32.自分を大事にするということ
医務室は執務棟にあり、階段を上れば副長室にたどり着く。しかしアルトは中々一歩を踏み出すことができずにいた。
初回でこんなことになり、ルイツに会えば解雇通告を受けるかもしれない。それに、カイルからルイツはきっと怒ると脅されていた。
報告はディルに行い、今日のところは傷が痛むということで免除してもらおうか。
アルトは頭によぎった甘言に惑わされ、くるりと階段に背を向ける。すると開け放された扉から、ディルが執務棟に向かって来るのが見えた。外勤務のうちでも、今日は砦内での仕事だったようだ。
「ディル様」
アルトがほっとして呼び掛けたが、ディルは厳しい顔をしたまま近づいてきた。
「アルト、大人しくしていろ」
「へぅ?」
がくっと体が揺れ、アルトの口から間抜けな声が漏れた。
目線が上がり、ディルと同じ高さで目が合う。
「これに関して、俺は一切擁護するつもりはない」
ディルが真剣な顔で話すが、アルトは後ろから自分を抱え上げている相手が気になって耳に入らなかった。近すぎる距離がアルトに匂いを届け、嫌でも誰かを教えてくれる。
「る、るいつ副長……」
「逃げたりしませんよね。アルト君?」
普段より数段低い声に、アルトの背筋が冷えた。
確実に怒っている。
暴れて逃亡する気などアルトにはないが、しっかりと抱え直されてしまう。見下ろすと綺麗に微笑まれ、アルトは為す術なくそのまま副長室へ連行された。
副長室へ入ると、ルイツは一人掛けの椅子にアルトを下ろし、向かいへ座った。
ディルはというと、外勤務のはずなのにアルトの近くに立つ。
仕事は大丈夫なのだろうか。
何よりアルトが座って彼が立っている状況が落ち着かない。
俯いたまま、そろりとディルを見上げる。
その様子を見たルイツがディルに席を勧めたが、彼は仕事を理由に断ってしまった。
「アルト君」
「はいっ」
名前を呼ばれ、アルトは姿勢を伸ばした。
(――とうとうきた)
ルイツが口を開くと同時に、アルトは反論のため息を吸う。
「今後は――」
「気を付けますっ。今日より短い時間で、きちんと成果を出すようにします。だから、お願いです。……お仕事、やめさせないでください……」
被せるように訴えた。
指示されたことはきちんとできており、滞在時間にさえ気を付ければ次は失敗しない。
アルトにとって、これは砦にいるための条件だ。
そしてこの場所で自身が役に立てる数少ない仕事。
森で起きたことはもう二度と経験したくはないが、簡単に止めたり、取り上げられたりするわけにはいかなかった。
アルトの必死な主張に、ルイツがはぁ、と溜息をつく。
「……最後まで話を聞きなさい。予期せぬ出来事はあるものです。ましてや初めての事、それだけで誰も止めさせるとは言っていません。人手不足なのは事実ですし」
「……じゃあ……」
ルイツの言葉に、光明が差し込む。
アルトは期待の眼差しで彼を見詰めた。
「あなたが望むなら、これからも頼みます。ただし今回より短い時間で、周りから離れないように」
「はいっ!」
許可が出て一安心し、アルトは声を弾ませて返事をした。それに反し、ルイツが張り付いた笑顔で口を開く。
「それではもう一つ大事な話をしましょうか、アルト君。……怪我は大丈夫ですか?」
何となくルイツから圧を感じたが、アルトは聞かれたことに対して、特に考えず返事を返した。
「はい。ちょっと切っただけで、無茶しなければ10日ほどで完治するそうです」
「10日でちょっと……」
ディルがアルトの横で頭を抱える。
ルイツの纏う空気が冷えた。
どうやら、答えを間違ったらしい。
何故、と考えるが分からず内心だらだらと汗を流すアルトに、ルイツが再び溜息をついた。
「怪我を隠すのは我々獣族の、獣側の本能ではありますが……。あなたのその自分に対する無頓着さは、どうすれば治るんでしょう」
「えと……」
珍しくルイツが悩む様子に、アルトは戸惑った。
「初めて会った時の私の言い方が悪かったんでしょうね……。そうまでして、迷惑を掛けまいとするのは」
ルイツはアルトが砦に来た時、はっきりと砦の迷惑になると言い切っている。ここまで影響したのは、アルトの性格を考慮しなかった自身の誤算だと考えていた。
一方アルトは、ルイツが出したとんでもない帰結に焦って否定を返す。
「そっ、ルイツ副長のせいじゃありません! 僕が、とにかく嫌で……!」
必死で彼の考えを訂正しようとしたが、ルイツは変わらずどこか悔やむ様な表情を浮かべている。アルトは次第にそんな表情を見ていることが出来なくなり、とうとう言葉を止めて俯いた。
ここでは簡単に甘えていい相手など作ってはならない。
ディルの傍に置いてもらえただけでも有難く、これ以上迷惑をかけることなど許されない。
自分を戒め、波立つ心を抑えるように、咄嗟に何時ものように腕を掴んだ。切った腕は加減するまでもなく痛みを訴え、アルトの意識はそちらに向く。
すると不意に、力の入った手に触れられ、驚いてみるとディルが自身の手を重ねていた。
「アルト、迷惑を掛けないことと、自分を大事にしないことは別だ」
思ってもみなかったことを言われ、アルトは目を瞬いた。
「魔物の森で、何を見たのか、何を聞いたのか、お前が言いたくないなら聞かない。でも、自分を切るほどのことだったんだろう? こんな風にいつもみたいに腕を握るくらいじゃ済まなかったんだろう?」
驚いてディルを見つめる。
いつからそれが、アルトの癖だと知っていたんだろう。
「迷惑を掛けないように頑張るのはいい。だが、痛いときは痛い、苦しいときは苦しいと言うんだ。それは迷惑とは言わない」
ディルが言うのであればそうなのだろう。
だとしてもどうにもならないことは、ある。
言ったことが相手の負担になるくらいなら、黙っていたいと思いアルトは口を開いた。
「……でも、自分で作った傷なんです。痛いって言っても困らせるだけで、どうしようもないじゃないですか」
返された言葉に、ディルは強情だ、と内心苦い表情になった。
泣きそうな顔をするのに、それでも受け入れないアルトがもどかしい。
なんとか届くようにと、ディルは言葉を重ねた。
「それでも口に出せば楽になることもある。我慢強さは美点だが、行き過ぎると自分の感情を見失う。俺は前にも言ったな、怒ったり泣いたりしたらいいと」
「…………はい……」
ディルが許してくれた言葉を思い出し、アルトはゆっくりと頷く。
「なら言えるな、アルト。――――傷は、痛むか?」
そう問われ、俯いたアルトはようやくぽつりと零した。
「…………いたい……です……」
傷も、胸も。
堪らないくらい辛くて痛かった。
すると、その言葉を待っていたように、ディルが頷いて頭を撫でた。
「――ああ。痛いのに、よく頑張ったな」
「――……っ」
とても、辛かった。
とても、苦しかった。
そんなどうしようもない思いを口にして、誰かがそれを受け止めた。
それだけだ。
ただそれだけのことが、どうしようもなくアルトの胸を震わせた。
込み上げてくるものを止めたいとは思わなくて、そうしてやっと、一人では抱えきれなかったのだと、誰かに話して泣きたかったのだと気がついた。
零した涙で胸の痛みが流れていく。
どうにもならないなんて、嘘だ。
この思いを受け止めてくれる人が、分かち合おうとしてくれる人がいる。
そのことに、自分はこんなにも救われる。
それがとても幸せなことなのだと、胸が一杯になって思い知った。
アルトが嗚咽を堪えて俯くと、ルイツが気遣うように穏やかな声で話しかけてくる。
「……今更でしょうが、どうか言わせてください。縫えば直せるようなものなどより、あなたの方が大事です。隊服のお陰で、傷が浅くてよかった……」
温かい言葉に、顔を覆った手の隙間を雫が伝う。
そんなアルトの頭を、ディルがいつものように優しく撫でた。




