第三話 烏の舞
平次郎は、カンクロウを追って、霧深き森を疾風の如く駆け抜け、見晴らしのよい丘の上へ飛び出した。
カンクロウは、勢いよく木の上に跳び上がると、ホーウと高らかに声を上げて、今度は丘の上にひらりと着地した。
「俺の舞をとくと拝むだねえ!」
カンクロウはぴたりと止まって霊妙な静寂を生んだかと思うと、黄金の扇を取り出して、地を這うような低い声でうたいながら、からくり人形のようにカクカクと優美に舞い踊り始めた。
たちまち、奇妙な雅楽のような音色がどこからともなく響いてきて、一帯は常闇に包まれ、丘の上は一つの美しい幽玄な舞台と化した。まるで薪能か狂言を観ている気分である。
(夢のようで幻のような眺めだ……)
と平次郎は、眼前の光景に、すっかり心を奪われた。
ところが、その刹那、色とりどりの焔が四方から巻き起こり、それが烏色に濁ったかと思うと、たちまち、平次郎をその地獄道の醜悪なはらわたの中へと一度に呑み込んでしまった。
(なんという奇っ怪な……迂闊にもののけを信用した自分が馬鹿であったか……)
平次郎は苦悶し、焔を避けて両足で地面を蹴って宙に跳び上がった刹那、四隅からきゅるきゅると独楽の如きつむじ風が起こり、その身軽な体は中空へと飛ばされてしまった。ひどく奇妙な心地であった。
途端、カンクロウが空から、大太刀を振るって襲いかかってきた。
すかさず、平次郎は太刀を抜き、逆袈裟に斬り上げた。
カンクロウの妖気がその太刀の刀身に絡みつくと、たちまち、あの烏の割れたような甲高い笑い声が、天地を引き裂くように響き渡ったのであった。
(これは……)
平次郎は一瞬、呆気に取られて、地面の上に勢いよく倒れ込んだ。一刹那の後には、その丘の上はぞっとするような静寂に包まれていた。
(あのカンクロウという烏の妖怪が、この太刀の中に収まってしまったようだ……)
平次郎は、おかしな心地になって、ぼんやりとその太刀を見つめていた。
……太刀は今や、何事もなかったかのように静かである。
平次郎は立ち上がると、袴の泥を叩き落として、あたりを見廻した。
「宿場だ……」
平次郎は、丘の上から宿場が見えていることにようやく気がついた。平次郎は、太刀を腰にさすと、このような森の中にいては飢え死が必定であるから、一人その宿場に向けて、静々と歩みだした。
(森の中は妖だらけであった。あの幻惑の中では息を吐くこともできぬ。やはり拙者は、人間界に生きるより他に仕様がないのだ……)
平次郎がそう思いながら、丘を下り、その宿場の入り口に辿り着くと、そこは以前と寸分変わらぬ宇都宮宿なのであった。
しかし、この宿場では、平次郎は非情な人殺しなのではないか。
冷静に考えれば童でも分かるそんな易しい道理も、平次郎は、足腰の疲労感と度重なる妖たちの幻惑の焦燥感の中で、すっかり霞んでしまっていた。
(宿場に戻ろう……)
ふらつく足取りで、平次郎は一人、宇都宮宿の土埃臭い辻を歩いてゆく。縄のれんの居酒屋を覗き見れば、ごろつきどもが酒をあおり、肴をかっ喰らっている。自分もこのような無宿人の一人と化してしまったのだろう、と平次郎はぼんやり思うと情けなくなってきた。
辻を歩いているうち、宇都宮城が近付いてくると、宇都宮藩士の家に生まれ育った平次郎は、厳しく頼もしかった父母の顔を思い浮かべることになった。
(ああ、こんなはずではなかった……)
そう思っていると、宿場の旅人らしき男が平次郎の顔を見るなり、悲鳴を上げて腰を抜かし、地面にしゃがみ込んでしまった。
「化け物! 化け物!」
平次郎は驚いて、その旅人を見つめる。
「化け物だと、このわたしが……」
ところが旅人だけではなかった。宿場の人々は、誰も彼も平次郎を見つけると叫び声を上げて逃げ惑うのであった。
(何故だ。一体、何が起こっている……?)
平次郎は、狐につままれたような想いであったが、次第に異変に気付き、宇都宮城下にある自分の生まれ育った屋敷へと走って行った。
「父上! 母上!」
平次郎は、そう叫んで屋敷へと飛び込んだ。すると平次郎の母親が、平次郎の姿を見るなり、わっと悲鳴を上げた。
「もののけ! もののけ!」
そう言って、母親はすぐに畳から跳び上がると、飾ってあった薙刀を握って、こちらへ走り込んできた。平次郎は驚きのあまり、縁側から庭に飛び降りて、全速力で屋敷から逃げ出した。
(おかしい……。みんな、まるで俺を化け物扱いだ……)
平次郎は、今にも泣きそうになりながら、森の中へと駆け込むと、川のせせらぎに自分の姿を映した。ところが、そこには、大きな烏の顔が映っているではないか。平次郎は、ああっと叫んで、地面に尻餅をつくと、悲鳴のような烏の声でこう言った。
「ああっ、カンクロウになってしまった……!」