#6 新生活よ『ごきげんよう』
怒涛の展開から一夜明けて、いつものように雄鶏の鳴き声で目覚めた朝は、まだ頭の中に霧が濃くかかっているかのようだった。
ボロ布団を蹴飛ばして寝台を出ようとしたのだけど、実際は布団がフカフカ過ぎて蹴飛ばしきれなかったし、面積が広いから直ぐに床に足がつかなかったからだ。
あたしは何処?
ココは誰!?
昨日、一気に色んな事が起こりすぎて、アタマの整理が追いつかなくなっていたのよ。
厚い天鵞絨のカーテンの隙間から朝日の光が細く漏れて、部屋の一部を照らし出した。
見慣れた部屋だけど、ここは、あたしのボロい納屋じゃない。
鏡台に置かれた白いレースのリボンが薄暗い闇にぼんやりと浮かび上がって、あたしは胸がキュンと苦しくなった。
昨夜、入浴後に菊子お嬢様の部屋をそのまま充てがわれたんだっけ。
洋風の天蓋付き寝所やガラスのランプシェード、こだわりの猫脚家具がある、床全面に絨毯が敷き詰められた空間。
ココであたしは毎朝、菊子様の髪を結ったり着替えを手伝ったり、部屋の調度品を掃除したりしていたのよ。
なのに、菊子様はもういらっしゃらない。
大きな振り子時計をよく見たら、時計の針が十二時を指したまま止まっていた。
昨日はバタバタしていて忘れていたけど、これは三十日式のゼンマイ時計だから、昨日が巻きなおす日だったのよね。
主を失った部屋だけが時が止まってしまったかのようで、あたしは途端に悲しくなってしまった。
え~ん!
推しが居ない世界なんて無味無臭、色即是空、空即是色!!
こうなったら影武者は辞めて出家よ。もはや俗世に未練は無いわ。
頭を丸めて尼さんになるしか無い!
ん・・・?
ちょっと待って。
坊主になった自分を想像したあたしは、急に我に返った。
よく考えてみれば、菊子様が家出されてから一日経っただけじゃない。
まだ布団や衣服に、菊子様の【アレ】がある可能性もあるわ。
あたしは猛然と走って寝台に戻ると、思いきり鼻から息を吐き、布団に顔を埋めてから、たっぷりと匂いを嗅いだ。
嗚呼っ?
少し! ほんのり!
僅かに菊子様の残り香があッ!!
あたし、この部屋でならまだ生きて行けるかもしれない!
「何をやっているんだ。」
不意に声がしてドアの方を向くと、銀製のお盆を手にした背広の男が立っていた。
目にかかるくらい長い茶髪の前髪の隙間から、人を見透かすようなクリッとした瞳が印象的。
えっと、君は犬養家の次男クンよね。
名前は確か、新二。
ノックもしないで女子の部屋に入るなんて、不躾な男ね。
「悪いけど、今取り込み中なの。
絶望的な未来を豊かにする神聖な儀式の最中なので、用があるなら後で来てくれる?」
丁寧に言ったつもりだけど、新ニは顔に冷や汗をかきながらあたしから布団を剥ぎ取った。
ちょ!
あたしの生命線に何すんのよッ!
「変態行為は慎め。」
あら、推し活は生理的欲求であり、人間の幸福中枢を満たすための本能行動よ。
失礼しちゃうわ、プンプン。
まあ皮肉屋の新一より口数が少ないから、まだ許せるけどね。
「今日から花嫁教育が始まるから、時間厳守だ。さっさと顔を拭かせろ。」
顔ですって・・・?
あたしがその言葉の意味を理解するより前に、新二はあたしをベッドに座らせた。
そして、銀製のお盆に乗せていた蒸しタオルであたしの顔全体を優しく包み込み、目の上や頬や顎を軽く押さえた。
ごっ、強引!
ああ、でも、何これ。
気持ちいい・・・。
目やにだらけのショボショボしている目に、蒸しタオルの温かさが染み渡る~。
「な、何をしているの?」
「洗顔の代わり。
蒸しタオルで余分な皮脂汚れを浮かせているんだ。」
ほえ~。
焼売や餅米を蒸したことはあるけど、タオルを蒸した上に顔に当てるなんて、想像したことも無かったわ~。
後でメモしよ。
それからタオルで顔全体の拭き取りをすると、今度は化粧水を含ませた綿で顔を拭いて、また新しい綿に化粧水を付けて、顔を軽く叩きながら浸透させていく。
ポン ポン ポン
リズミカルに顔を叩く施術が心地よくて、あたしはされるがままになっていた。
次に顔に塗られたのは、多分、乳液。
顔の筋肉に沿って、顔に幾つもの円を描くように塗り込んでいくのが、また堪らなく気持ちがいい。
こんなこと、あたしは菊子様にもしたことが無い。
「今度は何をしているの?」
「肌のお手入れ。
肌機能を正常に保ったり、肌異常を緩和するためにするものだ。
化粧をする前にもする。
人間の皮膚は、常に乾燥と湿潤を繰り返している。
化粧水や乳液を肌にあらかじめ浸透させておくと、保湿効果と乾燥対策が出来る。」
ぶっきらぼうだけど、新二はあたしにちゃんと説明してくれた。
兄と違って、意地悪ではなさそうね。
「ありがとう。すごくいい気持ちよ。」
あたしは素直な気持ちを吐露した。
「昨日の新一の洗髪もスゴかったけど、こんなことが出来るなんて、アンタたち兄弟を尊敬しちゃうわ。」
それを聞くと、新二は少し動きを止めたけど、直ぐにまた施術を再開した。
「お礼なんて言われたのは、あんたが初めてだ。」
ポツリと呟いた言葉を、あたしは聞き逃せなかった。
「こんなすごい技術を持っているのに感謝されたことがないなんて、皇室には不感症の姫君しか居ないの?
もっと盛大に誇るべきよ。
ねえ、将来のためにあたしもこの技術ができるようになりたいから、次回は教えてちょうだいね。」
「教える・・・?
皇室の人間は自分でする必要は無い。無駄な事だ。」
「お嬢様の影武者になるとは言ったけど、皇室の人間になるとは決めていないわ。
しかも、学ぶことに無駄な事なんて1つも無いわよ。」
新二はその薄茶の瞳で、初めて会った生き物を見るようにあたしを見て、フッと笑った。
「兄上が言っていた通りだな。」
え? 何よ。
あたしはドキッとしてしまった。
「あんたが変わり者で、天然記念物だというのは。」
おのれ新一め。
いつか、あたしの前で土下座させてやるからぁ・・・!
※
新二に軽く化粧と髪の手入れをしてもらい着物に着替えて部屋を出ると、公爵邸の景色が一変していた。
廊下の両脇にズラリと勢ぞろいした新しい使用人たちが、あたしが現れると一斉に頭を垂れたのよ。
「菊子様、おはようございます。」
確か、屋敷には百人近くの使用人が居たはずなんだけど、知っている顔は一人も居なかったわ。
本当に、そっくり入れ替えちゃったのね。
寂しさとやるせなさがこみ上げてきて、一瞬、この場から逃げたくなった。
でも、と丹田に気合を入れ直したあたしは、足に力を込めて歩き出した。
ここが正念場だ。
この人たちを欺けないようでは、公爵令嬢の影武者になんかなれないわ。
「ごきげんよう。」
菊子様の口調を真似て挨拶をすると、使用人たちは固い表情が和らいで笑顔になり、次々に頬を染めた。
「嬉しい。菊子様が挨拶してくださったわ。」
「いや、俺に挨拶してくれたんだ。」
「感激だわ!」
少々、否、大げさすぎる使用人たちの反応にあたしは面食らってしまった。
中には挨拶しただけで泣き出す人も居て、あたしはドン引きだった。
この人たち、あたしに会えて感激してる。
何で?
人生で初のアイドル扱いに、あたしは嬉しさで顔面が崩壊していた。
一体、何が起こっているの?
いつの間にか転生でもしちゃったのかしら。
そんなあたしに、新一がニヤニヤしながら近づいてきた。
「おはようございます、菊子お嬢様。」
「ごきげんよう、新一。」
「本日はご機嫌麗しく、何よりですな。」
澄ました顔で隣に並ぶ新一に、あたしは声をひそめて耳打ちした。
「この人たちは、どうしてこんなに喜んでいるの?
そんなにあたしが魅力的なのかしら。」
「ああ、実はね」
新一は、魅惑の唇をあたしの耳に近づけると、熱い吐息とともに言葉を紡いだ。
「徳川家の菊子お嬢様といえば美人で聡明だと有名なので、新しい使用人たちがアンタとの格差に驚かないように、【謎の病と闘病している可哀想なお嬢様】という設定にしたんだよ。」
「謎の病って?」
「【芋虫みたいに太って、公爵令嬢ということを忘れている病】」
あたしは笑顔が張り付いた顔のまま凍りついた。
なッ・なッ・なあッ・・・何よそれッ!
「おかげでアンタに同情した使用人たちが一致団結して協力する、という流れになったので、花嫁教育がやりやすくなったよ。
芋虫でも役に立つもんだな。」
ちょっとお巡りさん、ココに詐欺師が居るわよッ!
逮捕して一生、牢屋に閉じ込めてくださーい!!