第五話 猿回しの茜
宇都宮宿に浪人、畠山榮十郎という男がふらりと訪れた。
武士を名乗っているとはいえ、御家に仕えて禄を食む身でない彼は、無宿人に混じって博打を打ち、辻斬りをして路銀を稼いでいる大悪人である。
しかれどまだ名の知られていない宿場に着くと、旅人の一人に過ぎないから、しごく真面目な面持ちで、旅籠屋に泊まって、味噌田楽を箸で突いている。そういうことができるのが江戸の浮世というものである。
旅籠屋の親父も、この見窄らしい大金持ちを、妙な男だな、とは思いつつも、何も問わずに泊めている。喧嘩出入りを起こさずに金子だけおいて、程よいところで宿場を出ていってくれれば良いと思っている。
榮十郎は寒いと見えて、囲炉裏の火に当たっているが、そんな時でも太刀を離さないのが武士である。
(こんな宿場で、喧嘩出入りもねえとは思うが……何分、罪深けえこの身だ。この太刀ばかりは離しておけぬ……)
榮十郎は、そう思いつつ、伊達な煙管で煙草を吐かせた。
すると旅籠屋の木戸がガラリと音を立てて開いて、日本猿を連れた美しいおなごが土間に入ってきたのではないか。
「お邪魔します」
榮十郎は、じろりとそのおなごを睨んだ。榮十郎が好色な男であるのは事実だが、それよりもこの日本猿とおなごという取り合わせには妙なものを感じずにはいられなかった。
「旅籠のご主人はいらっしゃいますか」
「いるさ。奥で風呂の水を汲んでいるよ。おうい。客だぜ!」
囲炉裏のある座敷とかまどのある土間は日本家屋においては一般に近く作られている。女房は、かまどで米を炊いていたので、すぐにそのおなごのもとへと駆けつけた。
(妙なおなごだな)
そのおなごは、女房に「風間茜」と名乗った。そして猿回しの芸人だと名乗ったところで、二階の座敷へと案内されることになった。
茜というおなごは、水の入ったタライで、草鞋を脱いだ足を洗って畳へと上がる。
おなごは、髷を結っておらず、頭の後ろで髪の毛を紐で縛って背中に垂らしているから旅芸人なのだろうという想像は、榮十郎にもできた。
(妙なおなごだが、良い女だ。猿回しにはもったいない。俺の女にできればよいが……)
などと下品な想像をしながら、煙管を咥えたのだった。
当時、旅籠屋の夕餉といえば、箱膳を並べて、その上に、お代わり自由の白飯に漬け物、味噌汁がついた上に、その土地の名物料理や、煮染めが出るものだった。一番のご馳走は魚料理だが、下野のような内陸の国では川魚しか出ることはなかった。
(沢庵を噛み締めながら、銀舎利を腹一杯食う。これほどの幸せはまずあるまい……)
榮十郎は、座敷で白飯を頬張っていると、先ほどの茜というおなごが二階から降りてきて、隣の箱膳についた。
「猿回しの芸人か……」
「そういうあなたは……」
茜は、榮十郎の顔をちらりと窺う。
「なに、俺はしがねえ浪人さ。おなごの一人旅たぁ珍しいね。なにかと苦労することだろう。俺が一緒に旅してやろう……」
「いや、わたしは一人が好きだからさ。それに猿の三平ってのがついているよ……」
「猿がなんだってんだ……」
榮十郎は、はははっと声を上げて笑った。
「笑うなよ。三平はあれでも日吉大社の神猿なんだ……」
と茜は真剣そうな表情で、そんなことを言うので、榮十郎はさも可笑しそうに笑った。徳利から諸白をお猪口に注いで、一息であおる。
「わたし、これから奥州を旅しようと思うんだ」
「奥州というと奥州道中をゆくのかい」
「そうね」
「なんのために……」
「彷徨える魂たちを鎮めようと思うんだ」
「するとお前さんは巫女でもあるというわけだな」
「そうかもしれないね」
「それなら、奥州よりも先に日光道中を行ったらいいさ。日光山で、東照大権現をお参りしていった方がいいぜ」
と榮十郎はへらへらと笑いながら言った。
「日光道中ね。確かに東照大権現をお参りして行った方がいいとは思うよ」
「俺の生まれ育った地元さ。俺はあのあたりの山村で育ったのさ。だから百姓の倅なんだよ。なあ、俺に案内をさせてくれよ。金はいらねえぜ」
そういうといかにももっともらしく聞こえる。
「それよりもあなたはこの宿場で何をしているだい。宇都宮藩に雇用されようと思って、わざわざこの宿場に泊まっているんじゃないの……」
「さあな。はじめはそうだったかもしれねえ。しかし今はこの通りのその日暮らしさ。お前と一緒に日光山にゆくぐらい構わねえんだぜ」
「とりあえず今は、宇都宮宿に着いたばかり、考えさせてもらうよ……」
そう言うと茜は、いつのまにか料理を食べ終えていたらしく、さっとその場から立ち上がって、二階へと戻ってしまった。
(実に美しいおなごだ。絶対に俺の女にしてやるぞ……)
榮十郎はそう思うと、箱膳を片付け、風呂に入った後、二階の自分の座敷へと戻った。