9.守りたいものは
アルトがルイツの後に続いて入った部屋は、応接室などではなく彼の執務室だった。
棚には本と綴じられた資料が並び、机には彼が捌くのであろう書類が積まれている。そのどれもが年月や項目別にきちんと整頓されており、ルイツの几帳面さが感じられた。
部外者はまず客室へ通す話していたので、そちらに案内されると思っていたアルトは内心首を捻る。書類を脇に除けて席に着いたルイツの向かいに立ち、彼の言葉を待った。
「改めて初めまして、私はルイツァリといいます。どうぞルイツと呼んでください。貴方の名前は?」
「は、はいっ! 名乗らずすみません。僕は、アルトと申します」
穏やかな表情と声音で挨拶され、アルトは慌てて頭を下げた。
「アルト君、ですね。遠かったでしょう。わざわざこんなところまでありがとう」
「いえっ、ディル様にお世話になったのは僕ですので!」
ルイツに優しく労われ、益々恐縮してしまう。丁寧なひとだと少し気が緩んだ時、次に続いた彼の言葉に胸を衝かれた。
「ディルは放っておけない病でして。困っていそうなものは何でも拾ってきてしまうんです」
「――そ、うなんですね」
つかえながら相槌を打ったが、何となく、お前を助けたのはただの気まぐれだと言われたようで、アルトの心が急速に冷える。
俯いたアルトに追い打ちをかけるように、ルイツが続けた。
「ええ。ですからあなたも特別気にすることはありませんよ」
「――は……」
萎んだ心に気を取られ、流されるまま頷こうとして、気づいた。
違う。
たとえそれがディル気まぐれで、彼が何とも思っていなくても。
その優しさにアルトが救われたことに変わりはない。
それを感謝するかどうかは、誰かに決められることじゃなくて、自分が決めることだ。
悄然としそうになる気持ちを振り払うように、アルトはぶんぶんと頭を振った。
その様子をみたルイツは困ったように溜息をつき、ちらりとアルトの背負った荷物に目を向ける。アルトの目的は薄々察していた。
(意外と芯は強いようですね。それでなくとも人員は不足している上、獣族は喉から手が出るほど欲しい。ただ……)
アルトを迎えて起こる変化を、砦の者たちが受け容れられるかは本人の行動にかかっている。ルイツは、アルトを見極める行動に出た。
「……遅くなる前に砦を出る方がいいでしょう、それは私が預かってディルに返しておきます」
変わらずルイツの口許は弧を描いているのに、目は笑っておらず、声は冷たい響きを含む。差し出される手に、アルトの足が一歩引いた。
「いえ……その、僕……」
アルトを追い出そうとするかのような圧力を感じ、さらに一歩足が引く。『はい分かりました』と頷けば解放されるだろうが、何故かそれが出来ない。
ここを訪れて『良かった』と頭を撫でてくれたディルが忘れられなかった。
「おやまさか、ディルの誘いに応じたいとでも? 申し訳ないのですが、砦では魔物の被害による孤児の保護はしていませんよ」
「――っ!」
ディルが示してくれた道も、アルトの望みも知っていて、それを言わせないようにしている。
穏やかそうな外見を裏切るルイツのはっきりとした拒絶に、アルトは無意識に返しそびれた毛布をぎゅっと握りしめた。
「団長から、クレスト殿の子供は彼によく似て白銀の髪をしていると聞いたことがあります。村で起こったことの報告は受けていますし、何よりディルが、村を飛び出したと思われる狼の獣族に砦に来るよう声を掛けたと」
白銀の髪は珍しい。それは狼姿でも同様で、混じり気のない白い体毛の個体は少ない。そんな容姿であの日、独りで彷徨っていればディルがアルトの素性に気づくのも当然だろう。
ぐっと唇を噛み締め、震えを抑える。
「……魔物が、嫌いなんです。だから、強くなりたくて。戦い方も習ってきています。どうか僕も魔物の討伐に協力させてください!」
アルトの精一杯の訴えに、ルイツは目を伏せて答えた。
「クレスト殿の仕込みであれば、それなりに戦えるのかもしれませんが……。貴方には気になる点が二つあります。我々は常に魔物の襲撃に備えなければなりません。ディルが声を掛けた手前申し訳ありませんが、無用な不穏分子は入れたくないのです」
砦は集団生活だ。たとえどれほど強い者でも、砦側が負い目を持つものだとしても、秩序を乱すものは置くことは出来ない。
ルイツの言葉に何一つ反論することが出来ず、アルトは黙った。
子供で、女で、獣族で。強さの程は分からず、ただ強くなりたいと砦に来た存在。
それがどれほど砦に影響を与えるか。今更ながらに考え無しだったことに気付く。
(やっぱり、僕が居られる場所なんて……)
項垂れるアルトに、ルイツは責めるような空気を少し和らげ、問いかけた。
「……貴方は何のために強くなりたいのですか? この砦を利用して、更なる強さを身に着けたとします。ですが貴方は獣族です。そのままだと魔物から襲われることはないでしょう。魔物を探して歩き回って、見つけたものを端から倒すつもりですか?」
「それは……」
確かにそうだ。獲物を求めて魔物の森の近くを徘徊し、見つけ次第仕留める。想像するに、真っ当な生き方ではない。
強くなるのは自分を守るため、アルトらしく生きるという約束を守るためだ。
だが、本当に守りたかったのは、大好きな人と過ごす時間。
それは、アルトの手から零れ落ちたもの。
大切に思うものなど、もう――。
俯いた瞬間、抱えたものから微かにディルの匂いがした。
不思議と、怯えて震えた心が少し凪ぐ。
会って今日で二回目。でもその間はずっと彼の毛布を抱えて、アルトに寄り添ってくれたディルを思っていた。ディルにとっては大したことではなかったかもしれないが、アルトにとってディルは自分を救ってくれた唯一の存在だ。
そう思った時、不意に目が覚めるような感覚がした。
手の中にたった一つだけ残った、アルトの希望。
引きかけた脚を戻し、顔を上げる。
ルイツを真っ直ぐに見返した。
「――優しくして貰ったんです」
目を閉じて、あたたかな優しさを思い出す。
ディルのその優しさに報いたい。
「ディル様は僕を助けてくれました。独りで凍えそうな夜に、傍にいてくれました。ずっとディル様の匂いに導かれてここまで来ました。力がなくても、頼りなくても。――僕はディル様を守りたいです!」
二度と失いたくないという思いを込めて、アルトは自身の中で生まれたばかりの望みを力強く宣言した。
しん、と室内が静寂に包まれる。
「……くっ。……ふふ、あははは」
一拍置いて、笑い声がその場に響いた。
それが目の前の相手から発せられていると気づき、アルトはぽかんとして立ち尽くす。
(な、何で、笑って……?)
アルトの動揺を余所に、ひとしきり笑ったルイツは、目に溜まった涙を拭って口を開いた。
「……はあ、失礼。あまりにも、素直すぎて。どうやったらこんな子に育つんでしょう。まるで愛の告白を聞いたみたいです。……ねぇ、ディル?」
そう言ってルイツがドアに向かって声をかけた。
暫しの沈黙の後、ゆっくりとドアが開く。
アルトはその様子を呆然と見つめた。ルイツとの会話に必死になりすぎて、人の気配に全く気付いていなかったのだ。
そしてそこには、ルイツが呼びかけた通り――ディルが立っていた。先ほどのガルドと他にも数人いて、どうやら盗み聞きしていたらしい。
ガルド達はにやにやと笑いながらディルを見つめ、ディルはというと片手で顔を覆って顔を上げられずにいる。
まさか本人がいるとは思わず、助けてもらった相手を守りたいなど身の丈に合わない宣言をし、アルトは穴があったら入りたい気持ちになった。
「あわわ、ディル様……今の……」
「聞いてたぞー坊主」
言葉を発しないディルに代わって、ガルドがにやにやと笑みを浮かべて返事をする。
「うわあぁ。すみませんすみません。弱いくせに馬鹿なことを言いました!」
焦ってアルトが謝ると、ディルが顔を上げて向かってきた。
「違う! あーもう、お前はっ!!」
アルトの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら叫んでいる。
「照れ隠しだ」
「ディル様嬉しすぎて恥ずかしいんだな」
「あんなこと言われちゃ、俺たちも坊主を守りたくなるわ」
外野が騒いでいるが、ディルがわーわーとわめきながら髪をかき回すのでアルトの耳には届かなかった。その所業を止めたのは、まとめ役であるルイツだった。
「ディル。その辺にしておきなさい。仕方ありませんね。アルト君がディルを守りたいというなら、この砦に居て、その言を実行していただきましょうか」
「えっ、本当ですか!?」
先ほどまでの話と打って変わって、突然の承認にアルトは驚きを示した。
振り返ると、ルイツがどうしようもない子を見るような呆れた、しかしどこか優しい表情でアルトを見ていた。思わずこぼれ出たような表情で、本人はきっと無意識だろう。こんな顔が出来るくらいだ。やはりとても優しい人なんだとあたたかい気持ちになる。
「本当ですよ。アルト君なら、困ったことも凌いでいけそうな気がしました」
「――ありがとうございますっ。 僕、頑張ります!」
この優しい人たちに迷惑をかけないよう、アルトは精一杯努力しようと決意した。
のんびりとした進行ですが、見捨てずお越しいただきありがとうございます。
難産だった回。読みにくかったらすみません。
アルト君の本領発揮です。