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第二話 烏のカンクロウ

 阿蘭と出会ったことで、菱沼平次郎はすっかり宇都宮藩士の日常を失ってしまった。何故、あの時、女人を助けようなどと思って、太刀を抜いてしまったのか、自分でもよく分からないのであった。

 このまま武家の若侍として生きてゆけば、満足のゆく婚姻も叶い、宇都宮藩の中ではある程度の地位に着くことができたはずだった。

 それが今や山賊のように洞穴の中に坐り込み、二百五十年前の赤備えの甲冑を見上げている。


(狂った人生だ……)

 直感的な慈悲心のために人生は狂ってしまったのだろうか。女人が絡まれるのをただ指を咥えて見ていることが正しかったのだろうか……。


 その時、赤備えの甲冑の面頬がゆっくり動いて、平次郎に低い声で語り始めた。

「そなたが今ここに坐しているのは神仏の定めだ……」

 平次郎は、あっと叫んで腰を抜かした。それを見て、赤備えの甲冑は、またしても低い声で「はっはっはっ」と笑った。その笑い声は、まるで吐血を噴き出しそうなほどドス黒い気魂に満ちている。


「もしも宇都宮藩の藩士として生きる道を選び、日常に没していたらそなたは、その日常の平凡さに殺されたことであろう。そなたは阿蘭と出会ったことで、本来味わうことのなかった神変を味わうのだ。そなたは幸福だ。神変の中に生きるのだから」


 平次郎は、蒼ざめてその赤備えの甲冑の面頬を見つめているが、たまらなくなって叫んだ。

「違う! わたしは祖父や祖母の願う通り、宇都宮藩の藩士として生きたいのだ。どうか願いを聞き遂げてください。日常に戻してください!」


「ならぬ! そなたは生きる道を自分で選んだ。そなたは人殺しだ。その世界から二度と戻ることができぬ。阿蘭と共に生きるのだ」


「嫌だ!」

 平次郎の心の叫びは洞穴内に反響してゆく。その声は次第に大きくなってゆき、平次郎の小さな体を呑み込んでしまった。


 嫌だ。

 嫌だ。

 嫌だ……。


 平次郎が気づくと、自分一人で洞穴の中に倒れていたのだった。目の前の赤備えの甲冑は微動もせず、黙然としている。そこには何も感じられない。いや、感じられなくなってしまったのか。平次郎にはまったくわからない。


 平次郎は、洞穴からのそのそと熊の如く歩み出た。外の明かりがただ眩しく、平次郎の体に差し掛かってくる。杉の木が風に揺すられているばかりで、春の気配すら感じられてくるのだった。

「幻か……。それとも夢か」


 阿蘭がどこかの温泉に浸かっているということだ。一体どこにそんな温泉が湧いているのだろうか、と平次郎はあたりを見回している。


 しばらくして、彼は道なき道を歩き始めた。ひどく腹が減っていた。このまま阿蘭が戻ってくるのよりも先に飢え死にしてしまう気すらした。このあたりに百姓の家屋がないものか、あるなら少し飯を分けてもらおうという寸法だった。


「一体ここはどれほど山奥なのだろう……」

 宇都宮藩からそう遠くないはずだった。しかし人の住んでいる気配はまるで感じられない。これでは本当に飢え死にしてしまうと思って、平次郎が元の洞穴に引き返そうとすると、草葉の茂った山道には足跡も残っていない。洞穴に戻るのも難しいと思うと、平次郎はだんだんと恐怖の込み上げてくるのを感じた。

(このままでは死んでしまう……)


 しばらくすると、木の上で巨大な烏が嗤っていらのだった。

「へっへっへっ。どうやら道に迷ってしまったようだねえ!」

「そのようだ。申し訳ない。人家のあるところまで案内してくれないだろうか」

「そいつぁあできないねえ。だって、このカンクロウでさえ、この山じゃ滅多に人を見たことがねえのだからねえ!」

「そいつは参ったな……。カンクロウとやら。とりあえず何か食べられるものを持っていないか……」

「へえ。よっしゃ、じゃあこの俺様についてきな!」


 カンクロウはそう言ってクアッと叫ぶと、たちまち黒い焔となって、平次郎の前に舞い落ちた。するとそれはみるみるうちに人の形になり、瞬く間に、烏の顔をしながら平安貴族の如き螺鈿色の束帯を着ている化け物になったではないか。

「やっ、貴様、ただの烏じゃないな……」

 平次郎は畏れおののき、太刀の柄を握りしめた。するとカンクロウはヘイホーッと叫んで、手を左右に振って誤魔化した。


「物騒なこと考えるでねえ! 俺様は確かにただの烏じゃねえ。もののけの類だ。しかし、お前さんはそのもののけに物乞いしねえと死んじまう身の上じゃねえか。それをわからねえとは言わせねえぜ!」

 そう言うとカンクロウは、平次郎に背を向ける。

「死にたくなけりゃついてきな!」

 そう言って、平次郎を振り切ろうとするかの如く、山の中を全力で駆け始めた。


「カンクロウ。助ける気があるのか! もっとゆっくり走ってくれ!」

 平次郎はそう叫びながら、木の根を飛び越え、カンクロウの背中を必死に追いかけていったのだった。

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