27.騒動1
カイルはまだ用事があるらしく、少し話をした後で別れた。アルトは日用品を見るため、ディルの案内で雑貨屋へ向かうことになった。
手持ちはさほど多くないが、見るだけでも楽しい。軽く跳ねながら歩いていると、ディルが堪え切れないと言うように笑った。
「ご機嫌だな」
「はい! ディル様と一緒だからです!」
「――っお前、本っ当そういうの……」
「あ! ディル様ここですよね?」
アルトは硝子越しに店の中を覗き、目的の場所を発見する。振り返ってディルに尋ねたが、何故か彼は頭を抱えており、力なく肯定を返してきた。
アルトは首を傾げたが、目の前の店が気になって、早々に扉に足を向ける。取っ手に手を掛けた瞬間、悲鳴が響いた。
「!?」
アルトが何事かと勢いよく振り返ると、ディルも同じように緊張した表情で悲鳴が聞こえた方向を向いていた。突然響いたそれに、街を歩いていた人々も足を止めて不安げな表情を浮かべる。
そこへ遠くから一人の男性が走って来て、最悪の情報を伝えた。
「魔物だ! 建物の中へ避難しろ!」
その切羽詰まった様子に、冗談ではないと察した周囲が騒然とする。
「魔物ですって!?」
「なんだと!?」
店は窓や扉を閉じ、歩いていた人たちは悲鳴とは逆の方向へ走り出した。
突然もたらされた混乱に、アルトは呆然と立ち尽くす。
似たようなことが、前にもあった。
逃げる人達と叫び声、魔物の咆哮。そして―――血の、匂い。
甦る記憶に、アルトの体が固まった。
緩んだ隙をついたように襲い来る脅威の波は、何の備えもしていなかった正常な思考を奪い取る。
ただ焦りと恐怖がアルトを蝕んでいった。
「――――っ、は、」
心臓が早い調子で鼓動を打ち、走ってもいないのに息が苦しい。
急速に冷えていく体に震え、握った腕に爪を立てた。
「――ト、……アルト! しっかりしろ!」
「はっ、はい!」
焦ったような表情をしたディルに肩を強く揺さぶられ、アルトはようやく返事をした。
真っ青なアルトの顔色に、ディルは見ていられなくなって顔を歪める。
(ついていてやりたいが、魔物と聞いた以上、確認しないわけにいかない……!)
「――俺は様子を見てくる。アルト、お前は待ってろ」
その言葉にアルトはびくりとする。
村でクレストに最後に掛けられたものと、同じだった。
「――っ嫌です!」
アルトは咄嗟に叫び、ディルの服を掴んだ。
置いていかれたくない。
何もできないままで、もう同じ思いはしたくない。
「だが、お前……っ!」
きつく握ったアルトの手は震えていた。
それがディルを迷わせるのだと気づき、アルトは掴んだ服を握りしめてぐらつく自分を叱咤した。
(だめだ! 動け、僕!)
今はディルがいる。
決して独りにはしないと約束してくれた人が、傍にいる。
絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせ、怖れを振り払うように叫んだ。
「本当に魔物なら、一人より二人で対応するべきですっ! それに砦に助けを求めるなら、どんな魔物か見ておかないと応援を頼めません!」
必死で紡がれる言葉に、ディルは心を決めた。意見は正しく、そもそもアルトを関わらせたくないのはディルの我儘でしかないからだ。
「――分かった。絶対に一人で飛び出したりするなよ」
「はい! 必ずお役に立ってみせます!」
人の流れとは逆に向かって走り、辿り着くと工業区の一角だった。一人の女性が腕から血を流して道に座り込んでいる。
震える女性の傍らに膝をつき、ディルは穏やかな声で問いかけた。
「すまない、何があったか教えてくれないか」
「……あの建物から、何かが飛び出してきて……っ、それで、噛まれて……!」
女性が目で示した近くの建物の窓は破られており、辺りには破片が飛び散っていた。
窓はアルトが両腕で円を作ったくらいの大きさしかない。女性が負った咬傷は前腕だけで、窓の大きさや傷から、さほど大きい個体ではないようだ。
大きいというのは厄介だ。魔物が起こす一つの動作だけで、人間の体が欠損する。
油断はできないが、小さい魔物であることに、アルトの気が少し落ち着く。
「災難だったな。他に、怪我は?」
「……ないです、けど……。あれが魔物だったら、……わたし、大丈夫かな……っ」
魔物は小さくても毒を持つものもいる。怯える女性に、ディルは苦い顔をした。
応急処置は出来るが、流石に毒消しは持っていない。魔物の森の植物を原料とするそれを所持して良いのは勤務時のみで、街に持ち込むことは出来ないからだ。
「ディル様! アルト君!」
その時、聞き慣れた声がしてアルトが振り返ると、カイルが駆け寄ってきた。
ディルが明らかにほっとした顔をする。
「助かった、カイル。咬まれたらしいが、相手は魔物の疑いがある。手当を頼む」
「分かりました」
「え……、あの……」
「大丈夫だ。彼は砦の医師だ。魔物による怪我の手当ては慣れている」
それを聞いた女性は驚いたように目を丸くしてカイルを見た。恐らく彼の見た目が若いせいだろう。
早速真剣な表情で女性の腕を診る様子に、彼女はほっとしたように体の力を抜いて目を潤ませた。
「もう一つだけいいか? その獣が何処へ行ったか分かるか?」
「はい……。咬み付いてきたのを、鞄で殴って追い払ってくれた人がいて……。その人を追いかけて向こうへ行きました」
ディルが女性に気を遣いながら尋ねると、彼女は目元を拭って答え、路地を指さした。
「……魔物だとすると最悪だ……」
女性の腕を圧迫止血しつつ、カイルが苦々しい顔をして零した。
「……建物の捜査は街の警備に任せよう。俺はとりあえず追う。カイルは手当てが済んだら砦へ連絡を頼む」
ディルはカイルに答えながら立ち上がり、顔を顰めて入り組んだ路地を見つめた。
逃げた人々はすでに近くにいないようで、騒ぎの声も聞こえない。耳を澄まそうにも工業区であることが災いし、建物から溢れる音が邪魔して聞こえ辛かった。闇雲に路地を走ると、逆に遠ざかってしまう可能性がある。
ディルの逡巡と焦りを感じ取ったアルトは、あることを閃いて顔を上げた。そして彼と入れ替わるようにして女性に近づき、その傍らに膝をつく。
「すみません」
「えっ!?」
アルトは一言断って、女性の腕に顔を寄せて傷口の匂いを嗅いだ。
人間の女性特有の甘い香りと血の匂いに混じって、獣臭さがある。噛まれたということで、唾液などの匂いを発しやすい痕跡があって助かった。そう思いながら神経を集中させ、匂いを記憶する。
アルトが納得して目を開いたとき、漸く自身に向けられる視線に気づいて顔を上げた。すると女性のぽかんとした様子が目に入る。
固まったままの彼女を見て、アルトははっとした。
「と、突然ごめんなさい」
今更ながらに人の匂いを無暗に嗅ぐなとディルから言われていたのを思い出し、身を縮めて謝る。
女性がぶんぶんと横に首を振ったが答えはなく、アルトはこれ以上不快にさせないよう身を引いた。何か言いたげにしていたが、叱られると傷つくのでカイルに後を任せる。
カイルは一瞬呆れたような目をアルトに向けたが、女性に向き直る頃には何事もなかったかのように微笑んで、手当てのために女性を誘導していった。
それを見送りながら、アルトはディルに声を掛ける。
「ディル様、覚えました。まだ追えます」
断言するとディルが驚いた顔をした。
「普段から嗅がれているが、そんなに分かるものなのか……」
「遠くなると厳しいので行きますね」
「ちょ、待っ――!」
ふらりと走り出したアルトを追いかけて、慌ててディルも走り出す。
初めから道を知っているかのように、アルトは分かれ道を迷うことなく選んで走った。
道を進むにつれ、アルトの耳に騒めきが聞こえ始め、騒動の中心に近づいていることが感じられた。
(――――あれ?)
何度目かの角を曲がった時、違和感に気付いてアルトは足を止めた。追いかけてきているディルにそれを伝えようとした時。
「うわぁっ!」
「!」
かなり近いところから叫び声が上がった。アルトは弾かれたように再び走り出し、声が聞こえた方へ向かう。
角を曲がった瞬間目にしたのは、石畳に倒れた人に魔物が飛び掛かるところだった。同じように逃げていたらしい、周囲の人達から悲鳴が上がる。
咄嗟に腰につけたナイフに手をかけ、投げつけた。放ったナイフはあやまたず魔物の背に刺さり、飛び掛かろうとしていた体が仰け反って地に落ちる。致命傷ではないらしく霧散しないため、再び起き上がる前に駆け寄り、その体を踏み付けて押さえた。
黒い体毛に覆われたそれは、見た目は猿のようだが、頭から山羊の角のようなものが生えている。尾は二股で、鋭い爪を持っていた。
アルトが魔物に伸し掛かると、下敷きになったそれはぎゃあぎゃあと喚いて暴れた。尻尾がアルトの手を弾こうとするが、構わず浅く刺さったナイフに体重をかけて押し込み、捻った。ぶつりと何かを断つ感触が手に伝わり、言い様のない不快感を堪える。一拍おいて力を込めていたナイフが空を掻き、魔物の姿が消え去った。
(――――で、出来た……!)
安堵と達成感でアルトはその場に座り込む。今更ながらに震えた手がナイフを取り落とした。
気持ちを静めるように息をつき、大丈夫だと言い聞かせる。
次いで倒れたまま呆然とこちらを見ている男性に声をかけた。
「……あの……大丈夫、ですか?」
すると彼ははっと我に返り、アルトの腕を掴んで訴えてきた。
「もう一匹いるんだ! まだ逃げてる人達がいる!」
「! ――だから匂いが!」
「アルト、どういうことだ?」
後を追ってきたディルが、衝撃を受けているアルトの肩を叩いて詳細を尋ねた。
「途中から匂いが変に広がっていて……それで途中で止まってしまったんですが……。すみません、もっと早くに気付けていれば」
「お前は悪くない。こんな状況なのに、お前は十分頑張っている」
アルトが俯くと、ディルがその頭を撫でた。
ディルには音も匂いも人並みにしかわからない。アルトがいなければ、声が聞こえてから走り出す羽目になっただろう。走る方向が違えば声も聞こえなかったかもしれない。
謝るアルトに、ディルは心底助かっていると擁護した。
「――ありがとう、ございます」
「ああ。それで、もう一匹の場所は分かるか?」
「えっと、魔物が二手に分かれてからの時間を考えると、まだ何とか匂いが分かる距離だと思います。……でも、匂いを覚えたものと別の個体みたいで……不正確かもしれません」
情報が正確ではないことを伝えないと、ディルに取り返しのつかない判断をさせることになる。
「構わない。闇雲に走るより、可能性のある方に向かってくれ」
ディルが頷くと、漸く身体を起こした男性から声が掛かった。
「ま、待ってくれ。あんた達は大丈夫なのか……?」
「大丈夫だ。また襲われないよう、すぐに近くの建物へ避難してくれ」
「ディル様、僕急ぎます」
アルトはきゅっと顔を引き締めて、匂いと、遠くで石畳と叩く靴音を頼りに走り始めた。
狼であるアルトの足は速い。
ディルは角を曲がる度、アルトの姿を見失わないよう追いかけた。
ふわふわと白銀の髪を揺らしながら駆けていくアルトは、時折立ち止まって遠くを見ている。金色の瞳は不思議に揺らめき、恐らく目で見ているのではなく、匂いの痕跡を見ているのだろうと感じた。
「近いような気はするんですが……」
アルトが立ち止まり、きょろきょろと視線を彷徨わせる。
魔物の姿は見えず、逃げている人も見当たらない。
「アルト、見てみろ。建物を上ったんだ」
ディルがアルトに声をかけ、目で近くの建物の壁を示す。そこには引っ掻いたような傷がいくつもできていた。すん、とその場所に残る匂いを嗅ぎ、辺りを見回す。
その時何かの影が地面をざっと横切った。
咄嗟に見上げるが、建物の屋根と空しか見えない。
しかし一瞬濃くなった匂いが、探している相手だとアルトに教える。
「逃がしません!」
新たな獲物を求めて移動する魔物に、アルトは急いで後を追った。
走って跳びあがり、店の旗を掛けた支柱を掴む。勢いをつけて身体を振り上げ、軒の上に着地する。軒を走って隣の店の露台に跳び上がり、屋根を目指した。
「アルト!」
ディルが名を呼ぶ声には静止の響きを含んでいたが、見失うわけにはいかない。
屋根に辿り着いたアルトは、魔物の背を追って走り出した。
お読みいただき感謝です。
7/11ちょっと改稿しました。怪我人の扱いについて、あれ?結構放置してないか……?と思いまして。




