それは月光の宴の夜
森の中の小さなお家の窓辺に、小さなぬいぐるみがひとつ。
ピンクのチェック模様の布で作られたうさぎが今日も座っているのを、ミミはじっと見上げていた。
誰の持ち物なのか、まだ会ったことのない持ち主に思いを馳せる。
同じぐらいの女の子だろうか、それとももっと小さな子なのか。
まだ真新しく見えるぬいぐるみは、ミミの思いなど知らぬ様子で、円らなボタンの目でじっと見つめ返してくるようだ。
端っこまできゅっと詰められた綿でぽってりと膨らんだ手足、ぽってりとしたお腹、ぴょんととがった長い耳。
丁寧に作られたとわかるぬいぐるみは、きっと手縫いで、ひと針ひと針縫われたのだろうと、勝手にそう決めつけながら、ミミはカサカサと足元の草を踏んで更に家に近づいた。
その瞬間、すぐ近くの窓が前触れなく開いた。
「あ、ごめん」
体の脇をサッとかすった窓に驚いて、返事もせずにミミは身を翻してその場を逃げ出した。
少し走ってから振り返ると、窓を開けたままの格好でぽっちゃりした血色のいい女の人が、目を丸くしてこちらを見ているのと目が合って、ミミは思わずそのまま逃げてきてしまった。
その勢いのまま玄関から走り込み、階段を駆け上がってベッドに飛び込む。
「ちょっと~。ミミ! 汚れるでしょ!!」
お母さんが何か叫んでいるが、ミミは全身が心臓になってしまった気分で暫く布団に頭を突っ込んだまま寝ころんでいた。
暫くそうしていると、嗅ぎ慣れた匂いに力が抜けて来る。
ポカポカとちょうどよく日が当たる布団は少しお日様の匂いがして、ミミはそのままお昼寝を満喫することにした。
「やあ、こんばんは」
誰かの気配に目を開けて、ミミは空気の匂いを嗅いだ。
夜の闇と、星の光と、木や草の匂いに混じって嗅ぎ慣れない花と草の匂いがする。
目の前を、ピンク色のぽってりとした手足がひょこひょこと動いている光景に、ミミは目を丸くした。
驚きのあまり、全身の毛が逆立った気がした。
そんなミミの様子をその匂いの主は表情の分からない円らな瞳でじっと見つめて、ぴょこんと首を傾げるような仕草をした。
その仕草に合わせて、長い耳がこれもぴょこんと揺れる。
きっとミミの姉のゆいなら、歓声を上げてそれを抱き上げ、抱きしめただろう。
ミミはただ、変なものが動いているとその動きを油断なく目で追っていただけで、その反応にうさぎのぬいぐるみは残念なものを前にしたようにわざとらしくため息をついた。
「つまんないなぁ。仕組みとか気にならないの? 何で動いてるのキャー凄い!とか、ないわけ?」
呆れた様子で言い募るうさぎのぬいぐるみに、ミミは黙って首を傾げる。
やっぱり不審なものが動いているし、しゃべっている。
ミミは無言で、うさぎのぬいぐるみをつついた。
「おっ、ちょっと、え、爪が地味に痛いんだけど? つつかないで。やぶけちゃうってば」
ミミの指先を避けながら、うさぎのぬいぐるみは身をくねらせた。
「乱暴だなぁ。でも、まぁ、仕方がないか。……ほい。これでどうだ!」
うさぎのぬいぐるみが気の抜けた掛け声とともにぽってりした手を振ると、ミミの視界が急に高くなる。
「わぁ。何これ?」
思わずこぼれた歓声に、ミミは自分の口を押えた。
いつもと違う感触に、振り向いて鏡を見る。
いつもは良く見える鏡の中が、暗くて見づらい。
目をすがめてじっと見て、ミミは息を飲んだ。
黒のワンピースの白い襟もとには緑がかった青のリボンタイ。
首元には黒っぽいチョーカー。
ふんわりとしたスカートからのぞく足元は黒のタイツと、白い皮の編み上げのショートブーツ。
どこから取り出したのか、全身を覆う真っ黒なフード付きの外套をバサリとミミに着せかけて、うさぎのぬいぐるみは満足そうに頷いた。
「星を探す旅の支度が整ったね。さぁ、行こうか」
いつの間にかミミの肩によじ登ったうさぎのぬいぐるみが、ミミの頬をぺちぺちと叩く。
「窓から抜け出すのはお手のものだろう? 今日は良く晴れているから、星の道を通っていけるはずだよ。ほら、あれ」
窓を開けたミミがすぐそこを見れば、夜の闇の中にキラキラと光る銀色の道が揺らめきながらずっと遠くまで伸びているのが見えた。
「ここを歩いていくの?」
「満月の夜には不思議なことが起きるって、君はもう知っているはずだよ? さぁ、ポラリスを目指して行こう。そこに君の願いの欠片があるから。ね?」
ぬいぐるみのうさぎに促されるままに、ミミは窓から銀の砂を撒いたような光の川に足を踏み入れた。
地面を歩いているような感触に、目を見張る。
「疑り深いなぁ。大丈夫だって言ったでしょ?」
もう、と憤慨するうさぎのぬいぐるみの声を聞きながら、ミミは星の道を走りだした。
タタタッと軽やかな音を立てる足元から舞い上がるのは、光の粒。
水しぶきのようにキラキラと、砂粒よりも軽く舞い散る光の粒を蹴立てて、ミミは歓声を上げた。
「何これ凄い凄い!」
はしゃぎ回るミミは、クスクスと小さな笑い声に振り向く。
そこには艶やかな美女が、雪のように真っ白な毛皮のショールを巻いてシャナシャナと歩いていた。
雪のような銀髪に、オフショルダーのマーメイドドレス。
全身真っ白な美女は、深紅の薔薇のような唇をほころばせて銀色の月のような瞳を細めた。
「可愛らしいお嬢さんだこと。あなたは初めて?」
「そうですよ。僕が案内人」
「ふぅん。精々頑張りなさいな」
もふもふと豪華な毛が付いた白い扇を振りながら、美女はシャナシャナと歩いていく。
その後ろを、どこからともなく現れた男たちが付いていき、いつの間にか彼女の周りには人だかりができたようだった。
それを呆然と見送って、ミミはうさぎのぬいぐるみを目の前に掲げる。
「今更だけど、ここ、どこ?」
「え、そこからですか? ミミさんは……うーん、お母さんからは聞いていなさそうですよねぇ。つまりは、宴会ですよ。年に1度きりの宴会に、僕たちは来たんです。ほら」
ミミは、ぬいぐるみのうさぎが指し示す方を見た。
無数の銀色に輝く道が、真っ白な光が集まる広場に向かって伸びて来る。
その光の上を、沢山の参加者がある者はミミのように走り、ある者は落ち着かない様子で周囲を見回し、シャナシャナと、ドスドスノシノシと歩く大柄な者もいる。
「あれが全部参加者なの?」
「ええ。今夜は、世界中から集まってきますからね」
「凄い……」
目を輝かせたミミは、光が集まる広場に飛び出していく。
そこには楽団が音楽を奏でるダンス会場のようで、様々な衣装に身を包んだ参加者たちが、思い思いにそれぞれのパートナーとダンスを楽しんでいるようだった。
「えっと、わた…し、踊れないんだけど?」
飛び込んでみたものの、場違いな場所にミミは足が竦んで立ち尽くした。
「そうなの? でも、踊りたいんでしょう?」
思いがけず返ってきた言葉に、ミミは勢いよく振り向く。
クスクスと、小さな笑い声が耳をかすめる。
夜の闇を溶かし込んだ影のようにひっそりと佇んでいた少年は、全身真っ黒だった。
黒髪、黒服、黒の靴。
未成年がちょっとしたパーティーに出掛けるような、黒の長めのジャケットと共布のベスト、センターラインがしっかり入った黒のパンツに磨き抜かれた黒い革靴。
闇の中で、金色の目が妖しげに光ってミミは思わず背筋を震わせた。
ミミよりもいくつか年上に見える彼は、そんなミミの様子を見て小さく笑いを漏らした。
「ああ、ごめんごめん。つい、闇に潜んでいるのが癖になっていてね。驚かせちゃったかな」
笑うと少年は、少しだけ幼く、人懐っこい印象になった。
ミミはホッと息を吐いて、少年を見上げる。
「じゃあ、おしゃべりでもしようか」
「いいの?」
「うん。俺は、踊りたい訳じゃないから」
ミミと少年は、近くのベンチに座り込んで他愛のない話しをした。
その様子を、いつの間にかミミの肩から滑り降りたうさぎのぬいぐるみが見守り、そっと背を向ける。
「やれやれ。僕の仕事はここまでかな。ミミちゃん、君に見えないのが残念だよ。ポラリスがあんなに綺麗に燃えているのを、僕は初めて見たよ」
うさぎのぬいぐるみが見上げる先で、銀色の星が眩く燃えている。
この夜は、特別な宴。
世界中から運命を求めて、皆が宴に集う夜。
「あ、こら、ミミ! これ、お隣さんちのじゃないの? えーちょっとやめて。傷だらけで綿が出ちゃってるじゃない。うさちゃんの足元も、ミミの足元もドロドロだし、どうなったらこうなるの~?」
「ママー? ミミったら昨日の夜いなかったんだよ? 満月の夜の宴にでも出てきたのかな?」
「何それ。ただの童話でしょ?」
頭の上で騒ぐ声に、ミミはうっすらと目を開け、大きくあくびをして伸びをする。
そして、足元に落ちているピンク色のうさぎのぬいぐるみを見て、目を丸くした。
とっさにそれを咥えて、窓の外にぴょんと脱出する。
「あ、こら、ミミ!」
「ちょっと待ってよ、ミミちゃん!」
慌てて叫ぶお母さんとお姉ちゃんを振り仰いで、ミミはひと声、にゃおんと、鳴いた。
ミミちゃんは青緑色の目がパッチリと可愛い黒猫の女の子。
首には白い襟のような白。足元は、白いブーツをはいたような白。
草むらから、真っ黒な毛並みが艶やかな黒猫が草に紛れるように近づいて来る。
金色の目を煌めかせた黒猫に、ミミちゃんはそっと挨拶をした。
「今年の案内人もなかなかいい仕事をしてくれたみたいね」
ぬいぐるみの持ち主はそっと呟いて、銀のはさみをそっと滑らせた。
次のぬいぐるみは何にしようかな、と鼻歌を歌いながら。