夜間爆撃
「前方の島がブーゲンビル島だ。島中央の山を超えたらすぐに爆撃だぞ」
「了解です」
菅谷丸を出て既に一時間が経っている。高橋達の零式観測機はブーゲンビル島の北側海岸に達していた。目標のタロキナ岬はもうすぐなのだ。
「島中央の山岳地域を超えたぞ。高度を下げよ」
「了解」
岩佐の声が伝声管を伝って耳に響く。高度三千mでは寒かった気温が少しずつ上がってくるのが分かる。高度計が二千mを指した時今度は高橋が岩佐に伝声管越しに叫んだ。
「岩佐少佐! 正面に灯りが見えます! 」
高橋達の乗機の前方、漆黒の闇の中に一箇所だけ明るくなっている場所があるのだ。
「あれが今夜の爆撃目標であるタロキナ岬の敵の上陸地点だ。地上の灯火を目標として爆弾を投下する。発動機を絞って音を抑えよ。降下飛行を継続」
「了解! 爆撃針路に入ります! 」
零式観測機は高度を下げつつ緩降下飛行を続け目標に近づいていった。制空権を握っていて警戒していないのか敵は全く高橋達の機体が忍びよっていることに気が付いていない。灯りの中に油断しきった米兵の雑談する姿を思い浮かべながら高橋は高度計を読み上げ始めた。
「高度千五百……高度千」
「ちっ! 」
降下中に岩佐の舌打ちが伝声管越しに響く。今まで煌々としていた地上の灯りが突然消えたのだ。どうやら敵が気が付いたらしい。するとすぐに夜空に探照灯が照射された。高橋達の乗機の位置を探る為に探照灯の灯りが何本もの筋となって夜空を舞っている。
「高度五百」
先ほどまで灯りが見えていた場所へ緩降下を続けると敵の対空砲火が始まった。赤い銃火が高橋の乗機の周りをかすめる。そろそろ良い頃だ、高橋はそう思った。
「爆弾投下します! 」
高橋はそう言うと零式観測機に搭載された二発の60kg爆弾を投下した。だが次の瞬間目の前が突然明るくなり高橋は一瞬目を瞑った。今まで真っ暗だった周囲が急に太陽に照らされたような感じである。すると岩佐が叫んだ。
「探照灯に捉えられたぞ! 」
敵の探照灯が高橋達の乗機を照らしているのである。すると敵の砲火があっという間に零式観測機に集中してきた。普通なら慌てるところだが高橋は以前に何度か探照灯に照らされた経験がある。高橋は落ち着いて操縦桿を操り機体を急旋回させた。すると周囲が再び真っ暗になる。敵の探照灯の捕捉から逃れたのだ。すると次の瞬間ドーンという大きな音が聞こえた。高橋の投下した爆弾が爆発したのだ。
「爆撃完了! 速やかにこの空域から脱出せよ! 」
「了解! 」
岩佐の指示に従い高橋は乗機の速力を上げようとした。だが次の瞬間再び目の前が眩む程の明るさになる。また敵の探照灯に捉えられたのだ。
「また捉えられたぞ! 」
岩佐がそう叫ぶやいなや足元付近からガン、ガン、ガンという音がした。周囲には敵の対空砲火による火線があちこち飛び回っている。どうやら命中弾を喰らったらしい。高橋は再び機体を急旋回させた。すると探照灯からはどうにか逃れられたが焦げ臭い匂いがする。岩佐が叫んだ。
「臭いぞ! 消火用レバーを引け! 」
ふと操縦席内の足元を見ると一瞬火花が散った様に見えた。高橋はすぐに操縦席左側にある消火用レバーを操作する。すると消火用ガスボンベからガスが噴き出し操縦席内は真っ白になった。何も見えない中で高橋は叫んだ。
「頼む、消えてくれ! 」
高橋はそう叫んでいた。ここで火災が発生すれば菅谷丸に還ることは出来ない。まだ死にたくない! 高橋は思わず心の中でそう叫んでいた。すると岩佐の声が伝声管から響いた。
「落ち着け、高橋、高度を少し上げよ」
その声で高橋は我に返った。暫くすると操縦席内のガスはいつの間にか消え去り焦げ臭い匂いは先ほどよりは少し収まっている。高度計を見るとその針は高度五十を示していた。慌てているうちに高度がかなり下がってしまっていたのだ。洋上に浮かぶ敵の艦船に衝突する可能性もある。高橋はゆっくりと操縦桿を引いた。いつの間にか敵の対空砲火も止んでいる。爆撃地点から相当に距離が離れたのであろう。高橋は漸く落ち着きを取り戻してこう言った。
「高度を一旦三百迄上げます」
すると岩佐が「了解」と言った後にこう続けた。
「高橋、見えるか? 陸上に火災が発生しているぞ」
「えっ? 」
機体の向きをほんの少し変えて高橋は後方を振り返った。すると高橋が爆弾を落とした付近で炎が燃え盛っているのが小さく見えた。高橋は笑顔になってこう言った。
「岩佐少佐! やりましたね! 」
「ふふ、そうだな。我々の任務で無駄なものはないのだ。継続してやっていればいつか成果は現れる」
夜間爆撃で初めて敵陣地に火災を発生させたのだ。高橋は嬉しくて仕方がなかった。そしてそれと同時に彼は心の中で以前の軽口を岩佐少佐に再び詫びた。
「慢心することなく一つ一つ任務を全うしよう」
高橋はそう小さく呟くと零式観測機の高度を徐々に上げ針路を北に取り菅谷丸との集合地点へ機首を向けた。作戦通りであれば今頃二番機と三番機が一番機に続いてタロキナ岬に爆撃を仕掛けている筈である。高橋はふと同僚の吉村のことを思った。
「死ぬなよ……」
今までお互いに何度も任務を一緒にこなしてきたのである。吉村の無事を祈りつつ高橋はブーゲンビル島を北側へ抜けた。後は無事に菅谷丸へ帰還するだけだ。
「後三十分程で菅谷丸と合流ですね」
高橋が腕時計を見ながらそう後席の岩佐に話し掛けた。時計の針は朝の四時半を指している。もう一時間程爆撃から時間が経っているのだ。火災を発生させたことで初めて自分が祖国に貢献出来たようで高橋の表情は明るかった。だが岩佐から返事は無かった。
「少佐、どうかされましたか? 」
「静かに! 」
何か重要な電信を受信しているのだろう、高橋はそう思った。高橋は暗夜の洋上飛行を続けつつ岩佐が口を開くのを待つ。暫くすると岩佐がこう言った。
「高橋、まずいことになった。菅谷丸は現在敵艦と接触し砲撃を受けているらしい」
「えっ!? 」
「現在の菅谷丸は集合地点のカーテレット諸島から二海里程南の位置だ。こちらの位置を知らせたがその後返答が無い」
「え……」
高橋はその後言葉を発することが出来なくなった。菅谷丸が撃沈されれば高橋達には帰る場所が無くなるのは勿論だが作戦を共にしてきた仲間があの船には大勢乗っているのだ。皆大丈夫だろうか? 不安が高橋を襲う。
「取り敢えずは集合地点まで行ってみよう。いずれにせよこの付近に友軍はいないのだ。菅谷丸が上手く切り抜けていることを祈るしか無い」
岩佐少佐が落ち着いた口調でそう高橋に告げた。流石に大ベテランだけあってその言葉には安心感がある。高橋は「了解しました」と返事をしてまた飛び続けた。だが暫く飛び続けると不安が高橋を再び襲う。このまま飛び続けても母艦が沈んでいれば高橋達も海の藻屑となるしかないのだ。するとそんな高橋の不安を更に煽るように零式観測機のエンジンからブホッ、ブホッと異音がするようになった。岩佐少佐が伝声管越しに怒鳴った。
「どうした? 」
「分かりません! 」
高橋は焦ったが異音は収まりそうもなかった。操縦室内の目の前に並ぶ沢山の計器を高橋は必死に見つめる。するとエンジンの油圧計の数値が下がっていることに気が付いた。
「油圧低下! 」
高橋がそう叫んだ瞬間であった。高橋の視界が急に真っ暗になった。
「うわっ! 」
乗機のエンジンがオイル漏れを起こしたのだ。高橋の目の前の風防がエンジンから噴き出したオイルを被り高橋の視界を遮った。
「岩佐少佐! 前が見えません! 」
高橋はパニックに陥っていた。機体は降下を始める。視界が効かず慌ててしまって水平飛行が出来ないのだ。
「落ち着け、機首をゆっくり引き起こせ」
「は、はいっ! 」
岩佐少佐の声を聞いて高橋はゆっくりと操縦桿を手前へ引いた。機体はどうやら水平になったがそれでも高度は徐々に下がっていった。エンジンが出力を維持出来ないのだ。このまま海面へ不時着か? そう高橋が思った時だった。
「高橋、前方に島がある筈だ」
「えっ!? 」
「俺の計算が正しければカーテレット諸島がすぐ目の前の筈だ。夜も明けてきている。見えないか? 」
そう言われて高橋は操縦席から身を少し乗り出し前方を見てみた。すると薄っすらと明けつつある洋上前方に確かに島が見える。黒いオイルを被りながらも高橋はカーテレット諸島を前方に認めたのだ。
「あります! 」
「では一旦カーテレットに不時着だ。後は任せたぞ、高橋」
海の上をぷかぷかと浮いたまま彷徨うようなことにならないかもしれない、そう期待しつつ高橋は機体の高度を下げて速度も絞った。海面がすぐ目の前に迫っている。
「着水します! 」
高橋がそう言った直後激しい衝撃が二人を襲った。機体のフロートが海面を叩いたのだ。何度かのバウンドを経た後零式観測機の機体は海上を静かにゆっくりと目の前の島を目指して進んでいた。