗馬服の話を持ちだしてきた。
いま着用しているのは、キーズから購入した。二着とも着まくっているのでだいぶんと傷んでいる。
「では、きみが領地に戻るまでにプレゼントするよ」
「いいのよ。まだ着用出来るわ。いよいよダメなときに、あなたから購入するから」
「いいんだよ。ちょうどいいものが入荷したところだ。めったに会えないし、きみの目で見て気に入ったらもらってくれればいい」
そんなやりとりをしながら庭園を歩いていると、目の前にあるバラ園からだれかが出てきた。
マイケルである。
足を止めていた。
キースは、肩を並べて歩いているわたしを見ていたけれど、わたしの様子を見て前を向いた。
マイケルは、せっかくの美貌にあいかわらず眉間にシワをよせ、気難しい表情でこちらに向かって歩いて来る。
彼は、胸にバラの花束を抱えている。
このダリス王国の王家の紋章がバラで、バラは王家の花としている。そして、国花でもある。
サンドバーグ侯爵家は、そのバラの管理も任されている。
とくにマイケルのお母様は、バラの研究家だった。
王家や上流階級だけでその優美さや威厳を楽しむのではなく、多くの人々に愛でてもらいたい。
というわけで、マイケルのお母様は、一般庶民でも購入できるようなバラの改良や量産の研究に明け暮れていた。もちろん、王宮にある広大なバラ園の管理も行っていた。
この屋敷のバラ園は、そんなお母様の遺産ともいえる。
いまは、マイケルが継いでいる。
宰相でもある彼は、王宮の広大なバラ園も庭師たちと連携して管理を行っている。
「侯爵閣下」
「キース」
キースが声をかけた。
マイケルは、わたしなどいないかのようにキースに笑顔を見せた。
「今朝は、奥様にドレスを届けにまいりました」
「わざわざすまないな」
「商売ですから」
キースは、マイケルに負けず劣らずの美貌に悪戯っぽい笑みをうかべた。
「公爵閣下、奥様は乗馬服をずいぶんと大切になされていて、そろそろ新しいものが必要なようです。わたしから奥様に贈りたいのですが、よろしいでしょうか?」
「勝手にしたまえ。おれには関係のないことだ」
「ついでというわけではありませんが、侯爵閣下にも議会用のスーツを贈りましょうか?」
「そうだな。それならば、おれを宰相の座からひきずりおろしたがっている連中をおちょくるようなデザインがいいな」
なんと、マイケルはそう言って笑い声をあげた。
(マイケルでも冗談を言うのね。って、いまのって冗談よね?)
「わかりました。東の国から色もデザインもちょうどいいのが入っております。自分の欲望に貪欲な連中を揶揄うにはもってこいでしょう。奥様の乗馬服と一緒に届けましょう」
キースも負けてはいない。
冗談を返した。
「失礼。所用だ」
どうやらマイケルは、でかけるらしい。
バラの花束を抱えて。
愛する人のところへでも行くのだろう。
去って行く彼の背中を見送った。
マイケルは、いまも一度たりともわたしを見なかった。
寂しさとか腹立たしさとかは感じない。
麻痺してしまっているのだろう。
なにせ憎しみ合っているのだから。
「アン、大丈夫かい?」
キースの手がわたしの右手に触れ、そのまま握られた。
一瞬、逃れようと思った。しかし、手くらいならかまわないだろう。
そう判断して握られるままにした。
彼の手は、あたたかくてやさしい。
マイケルはもちろんのこと、他の男性に手を握られるということはあまりない。
表向きの夫婦とはいえ、マイケルはエスコートでわたしの手を取ることはあっても、それを握ることはない。
そういえば、マイケルには嘘やごまかしや演技でさえ、手の甲に口づけもしてもらったことがない。
「キース、大丈夫よ。ありがとう」
キースに向き直り、笑おうとしてなぜか失敗した。
「侯爵は、きみにたいしていつもああなのかい?」
マイケルとわたしのほんとうの関係、つまり表向きは夫婦だけど憎しみ合っていることを知っているのはモーリスとランスだけである。とはいえ、王都の屋敷の使用人たちにはバレてしまっているだろう。彼らには気の毒だけれど、いつも気を遣わせてしまっている。
執事やメイドや料理人たちは、とくにわたしにたいしてめちゃくちゃ気を遣っている。
それがわかるだけに、よりいっそう罪悪感に苛まれてしまう。
領地の屋敷の使用人たちもまた同様である。マイケルは、領地にはほとんど帰ってこない。それでも、わたしたちの関係を感じ取っている。
それほどまでにマイケルのわたしに対する態度は冷酷非情といえるのかもしれない。
実際、冷たいとかそっけないとかのレベルではないのだから。
そして、キースもである。
他人の機微に敏い彼は、学生時代からのマイケルとわたしの関係を知っている。だから、いまの関係が学生時代からひどくなっていることをわかっているのだ。
「キース、ごめんなさいね。ほんとうに大丈夫だから。手、馬糞臭くなるわよ」
「いいんだよ、アン。かまわない。それよりも、きみの方が大切だ」
キースは、わたしの右手を両手に包み込んでしまった。
「ほんとうに大丈夫なのよ。ほら、彼って昔からああでしょう? 慣れっこよ。それよりも、ドレスよドレス」
キースの両手から全力で逃れた。
それから、屋敷に向って歩きはじめた。
彼の手のあたたかさとやさしさに未練を残しつつ。
まだ握っていてもらいたい。慰めてもらいたいという気持ちを振り払いつつ。
そのあと、屋敷でドレスを受け取った。
キースのブティックで見た以上に素晴らしい出来上がりだった。
手を握られて以降、というよりかキースの手から離れて以降、彼はなにか考えているかのように口数が減った。
(行動を起こしてしまったことは取り消せない)
言葉と同じである。一度口から出してしまった言葉が取り消せないのと同じように、アクションも取り消すことはできない。
キースは、なんとも表現のできない寂し気な笑みを残して屋敷を去った。