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第六話 時には凧のように

 酒に酔って、下品な笑い声を上げていた榮十郎であったが、夜になって座敷に引っ込むと自分の身の上が情けなくなる。

 百姓屋に生まれ、武士になろうと志して江戸にゆけば、士官するところもなくて、無宿人に成り下がってしまった。

 道場での剣術の腕前は相当なものであった。それが通用しないのがこの太平の世のつまらないところで、この旅籠に宿泊する宿賃も、旅人を辻斬りして、血に濡れているものだと思うと、恐ろしく思えてくるのであった。

(もしも乱世であったなら……)


 ……手柄を立てることで道筋が開けることだろう。太平の世にあるのは、無宿人同士のつまらぬ小競り合い、喧嘩出入り、剣術の腕前を疲労するだけの道場破り。


(役立たずの腕前を披露しあって、いつかは皆、くたばっちまうのさ……)

 榮十郎の名は、無宿人、博打仲間の中では相当知られていた。

 そこで、榮十郎の首を取れば、自分も士官の道があるとか、博打仲間に一目置かれると勘違いをした者どもが襲ってくることがある。

(どうも風の音がおかしい……)

 旅籠屋の前に十数の人影が蠢いているようである。それが風の流れを変化させている。十数の人影はじっと息をひそめている。そのくせ殺気がみなぎっているのだった。


(どうやら四十七士の討ち入りのつもりのようだ……)

 榮十郎は、布団からゆっくりと起き上がると、太刀の柄を握った。


 榮十郎は息を潜めて、隣の座敷に移った。そこは茜の座敷であった。榮十郎が、茜の眠る布団の背後にそっと隠れると、流石に違和感を感じたらしい茜がそっと寝返りをし、扇子で榮十郎の手の甲を打った。

「いっ……」

「何を考えている……浪人」

「違う。そんなつもりはない」

「いつの世にそんなつもりのない者がおなごの寝間に忍び込むのだ」

「よく聞け。猿回し。この旅籠屋のおもてにゃ、十数人の刺客が潜んでいる」

「ふむ」

「俺をつけ狙っているのさ。だからこうして俺は座敷を変えた……」

「なんでこの座敷なのだ。わたしが寝ているのに迷惑だろう……」

 榮十郎は、しっと指を立てて、茜を黙らせる。


「この前の廊下は、ここのところで折れ曲がる。水流ならばここで水が溜まり、勢いが衰えるところだ。つまりここで叩っ斬るのさ……」

 榮十郎の言わんとしていることは茜にも通じたらしい。


「廊下の曲がり角に死体の山を築けば、尚のこと、やつらの足取りは遅くなる」

「ふむ。なかなか頭が切れるな。浪人……しかし鍔迫り合いなんてしている場合ではない。どのみちこの旅籠屋には長くは居られない。ならば遁走してしまえばよい」

「逃げ道があればな……」

 榮十郎は、逃げ道などないと思った。この二階から飛び降りれば袋叩きもいいところだ。かと言って、土間の木戸から飛び出しても斬り合いからは逃れられない。


「屋根の上に登るんだ……」

 と茜は、布団を払いのけると、天井を見上げた。

「何を言っている。空に逃げるというのか」

「ちょうど空っ風が吹いてくる頃合いだ。それに乗って、行けるところまで行ってみる……」

「貴様。もののけの類か。そのようなことができるわけがない」

「似たようなものさ。それ、討ち入ってきたぞ」

 木戸が蹴破られて、無宿人たちが一階に殴り込んできたらしい物音が響いていた。榮十郎は、太刀を抜いて、廊下に待ち伏せしようとしたが、茜が窓から屋根に登ろうとしているのが気になって仕方がない。


「おい。正気か。そんなところに行っても仕方ないだろう」

「わたしは正気だ。そんなところで人を斬っても刃こぼれするだけだ。ほらっ、こっちに来るんだよ!」

 と茜が怒鳴るので、榮十郎も気迫に押されて、窓へと歩み寄った。


 茜はするりと猫のように屋根に登った。あの猿はどこにも見られなかった。榮十郎は、やっとのことで屋根に登ると、確かに空っ風が吹き荒れているのだった。


「風に乗るぞ」

「なんだって。貴様、自分を凧だと思っているのか!」

「上手く乗れば、数里飛ぶことも可能だ。こういう風吹く夜には……」

 そう言って茜はにっこりと笑った。下の座敷に無宿人たちが押し入ったらしく怒声が響いている。


 その時、神風が吹き荒れた。茜は、榮十郎の袖を引っ掴むと、

「今だっ!」

 と叫んで、足で瓦を蹴って、跳び上がった。途端、風が榮十郎の身を掬い上げて、ふたりは鷹のように宙に飛び上がった。それはまったく奇妙な心地であった。榮十郎は、うわあっと情けない声を上げて、しばらく空中を凧のように彷徨っていたが、どうやらふたりは旅籠屋から離れてゆくらしかった。

「おい、このままどこへ向かう……」

「まずいね。風が宇野宮城の方に吹いている……」

「なんだって、すると俺たちは……」

「本丸あたりに落ちるみたいだね」

 そんなことになればまず命はない、と思って榮十郎は、がっくりと肩を落とした。

(こんな化け物の言うことに従った俺が馬鹿だった……)

 きっと化け猫の類だろう、と榮十郎は思った。

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