72.
覚醒した。
瞼が開いたのである。
飛び込んできたのは、見覚えのない天蓋。
頭の中と意識に靄がかかっていて、自分の状態がまったくわからない。
それこそ、生きているのか死んでいるのかさえわからない。
不意に暗くなった。
目の焦点があうとともに、頭と意識の靄がいっきに晴れた。
それを見たからである。
絶世の美女が、わたしを見おろしている。驚くほど美しいレディが、寝台に寝ているわたしの顔をのぞきこんでいる。
その容貌は、キャサリンのようなド派手な美しさではない。かぎりなく清楚でおとなしい美しさである。
その美しさに見惚れてしまった。
「アン、気がついてよかったわ。マイケルを、いえ、あなたの旦那様を呼んでくるわね」
彼女は、慈愛に満ちた笑みを美貌に浮かべた。
それから、視界から消えた。
そのときにはもう、扉の開閉の音が聞こえた。
(なんてすばしっこいのかしら?)
どうでもいいことに感心してしまった。
「わたし、生きているのね。また死ななかったのね」
天蓋を見つめたままつぶやいた。しかし、その声は長時間発声をしていなかったときにありがちなしゃがれ声だった。
「ここはどこかしら? というか、どうして彼女がここにいるの?」
先程の清楚な美人のことである。
わたしは、彼女のことを知っている。とはいえ、顔と名前と噂程度しか知らないけれど。
訂正。彼女の愛する人のことも知っているのだった。
「どうしてアンジェラ・オールブライト伯爵令嬢がここにいるの? どうしてわたしの側にいるの?」
答えを得ることができない疑問を、何度も繰り返してしまう。そうしているうちに、声が正常に戻ってきた。
七回目に疑問を口にしたとき、扉の開閉音がした。
首を動かすと、ライオネルに握りしめられた影響に違いない。むせ返ってしまった。
「無理をするな。そのままでいい」
寝台の横にある椅子に座りつつ、そう言ったのはマイケルである。
「アン。あなたは、あれから三日間眠ったままだったのよ」
アンジェラは、マイケルの横に立った。
(とうとうこのときがきたのね)
この日のことを、ある程度覚悟はしていた。だから、不思議とドキリとはしなかった。
(マイケルはアンジェラを伴い、わざわざ王都からわたしの死を確認しにきたのね。なるほど。わたしの死を確認し、このままサンドバーグ侯爵領に行ってアンジェラとの関係を公表するつもりだったのね。それなのに、わたしは満身創痍とはいえ死ななかった。マイケルとアンジェラに悪いことをしたわ。わたしが死んでさえいたら、ふたりの関係を告げて離縁を叩きつける手間が省けたのですもの)
何事も用意周到で完璧なマイケルらしい。
アーノルド・バークレーの罠を利用し、計画していたのだ。
それなのに、死ななくてほんとうに悪いことをしてしまった。
「だけど、顔色はよくなったわ。ねぇ、マイケル?」
アンジェラは、マイケルのことを呼び捨てにしている。
わたしは、いまだに彼の名さえ呼ぶことはない。
「大丈夫なのか?」
マイケルは、あいかわらず不機嫌である。
「大丈夫です」
そう断言し、大丈夫なところを見せようと上半身を起こそうとした。
「無理をするなと言っただろう?」
マイケルを怒らせてしまった。
「マイケル、そんな言い方はやめてちょうだい。アン、手伝うわ」
アンジェラは、マイケルが愛する人だけのことはある。
彼女は、マイケルをおしのけると起き上がる手助けをしてくれた。しかも、背中にクッションをあて、安定して座れるようにまでしてくれた。
容姿だけのキャサリンとは違い、アンジェラはほんものの淑女のようだ。
(レベルが違いすぎるわね。彼女だったら、領地経営のことも含めてすべてを託せる。なにより、マイケルをしあわせにしてくれる)
彼女のようなレディになら、嫉妬するまでもない。悔しがる必要もない。
「マイケル、ほら、はやく」
心の中でアンジェラを大絶賛しているうちに、彼女がマイケルを急かし始めた。
「まずは、アンに謝罪するのよ。それから、彼女の誤解を解くの。そのふたつをいまここでしなければ、あなたはその機会を永遠に失ってしまう。なにより、彼女を失うことになる」
「わかっている。わかっているから、きみは席を外してくれないか」
「あなたがちゃんとやるとは思えないから、お断りよ。度重なるわたしの忠告を無視し続けた結果が、これでしょう?」
「だから、わかっている」
やはり、マイケルとアンジェラは深く愛しあっている。おたがいに対する信頼や愛情が、ふたりの言葉の端々に感じられる。
「わかった。そこで聞いていろ」
マイケルは、自分の瞳をわたしの瞳とあわせた。
彼の碧眼にボロボロのわたしが映っている。
わたしの瞳には、銀髪碧眼の美貌が映っているだろう。
「アン、すまなかった」
彼は、謝罪とともに頭をさげた。とはいえ、ぜんまい仕掛けのおもちゃのようにピョコンといった感じだったけれど。
「今回のこと。それから、これまでのことだ」
彼の言い方が抽象的すぎて、何のことを謝っているのかよくわからない。
「謝罪はいりません。むしろ、謝るのはわたしの方です。わたしが死んでいれば、あなたと彼女はスムーズに夫婦になり、しあわせになれたのですから」
満面の笑みを浮かべたつもりだけど、うまくいっただろうか。
というか、声が震えていたけど気付かれなかっただろうか。
「なんだって?」
「なんですって?」
マイケルとアンジェラが同時に叫んだ。
「おれと彼女がなんだって?」
「わたしとマイケルがなんですって?」
ふたりは、同時に続けた。
こんなちょっとしたことまで、ふたりの息はピッタリである。




