眼下の敵
翌朝も零観の修理は続けられた。だが不調部品の入れ替えをしてオイルを補充しエンジンを始動させてみるもののどうも調子が悪い。朝から汗だくの神田達だがその表情は暗かった。高橋も手伝えることは全てやったが零観のエンジンはなかなか機嫌良く回ってくれない。するとその嫌な雰囲気に追い打ちを掛けるように「敵機接近! 」という叫び声が周囲に響いた。菅谷丸の艦橋にいた乗務員が南の空から飛来する米軍のカタリナ飛行艇を視認したのだ。全員が作業を中止しカタリナ飛行艇が迫る中を椰子の木の乱立する密林の中へ身を隠す。零式観測機は海岸の入江のやや奥まったところに椰子の葉でカモフラージュされているので後は見つからないことを祈るしかない。するとカタリナ飛行艇は座礁した菅谷丸の上空を何度か旋回したけれども爆撃や銃撃を加えることは一切なくそのままUターンをして南の空に戻っていった。その様子を見ていた岩佐がポツリと言った。
「……あの飛行艇はどういう判断をしただろうかな」
「怪しいと思えば機銃ぐらいは撃ち込んできたと思いますが……」
山本がそう答える。岩佐は腕を組むと「そうだな……」とだけ答えた。するとそこへ神田が走ってきて山本に敬礼するとこう言った。
「零式観測機の修理を再開します! 」
「うむ」
山本が頷くと零観の修理は再び始められた。
「せめて零観が動いてくれればなぁ」
修理の様子を見ながら山本がそう呟く。すると岩佐がふと山本にこう尋ねた。
「そういえばこの船には電探が装備されていたな」
「はい、敵艦の砲撃を受けた時は故障中でしたが装備はされております」
「今は使えるのか? 」
「電探に敵弾の命中は無かったかと思いますのでおそらく故障さえ直せば使えます」
「無線機と合わせて電探も修理してはどうか? 先ほどのような敵機襲来の時に役立つだろ? 」
「分かりました。艦長に相談してみます」
山本は菅谷丸の艦長である丸山中佐へ電探の修理を進言した。電探というのは電波探信儀、すなわち現在でいうところのレーダーであった。でっぷりとした腹が軍服を突き破りそうになっている艦長の丸山はその進言を認め電探も修理が開始された。岩佐がその様子を見ながらこう言った。
「まぁ無線が直っても焦ってすぐに友軍への連絡を菅谷丸から直接送るのは危険だな」
それを聞いて山本が答える。
「電波を発信すれば敵に我々の位置が露呈する可能性が高いですからな」
「その通りだ。だが直らないよりは直った方が行動の選択肢が増えることは間違いない。我々が友軍に合流出来る可能性が少しでも上がるならば出来ることは全てやろう」
「分かりました」
その日も夜になり砂浜で菅谷丸から運び出された米をお握りにしたものを岩佐と高橋は食べていた。岩佐の前向きな発言は周囲の負傷兵達の気持ちをほんのりと明るくさせており高橋もまた然りであった。友軍に我々の位置を知らせなければ我々はこの孤島で永遠に孤立してしまうのだ。高橋は岩佐の横で俯きつつ黙ってお握りを食べ続けた。すると入り江の方から突然「ブォーン」という音が聞こえてきた。その瞬間高橋は反射的に顔を上げた。久々に聞いた零観のエンジンが高回転で回る音に高橋はやや興奮気味になっていた。
「零観が直ったのではないでしょうか!? 」
横にいる岩佐に高橋はそう叫ぶと入り江の方へ走り出した。砂浜を駆けていくと暗闇の中で僅かな照明に照らされながら零観のエンジンが唸りを上げているのが見えてきた。やった! 高橋は近くにいた神田に尋ねた。
「直ったのか?」
「良い感じですね。もう少し様子を見させて下さい」
だがその後またエンジンは不調となりその日零観が飛べる状態に戻ることはなかった。だが神田曰く「不調の原因は完全に分かった」とのことで明日に最終調整を行うという。目処がついたのでそれまで徹夜続きだった整備兵達を山本は休ませることにした。高橋は神田に礼を言った。
「神田、ありがとうな」
「いえいえ、明日の夜には飛べるようになりますから高橋さんも今日は休んで下さい。お手伝いありがとうございます」
その日の夜の砂浜は静かだった。見張りの数人を除くほぼ全ての兵士は久しぶりに深い眠りについた。
翌朝に再び零観の修理は始められた。作業は朝から晩まで続きその日の深夜に漸く零観のエンジンはいつもの雄叫びを取り戻した。
「どうだ? 」
「良い感じです! 」
高橋の質問に神田が笑顔で応える。神田がエンジンを暫くの間回してみたがエンジンが「ブホッ」と以前のように息を吐くようなことはなかった。神田は他の整備兵と共に航空燃料の入ったドラム缶を密林の中から転がしてきて零観の横に据えた。燃料補給が始まるのだ。するとそこへ丸山と岩佐がやってきた。
「高橋、今さっき菅谷丸の無線機と電探の修理が終わった。船内の非常用発電機が動く間は共に使用可能だ」
「はい」
「その上で今から零観を試運転を兼ねて飛ばそうと思う。零観の無線機は生きているからこの島から離れたところで友軍へ菅谷丸の現在地を発信するのだ。これであれば菅谷丸から直接電波を発信するよりは敵に発見される危険は少ないだろう」
「了解しました」
「味方が我々の無線を拾ってくれて何か連絡をくれるのであれば菅谷丸の無線機がそれを受信出来るであろう。ひょっとすれば救援が来てくれるかもしれん。まぁどうなるか分からんがな」
昨今の戦況悪化を考えれば友軍が来てくれない可能性も十分ある。それを岩佐少佐は危惧しているのだろう、と高橋は思った。
「夜明けまで一時間しかない。準備を急ごう」
「はいっ」
昼間にもし敵戦闘機と遭遇すれば大きなフロートを機体の下にぶら下げている水上機は撃墜されるしかない。水上機の飛行は基本的に夜間に限られるのである。勿論零観は空戦能力を備えているので反撃することも出来るが速度に勝る米軍の戦闘機の前では勝てる確率は低かった。今回の任務は敵機に接触することなく1時間の間にこの島からなるべく離れたところまで飛んで友軍へ無線を打ち帰ってこなければならないのだ。
「高橋、行くぞ! 」
岩佐の声を聞きつつ高橋は零観の前席に飛び乗る。岩佐もそれに続いた。二人が乗った零観を整備兵が浅瀬から押していく。整備兵は皆「押し出せ~! 」と大声を掛け合いながらの作業だ。回転するプロペラの発する「ブオ~ン」という爆音の中で高橋は「ありがとう」と小さく呟いた。零観が海上に浮かび機首を砂浜から海の方へ向けると高橋はエンジンの回転を上げた。
「離水します! 」
高橋はそう大きな声で叫んだがそれはエンジンの爆音にすぐに掻き消された。唯一伝声管越しにその声を聞いていた岩佐少佐がゆっくりと「よし、出せ」と言った。零観はするすると海上を進み出すと数秒の後には空へ舞い上がった。
「エンジンは快調です! 」
「うむ」
真っ暗な闇の中を零観は上昇していく。高度計が千mを指してもエンジンには全く異常は無かった。高橋は再び飛べたことが嬉しかった。ひょっとしたらこの南海の孤島でもう二度と空に舞うことはもう出来ないかもしれない、そんな不安も勿論感じていたからだ。
「高度を三千に取って機首を西に向けろ。カーテレット諸島から少し離れたところで友軍宛てに無線を使用する」
「了解しました」
零観は快調にエンジンを回し洋上を飛んだ。その日は雲が出ていたがその合間からは星空が見える。キラキラと輝く星空はいつ見ても綺麗であった。そうして暫く飛んでいると「そろそろだな」という岩佐少佐の独り言が伝声管から聞こえてきた。時計を見ると離水してから三十分程経っている。おそらく今から友軍へ無線を送るのであろう。そうして数分待つと岩佐少佐が高橋にこう言った。
「高橋、戻るぞ、反転しろ」
「了解しました」
暗闇の中を零観は東へ向きを変えた。計器のみによる飛行なので夜空を見ているだけでは自分の機体が何処を目指しているのかはさっぱり分からない。勿論夜中では着水するべき場所などなかなか正確には分からないのだ。夜明けの、周囲が白々と明るくなった瞬間に零観を着水させることが高橋達がカーテレット諸島へ帰る最も確実な方法だった。岩佐の誘導に従い何度か針路を修正しつつ零観は暫くの間飛び続けた。そして出発から一時間程経った時周囲が少し明るくなってきた。周囲には相変わらず雲が多いがその合間からカーテレット諸島が目前に認められた。「取り敢えず無事に帰ってこれたか……」高橋がそう心の中で呟いた瞬間だった。
「高橋! 右下方に敵機だ! 雲に隠れろ! 」
「えっ!? 」
高橋は返事をしつつ機体を近くに浮いていた雲の中に入れようとした。その間も岩佐は敵機を監視しているらしく高橋に状況を説明した。
「機種はカタリナだな。高度は五百、速度は二百kmといったところだ。どうやらこちらには気が付いていない。菅谷丸の方へ向かっているな。先程の無線に気が付いて座礁した菅谷丸を怪しいと思ったのかもしれん」
高橋はそれまで爆撃と哨戒の任務の経験しかなかった為空中で敵機と接触するのはこの時が初めてであった。操縦桿を握る掌は手袋の中で汗が滲んでいた。