格闘戦
「また来るぞ! 今度は左からだ! 」
そう岩佐が叫んだ直後に機銃の発射音が響く。最初髙橋は自分が撃たれたのかと思い慌てて機体を急旋回させたがその発射音は後部座席で岩佐が操る旋回機銃が発したものだった。髙橋はその後も自機を細かく蛇行させる。敵機は零観に対して何度か射撃するもののその銃弾は明後日の方向へ飛んでいっていた。どうやら敵機は髙橋の機体の細かい動きについてこれていないようである。
「よし、その調子だ。上手いぞ! 」
「はいっ! 」
髙橋は必死だった。敵機の銃撃音が響く度に心臓が破裂しそうになりながらも懸命に機体を操っている。このまま敵機の攻撃をかわしながら前方に広がる雨雲になるべく早く飛び込みたいと髙橋は考えていたが同時に焦りは禁物だということも十分理解していた。焦って動きが単調になれば敵機の銃弾は髙橋の零観をいとも簡単に引き裂くであろう。
「落ち着け、落ち着け」
髙橋は心の中でそう唱えながら細かい蛇行を繰り返す。だがそうしているうちに髙橋は気持ちに余裕が出来てきた。髙橋も敵機のパイロットの技量が低いということになんとなく気が付き始めたのである。蛇行を繰り返しながら髙橋はどうにかして敵機に反撃出来ないかを頭の片隅で考え始めていた。
「くそっ! なかなか当たらん」
後部座席では岩佐少佐が旋回機銃を振り回して敵機に銃弾を浴びせようとしているがなかなか難しいようであった。そうしているうちに前方の雨雲が目の前に大きく迫ってくる。あと数分で雨雲に逃げ込めるのだ。だがそれで十分であった筈の髙橋の心の中を今は全く別の考えが占めていた。敵機を叩き落とすという野心が僅か数秒の間にめらめらと膨れ上がっていたのである。髙橋は敢えて機体の動きをほんのわずかに今までより鈍くした。すると岩佐の怒鳴り声が伝声管越しに飛んできた。
「どうしたっ!? 殺られるぞ! 」
「少佐!敵はどちらからきますか!? 」
「今度は右だ!やや上方! 」
「しっかり掴まっていて下さい! 」
「お前、まさか! 」
岩佐がそう言った瞬間に髙橋は「舌を噛まないで下さい! 」と大声で叫びながら機体を右へ急旋回させた。このまま格闘戦に持ち込もうというのだ。
「髙橋、止めろ! 」
「大丈夫です! 」
岩佐の制止を髙橋は聞かずに急旋回を続けた。敵機は突然の零観の急旋回に対して反応が遅れた上にそのまま零観の旋回についてこようとして格闘戦の誘いにのってきている。髙橋の思う壺であった。髙橋は速度は遅いとはいえ高い格闘性能を誇る零観の能力を十分に引き出しあっという間に敵機の後ろについた。彼我の立場は完全に逆転したのだ。
「叩き落としてやる! 」
そう叫びながら髙橋は慎重に前部機銃の照準を合わせる。敵機に十分に近づいてから射撃をしなければ弾は当たらない。射撃を外し続けた眼の前の敵機パイロットと自分とでは格が違うということを髙橋は今証明したいと思った。
「髙橋! もう一機が来るぞ! 撃墜に拘るな! 」
「後少しなんです! 」
その直後零観の照準器の中央に髙橋は敵機を捉えた。その瞬間髙橋は機銃の発射把柄を握りしめた。「タタタタ! 」と7.7mm機銃が発射されて敵機に吸い込まれる。命中弾を喰らった敵機パイロットが慌てふためいているのが髙橋にはすぐ分かった。敵機は慌てて急旋回して攻撃をかわそうとするがその動きは鈍い。髙橋が再び射撃をするとまたその銃弾は敵機に吸い込まれていった。だが敵機は火を噴かない。ワイルドキャットの装甲の厚さを髙橋はこの時改めて思い知らされた。
「くそっ! 」
折角追い詰めた敵機をこのまま逃がすのか? 髙橋はそう思いつつも銃撃を続ける。かなりの銃弾が命中している筈だが敵機には損傷を受けている気配が一向にない。このまま前の敵機を追い続けるともう一機が攻撃してくると思った高橋は追撃を断念しようと思った。だが次の瞬間だった。敵機は突然バランスを崩した。そしてあっという間に海面に突っ込んでしまった。髙橋の眼の前で大きな水しぶきが上がる。
「な、なんだ?」
髙橋は一瞬呆気に取られたがすぐにその状況を理解した。敵機のパイロットが慌てて超低空で急旋回を繰り返した為に失速して墜落したのだ。
「調子に乗るからだ!馬鹿野郎!」
髙橋の心の中で嬉しさが急激に弾ける。だがそれを打ち消すように伝声管から叫び声が響いた。
「髙橋! 」
髙橋は岩佐のその声でもう一機の敵が零観への射撃位置にいることを悟り反射的に機体を急旋回させた。だがその動きとほぼ同時に敵機の機銃の発射音が響きガン!と大きな金属が削れる音が響き渡った。
「うわっ! 」
思わず髙橋は叫んだ。もう一機の敵機の機銃弾が髙橋の零観に命中したのだ。だが爆発や火災は起こっていない。髙橋自身の身体にも弾は当たっていなさそうだ。調子に乗っていたのは自分であることを反省しつつ髙橋はまた細かくジグザグに零観を操り始めた。岩佐の反撃の機銃音が断続的に響く中髙橋は丁寧に回避運動を超低空で続ける。するといつの間にか髙橋の回りが真っ暗になり大きな雨粒が機体を打ち付け始めた。どうやら雨雲の中に入ったらしい。髙橋はそれでも用心深く細かい旋回を繰り返しながら超低空を飛び続けた。すると敵機の銃撃音もいつの間にか全く聞こえなくなった。そうして暫く飛ぶうちに髙橋は確信した。
「やった! 逃げ切りましたよ! 」
敵機を撃墜した上に何とか雨雲に飛び込むことが出来たのだ。髙橋は嬉しさで一杯であった。そして敵の攻撃を受けたにも拘らず撃墜されなかった自分の幸運に感謝した。カーテレットに戻ったら皆に今日の戦果を報告しよう、髙橋は高揚する気持ちを抑えながら操縦桿を握る。そのまま十分程飛ぶと髙橋達は雨雲を抜けた。
「岩佐少佐、敵機はついてきていませんか? 」
「あ、あぁ……」
「進路はこのままで良いですか? 」
「だ、大丈夫だ……」
岩佐の声は聞き取り辛かった。伝声管にひょつとしたら敵機機銃弾が命中して破損しているのかもしれない。髙橋はそれ以降は操縦に専念し超低空を飛び続けた。