勘違いの雰囲気
ある日、隣の席の四倉杏奈に消しゴムを貸すことになってしまった。
「ごめん。借りてもいいかな?」
ホワイトボードにペンを走らせる教師の説明に紛れて、首を傾げて熱願する彼女の姿。授業の最中に起きたハプニングの訪れに真面目に聞いていた当事者、八坂理は衝撃を受けることに。
首を縦に振る。本当は頷くだけで良かったものの。
既に消しゴムは四倉の方に移り、好き勝手に文字を消していた。ルーズリーフに筆跡していたのに消す行為には別に構わない。
けれど、本人の了承無しに私有物を扱うのは少々度し難いと思う節がある。
(立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。それなのに……)
不公平だ。
世の中は不条理の積み重ねで成り立っているに違いない。絶対にそうだ。四倉の行動全てに称賛されるなんて、同じクラスの女子が惨めではないか。
「恋知れば菫、か……」
譫言は挟まれて、無味に等しき授業は睡魔を呼び起こす。
物を貸したことはないがクラスメイトに教科書を見せた経験のある八坂にとって大胆不敵で柔らかそうに話す四倉の存在が珍しかった。
基本的に自分から話題を振ろうとしない省エネタイプの八坂とは違い、彼女は常にクラスの中心に佇んでおり、澄んだ瞳は曇りはせず、不快感のない声量は男女問わず活気を与え、微かに溢す微笑みは誰だろうと幸せにするパワフルがある。
要は生きる世界が違うこと。見ている価値観が違うということだ。
それがなぜ、隣の席に彼女がいるのか。
(窓側を選んでいたのに、なんで、真ん中の最後列なんかに……)
席替えによる窓側の競争率は赤点取るよりも厳しく、融通が利かず弾き出されることも多々あるだろう。
よりによって、担任の気紛れがビッグバン並の化学反応を引き起こすだなんて。
(……疲れた。消しゴム、ちゃんと返してくれるんだろうか)
平穏とは程遠い喧騒が始まる日々。次の席替えはいつになることか。
トホホと草臥れる八坂理の災難は続く。
持て余すシャーペンを回して、退屈そうに頬杖をついた。教科書を丁寧になぞるだけの、回りくどい説明。読解力を鍛える為だけの一般的な教養要素。
単純につまらない。
こういう時に限って刻む時計の針が遅いように感じる。
そのような現象のことをクロノスタシス現象という錯覚の一種と呼ぶらしいが、今の八坂にとって罰ゲームそのものだった。
「……なに?」
「あはは、からかってみただけだよー」
脈絡もなく頬をツンツンと触る彼女の人懐っこそうな笑顔が弾けていた。自然に顔が綻んで、こちらの様子を伺う上目遣いとの距離が若干近い。
戸惑いを寄せる年相応の好奇心。仕草の度にシャンプーみたいな甘ったるい香りが漂って、彼女がもたらす勘違いの雰囲気に呑み込まれそうになる。
だからこそ、彼女の言葉の吐息が美しいと思えるのだ。
「隣の席が八坂くんで本当に良かった。だって私達、窓側のハズレ組だもんね」
口車の意図は知らず、呆れた八坂はそっぽを向いて勉学に励む。
対して四倉の表情は何を浮かぶ。それ知る術は失われ、消しゴムを貸したことで謎の緊迫感が生まれてしまい、自責の念に駆られることに。
早く帰りたいと。シャーペンを走らせてノートの空白を埋めていく。
結局、消しゴムは二度と返って来なかった。