1-9 仄暗い穴の底で、《瞳》は少女を待っていた。
ここで助けを待つ、という選択は考えなくていい。未探索地区に助けが来るなんて期待するだけ無駄だ。この小部屋から出て帰り道を探しに行く方が現実的である。
水晶の色を手がかりに、見覚えのある通路まで行けばなんとかなるかもしれない。日中は探索者がよく迷宮に出入りしている時間帯だ。どこかのパーティに助けを求めれば、生還の目は十分に出てくる。
一方で夜間の行動はあまり成果を望めない。迷宮の中には昼も夜もないが、多くの探索者は夜になれば引き上げる。日をまたいで迷宮に潜るパーティも、夜間は安全な場所で野営をするのがセオリーだ。
ならば。日中は見覚えのある通路を探しに行き、夜間は安全な場所で待っていれば、他のパーティと合流できる公算も多少は高いのでは?
「生きて帰ったら甘くて美味しいもの食べようか」
方針と呼べるほど確かなものではないけれど、現状ではこれ以上は望めない。行くしかなかった。
荷物を背負いなおして立ち上がる。その時、ふと、何かが目についた。
よくよく見ると、銀水晶の壁の奥に何かがある。水晶に覆い尽くされていて見づらいが、小さくて丸い物だった。
材質はまるで宝石のようだ。ルビーやガーネットとはまた異なる、血のように濃くて深い赤。見ていると吸い込まれそうなほどに深い色彩をしていた。
銀水晶の奥に閉じ込められた、赤い宝石の珠。
それを見た時、何かに見つめられているような感覚がした。
「ひょっとして、これって遺物?」
思いつくものはそれくらいしかない。遺物を見たことは何度かあるが、自力で見つけられたのはこれが初めてだ。我ながら妙なところで悪運があるものだ。
どんな能力を秘めているかわからない遺物には、軽率に触らないのが探索者のセオリーだ。しかし、状況も状況だ。もしかしたら何かの役に立つかもしれないと考えて、私はそれを掘り出すことにした。
遺物を覆う銀水晶をピックで一つ一つ取り除いていく。少しずつ遺物に近づくにつれて、見られているような感覚はどんどん強くなる。遺物だ。私は今、この遺物に見つめられている。そう思うと、これは何かの眼球のように見えてきた。
最後の銀水晶を取り払うと、ついに遺物が姿を現す。それが放つ魔力はあまりにも濃密で、周囲の空間が歪んで見えていた。時折何もない空間に黒いヒビが走ってはすぐに消える。ただそこに存在しているだけで、次元が耐えきれずに砕けてしまっているかのような。そんな凄まじい力が感じられた。
危険なものであることは見て取れる。
それでも、その眼球に見つめられた私は、まるで呼ばれているような気がしていた。
「所有者を……。探して、いるの……?」
遺物は私を呼んでいる。遺物は私を求めている。抗えないほど強力に。
気がついた時にはもう遅かった。私はもう、とっくに魅入られてしまっている。触れたらまずいと理性ではわかっているのに、体はふらふらと遺物に手を伸ばしてしまう。
そして、それに触れて。
莫大な知識の嵐が、私の頭を焼き尽くした。
それはどこかの世界の誰かの知識だ。この世界かもしれないし、異なる世界なのかもしれないし、過去なのかもしれないし、未来なのかもしれない。そこで生きる誰かは常に流動し、変質し、凝固と溶解を繰り返していた。男であり女であった。人間であり人間ではなかった。自然であり世界であり、全てであって何者でもなかった。存在と非存在を常に両立し、事象の狭間を素足で歩んでいた。その誰かは、いついかなる時も探求をしていた。私たちが魔力と呼ぶものの本質を。私たちが魔法と呼ぶものの真なる姿を。魔力と魔法の全てを解き明かすべく探求を続け、やがてその誰かは神の座へと上り詰めた。
そんな誰かの知識が。
そんな誰かの経験が。
瞳を通じて、私の頭に流れ込む。
「ぃぐ……うぁ……っ」
割れんばかりに頭が痛む。この知識に私は耐えられない。ただ知るだけでも精神が蝕まれ、心が壊れそうになるような禁断の知識がいくつもある。いくら拒もうと、荒れ狂う知識の暴風雨に抗う術はなかった。
脳内に流れ込む暴虐的な知識の嵐に、一つだけきらりと輝くものがあった。他の知識に比べて明らかに情報量が抑えられたそれは、これこそが大切なのだと言わんばかりに脳裏で燦々と主張を繰り返す。流れ込んでは消えていく膨大な知識の中で、その情報だけはすとんと頭に入る。
それは、膨大な年月をかけてこの知識と経験を蓄積した誰かのこと。その人間、あるいは非人間、あるいは概念との同一化を成し遂げたその者は、こう呼ばれていた。
――魔神、と。
「魔神、が」
遠のく意識をかき集めて、必死に言葉を紡ぐ。私の頭はもう限界だ。これは、わかったからもうやめてくれという懇願に他ならなかった。
「甘いもの好きとか……知らないん……だけど……」
私が手にしたものは、ただの遺物なんかではない。
これは、紛れもなく迷宮の遺宝だった。