1、神子リリア・カルディア
世界のとある場所に、瘴気にけぶる孤島『魔国』がある。
濃すぎる瘴気は人体に悪影響を及ぼす。
しかもその魔国には、瘴気にまみれた異形の者が住むという。
それゆえ、人々は好んでそこに近付くことはなかった。
魔国と人が住む大陸はそれほど遠く離れていない。
高台から魔国の方を眺めると、海の向こうに浮かぶ島の端がかすかに見える程度だった。
しかし、魔国に充満している瘴気が風向きによっては人の住む大陸まで流れ込んでくるため、草木が枯れ、病気を発症する人が度々現れていた。
人々は魔国から流れてくるその風を『黒風』と呼んで恐れていた。
魔国から程近い場所にある、海に囲まれたエレーナ王国。
この国も立地上、魔国からの瘴気に悩まされる国のひとつだった。
雪解けが冬の終わりを告げ、柔らかい日差しが降り注ぎ始めたとある日の昼下がり。
リリア・カルディアは、この国の貴族カルディア伯爵家の長女として生を受けた。
艶のある銀の髪と薄水色の瞳はどこまでも澄み、全てを見通すかのような光を湛えている。その姿は、文献で語り継がれている神子そのものだった。
そしてリリアが大神殿で洗礼を受けた日、大神官は民の前で宣言した。
彼女こそが神子である、と。
その宣言を聞いたエレーナ王国の国王は、すぐさま自分の息子である王太子アレックスとの婚約を発表した。
リリアを準王族にすることにより、彼女の後ろ盾になったのだ。
神子の出現と王太子の婚約発表、国中が歓喜に沸いた。
神子とは神に愛された子。
微笑めば草木は芽吹き、花々は喜びに咲き乱れ、彼女の祈りは国に豊かさと平和をもたらし瘴気さえも浄化する。
神子が幸せに生き、心穏やかに生涯を終えた国には神が加護を授け、更なる豊かさと安寧が約束される。
神子の感情が天変地異などに左右されることはないものの、神子が幸せを感じれば自ずと国も幸せに栄える。
それゆえに、リリアは大切に育てられた。
「ねえ、ジェイド。わたくしの騎士。あなたはこれから、何があってもわたくしを守ってくれるの?」
「勿論ですよ、リリア様。誠心誠意お仕えさせて頂きます」
6歳を迎えたリリアの前に跪く青年の名はジェイド。
リリアよりも十歳年上の彼は、国王を含め国の重鎮たちが三日三晩かけて選び抜いたリリアの護衛騎士だった。
ジェイドは明るい金髪と濃い紫の瞳を持つ美しい青年だった。
性格も温厚で信仰心が深く、身分も侯爵家の三男と申し分ない。
国内の剣術大会で優勝した経験もあり、現在は騎士団に所属しているため実践経験も豊富。
その上魔力量も多く、何より光魔法の使い手である彼は、誰よりも神子の護衛騎士として相応しい人物であった。
ジェイドは国王たちの期待通り、誠心誠意リリアを護り、そして仕えた。
リリアは国の宝。
世俗の様々な憂いから彼女を守る為、大神殿の敷地内に建てられた離宮に住んでいる。
リリアの住む離宮の周囲は、高い塀で囲まれている。
そこを出入りする者は、使用人だけでなく業者さえも厳しく審査されていた。
怪しい者が入り込まないように、常に入口には多くの騎士が目を光らせている。
その為、離宮を行きかう人々は非常に少なかった。
リリアの実の親であるカルディア伯爵でさえ三ヵ月に一度程度しか会うことはなかった。
リリアの日常は、非常に短調だった。
神子といっても朝晩の祈りと、三日に一度、大神官から勉強を教わること以外特にすることはなかった。
彼女に求められるのは、ただ幸せに、心穏やかに暮らすことだけ。
リリアは神子として、寂しくも静かな離宮で、特にすることもなくほぼ軟禁状態で暮らしていた。
「ジェイド、ジェイドはどこ?」
真夜中、突然目を覚ましたリリアは泣きながらジェイドの名を呼ぶ。
「リリア様。私はここに」
「ああ、ジェイド」
リリアは薄暗い自室のベッドの上で、すぐ側に立つジェイドの姿に気付いて彼に抱きつく。
ジェイドはそんなリリアの震える背中に手を回し、彼女が落ち着くまで優しくぽんぽんと叩いた。
離宮の周囲は、多くの騎士が守っている。
しかし建物内で働く者たちは、リリアの就寝とともに王宮へ帰ってしまうため、日が落ちればこの広い離宮には、リリアとジェイドの二人きりだった。
ジェイドがリリアの護衛騎士に決まったのは、彼女が6歳の時。
それ以前は、この広い離宮でリリアは一人寂しく長い夜を過ごしていた。
そのせいか、リリアは今でも夜中に泣きながらジェイドの姿を探すことがあった。
「大丈夫です、ジェイドはここにいます。大丈夫ですよ、リリア様。大丈夫、大丈夫」
震える小さな身体。
ジェイドは、リリアの背中をぽんぽんと規則正しいリズムで叩く。
他人の体温と鼓動に、リリアは安心してうつらうつらと舟をこぎ始めた。
ジェイドはリリアの護衛騎士ではあるが、彼女には王太子アレックスという婚約者がいる。
そんなリリアに対し、ジェイドの行いは明らかに護衛の範疇を超えている。
しかし、夜、離宮にいるのはリリアとジェイドの二人のみ。
その行為を咎める者などいなかった。
「私がずっと側にいますよ。リリア様」
ジェイドはリリアの頭を撫でる。
腕の中でスースーと規則正しい寝息が聞こえ始めると、ジェイドはリリアの身体をそっとベッドに横たえて自室に戻る。
そんな日々が続いた。
「ねえジェイド。わたくしもあの鳥のように、大空を飛びたいわ」
12歳になったリリアは、大空を悠然と羽ばたく二羽の鳥に手を伸ばした。
彼女の人離れした色彩は一層輝きを増し、髪や肌はまるで内側から発光しているかのように見える。
愁いを帯びた横顔さえも、まるで一枚の絵画のように神々しかった。
常にリリアの側にいるジェイドであっても、時折見せる彼女の表情に目を奪われ、しばし見惚れることが多々あった。
「……成人をお迎えになられれば、この離宮を出ることができます。そうすれば、今よりもずっと自由になれるはずですよ」
ジェイドは告げる。
「えっ! それは本当なの?」
「はい、大神官様からそう伺っております」
「まあ! それは嬉しいわ。ジェイドは大神官様とは親しいの? 彼は素晴らしい御方よ」
リリアは大神官から勉強を教わっている為、彼の人となりをよく知っていた。
「はい。私も大神官様には良くして頂いておりましたので……」
ジェイドは答える。
「あら?」
「実は私、人よりかなり魔力量が多く、小さい頃は頻繁に魔力を暴発させておりました。そのせいで、物心ついた頃から大神殿での生活を余儀なくされており、私はそこで必死になって魔力の制御方法を学びました。その時、あの方には本当にお世話になりました。くじけそうになった時、何度も励まして頂きました」
「まあ! ジェイド。それは大変だったのね」
リリアは初めて聞くジェイドの話に、慈しむように柔らかい表情を浮かべた。
「ええ、ええ、こほん。まあ、私の話はこれくらいにして……リリア様。成人を迎えた暁には、婚約者である王太子殿下とも頻繁にお会いすることが出来るようになりますよ」
「婚約者、アレックス様ですか……」
リリアは苦笑する。
王太子であるアレックスは婚約者といっても名ばかりで、実はリリアは一度も会ったことがない。
一度大神官に尋ねたところ、離宮への出入りは厳重に管理されている為、例え王族といえどもおいそれと会いに来ることが叶わないのだと教えられた。
それ以降、リリアはアレックスと会うことを諦めた。
「……いつか、お会いすることになるでしょうね……」
寂しそうに呟くリリアを見て、ジェイドは慌てて話題を変える。
「こほんっ。それではどうでしょう? 離宮を出て自由になった際は、色々なところに出掛けませんか? 隣国を旅するのもきっと楽しいと思います」
「まあ!」
リリアの表情がぱぁっと華やぐ。
「文化や言葉、考え方もこの国とは全く違います。美しい物や美味しい食べ物も沢山あります。是非とも私に紹介させて下さい」
「それは楽しそうね。でもジェイド、あなたは他の国の言葉を話せるの?」
「勿論ですよ、リリア様。しかし行きたい国があれば事前に教えて下さい。私も色々と準備がありますので」
「ええ、勿論よ」
リリアは目を輝かせながら、側に控えていた侍女に地図と他国から取り寄せたいくつかの書物を持ってこさせる。
「ああ、でもいざここを出て違う場所に行くとなると、何故だか急に緊張してしまうわ」
リリアは書物に目を通しながらぽつりと呟く。
「大丈夫ですよ、リリア様。どこへ行こうとも、私が必ずお側でお護りします」
「っ……ええ、ありがとう」
ジェイドの言葉にリリアは頬を染めた。
「わたくし……早く大人になりたいわ……」
「リリア様。急がずゆっくりと日々を過ごしましょう。大人になってからの時間の方が、遥かに長いのですから」
「ええ、そうね。ジェイド」
「ええ、リリア様」
リリアとジェイドは見つめ合い、笑い合った。
広い世界の中、離宮という限られた小さな場所。
それでもこの場所が、リリアにとっては世界そのものだった。
静かに、ゆっくりと時は流れる。
草木のさざめき。
雨粒の音。
侍女を呼ぶ響きの良い鐘の音。
柔らかくて優しいジェイドの声。
リリアは温かく、優しく、柔らかいものに囲まれて日々の生活を送っていた。
日差しがきつくなり始めたとある日の午後。
遠くから聞こえる金切り声に、リリアは刺繍をする手を止めた。
「何かしら?」
リリアは首を傾げながら控えていた侍女に尋ねる。
「確認して参ります」
侍女の1人がそう言うと、すぐに部屋を出て行った。
いつもは少し離れた所に控えているジェイドも、リリアの側に来て彼女の手を優しく握る。
「誰が来ても、私があなたを守ります」
「ありがとう、ジェイド」
リリアはそんなジェイドに安心して肩の力を抜いた。
静かな離宮に時折響く金切り声。
「私を誰だと思っているの! 神子の妹よ! 早く入れなさい!」
「申し訳ございません。無理でございます」
「はあ?!」
「無理でございます」
遠くで何者かが口論している。
しばらくするとその声は止み、離宮にいつもの静けさが戻ってくる。
「何だったのかしら?」
「侍女が戻ってきたら聞いてみましょう」
ジェイドの提案にリリアはコクリと頷いて、再び刺繍を始めた。
「何があったのですか?」
ジェイドは戻ってきた侍女にこっそりと尋ねる。
「それが、どうやらリリア様の妹君のカレン様がいらっしゃっていたようで……」
「カレン様が? 何故?」
「さあ、分かりませんが、入口の騎士に止められて大層お怒りでございました。途中宰相様が騎士を連れ、カレン様を説得なさって連れて帰られましたが……」
「……成程。そうですか」
それを聞いたジェイドは、僅かに考え込むもリリアの方を向いてニコリと微笑んだ。
「どうやらリリア様の妹君でいらっしゃるカレン様が近くで遊んでいらしたようです」
「まあ、カレンが? 随分と元気なのね」
リリアは刺繍の手を止めて顔を上げる。
彼女は自分に三歳年下の妹がいることを知っていた。
しかし赤子の時に会ったっきりだった為、今の今までその存在をすっかり忘れてしまっていた。
「まだまだ遊びたい盛りなのかもしれません」
「可愛らしいわ。声を聞く限り元気そうで良かったわ。わたくしもいつか会えるかしら?」
リリアは寂しそうに笑う。
「リリア様……。はい、きっとお会い出来ますよ」
「うふふふ、ありがとう、ジェイド」
リリアはジェイドに励まされて笑う。
瞬間小さい光がフワッと弾け、庭から爽やかな草木の香りに混じり、甘い花の匂いが室内に届いた。
こういった瞬間、彼女が神に愛されているのだと皆が実感する。
優しい護衛と侍女に囲まれ、心も身体も一点の曇りなく、優しく大切に、まるで真綿にくるまれるように育てられたリリアは、のびやかに美しく成長していった。