#30 これが恋といふもの
東宮御所は皇居の東方一角に位置していて、敷地内の四対ある門の一つ【春門】から入ると、いくつも曲がりくねった道の先にあるの。
東京にこんな場所があったのかと驚くくらいの緑地帯が広がっていて、その奥の浮世から隔離された森の中には、最新の建築技術の粋が集められた二階建ての御所が鎮座していたわ。
それは家というよりも立派な美術館のような佇まいで、【御所】というものを初めて見たあたしは、想像をはるかに凌駕する美しくて大きな建造物に圧倒された。
おそらく、普通の一軒家が五十軒はすっぽり入る気がする。
ここには一体、何百人の使用人がいて、何時間奉仕をしているのかしら。
思わずこの景観を維持するための労力を考えた、心の貧しいあたしを責めないで!
運転手の車田さんに別れを惜しみながら降車し、御車寄から内部に入ると【鶴戯】という大きな屏風を展示した玄関があって、幅の広い吹き抜けの階段が出迎えてくれた。
その天井の高さに気圧されながら階段を登ると【日月邂逅】という太陽と月がモチーフの壁画が素敵な広間に出るの。
公爵家も広いけど、上には上があるものなのね!
ポカーンと乾くまで口を開けて待っていると、ほどなくして官吏の制服を着た男性が現れた。
「はじめまして、菊子様。
あたくしは従侍長の赤坂でございます。」
明らかに男性なのに女性のように柔らかく話す侍従長は、クネクネとしたお辞儀をした。
「本日より典侍になられる菊子様のサポートをさせていただきますので、お見知りおきを!」
「あの、新・・・じゃなくて、犬養さんたちがあたしの教育係では?」
あたしは想定外の言葉に動揺したわ。
犬養三兄弟は、公爵家で迎えの車に荷物を運んでくれたのを最後に見ていない。
「ああ、公爵家では当主とのご縁があり教育係をさせていただいたみたいですが、彼らは髪結いの仕事が本業なのですわ。
部署が違うので、女官職を承った菊子様には、今後一切関わらないはずです。」
「そう・・・なんですか。」
胸にポッカリ穴が開いたような気持ちがした。
新一が部屋を出る前に言ったひと言が、まだ耳の奥に一滴残っている。
『俺ではお前を幸せにできない』
何よ、何よ。
これじゃあ、告白する前にフラれたみたいじゃない。
というか、あたしも別に新一のことを好きだなんて言ってないし。
勝手にあっちが勘違いして予防線張ってるし。
モヤモヤする! モヤモヤする!
後から聞いた話なんだけど、新一に復讐することばかり妄想していたあたしは、侍従長に各部屋を案内されている間、下を向いてブツブツと独り言を言っていたみたい。
侍従長の第一印象は最悪だったわね。
わーん。
これもみんな新一のせいよ!
※
「で、ここが東宮様の執務室ですわ。
菊子様が到着され次第、ご案内するように仰せつかっております。」
東宮ということは、ここに大蒼が居るのね。
あたしは気を引き締めた。
侍従長がノックを四回すると、聞きなれたハスキーボイスが返事した。
「かめ・・・菊子さん!」
あたしを認めるや否や、着物姿の大蒼が勢いよく肘掛け椅子から立ち上がった。
でも、その勢いが良すぎて太腿を机の引き出しに強打したみたい。
足を押さえながら美しい顔に苦悶の表情を浮かべる大蒼。
あたしが「大丈夫?」と声をかけると、涙目で恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「今の、見なかったことにして!」
あー、もう。
尊い・・・。
みんなも、ドジっこ色男の想定外の行動には気を付けてよね。
即死よ即死。
誰か、無意識にあざとい色男を取り締まる法律の整備をして!
「赤坂、あとで呼ぶからいったん人払いをしてくれ。」
一礼して侍従長が扉を閉めた途端、大蒼はあたしの手をうやうやしく引き寄せると、手の甲に口づけた。
「待っていたよ。」
どどど、どんだけ~!
待って、いきなり接吻は逮捕案件だからね!
「な、習っていないわ。
皇室では、あいさつ代わりに手にキスするの⁉」
「かめにだけだよ。
本当はね、その可愛らしい唇に挨拶をしたいのだけど、手の甲で我慢しているんだ。」
ぐっはぁ!
キラキラした純粋な言葉の追加攻撃に、あたしはあらゆる思考をストップさせた。
っ、夢・・・?
これは夢なの?
あたしの女中人生に、こんな展開が待っているなんて。
貧乏でも芋虫でも、腐らずに生きていて良かった!
「あの、初めて来たけど東宮御所は素敵なところね。
都会にあるとは思えないほど、緑も豊かでお城みたいな住まいだし。
こんなところで働けるなんて嬉しいわ。」
「良かった。気に入ってくれて。」
あたしの手を握ったまま、大蒼ははにかんだ。
「素敵なだけじゃなく面倒なことも多いんだ。
正式な皇妃として参内して心が折れたら可哀想だから、何かしら皇室に関わっておけば少しは慣れるかなと思って・・・。」
大蒼って優しい!
大蒼でテニスのボールを作ったら、体に当たっても痛くないわね。
「あたしのために?ありがとう。」
「お礼なんて言わないで。
勉強のためというのは口実で、少しでも早くかめと一緒に居る時間を作りたくて、画策してしまったんだ。
自分勝手でごめん。こんな私に幻滅する?」
幻滅どころか、加点しかできないわ。
あたしはストレートの剛速球を胸のストライクゾーンに投げ込まれたかのように身もだえた。
「今はここにある書類に全部に目を通して判を押さなくてはならないんだ。
急いで片づけてから奥の御所を案内するから、ここで待っていてくれる?」
ええ、いいわよ。来年の今日まで待てるわ!
って言いたくなったけど、いやいや、頭がおかしいと思われるからやめましょう。
あたしは淑女、あたしは公爵令嬢。
仕事のお邪魔にならないよう、あたしは静かに近くにある長椅子に腰掛けた。
公爵家で会った時の紳士の雰囲気とは違い、黙々と仕事をしている大蒼は漢らしい。
黙って見ていると強い意志を感じるその黒い瞳に、吸い込まれそうになるわ。
やっぱりあたし、大蒼に恋をしているのかな?
ちょっとした言動にドキドキしたり、仕草にキュンキュンするのは、恋をしているからよね?
でもそう意識すると、いつも頭の隅に新一の端麗な顔が出てくるの。
新一は憎たらしいけど、本当にあたしをドキドキさせる天才。
それは恋と呼べるのかしら?
大蒼を見ているのになぜか新一について自問自答していると、あたしはいつのまにか寝てしまった。
※
夢の中に居たあたしは、大きくて温かいものに包まれていた。
何だろう、これ。
寝台にしては温かすぎるけど、柔かくて心地が良い。
包まれているものに頬をスリスリしながら寝返りを打つと、頭を優しく触れられる感じがあった。
くすぐったい!
ハッと目を覚ますと大蒼の太腿が目の前にッ!
なんと、あたしは大蒼に膝枕されて寝ていたのよ。
「重かったでしょ、ごめんなさい!」
跳ね起きたあたしは長椅子の上に正座した。
「眠る姿が可愛すぎて・・・、ちょっかいを出してごめんね。」
大蒼は解かれていたあたしの髪を、手櫛で梳いた。
「さらさらだね。結った髪もいいけど、自然な髪の君も素敵だ。」
半年前までは虱だらけだったことは、墓場まで持って行こう!
「あの、奥の御所を案内してくれるんでしょ?」
あたしは必死に止まった思考を回転させた。
「明日でもいいよ。かめの体調の方が大事なんだ。それに・・・。」
あたしのおでこにかかる前髪をよけて、大蒼があたしを甘く見つめた。
「君の寝顔を、ここでずっと見ていたい。」
「いつまで?」
「朝までずっと。」
そ、それは賛同できないわ!
だって夕餉はどうするの?
あたしは慌てて立ち上がった。
「ありがたい申し出だけど、どうしても無理という時以外は、人間は三食しっかりと食べるのが理想的だと思うの。
貴方は特に大切なお身体なのだから、健康管理は大事にしてねッ。」
大蒼は額に手を当て、俯いた。
まずいわ。
もしかして傷つけてしまったのかしら?
それとも、食いしんぼうすぎて呆れたとか?
おろおろするあたしに、大蒼は満面の笑顔を見せた。
「君の寝顔も素敵だけど食べる姿も可愛いから、どちらにしようか悩んでしまったんだ。」
ああああ・・・神様。
これが、これが恋といふものなのですね。




