カーテレット諸島
「よし、上手い着水だぞ、そのまま島へ近づいていけ」
岩佐がそう言った。目の前には朝焼けの海岸の上に平たい島が見えている。海岸線は長く波は静かに打ち寄せていた。高橋はそのまま零式観測機を海岸に近づけると浅瀬にフロートを乗り上げさせる。ここで高橋はエンジンを完全に停止させた。
「エンジンは焼きついてはいないな? 」
「はい、ですがおそらくもう飛ぶことは出来ません」
高橋は身体を固定するベルトを外すと操縦席を出て翼の上に飛び乗った。機首を見るとカウル付近の至るところから黒いオイルが流れ出ている。修理が必要だがこの島に友軍の修理施設はない。それどころかカーテレット諸島に日本軍はいないのだ。海上に不時着して海の上を彷徨う、そういった最悪の事態は避けられたのに高橋の気持ちはまた暗くなってきた。
「このままだとすぐに太陽が昇る。今のうちにこの機体を隠すぞ」
岩佐がそう言いながら後部座席を下りて高橋と同じように翼の上に降り立つとそのまま眼下の海にざぶざぶと入っていった。海面は腰までしかなく岩佐はそのまま海岸へ歩いていく。
「ぼけっとするな! 今出来ることをやるのだ! 」
海岸の上から岩佐がそう大きな声を出した。呆気に取られてその姿を見ていた高橋は漸く我に返る。すぐに海に足から浸かるとそのまま岩佐を追いかけた。
「椰子の葉を集めて零観に被せろ! 万が一敵機が上空を通っても分からないようにするのだ! 」
「は、はいっ! 」
幸い海岸には椰子の木が沢山生えていて葉は至るところにある。二人はそれらをちぎっては集めて自分達の愛機に被せた。その後一時間程で零式観測機は椰子の葉で見事に覆われた。これであれば仮に上空を通過する米軍機があってもちらりと見ただけでは水上機とは分からないであろう。すると水平線から太陽が表れた。
「ご苦労だった。一旦木陰で休憩するか」
「は、はい」
「少し休んでから後のことは考えよう」
岩佐は微笑んでそう言うと砂浜を歩いて海岸に生える椰子の木の木陰に座った。周囲を見渡すと島はかなり小さいようだ。少し離れたところには原住民の家らしきものも見えたが人影は無い。どうやら警戒しているのであろう。すると高橋の腹がくぅと鳴った。昨夜の搭乗前から何も食べていないので空腹は当然だった。
「高橋、腹が減ったか? 昨夜の夜食が残っているぞ。食うか? 」
岩佐がそう言いながら赤飯の缶詰を2つ出してきた。二人はそれぞれ缶の蓋を明けるとその赤飯をむしゃむしゃと食べた。すると疲労が蓄積していたのか高橋は眠たくなってきた。これからどうするかを考えるのも少し面倒臭い。すると岩佐が高橋にこう言った。
「いいぞ、少し休め」
その言葉を聞いて高橋は「ありがとうございます」とだけ言うと木陰に身体を横たえた。取り敢えずは寝て気分をすっきりさせてから今後のことをかんがえよう、高橋はそう思いつつふと航空服の胸ポケットに忍ばせた一枚の写真を取り出した。その写真の中では軍服姿の高橋が見る者を睨むようにして立っている。だがその横に写る女性は笑顔だった。にこりとした笑顔が可愛らしいその女性を指で撫でるようにしながら高橋は呟いた。
「美玲……」
それは高橋の妻であった。こんな南の島で友軍とも別れて途方に暮らす自分を慰める為に高橋は自分でも無意識にこの写真を手に取ったのであろう。そして次に高橋は美玲が抱く赤子に触れている指を移した。
「未来虹……」
それは高橋の娘であった。娘が生まれた日に高橋が美玲の実家に駆けつけようとしているとたまたま美しい虹を見かけた。その話しを高橋が美玲にすると彼女は「虹の文字が入った思いっきりハイカラな名前を考えましょ! 未来にかかる虹なんてどうかしら? 」と言って笑った。高橋の脳裏にはその笑顔が今でも焼き付いている。高橋は美玲と一緒にそろそろ一歳になろうかという未来虹の頭を撫でる我が姿を想像した。ふと目に涙が浮かんでくる。高橋はもう一度「……美玲」と呟くと写真をポケットに戻した。美玲に会う為には絶対に生きて帰らなければならない、しかし今の状況ではそれは可能だろうか? そんな不安を胸に抱えながら髙橋は目を瞑った。寝てほんの少しの間でもこの絶望的な状況を忘れたい、そんな気分だった。
「高橋、起きろ! 」
数分か数時間か分からないがうとうととしていた高橋は自分を呼ぶ声で目が覚めた。ふと上半身を起こすと岩佐が高橋から十m程離れた椰子の木の横に立って高橋を呼んでいる。
「空が真っ暗だ。スコールがきそうだぞ」
「えっ!? 」
高橋が慌てて空を見上げると椰子の葉の合間から見える空は先程までは透き通るように青かったのに今は墨汁をぶちまけたように黒くなっている。
「こっちへ来い。雨風を駕げそうな場所を見つけた」
高橋は岩佐について行った。すると椰子の木の乱立するちょっとしたジャングルを抜けたところに小高い丘があってその丘の中腹に人が数人入れそうな横穴が空いていたのだ。確かにここであれば雨風は凌げる。高橋は自分が寝ている間にこんな場所を見つけておいてくれた岩佐に感謝の言葉を述べるとその横穴に二人で入った。横穴の中には既に椰子の葉が敷かれている。これも全て岩佐がやってくれたのだ。高橋は寝てしまった自分が不甲斐なく思えて岩佐に再度謝意を表した。
「いやいや、お前は夜間飛行で疲れていたのだから。気にするな」
そういう岩佐は高橋より一回り年上なだけであるがまるで優しい親父のような雰囲気であった。今までの岩佐は根は優しいが任務には厳しいというイメージだったがこんな南海の小島で二人きりになってもその優しさは変わらない、良い人だと高橋は思った。そして高橋は椰子の葉の上に座りつつこう切り出した。
「岩佐少佐、これからどうしましょうか? 」
「スコールが止んだら零観の無線機が使用出来るか確認してみよう。もし無線が使用出来れば一か八か友軍に助けを乞うこともやってみても良いかもしれんな。だがその為には零観のカモフラージュをもっとしてからだ」
岩佐少佐は無線による電波の発信で我々の現在位置が米軍に露呈することを憂いているらしい。高橋はぼんやりと返事をした。
「……そうですね」
「この島に長期滞在になるかもしれんな。原住民が日本に対して好意的なのかどうかも分からんから気を付けないとな」
岩佐少佐の手元には軍刀が置いてあった。今ではこれが唯一二人の身を護る武器であった。もし原住民が親米で集団で二人を襲ってきたらどうなるか、そう思うと高橋は心細いことこの上無かった。
「食料も確保せねばならん。何とか生き延びるぞ」
高橋の顔を見て岩佐はそう力強く言った。その前向きな言葉に高橋は自分の心持ちを恥じた。そしてこういう時にすぐに弱くなってしまう自分に腹が立ってきた。今までは散々自分の操縦技術の高さを鼻に掛けていたくせに情けない、高橋はそう思った。若い自分が岩佐のように前向きな振る舞いをしなければならない、と実感した高橋は岩佐の顔を見据えてこう言った。
「スコールが終わり次第無線機を確認してみます! 」
そんな高橋を見て岩佐はにこりと頷いた。そして二人は横穴の外を見る。いつの間にか大雨になっていてそのうち雷まで鳴り出した。凄い音だ。だが滝のような雨は横穴に入ってくる様子は無かった。二人は雨を見つめていたが暫くすると岩佐がポツリとこう言った。
「やることもないし休憩しよう、寝ていいぞ」
二人は椰子の葉の上で横たわりそのうち高橋はぐうぐうと寝息をたて始めた。