3、静寂
成人の儀の日。
リリアは朝から侍女たちに身体を磨かれていた。
「ああ、何とお美しい御髪。素晴らしいですわ」
侍女の一人が、リリアの髪を梳かせながら頬を染める。
「白魚のような美しいお手。ああ、この指が……爪が領地を……ありがとうございます」
もう一人の侍女も、リリアの爪を磨きながら感嘆の声をあげた。
リリアは婚約者であるアレックスから送られた、質素ではあるが上質なレースをふんだんに使ったドレスを身に纏う。
「リリア様、とても美しいです」
リリアのドレス姿を見たジェイドは、暫く放心した後に頬を染める。
「嬉しいわ、ジェイド」
リリアは彼の瞳を覗き込む。
寂しくてどうしようもなかった日。
訳もなく不安に襲われた夜。
彼の真っすぐであたたかな言葉に、幾度励まされたことだろう。
ジェイドは、ふさぎ込みそうになったリリアをいつも労り励ました。
離宮を出た後、やりたいことや叶えたい夢を二人で語りあった。
沢山のこれからを計画した。
決して離宮での生活が辛かった訳ではない。
リリアは皆から愛され、大切にされていることを良く理解していたし、その思いに答えようと励んでいた。
ただ、今のリリアは、それに感謝しつつ新しい未来に胸を膨らませていた。
「さあ、参りましょうか」
「ええ、ジェイド」
「私がついております」
「頼もしいわ」
「……私のリリア様」
不意にジェイドがリリアの耳元で囁く。
リリアは驚いて顔を上げると、彼は侍女から死角になるように立ち、リリアの髪を一房手にとって唇を寄せた。
「ジェイド?」
「心から愛しています、リリア様。これからもずっとお側に」
「……ジェイド。嬉しい、嬉しいわ」
リリアの言葉に、ジェイドは嬉しそうに笑う。
リリアは会ったこともない自分の婚約者よりも、いつも自分の側にいて守ってくれるジェイドを大切に想っていた。
二人はしばらく見つめ合った後、照れながら笑い合うと大神殿へと向かった。
いつもの渡り廊下に差し掛かるも、今日、いつもの場所にカレンの姿はなかった。
リリアとジェイドは手を取り合って祭壇まで歩く。
大神殿内は、いつもよりも多くの神官が並んでいた。
リリアは不意に、後ろからツンッと何かに引っ張られるような感覚を覚えて足を止める。
「どうかされましたか?」
ジェイドは尋ねる。
「えっと、裾が何かに……」
「引っ掛かっているのですね」
「ええ」
見るとリリアのドレスの裾が、今日に限って扉の端に引っ掛かっていた。
祭壇前に立つ大神官は、すぐに控えていた神官に目配せする。
「すぐにお取りします!」
控えていた神官が慌ててドレスの裾に手をやるも、リリアのドレスは繊細なレースをふんだんにつかっており、少しでも力加減を誤ると破れてしまう。
周囲は焦って何とかしようと四苦八苦していた。
「大神官様。そんなに慌てなくても大丈夫でしょう? 成人の儀は、午前中にさえ終われば問題ないのですから」
「いや、そ、そうなのだが……」
リリアは大神官に優しく声を掛けるが、何故か彼はやけに焦っている。
「お……お前達、早くせぬか!」
「はいっ! ああ! 取れました」
「おお! 良かった!」
神官たちはあからさまに安堵しており、大神官に至っては、ハンカチで額の汗を拭っている。
リリアはそんな彼らを不思議そうに見ながらも、再び祭壇前まで歩みを進めた。
こうして多少のごたごたはあれど、その後は問題なく儀式が始まった。
成人の儀は、いつもと違い神子の長い祈りを必要としない。
祭壇の前に跪き、神に祈りを捧げ、聖水を飲んで身体を清める。
しかしリリアは、決められた時間よりも長く祈りを捧げた。
何故なら彼女は、今日で離宮を出る喜びと、先程ジェイドと心を通わせたことによる胸に溢れる高揚感を抑えることが出来なかったのだった。
胸が、心が温かい。
世界は相変わらず美しいけれど、今日は一段と鮮やかに見える。
リリアは溢れるほどの想いに、ほぉっと息を吐く。
平和でありますように。
幸せでありますように。
リリアの心からの祈りに、天窓からきらきらと光りの粒子が大神殿内、祭壇の間へと降り注ぐ。
神秘的な情景に、誰もが口をつぐんでいた。
リリアは祈りを終えると、いつも通りジェイドから聖水を受け取りゆっくりと口に含む。
厳かな雰囲気に包まれ、静まり返った祭壇の間。
不意に扉で隔てられた廊下で発した1人の少女の声が、妙に大きく響き渡った。
「ねえ、お姉様、そろそろ死んだかしら?」
誰もがピタリと動きを止める。
「カレン、そのようなことを大声で言うものではない」
「え~、でも今日の儀式で毒を飲んで死ぬんでしょ? お父様とお母様が言っていたわ。もうお昼よ? 王城には、お姉様の欠片を求めて沢山の貴族が列をなしているわ」
「確か儀式は午前中に終わっているはずだが、でもこの扉が開くまでは入ってはいけないよ」
「は~い。うふふ。これでようやくジェイドは私の物ね。あんなに優秀な人がお姉様のせいで離宮に閉じ込められているなんて、可哀想で仕方がなかったわ。だから私が王様にお願いしたの。快く受け入れて下さったわ」
「優しいな、カレンは。そして、ようやく私たちは正式に婚約することが出来る」
「ええ、嬉しい! アレックス様! ようやくお姉様から解放されるのね。長かったわ。それにしても、まさかお姉様が儀式で殺されるなんて! お姉様は知らなかったでしょうね。用意された聖水が毒だなんて!! 何て可哀想なお姉様! でもお姉様が死ねば、この国はもっと豊かになるのでしょう?」
「そうだよ、カレン。我々はもっと幸せになれるんだよ」
リリアは、この時ようやくこの声の主がアレックスとカレンだと気付く。
しかし話す内容があまりにも衝撃的だった為、頭が理解することを拒んでいた。
リリアは、口に含んだまま未だ飲み込んでいない聖水を、舌の上で転がしながら、目の前でジェイドが持っているグラスの中を覗き込む。
しかしそこには、いつも通りの透明な液体が入っているだけで、それが毒なのかリリアには判別出来なかった。
リリアは今度、視線だけで周囲を見回す。
すると、誰も彼もが静止したままリリアを不自然な程凝視していた。
「私知っているわ。お姉様みたいな人、難しい言葉で『人身御供』っていうのでしょう? うふふふ」
「ああ、そうだ、彼女は我が国の為にその身を捧げてくれるのだ。感謝しないとな。ハハハハ」
今の祭壇の間の雰囲気とはあまりにもかけ離れた無邪気な笑い声が、扉の向こう側から聞こえる。
我に返った一人の神官が、慌てて扉に向かって走った。
すっかり表情が抜け落ちたリリアは、目の前にいるジェイドをじっと見つめる。
しかしジェイドは、どこか胡乱な目つきで明後日の方を向いたまま微動だにしない。
リリアはそんな彼を見つめながら、ゆっくりと小首を傾げた。
ああ。
もしかして、ジェイドはとっくに知っていたのだろうか。
リリアは思った。
いつの間にか溜まっていた大粒の涙が、リリアの左目からするりと流れ落ちる。
同じ月を見た。
同じ星を見た。
同じ風を感じ、笑い合い、これからの約束をした。
逞しさと温かさに触れ、始めて安らぎを感じた。
これからもずっと一緒だと、愛していると、その言葉が嬉しかった。
溢れるほどの大切な思い出が、まるで光の粒子のようにリリアに降り注ぐ。
ああ、こんなにもジェイドが大切で、こんなにも恋しいのに。
全てが偽りだったなんて。
リリアは、胸のうちにゆらぎたゆたう初めての恋心が消えてしまわないように、大切に抱え込む。
これは、私のもの。
私だけのもの。
誰であろうと、奪わせたりしない。
リリアの唇が無意識に震える。
上手く笑えているだろうか。
リリアはゆっくりと数回瞬きを繰り返した後、口に含んだ聖水を躊躇なく嚥下した。
目の前で息を飲む音が聞こえる。
リリアの視界が真っ黒に染まっていく。
あたたかく幸せな走馬灯が、次第に塗り潰されていく。
光も音もない完全な静寂。
リリアは瞼を閉じ、心地良い闇に身を委ねた。
彼女の耳元で悲痛な叫び声が響くが、既にリリア自身に届くことはなかった。
リリア・カルディア。
享年十六歳。
それは、彼女の誕生日の朝の出来事だった。
そして、この日から僅か10日でエレーナ王国は崩壊することとなる。