炎のターゲット
「岩佐少佐! 撃墜しましょう!」
高橋は初めての敵機との遭遇に興奮していた。彼は勿論今まで厳しい訓練を受けて操縦士になったのであるし空中戦の訓練も嫌と言うほどやってきたのである。自信も功名心も旺盛な高橋が戦いたくない訳がなかった。しかも高度はこちらの方が高く敵機は高橋達に気がついていない。いくら鈍速な零観といえども位置的には相当有利な状態なのだ。おそらくこの海域に日本軍の機体は飛んでいないとあのカタリナに乗る米軍パイロットは油断しているのであろう。高橋は攻撃のチャンスは今しかないと感じていた。だが暫くの間岩佐からは返答が無かった。
「岩佐少佐!? 」
高橋がもう一度問いかけると漸く伝声管越しに岩佐の声が響いた。
「高橋、あのカタリナは何をするだろう? 」
「えっ!? 」
高橋は岩佐が何を言いたいのか分からない。すると岩佐が続けた。
「おそらくあのカタリナは警戒飛行中に我々の無線発信を察知して菅谷丸を怪しいと思ったのであろう。放っておけばそのうち飛び去ると俺は思う」
「えっ!? 見逃すのですか!? 」
高橋の大きな声に対して岩佐は静かに言った。
「確かに今敵機を攻撃すればあのカタリナを撃墜することは出来るかもしれない。だがそうなれば敵は菅谷丸を怪しんでカーテレット諸島に大きな攻撃を仕掛けてくる可能性が高いと俺は思う」
「……仰る通りです」
「そうなればまた犠牲者が増えるのだ」
岩佐の言うことは正しいと高橋は思った。だが高橋は食い下がった。
「このままあの島で静かに生き延びたとしても友軍が来てくれる保証はありません! 食料もいつまでもつか分からないし零観もいつまで飛べるか分かりません! 絶好のこの機会にせめて敵に一太刀浴びせさせて下さい! 島の皆もそれを望んでいると思います! このまま何もせずに飢えたら……我々は犬死ですよ! 」
高橋は初めて岩佐に声を荒げた。そして叫んだ。
「岩佐少佐! 」
「高橋……止めておこう」
岩佐は静かにそう言った。その言葉を聞いて自分の歯ぎしりが伝声管から岩佐に伝わってしまうのではないかと高橋は思った。確かに岩佐の言うことも高橋には理解出来る。米軍がその物量に任せて大量の爆撃機を飛ばし菅谷丸とその周辺の密林に爆弾の雨を降らせればまた多くの人間が死ぬことになるだろう。高橋自身も命を落とすかもしれない。だがこの好機を逃すということになれば自分は何の為に憧れの操縦士になったのか分からない。それにこの島でひっそりと生き延び続けるということは軍人として戦うという自分達の義務を放棄しているように高橋には思えるのだ。高橋は深呼吸をして少し自分を落ち着けた後ゆっくりとこう言った。
「岩佐少佐、降下します」
岩佐は何も言わない。高橋はこう続けた。
「死んでいった仲間の無念を少しでも晴らします。やります」
すると岩佐少佐が漸く口を開いた。
「……高橋」
高橋は「はい」と返事をする。もし岩佐が攻撃を止めろと言っても高橋は操縦桿を押し込んで機体を急降下させるつもりでいた。
「雲と雲の隙間から敵機の位置を再確認するぞ。おそらくあのカタリナは今我々の真下辺りを飛んでいる筈だ。機体を左へバンク角度九十、高度をやや下げろ」
その言葉を聞いて高橋は思わずにやりと笑った。そして「はいっ! 」と大きく返事をすると機体の角度をぐっと左へ傾けて雲上にあった機体をゆっくりと雲の中へ沈ませる。半ば強引に岩佐から敵機攻撃の許可を貰ったのだ。「この好機は絶対に逃してはならない」高橋は機体を降下させながらそう思った。攻撃許可をくれた岩佐に高橋は応えなければならない、失敗は許されないのだ。高橋は数秒後には雲の下に出て敵機を見つけた瞬間にすぐに敵機へ接近し攻撃を始めなければならない。ここでもたついて敵機の方から先にこちらを発見されたりすると逃げられてしまう可能性が高くなるのだ。高橋の心臓の鼓動はどんどん高鳴っていった。「落ち着け、落ち着け」極度に緊張しながらも高橋は心の中でそう何度も呟いた。
「雲から出て敵機の位置を確認したらすぐに降下して接近し攻撃を掛ける。敵機との距離が十分縮まってから射撃開始だからな、それを忘れるなよ」
「わ、分かりました」
高橋の声は極度の緊張からか上ずってしまっていたが高橋はその岩佐の言葉で空中戦の訓練をやっていた時の教官の言葉を思い出した。「下手な操縦士程遠距離から射撃をして弾を無駄遣する。敵機への射撃開始は150mまで近づけ! また射撃は短い間隔でせよ。長時間打ち続けるとすぐに弾切れだ! 」高橋は空中戦の訓練で何度もそう言われたことを思い出した。その厳しい訓練のお陰か高橋の空中戦の腕は決して悪くはなく本人にも自信があった。だが何と言っても空中戦は初めてなのだ。緊張しない訳は無い。そして視界がぱっと開けた次の瞬間眼下に朝焼にほんのり照らされた美しい海が広がる。高度計は二千mを指していた。
「いたぞ! 左翼下だ! 真下にいる! 高度五百! 」
岩佐少佐のその声を聞いて高橋も視線を左に向ける。すると双発のカタリナがゆっくりと海上を飛んでいるのが見えた。速度もそれほど出ておらずこちらにはまだ何も気が付いていない。絶好のチャンスだ! 高橋は機体を傾けてカタリナ飛行艇への急降下を開始した。速度がぐんぐん増す。それにつれて薄い水色に塗られたカタリナの翼に描かれた星のマークがどんどん大きくなってきた。高橋の零観は敵機から見ると右斜め上後方より真っ直ぐカタリナに近づいていく。敵は眼下の菅谷丸に気を取られているようで高橋達の零観にはまだ気が付く様子がない。高橋はカタリナ越しに一瞬菅谷丸の姿を見たがすぐに視線をカタリナに戻した。
「高度千! 」
岩佐が伝声管越しに叫ぶ。敵機まであと距離五百mだ。高橋の全身は既に汗びっしょりである。高橋は「落ち着け、落ち着け」と小さく呟きつつ操縦桿を細かく動かす。岩佐少佐が「高度九百! 」と叫んだ時に漸く操縦席の目の前にある照準器の真ん中にカタリナを捉えた。後は突っ込むだけだ。まだカタリナはこちらに気が付いていない。さすがに不用心過ぎるだろう、そう高橋は思った。そして高橋は空中戦の訓練に明け暮れていた頃の教官の「自分の後方を常に警戒せよ」という言葉をふと思い出す。その時岩佐が叫んだ。
「高度七百! 後方敵影無し! 」
「了解です! 」
高橋は岩佐の注意力に感心した。だが次の瞬間だった。カタリナ飛行艇の後部側面の銃座がいきなり火を噴いた。曳光弾が零観のすぐそばを飛び去っていく。漸く敵機がこちらに気が付いたのだ。だがここで怖れをなして逃げる訳には行かない。高橋は夢中でそのまま操縦桿を保ち真っ直ぐに敵機に接近していった。カタリナが慌てふためくように機体の針路を右に旋回させようとする。だがその動きは遅い。高橋は再び操縦桿を細かく動かしカタリナを照準器の中央に収めた。彼我の距離がどんどん詰まり百五十mにまで狭まった時カタリナの翼に描かれた星のマークが目の前まで近づいてきたように高橋は感じた。
「撃ちます! 」
高橋はそう叫ぶとスロットルレバーに備え付けられた機銃の発射装置を汗びっしょりの手で握りしめた。「タタタタ! タタタタ! 」と音がして機首の7.7mm機銃から弾丸が放たれそれはカタリナの右エンジンに吸い込まれていく。すると「ドン! 」と小さな音がしてその直後一瞬目の前が真っ暗になった。カタリナの右エンジンに機銃弾が命中して噴き出した黒煙が高橋の視界を一瞬遮ったのだ。高橋は敵機に近づき過ぎたので黒煙を避けるように機首を一旦上げた。そうして眼下を見るとカタリナは右に旋回しつつ黒煙を吐きながらゆっくりと高度を下げている。
「やったぞ! 」
高橋は思わずそう叫んだ。だがその声に続いて岩佐がこう叫んだ。
「高橋! 止めを刺せ! 」
カタリナは高度を下げてはいるがまだ墜落してはいないのだ。高橋は再びカタリナを追った。右のエンジンが火を噴いているので速度は更に落ちている。この弱った敵機を照準器に捉えるのに何も問題は無い。だが岩佐少佐が戒めるように高橋に言った。
「敵の右後ろやや上方から接近しろ。そうすれば敵の後部機銃は我々が煙で見えない筈だ。敵の銃座からの反撃を受けなくて済むぞ」
「了解しました」
高橋は岩佐少佐の指示通りカタリナよりやや高度をとって右後方から再び接近した。右エンジンは黒煙を吐き続けている。敵はその黒煙の為に高橋達の位置が分からず盲撃ちをしているようで銃弾は明後日の方向に飛んでおり脅威は感じられない。だがカタリナは細かく針路を変えながら飛んでいた。我々の二回目の攻撃を警戒しているのだろう。だがその速度はもう極端に遅くなっている。高橋は再び敵機との距離百五十mまで近づくと今度は左のエンジンに照準を合わせて射撃を開始した。「タタタタ! タタタタ! 」という機銃の射撃音が断続的に繰り返された後に今度は大きな爆発音が響き金属片が周囲に飛び散るのが見えた。
「やったぞ!! 」
カタリナは黒煙を噴きながらどんどん高度を下げていく。だが落ちながらも敵機の後部機銃は黒煙の合間から高橋の機体を見つけると射撃を繰り返していた。その時高橋ははっとする。米兵は臆病だと高橋は長い間日本で教えられてきたがそれは嘘なのだ。墜落するその瞬間まで攻撃を止めない米兵の闘志に高橋は心を打たれた。その直後カタリナは海に突っ込む。大きな水しぶきを上げたカタリナは漸く沈黙しゆっくりと海中に沈んでいった。
「……」
初めての敵機撃墜で高橋は興奮していたものの心のどこかには冷静な部分があった。高橋はカタリナの沈んだ場所の上空でいつの間にか敬礼をしていた。いつ自分もあのカタリナのように海の藻屑になるかもしれないのだ。水上機乗りになって初めて空中戦を経験し敵機を撃墜した喜びよりも明日は我が身の思いの方が高橋の心の多くを占めていた。
「敵機一機撃墜だな、良くやったぞ、高橋、帰ろう」
岩佐がそう落ち着いた声を発する。零観は出発した入り江に向かって針路を変えた。