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スマホを背負ったジャマイカな猫  作者: おふとあさひ
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星空ロードの疑惑


5.星空ロードの疑惑


 二年前、私が二十三歳だった時。

 マキトは、星空ロードと呼ばれる、地元では有名な小さな峠道で、事故を起こした。緩やかな登坂の先に、Y字路があり、右に行くと、多くの窯元がある星ヶ丘集落に抜け、左に行くと、甲辰山の山頂に通じる。その山頂には展望台があり、眼下に広がる都会の夜景は、目も心も奪われるほどの絶景で、若者の間で人気になっていた。


 マキトは、二年前のあの日、オフロードバイクにまたがり、星ヶ丘集落の窯元に向かう途中で、事故に遭う。そして、それはスピードを出し過ぎて、ハンドル操作を誤ったための単独事故として処理されたのだけれど、私は、マキトの葬儀に参列する間も、信じられないでいた。


 私は、葬儀が終ると、喪服のまま、所轄の警察署を訪れた。記者であることを示す会社の名刺を差し出して、マキトの事故を照会する。


 受付の警官から見せられた印刷物は、事故の概要しか記されていなかったけど、そこに書かれている内容だけでも、十分に衝撃的だった。

 事故を起こしたのは、マキトがいつも乗っている白いオフロードバイクだとばかり思っていたけど、帳票の事故車両の欄に書かれていたのは、〝黒色の原動機付き自転車〟だった。

 しかも、この事故による死者は二人。園田マキトの他、望月実結加もちづきみゆかという名前が書かれている。


(原チャリの二人乗りで、スピードの出し過ぎ? 望月実加って誰? 誰なの?)


 想像と異なる事故の状況に、動揺してしまい、思考が先に進まなくなった。マキトが、私の知らない女性と二人乗りする姿も、想像したくない。


「どうされましたか? もう、よろしいですか?」

 対応してくれていた警官が、私の顔を覗きこんできた。もう、資料を下げてもいいかと、目で訴えてくる。

「す、すいません。ちょっと、メモさせてください」


 私は、気持ちを落ち着かせ、急いで手帳を開いて、帳票の内容を書き写す。

  ・七月四日、夜二十三時頃、原付の二人乗りで、ガードレールに衝突。

  ・場所は星空ロード、下り方向。展望台か、星ヶ丘集落に向かう途中。

  ・推定原因、スピードの出し過ぎと、ハンドル操作ミス。

  ・運転は園田マキト、二十七歳。後部に望月実結加、二十一歳。

 そこまで書いて、私は手を止めた。


「ちょっと、確認なんですけど、原付の二人乗りって、交通違反ですよね?」

「もちろん、そうですよ。違反はそれだけじゃないですけどね、この事故の場合」


 私は、あのマキトが交通違反をしたことが、信じられなかった。

 品行方正で、聖人君子の一面もあったマキトが、法律を犯すところを想像できない。


 絶対に、間違っていると、目の前の警官に訴えたいところけど、きっと、ここで騒いでも、何も解決しない。もっと、裏付けを取らないと。


 続きを書き写す。

  ・通報者は、佐原厚生さはらこうせい

  ・通報者の聴取書。

   車通りが少なく、街灯も無い夜道に火の手が見えて、近づくと、

   バイクが炎上していて、一一〇通報。

   後ろに乗っていたと思われる女性は、ガードレールにぶつかって

   即死していた。運転していた男は、生きていそうだったけど、

   火の手が上がっていて近づけなかった。

  ・園田マキトは、全身打撲、半身やけど。

   直接の死亡原因は、頭をぶつけたことによる脳内出血。

 私は、最後まで書き留めて、手帳を見返した。

 何かが、おかしい。


 違和感の原因はすぐにわかった。

 事故時、マキトはノーヘルだった。


 それは、あり得ない。

 違法というのもそうだけど、マキトは、スタントマンで大きな怪我をして以来、バイクを乗るときには、いつも安全には注意していた。

 私を後部座席に乗せるために、ヘルメットを買ってくれた時も、帽子タイプの半ヘルよりもフルフェイス型の方が、安全性が高いのだと力説し、そちらを選んでくれたのに。

 そんなマキトが、フルフェイスのヘルメットを被らずにバイクに乗るとは考えられない。


 後ろに乗っていた望月とかいう女性も、被っていたのは半ヘルだった。

 警察署を出てから、いつものように、殴り書きしたメモ帳をスマートフォンで撮影して、アプリを使って文字を起こした。


 私は、その日から、望月実結加という女のことを調べ始める。

 ジャーナリストである立場を活かして、ありとあらゆる望月に関する情報を集めた。


 山梨県出身の望月は、高校を卒業と同時に、東京に出た。アルバイトをしながら、服飾デザインの専門学校に通う。専門学校生には、派手なタイプが多かったせいもあり、望月は、そんなに目立つ方では無かった。それでも、親友と呼べる友人は数名いて、つい最近まで、定期的に食事会を開いている。

 女性ばかりの、その三名の親友を当たったけど、マキトに繋がる情報を得ることが出来なかった。


 専門学校を去年卒業した望月は、アパレルショップの店員として、この春から働き始めた。勤務先は、若者向けテナントが入る、渋谷の商業ビル。

 店には、店長と先輩の店員が一人いたけど、仕事上の関係だけで、普段から行動を共にするような仲ではないということだった。


 何度も通ったアパレルショップ。

 マキトが店に来なかったか、店にマキトからの電話はなかったか、メンバーカードのリストを見せてもらえないか、思い当たることは何かないか。何度も聞いて、何か思い出したら連絡が欲しいと、名刺も渡してあった。


「もう、いい加減にしてください。そんなの、分かりませんよ。何度来られても、一緒です。営業妨害で、警察呼びますよ!」

 店先に出てきた店長に、怒鳴られた。

 今までは、嫌々ながらも、対応してくれたのに。


 私が望月から辿る線は、この店しか残っていない。もはや、万事休すかと、帰ろうとした時、「あれ? 沙羅ちゃん? 沙羅ちゃんじゃないの?」と、向かいの店の店員に声を掛けられた。

 大きなカチューシャをしたチリチリの髪だったので、最初はわからなかったけど、パンダのように目尻が垂れた目が、記憶を呼び覚ます。あの頃の面影がある。


「え? ひょっとして、万知ちゃん?」

 千林万知は、高校のクラスメートだった。

 といっても、高校生の時の万知は、いつも佐原すずとつるんでいたので、そんなに話したことはない。それでも、ここで、私を見つけて声を掛けてくれたことに、どこか、運命的なものを感じた。


「万知ちゃん、ここで働いてたの? ずっと?」

「うん、そうよ。沙羅ちゃんは、今日はどうかしたの?」

「ねえ、万知ちゃん、今、時間取れない? 聞きたいことがあるんだけど」


 万知がOKしてくれたので、私は、万知を一階にあるオープンカフェに誘い出し、マキトの写真を見せる。

「この人なんだけど、万知の店の前とかで、見かけなかった? この人、私の彼氏なんだけどさ」

「え、なになに、浮気調査でもしてるの?」

 万知は、少しにやけながら写真を手に取る。万知は、高校時代よりも、あか抜けた印象だった。


「違うよ。あ、でも、それに近いかな。万知の向かいの店に、この春入った望月さんという方との関係を探ってるの」

「ふーん、そうなんだ。でも、見たことがないなぁ。この男の人」

「そっか。やっぱり、ここにマキトは来てないのかな……」

「何で、そんなことを調べてるの? 彼氏に直接聞けばいいじゃん」


「実はさ、その彼……マキトは、事故で死んじゃったんだ」


「え? そ、そうなの? ……なんか、ゴメン」


「ううん。大丈夫。もう、その事実は、ちゃんと受け入れているから。ただ、その事故の原因が、なんか納得できなくてさ。バイクで二人乗りして、事故したみたいなんだけど」


「その二人乗りの相手が、さっき言っていた、望月とかいう店員さんだったってこと?」

「お察しがいいね。その通り。でも、マキトと望月さんの接点が、見つけられないのよね」

「そうなんだ……。でも、事故現場に二人の死体があったんなら、そういうことじゃないの?」

「二人の死体……。って、万知? ひょっとして、マキトの事故のこと、何か知ってるの? なんで、二人とも死んだって知ってるの?」

「え? あ、いや、だって、望月さん、最近、顔見ないし、店長さんに聞いたら、帰宅途中に、交通事故で亡くなったって聞いたし、たぶん、そうかなって」

「そ、そうなんだ……。読みがいいっていうか、勘が鋭いね。でも、その事故、マキトのハンドル操作ミスの単独事故ってことで処理されたんだけど、信じられないんだよね」

「警察は、ちゃんと調べてくれたんでしょ? なんで、納得できないの? 警察が間違うことなんて、そんなにないと思うけど」

「うーん。色々、納得できてない。そもそも、望月さんとの接点すら、わかってないし」

「そっか。それで、一人で調べ回ってるんだ。大変だね」


 万知は、話しながらも、チラチラと視線を上げた。気になって視線の先を追うと、道路を挟んだ向かいのビルにある大きなモニタを見ているらしかった。

 銀縁眼鏡をかけた白衣姿のお爺さんが、図を使って何かを説明しているけど、内容まではわからない。


「万知? なんか、気になることでもあった?」

「え? ああ、ごめん、ごめん。お父さんが映ってたから」

「お父さん? あの人が?」


 モニタには『帝都大学医学部、千林名誉教授』と表示されていた。


「うん、そう。まだ、脳内転送の解説で出演依頼があるみたいで。本人は、飽き飽きしてると思うんだけどさ」

「脳内転送? なんか、どっかで聞いたことがあるような気もするけど……。なんだったっけ?」


「ああ、よくわかんないけど、新しい再生医療みたい。画期的なんだって。二年も前に法案化されて、施術は始まってるはずなのに、いまだ、反対意見が多いみたいね。お父さんは、そのプロジェクトの座長だったせいもあって、いまだに、いろんなテレビに呼ばれて、解説させられてるわ」


「へぇえ。万知のお父さん、スゴイ人なんだね。確かに、お父さんの顔、テレビでよく見たような気がするわ。まさか、万知のお父さんだったとはね。びっくりだわ」


「大したことない、普通よ。家庭も犠牲にしてるし。全然家に帰ってこなかったんだよ、昔から……って、ゴメン、話が横道にそれたね。沙羅ちゃん、大変そうだけど、体とか、気をつけてね」


「あ、うん、ありがとう。あ、そうだ、これ。私の名刺渡しとくね。何か思い出したら、連絡もらえない? どんな些細なことでも、いいからさ」


「うん、わかった。何か思い出したら、連絡する。沙羅ちゃん、あんまり無理しないでね。勇気がいるかもしれないけど、諦めることが必要な時もあるからさ」


 私は、引きつった笑顔を返すことしかできなかった。

 万知に悪気は無いのかもしれないけど、かけられた言葉は、とても冷たく感じた。


 もう、事故から、一年が経とうとしていた。


 郊外の窯元で働く、マキトが、どうやって望月実結加と知り合ったのか、どういう関係だったのか。そしてあの夜、なぜ、マキトは望月を乗せて、窯元に向かっていたのか。

 いくら調べても、事の真相に爪の先をひっかけることすら出来なかった。


 事故には、もう一つ、疑問があった。


 原付バイクという非力な乗り物に二人乗りをして、転んでガードレールにぶつかったとして、果たして二人とも、死亡することなんてあり得るのだろうか?


 このことに関しては、バイクを改造していたとしたならあり得るという、専門家の見解を得たけど、そこがわからない。警察に問い合わせても、事故車が改造されていたかどうかまでは、教えてもらえなかった。

 ただ、事故の原因が、スピードの出し過ぎなんだから、改造していたとしか考えられない。でも、望月の経歴を調べても、そんなスキルがあるとは思えない。

 だとしたら、マキトが、望月の原付バイクを改造してあげたのだろうか。

 あのマキトが、違法な改造なんて、どんな理由があったとしても、やらないような気がした。


 もやもやとして、お酒をあおる日々を送っていた私に転機が訪れたのは、万知との再会から二週間後……すなわち、今から、ちょうど一年前、私が二十四歳の時である。


 一年前――私は、六銀通りにある少し高級な居酒屋のカウンターにいた。

 そこで、思いがけず、事故の真相を白日の下に晒す糸口を、耳にしたのである。


「あの日は、甲辰山に夜景を見に行こうってなってさ。あいつが、星空ロードを飛ばしてたら、事故っちゃっんだよねー」


 ちらりと見ると、チャラそうな二人の男と同じ席にいる、いかにも脳みそが足りなさそうな女が、ピルスナーを一気に空けていた。〝星空ロード〟と〝事故〟という二つのキーワードに胸騒ぎがして、私は耳をそば立てる。


「お互いの事務所が、もみ消すのに苦労してさ。そのまま、別れさせられちゃったのよね」


 事務所?

 この居酒屋は、芸能界を引退した元歌手が経営をしており、芸能人が、よく利用していた。そこそこ高級感があって、客のレベルが一定の水準以上に保たれていることに加え、予約をすれば、完全なプライベート空間を提供してくれることでも評判である。


 事務所って、芸能事務所?


 私は、もう一度、尻目で見た。

 それなりの身なりをしている。

 どうやら、ノータリンの女がいる集団も、芸能関係者のようだった。けれど、予約が取れなかったのか、一般客に交じって酒盛りをしている。


浮羽うきはちゃん、それ、ちょっと、ヤバい話なんじゃない?」

「ちょっとは、ヤバいかも」

「ちょっとどころじゃないでしょ? こんなとこでバラしちゃって、大丈夫? マスコミ関係者に聞かれたら、大変だよ」

「平気よ。もう、一年も前の話だし。私は、もはや、ぜんっぜん、関係ないしね……」


 一年前?

 マキトの事故も一年前……。

 ただの偶然?


「……だいたい、ドライブ中に事故を起こしたのは、三橋コウジなんだからさ」


 三橋コウジ?

 それって、人気アイドルの三橋コウジのこと?


 気付かれないように、肩越しにそちらを観察すると、ノータリンと思っていた女は、三橋コウジとかつて噂になった、牧瀬浮羽だった。

 牧瀬は、十数人で構成される女性ボーカルユニットの中心的なメンバーである。確かに美人の部類には入るんでしょうけど、今日は地味な目鼻立ちだった。


 きっと、いつもは、メイクが相当上手いのね。

「またまたぁー。浮羽ちゃんは、こわいなぁ。浮羽ちゃんが、三橋を誘ったんじゃないの? 夜景が見たい、とか言ってさ」

 牧瀬の横に座る、鼻ピアスをした体格のいい男がそう言って、生ビールを煽る。


「そんなこと、言ってないわよ。でも、一緒にここで飲んでいたユッコは、そんなこと言ってたかな。あの子、初めて三橋に会って、すごく興奮していたし」


 ここで飲んでいた!?

 それからドライブしたって、ひょっとして、飲酒運転?

 しかも、ここからだと、甲辰山の星空ロードって、三十分はかかるのに?


 私は、牧瀬を凝視して、目が離せなくなった。

「でも、事故と言っても、自損事故なんだろ? そんなの、警察に届け出ないヤツも多いし、大して問題にならないんじゃないのか?」

 向かいに座る金髪の瘦せ型男の何気ないフォローに、牧瀬は、少し顔をこわばらせる。

 ストレートに肩まで伸びた黒髪の先端を、指に巻き付けた。


「自損事故なら、事務所にも報告しないわよ。バイクに追突しちゃったのよ、あの時。そのまま逃げたから、そのあと、どうなったかわからないけど」


 私は、カウンター席を立ちあがっていた。


「どういうことですか!?」


 ほとんど無意識のうちに、牧瀬に詰め寄っていた。


「急に、なんだよ、オマエ?」

 鼻ピアスをした男が、私を見上げた。

「ですから、今、お話されていた内容を、詳しく教えてもらいたいんです。私は、WEBメディアの記者です」

 金髪が立ち上がって、顔を近づけてくる。

「なんのことだよ? 邪魔だから、どっか行けよ」

「いいえ、どこにも行きません。聴こえてきてしまったからには、真相を聞き出すまでは、私は……動きません」

「ふざけんな、コノヤロウ。楽しく飲んでるのに、邪魔してくんじゃねえよ!」

 金髪男がさらに凄んできたが、私は動じなかった。

 男の目の奥にまで眼光が届くように、睨み返す。

「おいっ、テル、やめとけ。店の中だぞ」

 鼻ピアスが、テルという金髪男の袖を引っ張って、席に座らせた。


「私は、あなた方に話をしているんじゃありません。牧瀬さんに聞いているんです」

 牧瀬は目を逸らして、ポテトを一本つまみ、口に放り込む。

「牧瀬さん、さっき、聴こえてきた話は本当なんですよね?」

「はあ? なにが? なんのこと言ってんのか、さっぱりわかんなーい」

「わからないことないでしょ? ついさっきまで、ここでしゃべってたじゃない!?」

「あ? なに? このウザいオンナ? キモいわ。キモっ!」

 牧瀬が汚いものでも見たかのように、あからさまに顔をしかめる。

「キ、キモい? ……って、わ、私のことを言ってるの?」

「このキモオンナに、水をさされちゃったね。気分悪いから、お店かえよ、テル」


 金髪のテルが勢いよく立ち上がり、私の鼻先に顔を近づけてきた。

「ああ、そうだな……。このオバハンのせいで、しらけたわ」


 オバハン? 誰が? 私のこと?


「テル行くよ。そんなのに構わなくていいから」

 私は、牧瀬を追いたいけど、テルに道を塞がれてしまっている。


「どいて」


 聞こえていないのか、無視したのか、テルは動かなかった。ギンギンとした目で、私を睨み続けている。どうしたらいいのか、アイデアが浮かばない。


 このままじゃ、せっかくのチャンスなのに、逃げられちゃうじゃない?


「おーい、どうしてくれるんだよ、このクソババア! お詫びに、いくらか、金出せよ」

「おいっ、テル! やめとけって」


 鼻ピアスが、テルの腕を引っ張り、レジに連れて行った。

 ドキドキが止まらない。

 追いかけたい気持ちはあるけど、足が動かなかった。

 脅されたということもあるけど、追いかけた後のことをシミュレーションしてみても、上手く聞き出せる気がしなかったから。


 レジでは、すでに牧瀬が会計を済ませていた。


 ウザい、キモオンナ、オバハン、クソババア……。

 罵詈雑言……淑女を侮辱する悪口のオンパレード。

 頭から離れずに、脳内のずっと奥の方に焼き付いたよう。


 言われたことはショックではあるけど、それよりも、せっかく糸口を掴んだのに、何も聞き出せなかったことの方が、ずっと、ずっと、ショック……。


 店を出る牧瀬らの後ろ姿を目で追いながら、ストレートすぎるアプローチをしてしまったことを悔いていた。


 私は、席に戻り、忘れないうちに書き留めようと、手帳を開く。

  ・一年前、三橋コウジの飲酒運転する車が、星空ロードでバイクに追突。

  ・所属する芸能事務所が、事故をもみ消し。

  ・同乗者は、牧瀬浮羽、ユッコ(?)、他?


 テーブルの上に残っていた炙りイカを手に取り、口にくわえる。

 メモした内容を眺めながら、事故があった当時の状況を想像した。


 星空ロードを原付バイクで二人乗りしていたマキトは、おそらく、そんなにスピードを出していなかったのだろう。そこに、三橋が飲酒運転する車が猛スピードで追突した。

 警察の調べで、現場に車のブレーキ痕は無かったというから、おそらく、ブレーキも踏まずに、ぶつかったんだ。


 三橋コウジといえば、押しも押されもせぬ、トップアイドルである。

 これは、とんでもない、スキャンダルを掴みかけているのではないかと、炙りイカを持つ手がぶるぶると震えて、止まらなくなった。


 後日、私は、カリスマ美容師が経営する美容室に来ていた。


 受付で、切ってもらいたい美容師を指名して、順番を待っていると、十五分ほどで呼ばれる。


「お待たせしました。どうぞ、こちらへ」


 栗毛色の長い髪をアップにした美容師が、愛想よく笑いながら迎えに来た。胸に着いた名札に『ゆず』と書かれている。


 私の顔を初めて見るはずだけど、指名されたことに動揺している様子はなかった。さすがはプロね、と、じんわりと、感心する。


 彼女の名前は、樋口柚子ひぐちゆず。学生時代、ユッコというあだ名で呼ばれていたことは、調べがついていた。


 居酒屋で牧瀬を追及した時は、後先考えずに、反射的に行動してしまい、大いに反省した。けど、牧瀬の話に出てきた〝ユッコ〟という名前を書き留めていたことは、我ながら、ファインプレーだったと思う。

 あれから、牧瀬の周辺を調べ上げ、高校時代からの友人に、樋口柚子を見つけたのだから。


「今日は、どういった髪型にいたしましょう?」


 肩までかかる私の黒いストレートヘアに櫛を入れながら、ミラー越しに、柚子が微笑む。

 誰の心もパッと明るくするような、屈託の無い笑顔だった。愛嬌が溢れ出ている。


「髪型はお任せします。それより、一年前、星空ロードで起こった事故について、教えていただけませんか?」


「え?」

 風雲急を告げるように、柚子の顔に、暗い影が落ちていく。


「三橋コウジが起こした追突事故について、詳しく話しを聞かせてもらいたいんです」

 柚子は、櫛をとく手を止めた。まだ、事態をつかめていないよう。ただ、柚子にとって好ましくないことをお願いされたことは察したようで、固く噤んだ口先が、どんどん伸びる。


「何も、心配されることは無いですよ。私は、すでに、ほぼ全容を掴んでいますから」

 呆けたように、鏡越しに私のことを見つめる柚子……。

 次に発すべき言葉を探しているようだった。


「三橋コウジが、飲酒運転をして、バイクへの追突事故を起こして、その現場から逃げたこと……。全て、知っていますよ。ただ、確認したいだけなんです」


 顔を引きつる柚子が、ため息をつくとともに、肩を落とすのが見えた。

 柚子は、私の髪をカットしながら、少しずつ、当時の状況を語り始めた。私が、すでに事件の全容を知っているかのようなフリをしたのが、功を奏したみたい。


「……それで、私は、やめようって、止めたんです。三橋さん、結構、お酒を飲まれてたのに、自分が運転するって言って、きかなくて」


 牧瀬は、夜景を見たいと言い出したのが、柚子であったかのように語っていたけど、真相はそうでは無かったらしい。


「じゃあ、あの居酒屋さんで、ドライブに行きたいってはしゃいでたのは、牧瀬さんだったんですね?」

 柚子は、浮かない顔で鋏を入れながら、コクリと頷いた。

「あの時の浮羽は、けっこう、ノリノリで……」


 な、なんて、女なの、牧瀬浮羽!

 私をキモオンナなんて、呼びやがったことも含めて、許さないわよ、絶対。

 許すまじ……ま、ま、ま、牧瀬のヤツ。


「ど、どうかされましたか? 大丈夫ですか?」


 鏡の中の私は、頬が盛り上がって目がつり上がり、上唇から覗く歯が嚙み合わせを確かめるように、ゴリゴリと動いていた。

「えっ? あ」

 鏡の中で、柚子と目が合う。


 私は、唇を尖らせて、表情筋をほぐすように、円を描いた。

「あ、ちょっと、昼に食べた鶏肉が歯の間に挟まっちゃってたみたいで……」

「ふふふ。そうなんですね。よくありますよね。で、先ほどの話ですけど、浮羽はノリノリでしたけど、最初にドライブに行こうって言い出したのは、三橋さんご本人です。星空ロードを通って、甲辰山に夜景を見に行こうというのも、三橋さんの提案でした」

「え? そ、そうなんだ……」


 私の中に、さわさわとした霧がかかる。


 マキトと三橋コウジは、全くの無関係ではない。マキトがスタントマンを引退するきっかけになった映画で、主演を演じたのが三橋だった。マキトは、三橋の代役として挑んだスタントで、大怪我をしている。

 そのことは、何となく気になってはいたけど、偶然なのだろうと、私の中で、勝手に片付けていた。でも、三橋がドライブを提案したというなら、とても低い可能性だけど、もう一つ考えられることがある。


 マキトが、その時間に、そこを通ることを三橋が知っていて、殺意を持って追突したという可能性だ。


 だとしたら、三橋がマキトを恨む理由はなんだろう?


 大怪我をしたのはマキトの方なのだから、マキトが何かしらのわだかまりを持っていることはあるかもしれないけど、三橋は感謝こそすれ、恨むことは無いんじゃないだろうか。

 もしかして、後になって、マキトが、三橋にコンタクトしていたのだろうか?

 当時を恨んで、ゆすりか、たかりか、そんな恐喝まがいのことを仕掛けて、追い込まれた三橋が、プッツンして、マキトを襲ったとか?

 いや、でも、あの真面目なマキトが、そんなことをするはずがないと思うけど……。


 頭をひねったけど、結論が出ることはなく、私は、質問を続ける。

「そ、それで、事故する前の車内の様子は、どうだったんですか?」

「それは、盛り上がっていましたよ。みんな、お酒が入ってましたし」


 やっぱり……。

 若い男女が四人で、高級車に乗って、真夜中にドライブ……しかも、お酒も入っているとなれば、その様子は、容易に想像できる。


「浮羽は、助手席に座っていて、スマホで撮影しながら、三橋さんにちょっかいを出してましたから、それで、注意散漫になったんだと思います」

「牧瀬さんが、ハンドルを握っている三橋に?」

「はい。それで、前を走るバイクに急接近していることに、気付かなかったんだと思います」

 私の髪は、どんどんカットされ、かろうじてアゴにかかるぐらいの長さにまで、短くなっていた。


 柚子は、当時の自分を悔やんでいるのか、反省するようなトーンで、私の質問には、何でも素直に答えてくれている。


「現場からは離れましたけど、三橋さんが事務所に電話してましたから、てっきり、警察に出頭するものとばかり思ってたんです」

 警察に言う気があるなら、事務所に連絡する以前に、一一〇番するはずである。その時点で、三橋の行動は、おかしい。

 逃げる気、満々だったとしか考えられない。


「まさか、そのまま逃げるなんて……」


 柚子、甘い! 甘いわよ。

 どうしたら無かったことにできるのか、相談していたに違いないんだから、それに気づかないと。


「三橋コウジの所属事務所が、警察に働きかけて、事故したことを握りつぶしたってことですよね?」

 私は、高ぶる気持ちを押し殺して、極めて冷静な口調を意識して、訊いた。

「そ、そんな……。いくら、大手の芸能事務所でも、そんなことは、出来ないと思いますけど……」


 うーん……。

 確かに、それは、そうよね……。

 じゃあ、たまたま警察に見つからなかっただけ?

 綺麗に整備されていた高級車が、不審な壊れ方をしていれば、事故車を修理した工場から、通報されたりする気がするんだけど、ふつう……。


「車は? 事故したんだから、どこか壊れたでしょう? どこに修理に出したか、知っていますか?」

「バンパーにひびが入って、前方が少し歪んだくらいで、大して破損しなかったんですけど、廃車にするって言っていました」

「えっ? ど、どういうこと?」

「修理に出したら、足がつくからって、事務所の人に指示されたみたいで……」

「ちょ、ちょっと待って。ちゃんと、聴かせて。そ、それって、事故を隠すために、事故車をスクラップに出したってこと?」

「……はい……そうみたいなんです……」


 それくらいのキズじゃ、廃車になんかしないわよね、ふつう……。

 でも、念には念を入れて、処分したんだ……。

 高級外車だって聞いたけど、ずいぶん思い切った手を打ったわね。


 一年前に、スクラップに出したということは、もう鉄くずになっている。今からでも証拠を集めて、三橋が捕まるように持っていきたかったけど、なかなか手強いかもしれない。


「あの……、私から質問してもいいですか?」

 柚子は、鋏と櫛を持ってはいるが、もはや、それらは動いていなかった。

 柚子自身もそれに気付いたのか、腰にさげたホルダにそれらを戻す。


「は、はい? な、何か、私に聞きたいことでも?」

「追突されたバイクに乗られていたかたは、どうなったんですか?」


 え? 知らないの!?

 事故に関わっていた当事者なら、気になって調べたりするでしょ、ふつう。


 私が鏡の中の柚子を咎めるように睨むと、柚子が視線を落とす。

「あの日の翌日は、気になって、ネットニュースを調べたんですけど、どうしても見つからなくて……」

 確かに、単独事故として処理されたから、大きくは報道されてなかったか……。

「バイクに乗っていた二人は……、死んだわ」

「二人?」


「ええ、二人とも。後ろに乗ってた人は即死。運転していた人は、事故直後は息をしていたみたいだけど、病院に運ばれた後、亡くなったみたい……」


 柚子は顔を上げ、髪を掻き上げる。

 最初は、ゆっくりだったけど、だんだんとせわしくなり、わしゃわしゃと、掻き乱すほどになって、最後は、心がどっかに飛んじゃったみたいに、ぶらんと両手を垂らした。

 放心したように、つっ立っている。

 初めて知ったということだろう。

 柚子の潤んだ瞳と鏡越しに目が合って、私の感情は、高ぶった。


「それで……。その追突事故……バイクを運転していた人は、誰だかわかる?」

「え? な、なにか、有名な方なんですか?」


 うつろだった柚子の瞳が光った。


「い……いや、有名ってことは……な、ないんだけど……。でも……私にとっては、とても大切な人……」


「え……」


「私の恋人よ」


 私は、鼻息を荒くしながらも、泣きそうになるのを堪える。

 他の客やスタッフを気にしてか、柚子は、声を出さないように口を押えて泣き出した。幾筋もの涙が頬を伝い、しゅっと尖った柚子のアゴから、ボロボロとしずくが落ちた。


 会う前に想像していたのと比べると、柚子の印象は、だいぶ変わっていた。

 ピュアで、いい子である。

 メイクが崩れるほど泣いている柚子を眺めながら、柚子なら、今日会ったばかりの私に対しても、手を差し伸べてくれるんじゃないかと、淡い期待が湧いてきた。


「ねぇ、私ね……。私、なぜ、恋人が死ななきゃいけなかったのか、真実が知りたいの。それで、本当に、三橋コウジの飲酒運転によって、恋人が殺されたのだとしたなら、今からでも自首して、罪を償ってほしいの。じゃないと、あの人が、浮かばれないわ……」


 私も涙がこぼれた。柚子のピュアな心を信じ、泣いて訴える。

「そんな……そんなこと、言われても……急だし……」

「柚子さん、助けて、お願い。わ、私……私を助けて……」


 美容院には、クラブでかかるような騒がしい洋楽が流れていた。それもあって、店内の誰も二人のやりとりに気付いていない。

 柚子は、しばらく思案していたようだけど、しばらくして、私の耳元に口を寄せた。

「今週末……夜、空いていますか?」

「え? 金曜? それとも土曜? 別に予定は無いけど、なにかあるの?」

「金曜の夜です。実は、飲み会に誘われていて……。そこに三橋さんも来るんです。会って、直接、話をされますか?」

「え、嘘っ? そ、そうなの!? 私も、行っていいの!?」

「大丈夫だと思います。三橋さん主催の合コンですから。女の子が多い分には、文句を言われません。私の友人ということにして、参加されますか?」


 天にも昇るような気分だった。

 もちろん、参加させてほしいとお願いする。

 そして、柚子に迷惑が掛かるような言動は慎むことも約束した。



 その週末、三橋コウジとファーストコンタクトする夜を迎えた。

 興奮して、前の日は、なかなか寝付けなかった。

 駅前で、柚子ら、三名の女の子と落ちあい、会場のお店に向かう。

 私は、三人から少し遅れて、良く清掃された歩道を、ビルの影を選びながら歩く。薄紅色だった空がいつの間にか暗くなり、街路灯が鮮やかな緑葉を浮かび上がらせていた。柚子たちの後をつけるように、大きな庭園のある有名店の脇を抜け、モダンな造りの店に入る。


 柚子が、店主に三橋の名前を告げると、奥の個室に案内された。

 そこには、三橋の後輩と思しきアイドル風の男二人の奥に、三橋が座って待っていた。

「お待たせしました」と柚子を先頭に、女子三人が、男の向かいに座る。

 私は、黙って一番末席に座った。


「ユッコちゃん、久しぶりだね。元気だった? 今日も、楽しもうね」

「そうですね。また、誘ってくれてありがとうございます」


 ビールや料理が運ばれ、通常の合コンと同じように、男性諸君が盛り上げてくれた。柚子が上手くやってくれたらしく、誰も私のことを疑っていない。

 終始、アイドル好きの女性として扱われ、私もそれに、話を合わせた。


 三橋と口を交わすタイミングを見計らっていたけど、対角線の席で、チャンスはなかなか訪れなかった。

 盛り上がる話題も、教養の欠片にもならない、くだらないものばかり。


 半ばあきらめかけ、あたりめを肴に、これが最後と決めたカクテルを飲んでいる時、三橋の主演した映画のことが話題になった。


「あの映画、面白かったっす。特に、アクションシーンがすごかったっすよねー」

「あぁ、あれな。あれは、監督が、リアルさにこだわって、ほとんどCGを使わなかったから、大変だったよ」

 後輩のヨイショに、三橋が答える。

 どうやら、マキトがスタントをした映画のことらしい。


「わたしも、それ、見たぁ。三橋さん、バイクで首都高走るシーン、すごくかっこよかったですよ。フフフ」

 柚子の友達が、話に乗った。


 チャンス到来!


「私も、見ました。首都高で、車が大破して、三橋さんが、吹っ飛ぶシーンって、あれはさすがに、スタントマンですよね?」


「あ、ああ。まぁ……。あれは、さすがに……ね」


 三橋は、口ごもるような口調だった。触れられたくない部分なのだろうけど、私は、そのあたりのことを訊きたい。


「雑誌の記事で見たんですけど、そのスタントマンって、そのシーンで大怪我をしたんですってね。三橋さん、恨まれたりしなかったんですか?」

「恨まれる? なんで、オレが? そんなこと、あるわけないじゃん。大怪我したってのは、本当だけど、オレは、別に関係ねえし」


 三橋は、半分くらい残っているビールのジョッキを煽った。三橋の反応は自然で、動揺しているようには見えない。


「だって、三橋さんの代わりにスタントしたんだから、恨まれることもありそうですけど?」

「そんな……。オレがあのカットを決めたわけじゃないからね。恨まれたりしないよ。入院先の病院に、お見舞いにも行ったけど、恨んでなさそうだったけどな」


 マキトの入院先に、三橋がお見舞いに行ったというのは初耳だった。

 三橋の起こした追突事故が、計画性のあるものだとしたら、その映画での遺恨が原因かと思ったけど、どうやらそうではないらしい。


「あ、そろそろ、時間っすね。オレたち、先、行って部屋に入っておきますね」

 後輩の男性二人が立ち上がった。二次会で予約しているカラオケ店に先に行くらしい。

「あ、じゃあ、わたしも先、行く」「じゃあ、私もお供するね」


 個室には、私と柚子、それに三橋の三人だけになった。

 デザートのフルーツが運ばれてきた。


「三橋さん、夜景を見に連れて行ったりは、してくれないんですか?」

「えっ?」

 私の質問に、フォークにメロンを挿した三橋の動きが止まる。


「車、運転できるんでしょ?」


「いや、免許は持ってるけど、今は、ダメでしょ?」

「え? なんで? いいじゃん」


 メロンを口に含みながら、三橋が私を見てきた。探るような視線に、私は、たじろがないように気持ちを強く持った。


「今日は、結構飲んでるし、飲酒運転になるでしょ。そんなこと、できるわけがないでしょ」


 一年前は、しただろ? っていう言葉を飲み込む。


「えーっ!? 無理なの? 前は、よく女の子を連れて行っていたって、噂、聞きましたよ」

「どこから、そんな噂を?」

 三橋は、一瞬、尻目で柚子を見た。

「そ、そんなこと、するわけないでしょ? オレ、芸能人だよ?」


 柚子が疑われているなら、矛を収めた方がいいのはわかっているんだけど、高ぶった感情がおさえられない。


「芸能人だから、出来るんじゃないんですか? 事故を起こしても、事務所がもみ消したりしてくれるんじゃないんですか?」

「んなわけ、ないでしょ。何を、無茶苦茶な」

「いいじゃん、連れてってよ。過去にも、そうやって事務所を使って……」


「しつこいっ! 何を言ってるんだっ! デタラメ言うな。証拠でもあるのかっ!」


「沙羅ちゃん、そんな、無茶苦茶言ったらダメだよ。さ、カラオケに移動しましょ」


 柚子が宥める前に、三橋は怒って立ち上がっていた。

 柚子はカバンを手にして、三橋を連れて個室を出ていく。


 今日も、上手くは、いかなかった。

 ただ、成果はゼロではない。

 三橋が計画的に、マキトを殺したという線は無いとわかった。


 カラオケに行く気は無い。私は、動悸がおさまるのを待ってから、店を出た。

 店の前には、柚子が待っていた。

「ゆ、柚子さん……。ゴメンなさい……」

「ううん、私は、大丈夫。でも、三橋さんを説得できなかったね。その前に、彼を怒らせちゃったね」

「うん。そう、私の持って行き方がいけなかったわ」

「三橋さん、沙羅さんを家に帰せって、私に言い残して、カラオケに向かったけど、沙羅さんは、どうします?」

「うん、私は、カラオケには行かない。元々、行くつもりもなかったし。今日は、ありがとう。分かったこともあったし、誘ってくれたこと、すごく、ありがたかったわ」

「それなら、良かった……」

「それじゃあ」と、私は、柚子に頭を下げ、駅に向かって反転した。


「あ、そうだ、沙羅さん、ちょっと待って」


 振り返ると、柚子が近寄ってくる。

「証拠がどうとかいうやり取りで思い出したんですけど、事故を起こした瞬間の映像が、ひょっとしたら、残っているかもしれないです」

「え、嘘っ? どういうこと?」

「助手席の浮羽がスマホで撮影していたんです。事故した時も……」

 思いがけない朗報に、心が躍り出し、体中に拡散したアルコールが、一気に昇華した。

「ほ、ほ、本当に? 本当に、そんなのが、存在するの?」

 事故時の動画を、浮羽に見せてもらったことがあると、柚子が小声で言った。

 ドライブ中の車内で、ふざけて三橋にスマートフォンを向けていた浮羽は、事故の瞬間まで、カメラを回していたらしい。その動画は、今もまだ、浮羽のスマートフォンの中に残っている可能性が高いという。


 垂涎の情報を得て、自然と涙腺が緩み、潤んだ向こうにいる柚子が揺れて、女神が舞いを踊っているように見えた。


「教えてくださって、ありがとう。今日は、参加出来て、本当に良かったです。また今度、柚子さんの美容室に行きますので、その時は、私も、あなたの髪と同じ色に、染めてもらってもいい?」


 私は、すっかり、柚子のことが気に入り、栗毛色の髪まで、真似したくなっていた。


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