#1 かめ、動揺する
書斎に入った瞬間、三人の色男たちに取り囲まれたあたしは、激しく動揺した。
こ、これはどういうこと?
怯えて身をちぢめたあたしは、視線の先に居る公爵家の当主を仰ぎ見た。
だけど逆光を背に神々しく鎮座している青年は、一ミリも微動だにしなかったわ。
わーん!
頼りにできない!!
あたしの胸中を知りもしないで、ジリジリと間合いを詰めてくる男たち。
怖いわ・・・。
あたしはこれから、どうなってしまうの⁉
※
洗濯後の黒い水が入ったたらいを傾けると、弾ける音とともに冷たい水しぶきが顔にはね飛んだ。
「冷たッ。」
慌ててエプロンのすそで濡れた顔を拭ったけど、よく見るとエプロンもすでに黒く汚れていたの。
ううッ、汚い。
「きっと炭でも付いたのね。もう一回洗わなきゃ。」
ツイてない。きっと顔はススだらけだろう。
あたしは恨めしげにたらい目がけて洗濯板を放りなげた。
高い空にはイワシ雲。白いススキの穂が秋風に揺られていて、水が格別に冷たく感じる季節はゆううつ。
日が落ちるのが早くなるのを感じて、終わらない女中の仕事に気がそぞろになる。
おなか、空いたな。
ようやく物干し竿に洗濯物をすべて干し終えて、あかぎれだらけの両手にはぁと吐息をかけると、少しは冷えきった身体が暖かくなったように感じる。
しみじみと自分の手をながめると、乾燥でひび割れたしわが気になった。
これが十五才の手? ウソでしょ。
梅干し婆さんくらい、しわくちゃだよ・・・。
屋敷のガラス窓に映る自分の顔が映っても、怖くてつい目をそらしてしまう。
自分が可愛いなんて思ったことは一度もないわ。
せめて顔の皮膚がこの手みたいにしわくちゃじゃないことを祈りたい!
「そうだ。この前作ったアレを塗ってみよう。」
あたしはポケットに忍ばせていた薬瓶を取り出すと、コルクのふたを取った。
すぐに爽やかな松の青い匂いが鼻孔をくすぐる。
うん、いい感じ。
中に仕込んでいた乳液を人差し指に乗せてまんべんなく塗り込むと、透明な被膜が赤く腫れた両手を包みこんで、多少は痛みも半減した気がする。
「それは何?」
突然後ろから声をかけられたあたしは、驚いて思わず薬瓶を落としそうになったわ。
振り向いた先にいたのは、このお屋敷のお嬢様、徳川菊子様だった。
純白のレースのレイヤードワンピースに暖かそうなベージュの羽織を合わせ、三つ編みを束ねて【まがれいと】にした髪にはレースのリボンをつけている。
初めて会ったひとならば、異国のお人形が生命を宿したのかと驚くだろう。
何を隠そう、このあたしが十五年間専属でおつかえしているお嬢様なのだ。
「お、お嬢様! もう、驚かせないでくださいよ。
たけさんかと思いました。」
【たけさん】は公爵家に四十年間勤めている先輩女中のことだ。
いつも細かいことを目ざとく注意してくるので、いつもあたしはその影にビクビクしているのよ。
「あら、たけに見つかったらダメなことをしているの?」
軽く小首を傾げたまま、あたしを見つめる菊子様の背中には後光が射し、まるで聖母マリアそのものだ。
(あ、後光はあたしにしか見えていないという説もあるわよ。)
つまり、目が合うと思わずにやけてしまうくらい、絶世の美女なのである。
ちなみに菊子様の兄、公爵家の当主である葛丸様も当代きっての色男王子だ。
ああ一体、前世でどんな徳を積めばこんな無敵の人生が送れるのかしら。
「かめったら、顔が汚れているわよ。」
やっぱりエプロンにすすが付いていたのね。
菊子様はクスクス笑いながら、レースの縁取りがある真っ新なハンカチーフで、私の顔をふいてくれた。
そして私の手の近くに美しい顔を寄せると、クンクンと鼻をひくつかせた。
「この香り・・・松の精油の匂いかしら?」
「そうです。松の精油を保湿乳液にしてみたのですが、いい感じに出来ました♪」
「素敵なアイデアね。わたくしもあやかりたいわ。」
「よろしければ試してみてください!
少量を塗り込むだけで肌にツヤが出ますし、香水の代わりにもなりますよ。」
菊子様は袖をまくり上げ、白く細い手首から指先まで、丹念に乳液を塗り込んだ。
あたしは日焼けで真っ黒な短い自分の指が恥ずかしくて、すぐに手をひっこめた。
「本当。艶やかになるし、しっとりして良いわね。」
菊子様は大輪の花が咲くように、にっこりと笑った。
ドッキュ~ン。
と、尊いやろ~!
世間では皇太子様まで菊子様に恋心を募らせているなんて噂があるけど、あながち嘘ではないわよね。
「どうやって作ったの?」
「精油、ミツロウ、精製水で作れます。
精油を変えれば好きな香りに出来ますので、次回作成するときには、お嬢様のお好きな香りにしますね。」
「かめはすごいわ。」
菊子様は頬を薔薇色に紅潮させた。
「この前作ってくれた洗髪用の液体石鹸も良かったわ。甘い匂いがわたくしのお気に入りよ。ねえ、あの石鹸には、何を入れたの?」
「はちみつです。」
「あの、食べるはちみつ?」
菊子様は目を丸くしてあたしをみつめた。
「はい!はちみつは保湿作用が高いですし、栄養も豊富で老化防止にもなるとか。」
「どうりで洗髪するたびに甘味が食べたくなるはずね。
女中にしておくにはもったいない才能だわ。」
「実はあたし、奉公期間が終わる17歳になったら、洋風髪結師になることが夢なんです。」
「最近、東京に美容学校が出来たらしいわね。」
「はい、この前、お嬢様が『職業に貴賤は無い』とおっしゃってましたよね。」
「女学校で習ったの。江戸時代のことわざよ。
職には貴いとか賤しいなんて無い。誇りを持てとね。」
「その言葉を自分なりに考えてみたんです。
それまでは、うちの姉さんたちみたいに女中の仕事を終えたら農家に嫁いで、子を産み育てる人生が当たり前、それが女の仕事と思っていたんです。
でもあたし、こうやって乳液や石鹸を作ったり、お嬢様の髪を結ってさしあげたりするのが好きだっていうことに、改めて気づいたんです。」
「そうよ、よく思いついたわね!
これからの時代は民主主義。女性も男性と同等にならなければならないわ。」
それまでニコニコとあたしの話に相槌を打っていた菊子様が、急に深いため息を吐いた。
「かめが、羨ましい・・・。」
あたしみたいな下級の女中がうらやましいなんて・・・。
あたし、何か変なことを言っちゃったのかしら?
あたしはあわてて菊子様をおだてることにした。
「お嬢様は公爵家の令嬢なんだから、お医者様や銀行員の奥様になれるじゃないですか。
玉の輿は全日本女子の憧れですッ!
あーうらやましい、うらやましい!!」
「それは、お父様が望む結婚であって、わたくしが望む未来ではないの。」
「お嬢様の夢って何ですか?」
「私は・・・。」
次の言葉を言いよどんだ菊子様は、儚げに微笑んだ。
「それはいつか、話すわね」
菊子様は上着のポケットを弄ると、一通の封筒を取り出した。
「実はかめにお願いがあって探していたのよ。」
その封筒にはロウで封がされていて、あたしはそれが重要な手紙なのだと悟った。
「この手紙を、明日の朝一番でお父様に渡してほしいの。」
「旦那様に、ですか?」
旦那様は体調を崩されてから当主の座を葛丸様に譲り渡し、別館で隠居生活をしているの。
世の中には気の合わないの親子も居ると聞くけど、菊子様と旦那様の関係は良好だ。
なぜ自分で手紙を渡さないのかしら?
しかも明日という期限付きなのも気になるわ。
あたしの気持ちを見透かすように、菊子様はあたしの手の上に自分の手を重ねた。
「この家で共に生まれ育ったかめにしか頼めない用事なの。
くれぐれもお願いね。」
身分は違えど同い年の菊子さまは、いつも姉妹のように優しく接してくださる唯一無二のお方であり、私の神。
つまり【推し】
その菊子様の頼みを、断る理由なんて選択肢はありえない。
あたしは力強く、菊子様の白い手をにぎり返した。
「わかりました。
ぜーんぶ、あたしにお任せくださいッ!」
それから思い切り叩いたあたしのお腹からポコンと大きい音が鳴って、菊子様はコロコロと可憐に笑った。
「かめ、頼もしいお腹ね。」
うう。
小食な菊子様の残り物を、片づけるフリをして厨房で平らげていたら、いつの間にか出来たこのお腹なのだけど、信じてもらえるかしら?
苦笑いしながらあたしは菊子様の手紙を着物の袂にしまったの。
その時はまさか、この手紙があんな未来を引き起こすなんて、露ほども思っていなかったのよ。