生き残った男
太平洋戦争が終わってまだ間もない昭和二十四年の一月の冬、日本の国土には戦争の傷跡がいまだに深く残っていた。そこで生きる人々は皆灰色の目をしていて表情は暗い。敗戦後の混乱した社会の中で人々は夢や希望を抱くことすら出来なかったのだ。そんな時代の岡本村(現在の兵庫県東灘区付近)でこの物語は始まる。
一人の男がとある大きな門の前に立っていた。
その門は白い塀で囲まれた大きな屋敷へ通じる入口で辺りの田舎町の風景と比べるといささか不釣合な程立派なものだった。
その前で立つ男は背は五尺そこそこの痩せた男でややくたびれた茶色の外套を着ている。背中にリュックサックを背負った坊主頭のその男のズボンの裾や靴には所々土が付いているが彼にはそれを気にする様子が全く無かった。
「間違いない……此処だ」
彼は左手に持った小さな手帳を覗き込んでそう一人呟いた。そして中の住人に声を掛けようとすっと息を吸い込んだその時であった。門の横の小さな潜戸が開いて中から一人の女性が現れた。
「……何か御用ですか?」
その婦人はやや影のある表情でそう言った。黒い外套にスカート姿の美しい女性で肩まで伸びた黒髪も艶やかである。彼女は突然の訪問者を訝しげに見つめていた。その男はその婦人の姿を見て一瞬目を見開き、そして次に再び大きく息を吸い込んでから小さな声でこう言った。
「突然お伺いしてすみません。私は神田鉄男と申します。先の戦争では海軍におりました」
婦人の瞼がぴくりと動いた。神田にはそれが海軍という単語に反応したかに思えた。
「……髙橋上等兵曹の奥様でいらっしゃいますよね」
初対面の二人であったが神田はその婦人のことを知っていた。婦人は神田の顔を睨むように見つめている。だがふと神田が気付くとその両方の瞳には大粒の涙が溜まっていた。
「あなたは……あの人とどういう関係なのです?」
「奥様!」
神田はそう叫ぶと頭を深々と下げてこう続けた。
「私は大戦中に髙橋上等兵曹に生命を救われた者です!今私がこうして生きていられるのも髙橋上等兵曹のお陰なのです!」
「えっ……?」
婦人の顔から険しさが少し薄まった。神田は続けた。
「髙橋上等兵曹からお言葉を預かっております!少しだけで構いません! お時間を頂けないでしょうか!」
神田は一度上げた顔をまた深く下げてそう言った。婦人はそんな神田を見つめていたが暫くするとその実直そうな態度に気を許したのであろう。瞳に溜めた涙をハンカチで拭いながらこう言った。
「では……こちらへ」
神田は大きな門の横の潜戸の中へ招かれた。そこには思っていた以上に立派な屋敷があった。今まで神田が歩いてきたこの片田舎の町の道沿いにはそんな立派な屋敷は一つもない。神田が屋敷の方へ歩いていくと塀の中にいた使用人らしき年老いた男と女が睨むように神田を見つめてる。だが神田の前を歩く婦人が一言「良いのよ、お客様なの」と言うとその二人は視線を落として小さな会釈をした。神田も会釈をしてその二人の前を通り過ぎる。そして神田は屋敷の中のある部屋に通された。神田は婦人と机を挟んで畳の上に正座して対峙した。沈黙の中やや俯いている婦人に向かって神田はこう切り出した。
「奥様、これをご覧下さい」
「……! 」
神田が外套の胸ポケットから机の上に差し出したものは一冊の小さなぼろぼろの手帳だった。濃い青色の表紙には従軍手帳と書いてある。
「高橋上等兵曹が使っておられた手帳です」
神田がそう言うと婦人はその手帳を手に取り中の頁をめくった。すると婦人の瞳から涙が一筋頬を伝った。
「あの人の……字だわ……」
婦人は泣きながら頁をめくり続けていたがその手がふと止まった。手帳の真中の頁に一枚の写真が挟まっていたからだ。そこには神田の目の前に座るまさにその婦人の笑顔が写っている。その腕には小さな赤子が抱かれていた。
「髙橋兵曹が私に預けてくれたものです。写真の裏側をご覧下さい」
婦人が写真をめくるとそこにはこう書いてあった。「美玲、いつまでも元気で」と。その字体は手帳に書かれたものとは違ってかなり乱暴なものであった。それが逆に戦場での過酷な状況を想像させる。美怜は一気に泣き崩れた。
「……あの人……あたしのこと……うぅ……」
「髙橋兵曹が最期の出撃の時にその写真を私に……託されました……」
そこまで言った神田の頬はそれまで堪えていた大粒の涙で濡れていた。
「この写真を私に届ける為に……わざわざその為に此処まで来て頂いたのですか?」
「そうです。私と兵曹の約束ですから」
「……あの人は立派にお仕事を?」
「菅谷丸という軍艦で一緒でしたがその乗員の多くの生命を救われたのです。菅谷丸の乗組員で生き残った者は皆髙橋さんの名前を忘れることはありません」
「……そう」
美怜はずっと机の上の写真の文字を泣きながら見つめていたが暫くすると少し落ち着いてきた。そして笑顔を作りポツリとこう言った。
「ふふ、汚い字ね」
神田は黙っていた。すると美玲は続けた。
「あの人がそんなに沢山の人の生命を救ったなんて知らなかったわ」
「……はい」
「必死で生きてたのよね。あたしは……あの人のことを益々誇りに思える」
「本当に立派な方でした」
「でもやっぱり……生きて帰ってきてほしかった! 」
美玲は語尾の口調を突然強めたかと思うと再び激しく泣き始めた。そんな美怜を神田は申し訳無さそうに見つめている。だが暫くすると美怜はまた少し落ち着いてきて神田にこう話し掛けた。
「あの人が死んだって聞いた時、自分でも信じられないぐらいあたしは泣いたわ」
「……はい」
「あの人の写真を見て泣いて、二人で過ごした時間を思い出しては泣いて、あの人に似た娘の笑顔を見て泣いて、それが何年も続いたの」
「そうでしたか……」
「もう涙は枯れ果てたと思っていたけど……人間の涙って尽きないのね」
「……」
「でもやっと最近になってあたしはこう思ったの、あの人のことばかり考えて泣くのは止めようってね。娘に泣顔ばかり見せていては良くないと思って」
「……えぇ」
「でも神田さん、あなたがわざわざ来てくれたのはあの人の最後のお願いだった訳でしょう? なら今日だけは思いっ切りあの人のことを考えて良いと思うの。あの人の話を沢山聞かせて下さい」
そう言って美怜は笑顔を作ったが鼻を真っ赤にして頬は涙に濡れたままである。その顔は表情の切なさ故に余計に美しく神田の目に写った。
「……では話させてもらいます」
「ええ、お願いします」
美怜が深々と神田に頭を下げた。神田は正座をしたまま話を始めた。