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4.たったひとりの夜に

★残酷な表現ありです。苦手な方はご注意ください。


 綺麗な真っ黒な毛並みが血で固まり、触れるとごわついている。


(……綺麗に……したいな……)


 ライカは綺麗好きで、いつもふわふわの毛だった。

 アルトは湯を張って布を絞り、ライカの体を拭き始めた。毛皮から血を拭い、布を濯ぎ、また清める。

 黙々と、同じことを繰り返した。




***




 その頃、外では村長達が魔物の消失を確認しに来ていた。

 通常であれば、人の匂いが残る村はすでに魔物によって破壊されている頃だ。そしてその災厄は、人間の気配がより濃い街の方へと進んでくるはずだった。


 しかし、いつまで経っても魔物が迫りくる気配はなく、村と森は静かなままだ。

 もしかすると魔物は討伐されており、自分達は村に戻れるかもしれない。

 村人達はそんな希望を捨てられず、代表して村長と村の年長者が確認することとなった。


「……異常は、ないな……」

「外にも魔物の姿はない」


 手分けして周囲を巡り破損の有無を確認していくが、何処にも魔物の爪痕は確認できない。


「まさか、討伐出来たのか……?」

「白鳩まで飛ばしたんだぞっ。信じられるか!」


 一人の希望的観測に、別の村人が強く反論した。

 魔物の脅威に脅かされ続けてきたのだ。駐在の騎士に確認しなければ安心できないと、そう言い募っていた時――。

 

「おい、誰か! こっちへ!」


 切羽詰まった呼び声に、近くにいた者がすぐに駆けつけた。

 見れば村の裏から中へ、点々と血が垂れている。顔を見合わせた彼らはそれを辿って進み――さほどかからず、ある家に行き着いた。


 その時点で皆、中にいる人物が村のために負傷したであろうことを察していた。

 詳しい話も聞きたいところが、まずは具合を見なくては。

 そう思い、合流した村長が代表して家の扉を叩いた。


「クレスト、ライカ、いるかい?」


 声を掛けたが、返事は返ってこない。

 やむを得ずそっと戸を開けた瞬間、鼻をつく濃い血臭が彼らを迎えた。

 噎せそうになりつつ視線を巡らせば、家の中では一人の子供が自身の身体を赤く染め、血塗れの黒狼の体を拭いていた。

 床は血で汚れ、赤黒く染まった布が散乱している。


 暗くなりつつある部屋の、その惨状に一同が息を呑んだ。





 一方、空けた扉から茜色の光が差し込んでも、アルトは反応できずにいた。ただ動かなくなったライカの毛皮から血を拭い続ける。

 赤く汚れていく布と水。そして、アルト自身。


「…………アルト……」


 布がもう血だらけだ。また一度濯がないと。


「……アルト、……」


 のろのろと近くの桶に張った湯に布を浸す。

 冷たい。

 湯を張っていたはずだったのだが。


「……一人で清めたのか……。後は手伝うよ」


 そう聞こえたかと思うと、ライカに向かって誰かが手を伸ばしていた。

 ぼんやりとしたアルトの視界に、唐突に視力が戻ったようにはっきりとその手が見える。

 その瞬間、思わず手を振り払っていた。


「……触らないで! 見捨てたくせに……っ!」


 今まで使ったことがない、刃のような拒絶の言葉がアルトの口から飛び出す。その瞬間、相手の傷ついたような、泣きそうな顔が目に入った。


 何故そんな顔をするのだろう。泣きたいのはこちらなのに。


(――ああ、でも)


『恨んじゃダメよ』


(――どうしろっていうの。母様)


 項垂れて俯いたアルトをなだめるように肩を叩き、準備をしてくると言い出て行った。

 それから再び村が騒がしくなり、人の気配が増えたこともあった。しかしアルトにとっては関係のない事だった。


 村が眠らないまま朝が来て、村人が再びアルトの家に訪れた。

 村人達がクレストを連れ帰ったと示してくれた箱は、アルトがぎりぎり入るかどうかという大きさだった。本来なら長身のクレストが入るはずもない。その意味を、深く考えることはできなかった。


 汚れた家が片づけられ、クレストとライカが村人達の手によって見送られていく。感覚が麻痺したように、アルトを取り巻くすべてが遠く感じた。


 日が傾き始めた頃、全てが終わって一人家で丸くなる。

 そのまま、意識を手放した。




***




 気づけばアルトは狼の姿で走っていた。

 どれくらいそうしていたのだろう。とうに息は荒くなっていて、喉が痛くて足の感覚はすでにない。狼の姿でこんなになるまで走ったことはなかった。


 茜色が薄く残り、暗い蒼が空を塗り替えていく。薄暮の時は短く、間もなく夜が来て人は眠りにつくのだろう。

 いつものように、当たり前に。


 こんなに悲しくて苦しいのに、どうして世界はいつも通りなんだろう。

 まるでクレストとライカなどいなくても困らなかったとでもいうように、世界は変わらず回っていく。そして立ち止まったアルトを弾き出し、置いていく。

 そんな風に、何事もなかったかのように回る世界が受け入れられない。


 自分を取り戻すと押し寄せるのは苦しい気持ちだけで、何も考えたくなくてアルトは必死で足を動かした。



 駆けて、駆けて、駆け続けて、星が瞬き出した頃。とうとう、小さな隆起が疲弊した足を絡め取った。勢いづいた身体は容易く宙に投げ出され、全身を打ち付けながら地面を転がる。


『っく……!』


 荒い呼吸を繰り返し、ぐっと頭を起こしたが――限界を超えた足が震えて立ち上がることが出来なかった。


 これ以上、走れない。

 身体はそう悲鳴を上げているのに、逃げ続けなければ何かに押し潰されてしまいそうだった。

 儘ならない身体を持て余し、アルトは掠れた唸り声を上げる。


 だが抵抗も空しく、ぼろぼろの身体は本格的に動かなくなり、諦めたアルトは力を抜いて地に伏せた。


 白い冷たい月から光が降り、たった一人のアルトを照らす。

 心も体も疲れ果て、目を閉じた。


『――一人でも大丈夫だね?』


 最後にクレストから言われた言葉が蘇る。


 大丈夫なんかじゃないよ。

 こんなに苦しいんだ。

 まだ練習するって言ったのに。

 次は私が父様を追いかけてもいいんだよ。


『――私の大事な可愛い子』


 大事なら、悲しませないで。

 どうして置いていったりしたの。 

 傍にいて。

 一人にしないで――。


 ひりついたアルトの喉から掠れた声が出る。

 それでも止められず、願いを届けるように、答えを求めるように、吠える。


 どれだけ呼んでも願っても、返事は返ってこない。


『――っ』


 声すらも出なくなり項垂れかけた時、不意に言い様のない不快な気配がし、がさりと草を踏みしめる音がアルトの耳に届いた。


 思わず振り返ると、そこには馬と猪が混ざったような魔物がいた。

 魔物は人間を嫌う。恨んでいると言ってもいい程、無差別に人間を攻撃するのだ。一方、獣族は攻撃しない限り襲われない。

 理由はわからないが、それが世界の理だった。


 例にもれず、馬の魔物もアルトには見向きもせず、どこかへ向かうところのようだった。

 放置すればアルト自身は無事である。

 しかし、魔物の姿を見た瞬間アルトは我を忘れた。


 先ほどまで起き上がることも出来なかった身体が、突然血が廻ったように熱くなり、跳ね起きる。

 なぜこんな存在がいるのだと、許せなくて形振り構わず飛び掛かった。


 大きさでは魔物に敵わない。

 しかし俊敏さとしなやかさなら、アルトの方が勝るはずだ。


 普通の馬にはない鋭い牙を避けながら胴に食らいつく。痛みで暴れた魔物に振り落とされようとも、すぐに姿勢を整え再び飛び掛かった。

 爪で魔物の身を裂き、抉る。叫んで身を仰け反らせた隙をつき、アルトはその喉笛に食らいつこうと牙を剥いた。

 だがその瞬間、異常に長い尾がアルトの身体を打ち、弾き飛ばした。


 予想外の攻撃で、アルトの身体は地面へと叩きつけられる。

 そこへ怒りに染まった魔物が迫った。


 ――やはり、無理だった。

 クレストやライカがいなければ。


 ならばもういい。

 無謀な行動をとって、魔物にも一矢報いることができず無念な気持ちもあるが、でももう、全てどうでもよい気がした。

 もう悲しむことも、怒ることもないだろう。


 ぐったりと地に伏せ、アルトはその時を待つ。


 ……だが、いつまで経っても衝撃や痛みは訪れなかった。

 不思議に思って見上げると、目に入ったのはこちらへ向かっていたはずの魔物が灰と化す姿だった。その後ろから、魔物の血で濡れた剣を払う人間が現れる。


「――無茶をする」


 険しい顔をして近づく人間を見上げる。

 まだ若い、男のようだった。


 何も考えられず、ぼんやりとそこにいる人間を見つめる。

 そんなアルトとは対称的に、彼はどこか泣き出しそうな、そんな顔をしていた。


 アルトが動きもせずじっとしていると、彼は不意に身を屈めた。


「――そんなに、自分を投げ出さないでくれ……」


 まるで自分が傷ついたような、苦しそうな声でそう願い、アルトの背に手を伸ばす。


 ――何故か、触れられるのは怖くなかった。


 冷え切った身体を優しく撫でられ、知らずに入っていたらしい力が抜けた。そのまま地に伏せて、アルトはそのあたたかい手に身体を委ねた。


 労るように触れられる度、アルトの胸の内が変わっていく。嵐のように荒れていた気持ちが凪いで、悲しみだけが残る。

 なぜこの人間がこんなにもアルトに寄り添うのか分からなかったが、じわりと胸に広がる何かに釣られ、気づくとアルトは泣いていた。


「……行くところがないなら……もし、お前が構わないなら……。落ち着いたら、砦に来るといい」


 撫でられていると瞼が落ちてくる。

 疲れた体と温かい手に誘われるまま、アルトは眠りに落ちた。









今回も、お読みいただきありがとうございます。

ようやくあの人が現れました。


もうしばらく暗いですが、お付き合いいただけると嬉しいです。


次回は砦側からの視点になります。

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