決定的証拠
6.決定的証拠
猫の私。
青木君の部屋は、東向きのせいなのか、午前中はカーテンを閉めていても、とても明るい。しかも、この季節のわりには、温かかった。三階建てアパートの三階だということも、関係しているのかもしれない。
今朝も、会社に行く前、青木君は高級そうなツボを拝んでいた。
幸福になるために、毎日拝みなさいとでも、吹き込まれたのかしら。
それを信じちゃって、ルーティーン化しているようだけどいいのかな……。
まあ、それだけなら、特に害は無いし、むしろ精神的に安らぐんなら、別にとめる必要もないか……。
そんなことをぼんやりと考えながら寝そべっていると、黒い物体が目の前を通り過ぎる。
よく見ると、黒い物体は、蜘蛛だった。
フローリングの上を、蜘蛛が窓際へと歩いていると思ったら、急にダッシュして、見失った。
思いもかけない急展開が、私の人生に重なり、私は、組んだ前足の中へ、鼻頭を落とした。
私は、今から一年前、柚子と出会い、動画の存在を教えてくれたことを思い出していた。なぜ、それを思い出していたかというと、思いがけず、柚子からメールが届いたから。
『本当に、遅くなってしまってごめんなさい。ようやく、彼が決断して、実行してくれました』
最後にくれたメールから九カ月も経っていて、今頃こんなメールがくるなんて、全く予期していなかった。まさか私が猫になっているとは、柚子も知らないのだろう。知る由もないからしょうがないとは思うけど。
『今日の午後、四時に、彼の予約が入っていますので、美容室で一緒に会いませんか?』
送られてきたメッセージは、取引の誘いだった。
メールの中にある『彼』とは、テルのことだろう。テルは、牧瀬と一緒に居酒屋にいた金髪男のことで、牧瀬の今の彼氏とのことだった。牧瀬は三橋と別れた後に、テルと付き合い始めたらしい。
柚子の心遣いに甘えて、初めて三橋にアプローチできたあの日、柚子は、事故時の決定的な証拠が残っているかもしれないと教えてくれた。牧瀬浮羽が車中で撮っていたスマートフォンの動画に、事故した瞬間の様子が写っていると。
すっかり忘れていたけど、私は、柚子に、動画をどうにかして手に入れられないかと、相談していた。
――人間の私、二十四歳。
三橋との合コンから一か月が経ち、ショートボブの髪を染めようと再び美容室を訪れた時、柚子に相談した。
「せっかく、牧瀬さんの撮った動画の存在を教えてもらったんだけど、どうにも手に入らないのよ」
動画の存在を知ってから、編集長を説得して、仕事として取材をしていいという許可をもらった。それからというもの、早く記事にしたいという強い思いを持って取材に明け暮れたけど、ずっと空回りしていた。私は、人気絶頂のアイドルが起こしたスキャンダルの裏付けが取れないことを焦っていた。
「牧瀬さんの周辺を取材したんだけど、その動画の存在すら、誰も知らないみたいなの。それで、ひょっとしたら、SNSなんかに上げてるかもしれないと検索したんだけど、そちらも、全然ヒットしなくて……」
「さすがに、あの動画は上げないでしょうね……」
「ねぇ、柚子さん……。柚子さんは、牧瀬さんの高校の頃からの友達なんですよね? ゲットできないですか? 報酬はお支払いしますから、何とか手に入れて欲しいんですけど……」
柚子は、刷毛で、染料を髪に馴染ませながら、顔を渋くして傾ける。
「うーん……そ、それは、無理です……。言っても、貰える気がしません。いくら浮羽でも、元カレを売ったりは、しないでしょうから……」
まあ、それはそうか……無理か……無茶な要求だよね……やっぱり。
「あっ! でも、ひょっとしたら……」
ポップコーンが弾けるように、柚子の瞼が開いたかと思うと、手の動きが止まった。
私も、鏡の中の自分を止める。
何を言い出すのかと、前のめりになりそうな感情を抑え込んで、じっと待った。
時の流れすら淀んでいるようだったけど、しばらくして、柚子の手が、ゆっくりと動き出した。
「まだ、手があるかもしれないです……。ちょ、ちょっと、盗み取るようなことをしないといけないですけど……」
柚子は、この美容室の常連客に、牧瀬の恋人のテルという男がいて、その男を使えるかもしれないと言った。テルは売れないミュージシャンで、かなり、お金に困っているらしい。というのも、収入に見合わないような遊びっぷりで、彼女も三人ほど股にかけ、複数の知り合いからお金を借りているという。
きっと、牧瀬浮羽のことも、そんなに愛してはいない。
柚子は、自分の顧客だから、親友の牧瀬にもあまり悪くは言えていないけど、ろくでもない男だという烙印を押していた。
「テルさんなら、やってくれますよ、たぶん。テルさんに、取引を持ち掛けてみましょうか? 十万円くらい提示すれば、目が眩んで、浮羽のスマホから動画を盗み出してくれると思いますよ。きっと、テルさんは、なんの罪悪感も持たないままやってくれるんじゃないでしょうか」
私は、テルという名前に聞き覚えがあり、柚子に頼んで、テルの写真を見せてもらった。
柚子のスマートフォンに映されたのは、あの居酒屋で恫喝してきた金髪男だった。
この男のことは、はっきりと覚えている。
牧瀬にキモオンナ呼ばわりされたことも含めて、あの一件は、思い出すだけでも吐き気がした。
「ど、どうかしましたか? 沙羅さん……大丈夫ですか?」
「え? いや……何もないよ」
柚子の勘は鋭くて、私が動揺しているのを、すかさず読み取っている。
「ぜひ、そのテルという人にお願いしてもらってもいいですか? 私は、藁にもすがる思いでいるんです」
テルに報酬を払うのは、少し気にくわないけど、背に腹は代えられない。私は、腹を決めて提案に乗り、柚子と連絡先を交換した。
その日は、一度オフィスに戻り、深川編集長に、取材の途中経過を報告してから、退社した。
会社の最寄り駅にあるイタリアンのお店で、夕食を済ましてから帰宅する。
電車の中で、少し焦りを感じていた。編集長は、進捗が思わしくないことに、あからさまに嫌な顔をして、「もう、諦めたら?」と言ってきた。
私は食い下がって、続けさせてもらうことは出来たけど、いつまで出来るかわからない。
何か、少しでもいいので、事件の証拠をつかみたかった。
そんなことを考えながら、自宅に続く夜道を歩いていると、背後に気配を感じた。
同じ速度で、誰かがついてくる。
街灯はあるにはあるけど、間隔が開いていて、薄暗い。
自宅まで、もう少しかかる。
私は、歩くスピードを速め、背後の足音が、それに合わせてきているのを確かめると、走り出した。
「きゃっ!」
叫んだ瞬間、背後から口を押さえられた。
上体に腕を回され、引き摺られる。
駐車場の中に連れ込まれ、ワゴン車の影で、コンクリートの壁に押し当てられた。
「騒ぐなよ、コラ」
口を塞がれたまま、喉を掴まれ、締め上げられる。
く……く、苦しい……。
私は、この後、どうされてしまうのか、容易に想像できた。出来るだけ抵抗しようと、体をくねらせ、腕を振りまわす。
「きゃっ」
男は、顔を殴ってきた。
しかも二発も。
私は、たまらず、倒れ込んだ。
男が、私に馬乗りになり、ブラウスのボタンを一気に引きちぎる。
「やめてっ! お願い! やめてよっ!」
ガコッと、もう一発、二発と、顔面を殴られる。
そして、鼻先に、男が顔を近づけてきた。
黒い目出し帽をかぶっている。暗がりで見えにくいが、目つきは悪い。
「騒ぐなって、言ってるだろ!? あっ!?」
頬がひんやりとした。男が、ナイフを押し当てていた。
私は、ゴクリと唾を飲み込む。万事休すだった。
「お前が、事故を嗅ぎまわってる女……須藤沙羅だな?」
えっ? なんで、私の名前を知ってるの? だ、誰?
「これ以上、事故を詮索するな、わかったか?」
私が黙っていると、男は、ブラジャーを外そうとしてきた。
「きゃっ、やめて! お願い! わかった! わかったからっ!」
私は、外されかけたブラを抱え込んで、体をよじると、男が覆い被さってくる。
両手で顔を挟まれ、正面に向けられると、目つきの悪い男がぐいっと顔を寄せてきた。
「おいっ! これ以上、詮索を続ければ、どうなるか、わかってるな? 次はやっちゃうぞ?」
私がブンブンと顔を縦に振ると、男は立ち上がって、走って逃げていった。
両方の鼻から血が出ていた。
口の中も切れたのか、鉄の味がする。
私は、ブラジャーを元通りに戻して、ボタンの取れたブラウスの裾をスカートに入れた。
しばらく、ぼうっとした後、その場に突っ伏して泣いた。
数日後、柚子からメッセージが届く。その内容は、テルがそんなに乗り気ではないというものだった。
裏社会にはびこる事務所の力が大きすぎて、テルがビビっているのかもしれない。
私を襲った暴漢も、きっと、事務所が手配したに違いない。
〝やっちゃうぞ〟って言っていたけど、あれは、どういうことだろう。
まさか、殺されたりはしないわよね。
暴力団や反社じゃ、あるまいし。
柚子のメッセージには、引き続き交渉してくれると書いてあったので、事務所の目をすり抜ける方法があるのか、期待して待ってはいたんだけど――
私は、今は、猫。
あれから、全然連絡が無かったので、頼んでいたことをすっかり忘れてしまっていた。
今さらよね……。
私は、白い壁紙の上を上っていく、黒い蜘蛛を眺めていた。身体を横に倒し、柚子へどう返信しようか悩んでいると、床に放置していたスマートフォンが、釣りたての魚のように、跳ねた。
『残念なお知らせです』
会社にいる、青木君からのメッセージだった。
『須藤さんが書きかけていた記事の件、編集長と話をしました。須藤さんが残されたものは、推測記事でしかなく、逆に、三橋の所属事務所に名誉棄損で訴えられる可能性が高いから、記事は公開できないって言われてしまいました』
何それ? 相変わらず、頼りにならないんだから……。
青木君に愛想をつかした。でも、すぐに思いなおす。
確かに、追い込むには、証拠が少ないか……。
三橋コウジが、追突事故を起こして、マキトを殺したことは間違いない。だから、記事にしようとしたんだけど、ちゃんと証言を取れたのは、柚子しかいなかった。信ぴょう性に欠けると言われれば、確かにそうかもしれない。
編集長に報告していた内容は、こうである。
・七月四日夜。三橋コウジと、牧瀬浮羽、業界関係者A、一般女性Bで会食。
・場所は、六銀通りの居酒屋。二十三時前に居酒屋を出て、ドライブ開始。
・泥酔状態の三橋が運転し、甲辰山の星空ロードで原付バイクに追突。
・原付バイクに乗っていた男性C、女性Dはガードレールに衝突して死亡。
・三橋は、警察に通報することも無く、現場から逃走。
・警察は、原付バイクの単独事故として処理。(芸能事務所が動いたか?)
・裏取りは、一般女性Bの証言による。(浮羽が居酒屋で事故の話していたこと
を聞いているが、録音など無く、証拠としては不十分)
これといった証拠が無く、証言もほとんど取れなかったから、見切り発車するしかないと思っていたけど、ついさっき、事態を好転させるメールが届いた。
時間が経って、手に入らないものだと諦めていた決定的証拠が、ようやく、揃いそうなんだ……。
三橋コウジを追い込む、最後の一ピースが。
『事故の様子が写った決定的な証拠があるから、もう一度、編集長にお願いして』
そう青木君にチャットすると、すぐに既読がつく。
『えっ? あるんすか? 決定的な証拠って、写真ですか?』
『写真じゃない。事故の瞬間を捉えた動画よ』
『えっ? そうなんすか? めっちゃ、すごいじゃないですか!? それがあるんなら、すぐに、送ってくださいよ』
そりゃ、そうなるわよね……。
でも、まだ、無いの。手に入れるのは、これから。
『あとから送る。だから、引き続き、説得して』
『え? 動画あるんなら、今、送ってくださいよ』
『今は無いの。あとからよ!』
柚子のメールを信じるなら、もうすぐ手に入るはず。テルが、ちゃんと取引に応じる気でいるなら……。
こんなにタイミングがバッチリなのは、きっと、運命ね。
メーラーを開き、柚子からのメールに返信する。
『柚子さん、連絡ありがとう。では、午後四時に取引しましょう』
送信が完了するのを見届けて、スマートフォンを背中のポケットに入れた。
薄いカーテンをめくると、ベランダに出るための掃き出し窓から、燦々とした太陽の光が入ってくる。そして、窓は、わずかに開いていた。
ベランダに出て、手すりの隙間から顔を出し、下を覗く。
ひえぇぇ、高い……。
アパートの三階は、人間の時に感じていたものよりも、数倍高く感じる。
ブルブルと足が震えた。
手すりから前足を伸ばして雨どいにしがみつき、それを伝って、そーっと降りる。
後ろ足で踏ん張りつつ、ずりずりと肉球をずらして、ゆっくり、ゆっくり。
もうすぐ、二階ね。そこに着いたら、ちょっと休もう……。
はっ!?
キャー!
雨どいと抱え込んでいた前足を滑らせてしまい、気付けば、真っ逆さまになっていた。
ヤ、ヤバーい!
と思いきや、自然と体が反り返り、四つ足を折って衝撃を吸収する。
うっ、嘘っ!?
無事着地していた。
ふせの姿勢で、しばし、余韻に浸る。
大したもんだ……猫の身体能力。
私は、意気揚々と駅まで歩き、駅前ロータリーに掲げられた市営バスの路線図を確認する。ロータリーには一台、バスが停車していたけど、行き先が違った。
平日の昼間だからか、バスを待っている人はほとんどいない。
けれど、念のため、近くの茂みに隠れて、バスを待つことにした。
五分ほどして、目的のバスがロータリーに入ってきた。
もう一度、表示された行き先を確認して、市営バスの後ろのバンパーに座る。柚子の働く美容室へ行くには、この方法がベストなはず。
プシュ―と音がなった。空気圧に押されてドアが閉まったらしい。「出発しまーす」と車内アナウンスも聴こえてきた。市営バスは、無賃乗車する猫がいることに気付くことなく出発して、ロータリーから出ていく。
途中で振り落されるかもと心配したけど、意外にも、バンパーの座り心地は良く、しっかりとお尻もはまっていた。バスは、渋滞に巻き込まれることも無く、順調に大通りを走る。
信号を待っている間、後ろの車のドライバーが私に気付き、目を皿のようにして見てきた。
私は、在りし日のサービス精神が突如として蘇り、愛想よくドライバーに手を振る。ドライバーは、泡を食ったように、のけぞり、私はその様子を見て爆笑してしまった。
柚子が働く美容室は、ビジネス街に建つ商業ビルの一階に入っている。そのビル前にある停留所でバスを降りた。
私は、ビルの正面エントランス横にある美容室の前を通り過ぎ、辺りを見回す。
幅の広い歩道の向こうに、大きな木が植えられていた。
あそこがいいかもしれない。
勢いよく駆け寄り、幹に爪を引っかけて、一気に木の上に登る。
猫の身の軽さに感動を覚えつつ、枝の隙間から覗くと、想像通り、ウインドウ越しに、美容室の中がよく見えた。
柚子が、ほうきで床を掃いている。
私はスマートフォンを咥えて取り出し、慎重に枝の間に挟む。
タップがしやすい角度に調整した後、動かないように、しっかりと押し込んで固定した。
さてと……。
『柚子さん、私は近くにいますが、美容室には顔を出しません。実は、テルさんとは以前に会ったことがあり、顔バレしたくないんです』
高速肉球タップして、送信する。
ガラスの向こうの柚子は、着信に気付いたのか、掃除する手を止めてポケットをまさぐり、スマートフォンを取り出した。
苦い顔をしながら、柚子が何かを返信しようと、スマートフォンをいじる。
ちょうどその時、金髪に寝ぐせをつけたテルが現れ、美容室の自動ドアを開けた。
柚子は、他のスタッフにほうきを渡して、笑顔でテルを出迎える。親し気な身振りを交えて話をしながら、テルを窓に近い側のスタイリングチェアに誘導した。
『テルさんが来られました。動画を持ってきているようです。須藤さんは、会いたくないとのことですが、どのように取引しますか?』
柚子からのメッセージを読むや、私の前足が慌ただしく動く。
『まず、先に私の方から前金を払いますので、そのあと、動画を送付してもらえますか?』
柚子は、私の返信に目を通し、テルと何やら話をした。
『具体的に、どのような受け渡し方法ですか? 前金はいくらですか?』
うーむ……。
こんな時の相場は知らないけど、お互いが納得する額にするしかないよね……。
私にだって、リスクがあるわけだし。
『まず、私が電子マネーで一万円、支払います。その後、動画を送付してください。その動画の内容が確認でき次第、残りの九万円をお支払いします。申し訳ないのですが、送金は、柚子さんにしますので、テルさんへは、柚子さんから転送してもらえますか』
柚子から、スマートフォンの画面を見せられたテルは、渋い表情になった。
納得できていない様子だったが、柚子から説得されたのか、やがて、苦い顔のまま頷いた。
『わかりました、とのことです』
やった!
私は、心の中で柚子に感謝しつつ、電子マネーのアプリを立ち上げ、一万円を送金した。
チャリン!
柚子から転送されてきた動画は、舌の回らない、酔っぱらいたちの会話から始まっていた。冒頭は画面も揺れて定まらず、何が映っているのかわからない。
相当盛り上がっているようだったけど、微かなエンジン音や、時折聴こえるウィンカーの合図が、そこが車内であることを物語っていた。
「ちょい、ちょい、コウジくーん、こっち向いてくださーい。三橋コウジくーん」
牧瀬の声がして、三橋コウジの横顔が映った。やはり、車を運転している。
「お、おい、やめろって、浮羽。運転してるんだからさぁ、あぶねーって」
「あらあら、おいかり? ちょっと、カッコいいじゃん。さすが、アイドルよねー。アイドルだったら、もっと女の子にサービスしなさい! ほら、こっち向いてって」
三橋と牧瀬の会話のボリュームは大きく、後部座席には柚子もいるんだろうけど、存在感がない。
「ちょっと、やめろって、この酔っぱらいオンナ。酒癖悪いなー」
「ああ、人のこと、酔っぱらい扱いしてー。自分の方が、酔っぱらってるくせにー。ハイボール、何杯のんだのよ」
「知らねーよ。そんなの、覚えてねーし。五杯ぐらいかな」
「ブブー。八杯でーす。浮羽、数えてたんだからね!」
「あ、あぶないっ!」
柚子の声だった。
後部座席で何かに気付いたのだろう。
映像が揺れ、赤い光が筋状に往復する。
「ひぃやぁぁ! きゃあぁぁ!」
牧瀬の叫び声に被さるように、衝突音が耳をつんざき、原付バイクの赤いテールランプがフロントガラスを直撃した。
視点の定まらない映像の隅の方で、原付バイクが跳ね上がって、人影と共に、宙を高く舞う。
それらがボンネットの向こうに消えたかと思うと、ガッ、ガッガガガーとアスファルトを削る音。続けざまに、落雷のような激突音がして、キラキラとした金属片が辺りを包む。
原付バイクが、ガードレールに、突っ込んだのだろう。
映像では、金属片の霧の中から、すぐに抜け出したようだった。
どうやら、三橋の運転する車は、ブレーキを踏むどころか、速度を落とすこともなく走っているらしかった。
私は、動画を止めた。
私の鼓動は、大きく脈を打ち、鼻水とともに、涙が出てきて、止まらなくなっていた。一方的に、三橋が悪い事故ではないか。マキトの無念さが伝わってくる。
ただ……。
見間違えたのか、事故の様子は、想像していたものと、ちょっと違っていたように思う。
映像を巻き戻して、追突した瞬間を再び流した。
テールランプが吹っ飛び、バイクが宙に浮いたところで止める。
原付バイクは横倒しの状態で空中にあり、片方のハンドルを握っている人影は、BMX競技の演者のように宙に舞っていた。
両前足の肉球をスマートフォンに乗せ、ゆっくりと広げる。人影の部分がどんどん拡大され、その正体がつまびらかになる。
半ヘルから、長い髪が出て、くるぶしまでありそうなスカートが広がっていた。
その女性が、原付バイクの片方のハンドルを握っていた。
ど、どういうこと? マキトはどこ?
事故の瞬間を、何度も前後して確認したけど、どこにもマキトらしき人影が映っていない。
頭の中が真っ白になった。
事故があった場所と、時期、時間帯、バイクの種類や、望月とかいう女性の特徴は、これまで調べたものと一致している。
ただ、マキトがいない。
歩行者として巻き込まれたのかもと思って見直したけど、どこにも映っていない。
私は、この映像が意味することを、理解できなかった。
『どうでしたか? 送金はまだですか?』
柚子からの催促メールだった。
私は気が動転してしまっているけど、約束は守らなければいけないという意識だけは働いた。一旦、落ち着こうと、深呼吸をする。
美容室では、ケープを着せられたテルがイラついていた。しきりに腕時計を見ている。
柚子も気を揉んでいるみたいだった。
早く送金しないと、訝しまれてしまう。
急いで残りの九万円を柚子のスマートフォンに送金した。
チャリン。
私は、木の上で放心していた。
逃避したいという本心が、思考を天に召そうとする。
マキトは、どうやって死んだの?
望月とかいう女を乗せて、原付バイクを運転していたんじゃなかったの?
また、一から調べ直さないといけないの?
……私……。
いかん、いかん、ちゃんと考えないと。
私が考えないと、誰も考えてくれない。私がやるしかない。マキトの死の謎は、まだ、解けていないのだから。
三橋が追突した事故現場にマキトはいたはずなのに、証拠映像に映っていないのは、どういうことなのだろう。
原付バイクが、炎上した後に、マキトが同じガードレールに突っ込むような事故を起こしたとか?
だとしたら、マキトの乗っていたバイクはどこに行ったのか……。
やっぱり、それは考え難いか……。
ということは、あの時期、同じ場所で、同じような事故が立て続けに、二回起こったということ?
それなら、三橋が起こした事故は、そのうちの一つで、マキトの事故とは関係なかったということか……。
そうだ。それしか、考えられない。
きっと、そうに違いない。
だとしたら、私は、今まで、何をしていたんだろう。
マキトの事故の真相を知ろうとして、別の事故のことをずっと追っていたってわけ?
色んな意味で、痛すぎる……。
三橋コウジのスキャンダル告発まで、あと少しという、最後の最後で、マキトの真相解明は、ふりだしに戻ってしまった。
ただ、動画の中に、マキトはいなかったけど、三橋コウジが飲酒運転の事故を起こして、現場から逃げた証拠にはなっている。
一つ一つ、片付けていくしかない。
私は、青木君とのチャットに動画を貼り付けてから、コメントを入力する。
『青木君、さっき、チャットした証拠の動画を添付します。編集長に転送してください。あと、ちょっとだけ、お願いがあるんだけど、調べている七月四日の事故以外に、同じ時期、同じ場所で、同じような事故が無かったか、調べてくんない?』
もう一度、十分に深呼吸をしてから、今度は、柚子にメッセージを送る。
『動画、確認できました。とても満足しました。ありがとうございます。感謝の気持ちも送らせていただきます。ほんの少しですが、これは、柚子さん宛てです。受け取ってください』
謝礼として、柚子にも一万円を送金した。
チャリン。
現役の記者の頃だったら、経費で落とせたんだけど、猫になっちゃったから、仕方ないよね。
電子マネーの残金は、青木君に全部上げるって言ったのに、ゴメンね、青木君……ちょっとだけ、使っちゃった。
帰りは、歩いて帰ることにする。
どうせ、すぐアパートに帰っても、青木君が帰ってくるまで、中に入れない。
三階に登って、ベランダから入ることなんて絶対無理だし。
道行くおばあさん、自転車を漕ぐおじいさん、若い女性は、バイト先に向かっているのだろうか。多くの人が行き交う目抜き通りを、テクテクと歩いていると、いろんな人から、ジロジロと見られた。
ジャマイカ風のボーダー柄の服が、相当目立っているらしい。
おそらく、微笑ましく見てくれてはいるんだろうけど、私は、あまりの視線の多さが気になり、細い抜け道に逃げ込んだ。
一本裏に入ったら、昼間でも暗かった。ファッションホテルが並び、うっすらと看板が光っている。
ダークスーツの中年男と赤いワンピースの若い女が腕を組んで歩いていた。
後ろ姿を見るだけでも、それが不倫関係なのだとわかる。女は、ベッタリと男の肩に顔を寄せていて、男心を揺さぶるテクニックには、長けているようだった。
二人が立ち止まったので、私は、ホテルの植込み沿いを行き、二人を追い越す。その間も、本能のままに動く私の視線は、二人を捉えたまま離さない。
いかがわしい景色に溶け込んでいる二人は、公道だというのに熱い抱擁を交わし、唇を重ねて、舌を絡ませた。
観察するうちに、私の中で、女の切り揃えられた前髪がフォーカスされ、立ち止まった。
その特徴と同じものが、記憶のデータベースから引き出される。
女は、佐原すずに違いなかった。
ブランドバックを腕にかけ、金のブレスレットをして、高級そうなワンピースを着ていた。
男の方は恰幅が良く、どこかの社長のような風貌ではあるが、ダンディな感じはせず、付き合うとしたら、お金目当てだとしか考えられない。
青木君の部屋にあった写真立てから察するに、すずは青木君と付き合っているはずなのに、隠れてこんなことをしていたのか。
小銭稼ぎの火遊びかもしれないけど、純粋で、誠実な青木君のことを思うと、そんな不忠な行動が許せない。
猫ながらに、何かできないかと考えていると、別のカップルが近寄って来た。
「なに、この猫? 服着てるわ。かわいい!」
女子高生のような幼い顔の女が、手を伸ばして、触ろうとしてくる。私は、一歩下がり、「にゃぁああ、しゃあっ!」(触るな、とっととどっか行けよ)と、低い体勢になって女を威嚇した。
「きゃっ、鳴いた! 鳴き声まで可愛いわ、このコ」
このコだと!?
あなたよりは、年上よ。もう、触ってこようとしないで!
私は、女から離れたくて、勢いよく駆けた。
どれくらい戻ってこられただろうか。路地裏に並ぶ、エアコンの室外機の陰に隠れ、GPSで現在地を確認する。
あれ?
思ったほど移動できていない。
その矢先、一通のメッセージが届いた。
『証拠の動画、受け取りました。編集長にも転送しました。これならオーケー、バッチリだそうです。こりゃ、すごい特ダネだと、深川編集長がはしゃいでいましたよ』
会社にいる青木君は、無邪気そうだった。
金持ちおじさんと歩く、すずを思い出す。
青木君が働いている間に、すずは、パパ活に精を出している。きっと、青木君には内緒で。
かわいそう。
あなたの彼女は……。
でも、言えないし、見なかったことにするしかない……か。
『よかった。で、頼んでたことは、何かわかった? 似たような事故が、他になかった? あったでしょ?』
『ああ、それは、無いです。あの時期、星空ロードであった事故は、七月四日に起こった、あれだけです』
『え? ウソでしょ? 本当に? ちゃんと、調べてくれた?』
『調べましたよ。所轄の警察署に照会して、正式な回答をもらいましたから、間違いないです』
嘘? ……ということは、やっぱり、三橋の追突事故で、マキトは死んだんだ……動画には、映ってないけど。
心の中にあるモヤモヤとした霧は、残っているけど、もう、動画どうこうより、あの事故でマキトが死んだのは事実なのだから、それを信じるしかない。
マキトは、三橋コウジに追突されて、殺されたのだ。
そう信じて追及を続ければ、霧は、いつか、晴れる時が来るだろう。
『そうなのね。わかった。調べてくれてありがとう。それで、記事は、公開してもらえそう?』
『それは、たぶん大丈夫です。編集長がメンバーに指示を出して、記事をアップする準備を進めています。ボクにも指示が出されて、ちょっと大変です』
『たいへん? どんな指示が出たの?』
『須藤さんと一緒に回っていた時に収集した情報です。一緒に三橋の周辺を取材してましたよね。それです』
『ああ、あの時のね……』
『それを記事に付け加えるようにって。のんびり仕事してたのに、急に忙しくなっちゃいました……』
面倒くさそうに仕事をする青木君の姿が、思い浮かんだ。