#31 清いが正義
あたしに与えられた役職・典侍は長局と呼ばれる五部屋が連なる長屋に住み、東宮のお世話をする女官の一人だった。
本当は側近として東宮の身辺をお世話するのは最高女官である尚侍なのだけど、東宮の乳母であり尚侍の梅の局は先日に退官したばかりで、実質のところはあたしがこの局を取り仕切るという体裁なのだ。
いやいや、待って!
東宮御所のお手洗いの場所も分からないあたしが、三十人の家来を仕切るのは無理なのよ‼
かといって、女の園の局に侍従長の赤坂さんは入れないので、次官である権典侍・菫があたしの世話役についてくれた。
菫は同い年とは思えないほどしっかり者で、あたしとは正反対の性格よ。
「かめのすけさんは、まるで下々の方のように気楽ですわね。」
菫があたしの行動を見るたび、口癖のようにこう言った。
公家出身の華族から出仕している菫には、油断しているときのあたしが奇異に映ることがあるらしい。
あ、【かめのすけ】は大蒼に拝命されたあたしの源氏名よ。
あたしは皆に【かめのすけさん】とか【かめの局】と呼ばれるようになっていたわ。
大蒼はあたしの名を自然に呼びたいということで、わざと源氏名に本名をつけたのだけど・・・。
正直言って、複雑!
だって他の女官は、雛菊とか百合といった可愛らしい源氏名なのに、あたしだけゴツくてノロマな【かめ】なのだもの。
最初は誰も名前にツッコんでくれないから、これが宮中では当たり前なのかと思っていたけど、親しくなってくると皆「かめのすけさんって源氏名は可哀想。」とか「最初は驚いたけど、この名は的を得ているわね。」と感心する者も居たりして、あたしはさらに深い闇に落ちていった。
本名よ、本名!
十五年間、この名前で生きてきたの!!
そんな時は皇妃教育の心得の通り「恐れ入ります。」と笑顔で会釈をするあたし。
心の中では、天国の両親を初めて呪った。
わーん。
親不孝でごめんなさい!
でも、なんでこんな名前にしたのよ~!
※
「清くなさってくださいね。」
菫は、あたしに毎日百回はこの言葉を使った。
直接、東宮に触ってお世話ができる典侍は常に清くなくてはならない。
あたしが大蒼のお世話をする時には、自分の髪を結ったり着物を着たりしてはいけないの。
自分自身で靴下を履くなんてもっての外よ。
手順を間違えて、身支度が終わってからお尻を掻こうものなら局中の大騒ぎ。
清手水で手を洗い、お尻も誰かに拭いてもらわなくては奉仕ができないの。
それだけ重要な役職だということなのよね。
でも、
奉仕しに来ているのに奉仕されないと仕事ができないなんて、すっごく不便だわッ。
※
出仕してから半月。
バタバタしていた局の日常生活にもようやく慣れてきて、日差しが眩しい季節になってきた。
大蒼の身支度を手伝うために、朝早くからあたしは家来に囲まれていたの。
あたしの髪をたどたどしく結う年下の命婦の富を見ていると、新一の魔法がかった手技を懐かしく思ってしまった。
すぐにどこかで会えると思っていたけど、新一どころか髪結いにも会わないわ。
思い切って犬養三兄弟はどこに居るのかを富に聞いてみた。
「犬養様たちは皇后付きの髪結いなので、皇后御殿のおそばの髪結い詰所にいらっしゃるかと。」
富は逆毛を立てる手を止め、頬を赤らめた。
「かめのすけさんは新一様をご存じなのですか?」
まあ、知らない仲とは言えないわよ。
「徳川の実家で、わたくしの教育係だったの。」
「まあぁ、羨ましいですわ。
あの端正なお顔をお近くで拝顔できたら、私なら石になってしまうかも♡」
富は声を弾ませながら妄想を次々に口にした。
菫が呆れて言う、『下々の方』というのはこういう話題に尽きないのよね。
でも、それが一番楽しいのよ。
「ぜひ、新一様に上手な逆毛の立て方をご教授いただきたいのですが、お目通りは叶いますでしょうか?」
キラキラした瞳をあたしに向ける富の笑顔は、真夏の向日葵くらい眩しい。
うーん。
あたしも久しぶりに顔を見たいなとは思っているのだけど、一日中東宮御所に詰めているものだから、他の場所への連絡方法が分からないのよ。
「それなら、侍従官の子に手紙を渡してもらいましょう。」
華族には四・五男に生まれると、宮中に侍従官として幼少時から成年になるまで出仕するというしきたりがある。
その子たちを伝書鳩のようにして手紙のやりとりをするというのだ。
その方法があったわね。
あたしは早速、新一への手紙を書くことにした。
※※
典侍のかめのすけより
お新一、ご機嫌いかがですか?
わたくしの家来の富が、貴男にご逆毛の立て方のお手ほどきをお受けしたいと申しているのですが、お時間はありますでしょうか。
もし、ご都合の良いご日程がありましたら、このお手紙を届けた島久にお渡しください。
※※
我ながら、なかなか良い文章が書けたわ。
御所では何にでもご○○やお○○と丁寧に言う【御所ことば】という独自の文化があるので、「お」を嫌味なくらいつけてやったのよ。
侍従官詰所まで行って島久という小さな男の子に手紙を託すと、一刻ほど過ぎて手紙が帰って来た。
※※
新一より
お断りする。
※※
ハアッ?
味も素っ気もない、ただ一行だけの文章にあたしは呆然とした。
信じられない!
おやつを貰うために控えていた島久を待たせて、あたしは大急ぎで便せんと筆を文机から取り出した。
※※
かめのすけより
お忙しいとは思いますがわたくしのお顔を立てて、もう一度お考え遊ばしてくださいませ。
※※
「いい? 必ず良い返事を貰えるように、そちからもお口添えを!」
あたしは島久に持ちきれないほどのたくさんのおやつをあげて、皇后御殿に送り出した。
富のガッカリした顔を想像すると、この戦いには負けられないわ。
今度は四半刻ほどでトンボ返りしてきた島久が、手に何も持たずに帰って来たのを見てあたしは驚いたの。
「しま、新一からの返事はどうしたの?」
島久は申し訳なさそうにモジモジとした後、キッと顔をあげた。
「あっかんべーだ!」
右目の下瞼を指で思い切り引き下げ、舌をベロリと突き出した顔はどう見ても小憎らしい。
呆気に取られているあたしに、島久は泣きそうな顔でこう言った。
「し、新一様が、こうしろと仰ったのです・・・。」
あ~、分かる分かる。
あいつなら人の神経を逆なですることを言うわよね!
あたしは内心苛つきながらも、可愛い島久の前で感情を出すのは大人げないので、グッと堪えたの。
そしてお礼のおやつを渡そうとしたのだけど、断られた。
「先ほどもたくさん頂きました。
それに新一様から言われています。
『かめのすけさんはおやつが生きがいだから、あまり貰わないようにね』って。」
あの男・・・ムカつく~!
会わなくても、あたしをからかうつもりなのね!
あんな奴に、もう二度と手紙なんか書くものですか!
フンッ‼




