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第一話 阿蘭という女武者

 挿絵(By みてみん)

イラスト制作 Kan

 江戸時代も末の頃、天保の浮世の物語である。


 日光道中と奥州道中の追分である宇都宮宿において、奇妙な事件が多発していた。何人もの旅人が何者かに叩き斬られていたのであるが、下手人は杳として知れなかった。それは、人間離れした切り口の鮮やかさから、亡霊や(あやかし)の仕業とも噂されていた。



 その頃、宇都宮宿から程ないところにある山村に、一人のおなごが逗留していた。

 そのおなごは、天女の如き美しい顔貌をして、まったく巫女の如き緋色の袴姿に、海松色(みるいろ)に花柄の美しい小袖を着ている。

「面妖な。女狐じゃなかろうか……」

 この百姓の噂は、あながち間違ってはいない。


 おなごは阿蘭(おらん)と名乗っていた。この名を名乗るだけあって、阿蘭陀の異人の血が混じっているようである。


 挿絵(By みてみん)


 その正体を知るものは、ここ宇都宮の地には一人としていない。


 


「百姓の麦飯はもう嫌じゃ」

 阿蘭はそう言うと、腰に太刀を下げたまま、宇都宮の城下町へと繰り出した。


 阿蘭が、霧深き城下町の居酒屋に入り一人で、奥の座敷に座り、味噌田楽を箸で摘みながら、濁酒を呑んでいると、まわりの漢たちが勝手な噂をする。そのほとんどは下卑た噂であった。

 にやにやと笑いながら、腕っぷしの太い無宿人がふたりほど阿蘭に歩み寄ってくる。

 


「そこの娘っ子。おめえ一人かい」

 と喉に痰が詰まったような声で男は言う。

「語ることなど一つもなし……。そちとわたしとは元より無縁じゃ……」

「無縁なものか。女ならこちらに来て酌をせんか」

 その途端、阿蘭は、無宿人に腕を掴まれて座敷から引きずり下ろされそうになる。客の多くは目を背けるばかりである。阿蘭は咄嗟に、太刀の柄に手を触れた。


 その刹那、そこに駆け込んできた若い侍が、何事か甲高い声で叫ぶと、太刀を振るった。血肉が舞い散って、土間を擦る足音が響いた。たちまち、背中を斬りつけられた無宿人は苦悶しながら、土間にどさっと倒れ込んだ。

「おいっ、人殺しだ!」

 大騒ぎになる前にと阿蘭は、さっとその若侍の手首をにぎると力強く引っ張って、店の外へと疾風の如く駆け出した。


 ふたりはどれほど走ったかわからない。土埃の立つ辻の裏側で、阿蘭は振り返って、若侍の顔を見上げた。湯上がりのような色白の素肌に、美しい目がふたつ輝いていて、まるでまだ少年である。


「お侍……。わたしが礼をそなたに言うと思うか」

 若侍はその言葉に青い顔をして結月を見つめる。

「言わぬ」

 そう言って阿蘭は、若侍をきっと睨みつけた。

「殺そうと思えば、あのような無宿人、いつでも殺せた……」


 そう言うと阿蘭は、不気味な笑みを浮かべ、腰の太刀を引き抜いたと思うと、物凄い掛け声を上げ、腹から踏み込み宙を切り裂き、飛びすさりながら、今度は突きをした。


「騒ぎを起こした。それだけのことだ。だからそなたに礼など言わぬ」

 そう言いつつも阿蘭は、この後先ひとつ考えぬ少年の如き若侍がひどく気に入った。そしてちょいちょいと若侍の頬を指で触ると、自分の後ろに連れて歩くことにした。

「そなたは宇都宮藩の侍か」

「そうです」

「名は何という」

「菱沼平次郎と申しまする」

「そうか。平次郎。酔っ払いに絡まれた女を助けようと思うのは偉いことだぞ。それが普通の女ならな。剣豪であるわたしにはいらぬことじゃったが……」

 そう言って阿蘭は、鮮やかに笑った。若侍は赤面し照れているばかりである。よし今宵はこの美麗な若侍をたっぷり可愛がろうなどと邪なことを考えつつ、阿蘭は、若侍を城下町を連れまわしていたが、しばらくすると振り返って、説き伏せるように語り始めた。


「若侍、そなたはわたしの可愛い弟じゃ。これから、わたしとふたりで旅に出ることになろう。臆せずについてきなさい……」

「それは……。父上や母上に無断でそのような旅に出れませぬ。第一、わたしには藩の仕事がございます」

「ならぬ。そなたはすでに無宿人殺しの下手人じゃ。藩などに戻れば捕まってしまう。わたしと一緒に来るのじゃ」

 そう言うと阿蘭は、若侍の手を握った。その言葉に若侍は真っ青に怯えて震えている。


「こわいのか」

「わたしはこの先どうなるのでしょう……」

「そうじゃな。そなたはわたしの弟になるのじゃ。せいぜいわたしのこの胸の中で泣くがいい。いいものを見せてやろう。来たまえ」


 阿蘭は、若侍を連れて、自分が逗留していた山村の裏山へと入っていった。そこは大谷(おおや)の地で、山肌には霊妙な奇岩が現れていた。その山肌に洞穴が空いている。中に入ると、そこに赤備えの甲冑が置かれていて、蝋燭の灯が揺らめき、亡霊の顔が浮かび、線香の燃え滓が散らばっている。


「これは甲州武田の赤備え……」

「さよう。わたしは武田家の遺志を継ぐもの。武田を滅ぼした徳川を恨む亡霊。徳川の世を転覆したいと思うておる女賊、否、女武者じゃ……」

「それはしかし、大変なことで……」

「そなたのことが気に入った。二十歳そこそこのそなたはわたしを欲しておろう。わたしも可愛いそなたが欲しい。これで旅も楽しくなるというものじゃ」

「いえ、そんな邪なことは求めておりません。わたしは藩に仕え、武士として生きたいのです」

 と平次郎は慌てて、首を横に振る。


「それが叶うならばとうに戻っておろう。さて、そなたには多くの昔話を聞かせるとしよう。武田信玄公生まれたる時の話から……」

「それには及びませぬ。軍記物語は好きですから。ところで、最近、毎夜の如く宇都宮宿を騒がせている辻斬りの下手人はまさか…….」

「このわたしだ。阿蘭の仕業よ……」


 そう言って、阿蘭は笑うと、ぐいっと平次郎を抱きしめ、暖かい息を吹きかけ、柔らかな唇を重ねるように当てた。

「御勘弁を……。阿蘭様は、きっと亡霊でしょう」

「かもしれぬ。兎にも角にも、この世のありとあらゆるものが憎い。そなたを除いて……」

 すると、阿蘭は爛々と燃える蝋燭の()に自分の美しい顔を照らし出していた。


「しかし不吉な予感がする。間もなくここに剣客が一人、訪れよう……。その剣客はきっとわたしを殺してしまうだろう」

「何をおっしゃります……」

「風魔小太郎の末裔じゃ。わたしの神通力が、そう囁くのじゃ。もしもわたしが殺されるようなことあれば、そなたが代わりに武田の遺志を継ぐのだ……」

「勘弁してください。拙者は、武田と何の縁もない者でして……」

「違う。この阿蘭の漢となったであろう……」

 平次郎は、その艶かしい言葉に震えた。



 その瞬間、山賊と思しき三人の男たちが、刃を剥き出しにして、洞穴に突入してきた。

「わかっておったぞ!」

 すかさず、阿蘭は太刀を鞘から抜くと、三人の男の白刃をすり抜けて、次から次へとその背中を叩き斬っていった。

 血脂が舞い散り、指が転がる。瞬く間のうちに、三人の遺骸が洞穴の中に転がっていた。


「平次郎。何を怯えておる。そなたも昼間、一人斬ったではないか」

「それはその通りです。しかし三人殺されるのを見るのははじめてです」

「三人も一人も変わらんさ。そうなれば、十人も百人も変わらなくなる。そうでなくても、人は無数に死んでゆく……」


 阿蘭は、にやりと笑うと、平次郎の前で帯を解き、小袖と袴を脱いだ。伊万里焼のように滑らかな色白な素肌に、豊かな胸が実り、瓢箪のような尻も艶やかだが、腰のあたりはくびれているのだった。


「温泉に浸かってくる……」

 そう言うと阿蘭は、洞穴を後にした。


 平次郎は、ぼんやりとしながら、蝋燭の灯に照らし出される赤備えの甲冑を見上げ、自分の運命がどうなってしまうのか悩ましく考え込んでいた。

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