8.砦は怖い場所ではありません
さらに翌日、アルトは旅立ちのために家の中を整理した。家にはしばらく戻らないつもりだった。
騎士は砦と言っていたが、この村から砦までは人間の徒歩で丸二日はかかる。
狼の姿で移動する方が休みながらでもより早く移動できるが、多くの荷物を持つことが難しい。アルトが騎士から借りた毛布と、最低限の生活用品を纏めてみると、狼姿では背負うのが難しい量になった。
人型になると狼程の速さを出すことはできないものの、普通の人間よりは早く走れ、持久力は狼姿のときと同程度だ。急ぐこともなく、砦に着いたとき人型に戻る手間も考えると、人型で旅立つことを選んだ。
そうして村人の目に留まらないよう、日が沈んだ頃にアルトは村を出発した。
夜の活動は苦にならない。
むしろ狼姿で過ごすことが多いと、夜型に引き摺られないようにするのに苦労するくらいだ。人付き合いが苦手なアルトにとっては夜は人に会わずに済むという利点もある。
危険な野生動物もたくさんいるが、狼がもう一つの本性であるアルトは彼らにとって警戒の対象であり、縄張りを脅かさなければ襲い掛かられることもない。
ただひたすら足を動かし、時々川で喉を潤し、森に生った実を齧る。疲れたら背負っていた荷物を下ろして丸くなり、荷物に頭をのせて休んだ。
ここ数日騎士の毛布を抱えていたので、その匂いに少し、落ち着いた。
***
アルトが騎士に出会ってから五日目。
砦に着いたのは、ちょうど村での午前のお茶の時間くらいだった。
いよいよ、砦を訪ねる。
こうして誰の助けも受けず、初めての場所へ向かったり、見ず知らずの人と会って話したりというのは、アルトは今まで経験したことがない。
休んでいた岩場の陰に隠れ、背から荷物を下ろして借りた毛布を取り出す。そしてすんすん、と鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ、波立つ気持ちを落ち着けた。
(よし……!)
気合を入れ、岩場の陰からひょこりと身体を出す。
砦からアルトがいる岩陰までは、門に立つ人が小さく視認できるくらいの距離だ。
しかしアルトの周りに生物はおらず見通しもよいので、向こうからはそこに何かがいることはすぐに分かるだろう。
こちらの動きに気付いたどうかは不明だが、アルトが砦に向かって一歩踏み出した瞬間、それまで不動だった門の騎士が動きを見せた。
狼はあまり目が良い方ではない。アルトの視力では、詳細な動作までは分からなかった。
(……いきなり怒られたり、しないよね……?)
緊張しながらも、そのまま砦に向かって歩く。
すると徐々にはっきりと姿が見えるようになり、黒い隊服に身を包んだ二人の騎士がこちらを見ているのが分かった。
見られていると分かると益々緊張し、アルトの動きがぎこちなくなる。
二人いる騎士のうち一人が禿頭、もう一人はふさふさだが頬に傷があり、どちら強面に変わりはない。
クレストはどちらかというと穏やかな容姿だったので、いかにも荒くれ者みたいな人間は苦手だ。
そもそも、アルトには対人技術が低い自覚がある。
どちらに声をかけるか迷うが、どちらも怖い。仕方なく近くにいる方に声をかけようと接近する。
昔、素直ないい子でいれば悪いようにはされないと言われたことを思い出し、アルトは素直素直と繰り返す。
そうして尻込みしながらも、禿頭の騎士に声をかけた。
「あ、あの……」
近づくと身長差で騎士に見下ろされる形になり、怖さが倍増した。狼姿だと尻尾が垂れていたに違いない。
「どうした、坊主」
「――っああの、こ、これ! 貸してくれた人、いますかっ?」
そう、声を絞り出してから気がついた。
この毛布は恐らく砦の支給品だ。
それだけで何人もいる砦の騎士から誰かを特定することなど難しいだろうと思い至る。
しかし無言のままの騎士が怖くて動けず、引っ込めることもできずいた。そのため、差し出された毛布を見て、騎士が一瞬息をのんだことには気づかなかった。
「――っ、こりゃあいつだな。坊主、獣族だろ」
「は、はい」
どうやら誰か分かったらしく、アルトの種族まで言い当てられた。毛布を貸してくれた騎士が話を伝えていたのかもしれない。
「……敵意はなさそうか……。それにこの荷物。まさか本当に言う通りになるとはなぁ……」
騎士がちらりとアルトの背負った荷物を見て呟き、アルトの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
突然のことにびくっと体が跳ねたが、触れられた手は意外と優しかった。
呆けている間に、禿頭の騎士がもう一人の騎士に何事かを伝えている。話し終わると今度は砦の中へと向かっていった。
状況についていけずアルトが立ち尽くしていると、早くこいと声を掛けられ、慌てて後を追いかけた。
***
砦の門は、それ自体が外壁と建物の一部を兼ねている。そのため門が短い坑道のようになっており、少し暗くひんやりとしていた。
その空間を通り抜けると、すぐ右側の内壁に窓口のような部分があり、そこにいた騎士に声を掛けられた。
「ガルド、客か?」
「おう。受け付けておいてくれ。客は獣族だ。ディル様のお待ちかねの、な」
案内してくれている禿騎士はガルドというらしい。
ガルドの言葉を聞いて、窓口にいた騎士が目を瞠った。
「――! そうか……」
先ほどから気になる反応だ。しかしアルトには訊ねる勇気もなく、すぐに歩き出したガルドの後を追う。
砦内を進むと中央が広場になっており、騎士達が訓練をしていた。隅の方に熊もいる。野生動物のはずはないだろうから、獣族だろう。
「おーい、ディル様」
ガルドが訓練場に向かって声を上げると、目的の人物と思しき黒髪の男が振り返った。まだ二十歳台くらいだろう。ガルドと比べて若いはずだが、他の騎士の指導をしていた。
「なんだ、ガルドか」
「なんだとはご挨拶だな、ディル様。折角良い事を教えてやろうと思ったのに」
青年の名前はディルというらしく、様付けで呼ばれている。他の騎士の指導もする偉い人のようだが、ガルドの口調は砕けていて、敬われている様子がない。
どういう関係なのだろうと疑問に思っていると、ディルが近づいてくる気配がする。すると何故かガルドが立ち位置を変え、アルトはその背に隠された。
「今日の夕食で好きな料理でも出るのか? それとも臨時で休暇をもらえるとか」
「俺を食いしん坊かさぼり魔みたいな扱いすんな。ったく、こんな奴に目ぇ付けられるなんて、お前ついてねぇぞ」
ガルドが呟くと、ディルは目を丸くする。
「……誰に話してる?」
ガルドが様子の変わったディルを見てにやりと笑い、さて誰だろうな、と嘯いた。その態度に、ディルの眉間に皺が刻まれる。
「……副長に頼んでやる。ガルドがサボっていたから今度の休暇は訓練に充ててくれと」
「やめろ、副長なら嘘でもやりかねん。大体子供の前で何てこと言うんだ……」
「子供?」
「ったく、冗談の通じねぇ……。ほら」
そう言ってガルドが後ろに隠していたアルトの背を押す。不機嫌そうだったディルの顔が一瞬で驚きに変わった。
「白い髪……。まさか、あの時の……?」
「えっと、あの、これを狼の僕に貸してくれた方ですよね?」
「……ああ、それは俺が使っていたものだ。返しに来てくれて、ありがとうな」
そう言ってアルトの頭を撫でる。
あの時と同じ大きくて温かい手だ。じんわりと温かくなって、緊張していたアルトの表情が緩む。
「……よかった」
安堵したようなディルの声に顔を上げようとすると、ぐしゃぐしゃと髪をかき回された。
「あぅ。あの、僕もありがとうございました。あの時は頭に血が上っちゃってて……」
「いや、無事ならいいんだ。……それにしても、こんなに小さいと思わなかったな。獣姿だと成獣だと思ったんだが」
確かに、アルトは十六歳で成人しているので、狼姿だと立派な成獣だ。
しかし人間姿だと同年代の女性の中でも身長は低めで凹凸もほぼなく、子供に見られる。少年でも通るのはこの、いろんな意味での小ささのせいだ。
「そうなのか? お前――っと、名前を聞いてなかったな。俺はガルドだ。所属は第二隊な。それで坊主の名前は?」
向けられた快活な笑顔に、アルトの中でガルドの地位が苦手な強面騎士から、気さくな優しいおやじに昇格される。少し緊張が解れ、アルトも名乗った。
「えと、アルトです」
「おう。んで、こっちが――」
「ディルだ。第一隊の隊長をしている」
ディルの位の高さに内心驚いたが、それが敬称を付けられる理由かと納得した。
「ガルドさんに、ディル様ですね」
「何で俺だけ様になるんだ」
確認するようにアルトが二人の名前を繰り返すと、すかさずディルから突っ込みが入った。
「えっ? あれ? が、ガルドさんがディル様って……。もしかして、僕は呼んじゃだめでしたか……?」
もしかしたらガルドがからかっているだけで、ディルにとっては不快な呼び方だったのかもしれない。不安になり、アルトは眉を下げる。
「いや、大丈夫だ! 駄目じゃない! 様じゃなくても構わないのにと思っただけだ」
「……ええと、どちらがいいんでしょう……?」
「う……」
アルトが困ってしまうと、ディルも呼び方について強制することは出来ず、言葉に詰まった。
「様って呼んどけ、アルト。砦の殆どの奴はそう呼んでる。ディル様の名前は長いからな」
「分かりました!」
呆れたように締めたガルドに、アルトが従順に返事をする。
その様子に、ガルドは思わずアルトの頭を撫でた。
会った時よりも印象が良くなったため、アルトも怯えたりはしなかった。
「……何か心配になるんだが……大丈夫か?」
「? 大丈夫です?」
「……まあいい。ディル様のせいで逸れちまったな。それでアルト。お前、いくつだ?」
「おい、さりげなく俺のせいにするな」
ディルが抗議の声を挟んだが、話を振られたアルトは彼の訴えに取り合うこともできずに考え込んだ。
本当の年齢を言うとおかしいと思われるだろうが、アルトは嘘をつくのが下手だ。失敗して印象が悪くなるより、正直でいる方が良いと思い口を開いた。
「じゅっ、十六……です……」
「十六!?」
案の定ディルが驚きの声を上げる。
その反応に居たたまれなくなってアルトが俯くと、思わぬところから助けが入った。
「ディル様、人の成長には個人差があるもんだ。見た目だけで判断したら可哀そうだぞ」
どういう意味で可哀そうと言っているのか深読みしそうになるが、ガルドの態度からして恐らく男として背が低いことを擁護してくれているようだ。
ガルドがごつごつとした手をアルトの頭にのせてわしゃわしゃとかき回した。
指摘されたディルが気まずそうな顔をして頭を下げる。
「悪かった」
「いえっ」
心底申し訳なさそうに頭を垂れるディルにこちらの方が申し訳なくなる。
「すみません、ガルドさん」
かばってくれたガルドにも申し訳なく思い、礼を言う。
頭に手を置かれているので、顔が上手く上げられない。目線だけでも合わせようと上目遣いに見上げると、ガルドがぱっと手を放してディルに寄る。
「……おぉ、ディル様、こいつ恐ろしく可愛いな」
「……お前にはやらん」
何か言っているが、アルトは接近してきた新しい気配に気を取られて聞き漏らしてしまった。
「――お客様はまず規定の部屋に案内しましょうか、ガルド。それからディル、もうすぐ昼休みなんですから、それまでは油を売っていないで頑張ってください」
襟の色が違う。
振り返って新たに現れた騎士を見て、まず気づいたのがそれだった。
穏やかそうな顔つきで、薄い茶色の髪を緩く束ねて横に流した姿は、言葉遣いからも感じられる通り、荒事よりも文官に向いていそうな人だった。
「げっ、ルイツ副長」
「なんです? ガルド。ああ、もしかしてサボりでしたか? ここで長く勤める貴方が客室を知らないはずはありませんからね」
「いやいやいや! ちょーっとうっかり間違えて、先にディル様に通しちまっただけで、まさかサボりだなんて。そんなことするわけないですよ!」
焦ったようにガルドがルイツ副長と呼んだ男に弁解する。
副長というと団長のすぐ下、つまりこの砦で二番目に偉い人ではないか。
人というか、獣族だが。
アルトの自慢の鼻が、ただの人間とは違う匂いが混じっていると知らせている。何の獣になるかはわからないが、獣族であることは確かだろう。
「うっかり、ですか。まあ、おかげで早く気づけたのでよしとしましょうか」
ぼそりとルイツが呟き、髪と同じ茶色の瞳を細めてアルトを見つめた。
人の視線を受けると、アルトはつい緊張して何かの陰に隠れたくなるのだが――今回は興味が勝った。
今までライカと駐在騎士以外の獣族には出会ったことがなかったのだ。
何となく仲間意識を感じて、アルトはルイツと呼ばれた男を見上げた。
「ふふ、素直で可愛いですねぇ」
そう言って副長がアルトの頭を撫でる。
「なんで初対面の副長にいきなり懐くんだ」
「超えられない種族の壁だな」
むすっとしたように呟くディルをガルドが宥めた。
「さあ、君も荷物が重いでしょう。落ち着いて話ができる部屋に案内しますので、私についてきて下さいね。ディル、ガルド。不真面目な人間は呆れられてしまいますよ。休憩までは頑張ってください」
副長と呼ばれた騎士はディルとガルドの尻を叩いて職務に戻し、アルトに手招きして歩き出した。
ありがとうございます。
ようやく楽しくなってまいりました。
調子に乗ると会話ばかりになってしまいます。気を付けます。