17.心揺らすもの
「うっ」
うめき声を漏らし、アルトは扉を開けた瞬間の匂いに思わず蹲った。
「だ、大丈夫か?」
大丈夫かと問われても返答できない。人間よりも匂いに敏感なアルトは汚部屋――もとい団長室の匂いに耐えられなかった。
息を止めてもなお残る匂いに吐き気がこみ上げる。走って洗面室に駆け込み、なんとか周囲を汚さずに済んだ。
真っ青な顔で座り込むアルトに、後を追ってきたリッツが声をかけてくる。
「お、おい……」
「すみません、戻ります……」
「……無理するなよ……?」
同じく罰を受ける立場ではあるものの、あまりにも顔色の悪いアルトにリッツは労りの声をかける。
この砦に詰めるだけあって、やはり根は良い人なんだなとアルトはぼんやり思った。
「鼻が良すぎるのも大変だな。それじゃやってられないだろ。先に窓を開けてくるから、暫くしたら布で鼻回りを覆ってから来い」
立ち上がろうとするアルトを制し、リッツは先に汚部屋へと旅立つ。
暫くすると扉を開け放したのか、匂いが漂ってきたが、廊下の窓も開けているので先ほどよりもましだった。
アルトはふらふらとした足取りで部屋に向かう。
戻ってきたアルトを見て、リッツは無理するなよと声をかけてそれきり黙ってしまった。
ごみを捨て、床を拭いて本は資料室に戻す。汚れの染み込んだ敷物や匂いのついたカーテンは洗濯に出した。
初めは無言が続いたが、会話しないと連携が取れないので片付けが進まない。
リッツがぎこちなく用件をアルトに伝えるようになり、しばらくして唐突に話し始めた。
「……悪かったな。お前を貶めるようなことを言った」
「リッツさん……?」
「リッツでいい。年、実はそんなに変わらないだろう。獣族の成長度なんて知らないが、お前が何もできない、何も考えてない我儘な子供じゃないってことは分かった。だから……悪かった」
リッツが頭を下げ、アルトは狼狽えた。
こんな時、どうすればいいのだろう。
彼に傷つけられたことは事実だが、砦の和を乱したのはこちらだという自覚がある。
お前のせいでと怒る術を、アルトは知らなかった。
真摯な彼の心が見えて、何故だか泣きそうになる。
「――っ、僕も、ごめんなさい、突然来たりして……」
「ああもう、何でお前が謝るんだよ。副長がいいって言ったんだから、いいだろっ。お前は俺に、許すとでも言っとけばいいんだっ」
言外に気にしないよう伝えるリッツに、アルトは頭を垂れ、許す以外の言葉を口にした。
「……ありがとうございます、リッツ」
昼休みを返上しても団長室の掃除は終わらず、午後の訓練後には再びリッツと共に向かうことになった。日がすっかり落ちた頃、ルイツに報告をしてようやく合格をもらうことができた。間もなく食堂が閉まろうかという時間で、リッツは夕食を摂るためそのまま直行していった。
匂いで鼻が利かなくなったアルトは、食事をしてもほとんど味を感じないだろうなとぼんやり考えていた。何より色々と疲れて食事という気分ではなかった。
ふらふらとしながら宿舎に戻ると、談話室に見慣れた黒髪を見つける。
「お疲れだな、アルト」
「ディル様!」
思わず駆け寄ろうとして、昼間にアルトが仕出かしたことを思い出す。
もしかして叱るために待っていたのだろうか。
「あ……、今日は迷惑かけて……ごめんなさい……」
不安な気持ちがアルトの足を止めさせ、遠くからディルに謝罪の言葉を口にした。
「いや……こちらも色々と思うところがあってな。ちゃんと罰は受けたんだし、もう気にするな」
そう言われ、アルトは少し肩の力を抜く。これでディルも怒っていたらどうすればよかっただろう。
ディルが座る椅子に近づき、ふと足りないものに気付いた。
(……あれ)
いつもならこれくらいの距離でもディルの匂いがするのだが、全く分からない。
恐らく掃除のせいだろう。
(……団長さんめ)
アルトは顔も見たことのない団長に恨みを漏らし、さらにディルに近寄った。
思うがままにディルの首筋に顔を寄せ、匂いを嗅ぐ。
(…………あぁ、ちゃんとディル様だ……)
ほっとして気が緩む。そうしていると、アルトの顔のすぐ横から声が聞こえた。
「…………何を、してるんだ?」
僅かに動揺したような響きを感じたが、気にせず質問に答えた。
「ディル様の匂いを嗅いでいます」
「…………な、なんでだ。臭いだろ?」
一瞬間が空き、再びディルが問いかける。
「いえ、全然ですよ。だってディル様汗流してますよね? そんなことより、団長さんの汚部屋がもう、凄い匂いで! すっかり鼻が利かなくなりました。それにリッツはまだ慣れなくて、緊張したんです。だからです」
アルトなりに、いかにディルの匂いが必要だったかを語ったつもりであったが、ディルからは納得いかないような顔を向けられる。
伝わらなかったかと思い、アルトは少し考えて言葉を修正した。
「えっと、口直しと、安心のため……? ディル様の匂い、とっても安心します」
上手く言葉に出来たことでアルトの顔が緩む。
分かってもらえたかとディルを見ると、一瞬視線を彷徨わせ、まるで止まれとでも言うように、真剣な顔でアルトの顔の前に手を出した。
「ちょ、っとまて。……お前、こういうことは他の奴にはするな。そういう事も言うな」
「こういうこと?」
アルトが首を傾げて聞くと、ディルが顔を逸らす。
「こう、近づいて匂いを嗅いだり……」
「あっ、近すぎましたよね。お掃除のせいで鼻が利かなくて」
ぼそぼそと小さくなっていく呟きを拾い、アルトは弁解を口にした。
「なるほど――っじゃなくて!」
「匂いがだめでしたか……」
しゅんと項垂れるとディルが焦ったように言葉を足した。
「いや、その、少し居たたまれない気持ちになるというか……とにかく、いくら同性同士でも変に誤解されかねないぞ。その気のない俺ですら……。いや、とにかく。もう一度言うぞ、他の奴にはするなよ!」
「分かりました。ディル様にしかしません」
それくらいなら問題ないと頷いたアルトに、ディルが疲れたように頭を抱えた。
「できれば俺にもあまりするな……」
何やら困らせたようだと狼狽えると、ディルはそんなアルトの頭に手を載せ、さらさらの髪を少し乱暴かき混ぜた。
「……全く、傍にいないと心配で仕方ないな」
「――――っ」
呆れたような響きなのに、ディルの表情はとても穏やかで。
アルトを思う優しい言葉に、アルトの中で張り詰めていた何かが切れた。
「――どうした?」
突然俯いて大人しくなったアルトを不思議に思ったのか、ディルが声を掛ける。
(――――だめだ。これ以上声を掛けられたら)
滲む視界をごまかすように目を閉じて叫ぶ。
「な、なんでもないですっ! 疲れちゃったのですみませんが先に寝ます!」
「おいっ、アルト!?」
アルトを待っていてくれただろうに、先に戻るのは失礼だという考えが頭を掠めたが止まれない。ディルに背を向け、部屋に閉じ籠ろうと慌ただしく走り出した。
階段を上っている途中でディルの気配が追いかけてきていることに気付き、焦って階段を駆け上がる。
鍵を開け、取っ手を捻って部屋に飛び込む。
僅かに遅れて、ディルが外から扉を叩いた。
「アルト? 大丈夫か?」
気遣う声が、今は煩わしい。
この間から、不安定なことは自覚していた。
戻らないものに心を弱らせ、上手くいかないことに焦りを抱く。
だが、強くなろうと思えば何とか保っていられたし、傷ついたことも、緊張したことも、全部飲み込むことが出来ていた。
ただ、今日は少し疲れた心を解したい。
そう思っただけなのに――。
ほっと緩んだ隙間に、彼の温かさが染み込んできた。
穏やかな声音、温かい手。まるで傍にいてやると言わんばかりの言葉。
泣いては、いけない。
弱ってはいけない。
そんな時間はないのだから。
溢れ出るものを抑えるように強く目を瞑る。
目を閉じて耳を塞ぎ、部屋の隅で丸くなった。
今度こそディルが呆れて去ってくれるまで。
この波も、その頃には収まっているだろうから。
お読みいただきありがとうございます!<(_ _)>
やっとこの話に。
タイトル詐欺ならぬあらすじ詐欺にならなくてよかった……。




