#5 悪い奴ではないのかも
あたしのお姉ちゃんに言わせると、昔から女性は神事や禊をする際に髪を洗うものなのだ。
例えば古文書を紐解けば、平安時代に『七夕に髪を洗った』という記述があるし、『髪が美しくなる』という言い伝えもあるらしい。
(入浴は別よ。)
大正は洗髪は平均で一か月に一~二回くらい。
庶民の家には内風呂が無いから、銭湯に行く。
頻繁に洗髪をするという慣習は無いし、髪を結ったら崩したくないから、なるべく洗いたくないのよね。
その代わり一週間に一回くらい崩れてきた髪を手直しする際に、唐櫛で髪を梳いて油を髪になでつけていたのよ。
ただ 、公爵家には浴室があるから、いつでも好きな時に入浴が出来たわ。
その使用は贅沢の極みで、浴室の床は最先端のタイル貼りだし、壁と浴槽にはヒノキを使っている。
井戸水を浴槽に張ってから薪を焚いてお湯を沸かすのだけど、冷たい井戸水をお湯にするのは一苦労なのよ。
薪に火をくべて、その火が消えないように絶えず竹筒を吹いて風を送ったり、薪を追加して火力を調整する必要があるんだから。
大きな浴槽の水を適温にするには軽く三時間はかかるので、体中ススだらけになるのは必至なの。
お湯が沸くと薪の煙とヒノキの香りが煙突から立ち昇って、お風呂が大好きな菊子お嬢様は呼ばなくても飛んでいらしたわ。
でも、あたしは【入浴が大嫌い】だし【洗髪はもっと嫌】
お風呂で温まるのは好きだけども、出たあとのうすら寒い感じとか洗髪用の粉石鹸に少し水をつけてジャリジャリと頭に刷り込む作業が、たまらなく嫌な気持ちになるの。
たまに粉石鹸が目の中に入ると、飛び上がるほど痛いしね!
新一はあたしを浴室横の脱衣所に放り込むと、籐の籠を手渡してきた。
「脱げ。」
あたしは焦って、一気に耳まで熱くなった。
「え、今、ココで⁉
あたしを裸にして、どうする気なのッ?」
新一は氷柱よりも冷ややかな目であたしを見た。
「芋虫の裸に興味は無い。
浴衣に着替えたら、すぐに呼べ。」
「見てもいないのに、興味が無いなんて言えるの?」
悔しまぎれに言ったあたしの言葉を華麗にスルーした新一は、背中を向けてさっさと部屋から出て行った。
よく見たら、籠の中には浴衣が入っている。
なーんだ、早とちりだったわね。
でも『浴衣に着替えろ』って、はっきり言えば良いじゃない。
人間は言葉を話さないと伝わらない生き物なのよ。
それが例え芋虫女でもね。
一寸の虫にも五分の魂、って言うでしょ!
あら?
このことわざの使い方、これで合っているかしら?
※
浴衣に着替えて新一を呼ぶと、脱衣所に備え付けられている大きな鏡台の前の椅子に座らされた。
ゲッ、鏡は苦手よ!
あたしは鏡に映る自分の姿を直視できず、後ろに居る新一の美しい顔を眺めることにした。
黙っていれば目の保養になるのよ。
口さえ悪くなきゃ、ね
あたしの首周りに掛布を二重に巻くと、新一は鏡台の引き出しから目の細かい唐櫛を出した。
そして、おもむろにあたしの髪の毛を梳きだしたのよ。
き、きゃあ~!
「な、何をするの⁉」
「見ての通りだ。いきなり洗髪しても絡むだけだから、まずは髪を梳る。
特に虱付きの髪は卵殻が石のように絡みついているから、根本から梳く必要があるんだ。」
「自分で髪くらい梳けるわよ!」
あたしは新一から櫛を取り上げようとしたけど、身長差で敵わなかった。
「よ、嫁入り前の女子が男に髪を触られるなんて、恥ずかしいわ。」
「皇室のお姫様たちは、毎日俺に髪を預けるのが普通だ。自分で髪を梳いたりしない。
慣れろ。」
これも試練なのね・・・。
慣れなきゃいけないというのなら、我慢するしかない。
あたしは胸の高鳴りを抑えつつ、椅子に座りなおした。
「お願いします。」
「痛かったら言ってくれ。」
その作業は毛先から始まり中間の絡まる髪を丁寧に解くと、頭皮を引っ掻くように生え際から頭の中心に向かって櫛を動かしていくというものだった。
最初は恐怖で肩を竦めて固まっていたあたしだったけど、徐々に髪を触られているうちに、ある感情が芽生えたのに気が付いた。
心地よい。
何コレ、こんなの初めて!
右手で櫛を動かしつつも、左手でその軌跡をなぞるように動かしているので、頭を揉捻されているようで、ものすごく気持ちが良いのよ。
うなじまでくるとまた逆戻りで生え際まで櫛を動かされ、それが終わるころには羞恥心はどこへやら、あたしは頭も心もポカポカになり、ウトウトしてしまった。
「おい、寝るなよ。
男に髪を梳かれるのは恥ずかしいんじゃなかったのか?
ああ汚いな、涎を拭け!」
もう少しだけ口が優しかったら、惚れるところなのに~。
次に新一が水に溶いた粉石鹸を髪に刷り込もうとしているのを見て、あたしは慌てて椅子から逃げた。
「往生際が悪いぞ。」
首根っこを掴まれて引き戻されたあたしは、恨めし気に新一を見上げた。
「悪いけど、あたし本当に粉石鹸が苦手なのよ。」
「頭皮の油や虱を除去するためには粉石鹸は欠かせない。
我慢しろ。」
ハア・・・この人、何を言っても全く折れてくれないわ。
いっそ、新一で箸を作ったらどうかしら?
丈夫で売れそうじゃない。
頭の中で不平を並べていると、あたしは良いことを思いついた。
「これで洗ってほしいのだけど・・・。」
あたしは鏡台の引き戸から液体石鹸を取り出すと、新一に見せた。
「これは何だ?」
「あたしが作った液体石鹸よ。」
「液体石鹸?」
「粉石鹸をぬるま湯でとろとろになるまで溶かして、はちみつと精油を混ぜて練り上げたものよ。
こうすると粉が飛び散ってくしゃみが出ないし、頭の油もしっかり取れるし、髪にも艶が出るの。」
新一は液体石鹸を少し指に取り、手の甲でくるくると回した。
「すごいな、簡単に泡が出来るじゃないか!
一体、どこでこの作り方を習ったのだ?」
初め新一が無邪気に笑った。
皮肉交じりの顔しか見ていないから、こんな風に笑える人なのかと、内心驚いたわ。
「誰にも習っていないわ。
強いて言えば、そば粉から《《そばがき》》を練っていた時に思いついたの。」
「随分と斬新な方法だな。だが、理に適っている。
よし、試してみよう。
否、是非とも使わせてくれ。」
オホホホ。
形勢逆転とはこのことね。
よきに計らえ!
「ほう。
やはり、油へのなじみが良いようだ。髪の油も簡単に取れるな。」
頭を揉捻しながら洗髪するのは、初めて体験する極上の極みだった。
しかも、椅子に座りながら洗髪されることも初めてで、あたしは童話のお姫様になった気がしていた。
だから、つい口が滑ったのよ。
「あたしね、奉公期間が終わったら洋風髪結師になるつもりなの。」
言った瞬間、また馬鹿にされるか鼻で笑われると思ったのだけど、返って来たのは意外な反応だった。
「良い心構えだ。」
「そのために貯めこんだ給金を専門学校につぎ込むつもりよ。」
「見上げた心意気だな。」
洗髪をしている間の新一は、とてつもなく優しかった。
あたしも自然と自分のことを話せたし、新一も聞き入れてくれた。
思ったより、悪いやつではないのかも。
しばらく大きな手で頭を包み込まれるように揉捻されていると、またいつの間にかウトウトしてきて、あたしは深い眠りに落ちてしまった。
※
「おい起きろ、豚お嬢様。」
その瞬間、頭から熱いお湯をぶっかけられて、目が覚めた。
あたしはいつのまにか、浴室の浴槽に浴衣のまま入れられていたのよ。
熱いやら、恥ずかしいやら、悔しいやらであたしは狼狽えた。
「豚って何よ!」
「鼾が、ブーブーとまるで豚みたいだったからだよ。
芋虫の上に豚の属性まで持ち合わせているなんて、珍しい女だよ、まったく。」
前言撤回。
どの角度から見ても、悪い奴にしか見えないわ。
あたしは新一に背を向けると、お湯に鼻まで浸かった。