悔恨の夜
髙橋は海岸の砂浜の上で膝を抱えて座っていた。月明りがほんのりと周囲を照らす夜であったが眼の前の海面にその月明かりを浴びた零観が浮かんでおり整備兵がその周囲で何人も忙しそうにしている。零観は幸運にも火を噴かなかったが数発の命中弾を受けており整備兵は手元を懐中電灯で明るくして修理に取り掛かっているのだ。髙橋はその様子を眺めながら拳を強く握りしめて砂浜を叩きつけた。そして熱くなった目頭を拭った。
「……くそっ」
髙橋は小さく呟く。カーテレット諸島に帰ってくるまでの意気揚々とした気持ちはもうどこかへ失せてしまっていた。今髙橋の心にあるのは後悔だけであった。すると暫くしてそこへ神田がやってくると高橋の横に立ってこう言った。
「髙橋さん、零観ですがどうにか直りそうです」
「……」
「敵機銃の命中弾は数発ありましたが機体の主要な部分に損傷はありませんでした」
「そうか」
髙橋は砂浜の一点を見つめたままそう短く答えた。神田はそんな髙橋の傍に立ったまま暫くその沈んだ顔を見つめた後にこう言った。
「俺は……髙橋さんのこと、凄いと思いますよ」
「……」
「あの下駄履機で敵戦闘機を撃墜するなんて並の腕じゃ出来ません」
「……だがそのせいで少佐は死んだ」
死んだ、という言葉を口にした途端髙橋の目から再び大粒の涙が溢れた。岩佐は髙橋に反撃を止めるように言ったが髙橋は功を焦ってそれを無視したのだ。カーテレットの入江に戻ってきた時に岩佐は既に事切れていた。ワイルドキャットから最後に銃撃を受けた時に岩佐はその銃弾を一発右肩に受けていたらしく敵機を振り切った後に暫くしてから出血多量の為機上で絶命していたらしい。何度も一緒に任務をこなし何時も的確な指示を与えてくれた空の大先輩を自分の勇み足で死に追いやってしまったという自責の念に髙橋はずっと取り憑かれていた。
「少佐は常日頃から敵を叩けるチャンスは逃すなと仰っておられました」
「確かにそうだ。だが俺は無謀な戦いをしちまった、敵戦闘機に喧嘩をふっかけちまったんだ! さっさと逃げていれば良かったものを……」
「岩佐少佐の顔は穏やかでした。やれるだけのことを精一杯やってドーントレスだけでなくワイルドキャットをも撃墜した髙橋さんのことを岩佐少佐が褒めることはあっても責める訳はありませんよ」
「あの人は良い人だったんだよ! 死に顔までこんな俺に気を遣ってくれて……」
髙橋はカーキ色の航空服の袖で目を拭った。そしてこう言葉を続けた。
「敵を撃墜したい一心だった。それがこんなことになるなんて……」
「髙橋さん、これを見て下さい」
髙橋の言葉を遮るように神田はそう言うと一冊の手帳を差し出した。その使い込まれた小さい手帳に髙橋は見覚えがあった。
「それは岩佐少佐の……」
「そうです。少佐の手帳です。この頁を見て下さい」
神田が開いた頁には岩佐の書き込みがあった。そこには最初にドーントレスを撃墜した時の状況や時刻が克明に記されていた。髙橋は泣きながらその文章を黙読し小さく呟いた。
「……少佐」
その頁の一番下の行には血の滲みと共に「ワイルドキャット、零観の射撃を浴び誤って海上へ突入」とのみ書き記されていた。おそらく岩佐が最後の力を振り絞って書き込んだのだろう。
「眼の前で見事敵機を撃墜した髙橋さんの戦果を岩佐少佐は死をもって記録に残したのです。それをやり遂げたあなたを少佐は誇りに思っていると思います」
黙り込んだ髙橋を尻目に神田はこう言葉を続けた。
「我々は精一杯戦っています。戦っていれば犠牲が出るのは当然です。ですが犠牲があったとしてもこの戦果があれば我々は胸を張って日本に帰れますよ」
ふと髙橋の頭の中に愛する妻、美玲と愛する娘、未来虹の顔が浮かぶ。寂しい思いをさせているであろう二人には会いたくて仕方がない。だが恩師を死なせてしまった自分に日本へ生きて帰る資格はあるのだろうか? 髙橋は暫くの間心の中で自問自答を繰り返した後にこう言った。
「岩佐少佐は戦死された。そして仲間だった吉村達同僚もおそらくもう死んでいるだろう。それでも俺は正直なところ今までは自分だけでも生き延びたいと思っていた。だがな……」
「何です? 」
「俺自身のことはもうでうでも良い。これからは俺を支えてくれている皆の為に最善を尽くす。今まで俺を支えて死んでいった人達に報いる為にはそれしかない」
髙橋はこの発言を実践することが岩佐への供養のような気がしたのだった。すると神田がやや微笑んでこう言った。
「最善を尽くして……帰りましょう。日本へ」
神田がそう言うと髙橋は黙ってじっと神田を眺めている。そして暫くするとこう口を開いた。
「……神田」
「何です? 」
「もし俺が死んだら妻と娘にこう伝えてほしい、死力を尽くして戦ったと」
「何を言ってるんですか? 一緒に帰るんですよ」
「そして南の空からいつも二人の幸せを願っている、とも伝えてくれ」
「そういうことは自分の口で奥様にお伝え下さい」
神田は全く取り合わないまま岩佐少佐の手帳をズボンのポケットにしまった。すると髙橋はふと肩を落とし神田にこう続けた。
「……俺が死んだ後、妻や娘は俺の死に様なんかには興味がないかもしれないな」
髙橋の寂し気な一言を聞いて神田は強くこう言い返した。
「そんなことないですよ! 」
「そうかなぁ、まぁ俺が死んだら誰か良い人を見つけて幸せになってくれたらそれはそれで良いか」
「止めて下さい! 」
神田はそれまで逸らしていた視線を髙橋の顔に向けつつ更に大きな声で高橋を制した。そして柔らかい口調に戻るとこう言った。
「……皆で帰るんです」
「……分かったよ」
その後二人は立ち上がって零観のところまで戻ると菅谷丸から運び出された赤飯の缶詰を食べた。髙橋はそれほど食欲は無かったが神田にしつこく勧められて仕方無しに食べたのであった。
「我々は南海の海賊なんです。髙橋さんにはこれからも頑張ってもらわないと」
「……そうだな」
今まで味方の敗戦が続く中で母艦である菅谷丸までもが航行不能に陥った中、僅かだが敵にやり返せているということで皆の士気は菅谷丸がまだ健在だった頃より逆にやや高まっているように髙橋はふとこの時思った。そして次の瞬間、もし今岩佐があの世から高橋に声を掛けるとすれば何と言ってくれるだろうか?と想像した。すると岩佐の厳しい表情が瞼の裏に浮かぶ。
「何をくよくよしているか!さっさと切り替えて次の任務に備えろ!」
ふとそんな叱責が飛んできそうな気がした。高橋は一人で「俺は……駄目だなぁ」と呟いた後赤飯を頬張りながら「自分のやるべきことをやろう」と自分に強く言い聞かせた。そして暫くすると神田にこう言った。
「この赤飯……美味いな」
「ふふ、そうですね」
二人は顔を見合わせた。高橋は漸くこの時微笑みを浮かべた。するとその時月明かりに照らされた山本がやや駆け足で座礁した菅谷丸の方から砂浜の上を歩いてこちらに向かってくるのが見えた。大きな身体の山本が駆け足で移動するのは敵機が銃撃してきた時ぐらいなのだ。神田が大きな声で尋ねた。
「どうかされましたか? 」
「皆聞いてくれ、今友軍から暗号で連絡があり駆逐艦雪風が明日の夜にこの島まで来てくれるそうだ! いつでも移動出来るように準備をしろ! 」
その言葉を聞いた瞬間髙橋達の傍にいつの間にか集まっていた高橋以外の整備兵や水兵達全員が喜んで立ち上がり口々に「やったー! 」とか「万歳! 」とか叫んだ。神田も髙橋の横で喜びの余りぴょんぴょんと飛び跳ねている。髙橋は呆然とそんな神田を見つめていた。
「髙橋さん、うまくいけば日本に帰れるんですよ! 」
神田にそう言われても髙橋の表情は崩れることはなかった。むしろ心の中で少し吹っ切れた筈の黒いものがまたぶり返してきていた。
「髙橋さん……? 」
髙橋は俯いたままで神田の問いかけには反応しなかった。そしていつの間にか目に溜めた涙を頬から流しながらこう呟いた。
「少佐……すみません」
昨日の戦闘が無ければ岩佐は生きてこの場にいて皆と一緒に吉報を耳にすることが出来たのだ。それを考えると髙橋は再び悔やんでも悔やみ切れないと思った。だがその心情を察したように神田が髙橋にこう言った。
「髙橋さん、生きて友軍に合流して任務に貢献すれば……少佐は喜ぶと思います」
髙橋は座って俯いていたがその神田の声を聞いて驚いたように顔を上げて神田を見つめた。岩佐の生命を奪ってしまった負い目を自分がもっと国の為に貢献することによって払拭しなければならないと思ったからであった。気持ちを切り替えた高橋は顔を袖で拭いて漸く立ち上がるとほんの僅かに笑顔を作って神田にこう言った。
「……あぁ、そうだな」
自分が出来ることをこなす、これを毎日必死にやれば良いのだ。くよくよしていても過去は変えられない。神田の言葉のお陰で髙橋は岩佐が常日頃自分に言っていた前向きな言葉の数々を頭の中に思い出すことが出来た。そして自分の頭の中の全てをそれらの言葉と同様に完全に前向きに切り替えるとこう言った。
「神田、ありがとう」
その言葉を聞いて神田はにこりと笑った。二人はその場で固く握手をした。