邪を貫く剣
空気が冷たくなるのを感じる。その手には例の神器。
ゆっくりと階段を下り始めた彼女の靴の音が静かに響く。
「無駄な抵抗は止めた方が利口だ。抵抗するというのなら怪我で済む保証はないぞ」
威嚇ではない、本当にそうするだろう。
「利口、ね……俺、よく言われるんだよ。馬鹿だってな」
クライスが手を前に出すと同時に、俺はその場から飛び退く。俺のいた周辺には一面の氷。
空中に体勢を立て直し
「加減はするから死ぬなよ!」
俺は手を前に突き出す。
「『風精霊魔法"精霊獣の牙"』」
クライスを取り囲むように十本の光の牙が現れる。
彼女は反応出来ていない? いや、その必要すらないのだろう。
光の牙が貫いたのは虚空に現れた氷の塊。それは、精霊魔法が消えると同時に地面へと落下して砕け散る。
「侮られたものだ……私の心配をする余裕が貴様にあるのか?」
神経を逆撫でされたと言わんばかりの彼女は床へと手をつく。現れたのは巨大な氷の……彫像? それは氷の大剣を構えた騎士……
「『風精霊魔法"精霊騎士の盾"』」
強度では上回る盾だが、咄嗟に体の近くで発動したため、氷の大剣の衝撃によって吹き飛ばされる。
「ぐっ……」
身を起こし、顔を上げたその頭上には影。それが巨大な氷柱だと理解する前に、体を翻して横へと転がる。
遠距離じゃ勝負にならない。どうにかして近付く必要がある。
……あまりこの手は使いたく無かったんだが……
「……なぁ、クライス」
「……何だ? 降参か?」
「今でもアイヴィスのこと大事か?」
「……当然だ。それがどうしたというんだ?」
俺は口の端を歪めると
「じゃあしっかり護れよ!」
俺が手を向けたのはクライスではなく、玉座に佇むアイヴィス。
「『風精霊魔法”精霊獣の牙”』!」
突然のことに流石に取り乱した彼女だったが、精霊魔法を防ぐこと自体はそれほど難しいことではなかった。もちろん、それが分かっていて俺もそうした。
「貴様……!」
視線を護る対象へと移していた彼女が再び視線を戻した時、俺は既に彼女の目の前で短剣を振り下ろしていた。欲しかったのは一瞬の隙。
躊躇いはある。だが、このまま振り下ろす。
手元に伝わったのは体に滑り込む刃の感覚ではなく、まるで金属のような感触。遠くでは分からなかったが、近くにいる今なら分かる。極薄い氷の……鎧?
……そうか。クライスは俺と戦うことを見越して体を氷の鎧で覆っていたのか。
俺の、遠距離からの攻撃も近距離の攻撃も防ぐ算段を最初からしていた。つまり、どう足掻いても俺には彼女に致命傷を与えることは出来なかったということか……
「……良かった」
俺は短剣を手放し、両手を前に出す。
「『風精霊魔法”精霊龍の顎”』」
現れた巨大な精霊龍はクライスに喰らい付き、そのまま壁へと体を叩き付けた。恐らくこれでも彼女にそれほどダメージはないだろう。だから都合がいい。彼女が生身ならこの強力過ぎる精霊魔法は使わないつもりでいた。俺の目的は彼女を倒すことではないのだから。
俺は風を纏って玉座への階段を一気に駆け上がる。クライスは当然、止めようとするが叩き付けられた壁から俺の元までは距離がありすぎる。彼女が立ち上がり、追うように階段に足を掛けた時には、俺は既に階段を登り切った後だった。
「ワタル……」
目の前には俺が最後に見た時と変わらないように見えるアイヴィスの姿。
「アイヴィス……ごめん」
俺が手を向けると同時に、彼女の体を光の剣が貫いた。
悲鳴すらなく、がくりと膝を折った彼女は、何かを伝えるように口を動かしていたが、言葉にはなっておらず、そのまま床へと崩れ落ちた。
倒れたアイヴィスを抱き起こそうと手を伸ばしたが、体を突き飛ばされる。悲愴な面持ちで彼女へと駆け寄るクライス。
「アイヴィス様!」
何度も声を掛けるが返事はない。
「貴様……! アイヴィス様に何をした!」
俺の胸元を縊り上げ、睨め付ける。その瞳には涙を湛えながら。
「……精霊魔法で貫いた。見てなかったのか?」
「それは分かっている! ここまでする必要があったのかと聞いている……! 私の身ならどうなろうと構わない……だが、アイヴィス様は……」
湛えていた涙が頬を傳う。
「……やっぱりクライスはあの時と何も変わってないな。誰よりもアイヴィスのことを想ってて、何よりも大事にしてる……だから助けなくちゃって思ったんだ」
「……何を言って……」
「そんなお前の大事な人を、俺が奪うわけないだろ?」
俺は手を出すと、意識の中で奉唱し、小さな光の剣を出す。
ゆっくりと掲げたそれをおもむろに自分の体へと突き刺した。
「なっ!?」
光の剣は体を貫いているが、俺はどこ吹く風。
「見ての通り高純度の光魔法は肉体にダメージはない。効果があるのは闇の力に対してだけだ」
俺の言葉に、クライスは再びアイヴィスに駆け寄ると、その体に疵が無いことを確かめる。
「アイヴィスの様子がおかしいのは会った時から分かってた。それが植え付けられたものだって決め付けて試してみたはいいけど、正直、冷や汗ものだったよ……」
「……最初からそのつもりで……?」
「当たり前だろ? 俺がアイヴィスとクライスを傷付けたりするもんか」
「……そうだな。だから私は……貴様が嫌いなんだ」
静かに微笑んだクライスの姿に、本当に意味で彼女と再会できた気がした。
肉体に損傷が無いとはいえ、光の精霊魔法によって己の闇を貫かれたその負担は大きい。すぐに自身の寝室に運ばれたアイヴィスは意識を失ったまま目を覚まさない。
かくいう俺も、相当に疲弊していた。クライスと戦ってあれだけ精霊魔法を使ったのだから無理もない。せめてアイヴィスが目を覚ますまではそばに居てあげたかったが、正直、限界だ。
「悪い、クライス……少しだけどこかで休ませてもらってもいいか……?」
「大丈夫か? 部屋を用意させるからそこで休むといい。怪我をしているようなら治療しよう」
「……ただの魔力切れだから放っとけば治るよ。……ありがとう……部屋借りるよ……」
話していて意識が朦朧としてくる。しばらくして使用人の肩を借りて一つの部屋へと案内される。一見した印象では客人用の部屋では無さそうだが、今の俺にはそんなことを気にかけている余裕はなく、ベッドへと崩れるようにして倒れ込むと同時に、意識は闇へと落ちていった。
茜色の光が瞳を照らす。ゆっくりと瞳を開くと、そこは知らない場所だった。自分の部屋ではないが、どこか見覚えがある気がする。
徐々に意識がハッキリしてくると、今の自分の置かれた状況を思い出す。そうだ……俺はアイヴィスとクライスに……
全てを思い出して最初に気に掛ったのは、アイヴィスのこと。少しの時間休むだけのつもりだったにも関わらず、こんな時間まで寝てしまった。彼女はもう目を覚ましているだろうか?
体を起こし、自然と足は廊下へと向かった。とはいえ、朦朧とした意識の中でこの部屋に運ばれたので、アイヴィス達の居た部屋がどこなのか分からない。適当に歩いて使用人でもつかまえて聞いてみるか。
不必要に感じるほどの長い廊下。その途中で俺は足を止める。それは、今まさに会いたいと思っていた相手が視界に映ったからだ。
「……ワタル」
足音を立てずに歩み寄ったが、少し離れたところで彼女は俺に気が付き、呟くように言った。
「もう起きても大丈夫なのか? アイヴィス」
「ええ……心配には及びませんわ」
廊下から夕日を眺める彼女に、俺はどう声をかければいいのか分からなかった。
「……申し訳ありませんでしたわ」
「俺に謝る必要なんか無いって。けど、街の人には謝った方がいいかもな……それから、クライスにも」
「勿論ですわ。私がしたことですもの」
僅かに俯く。彼女がこれほど暗然としてることなど今まであっただろうか。
「でもあの時のアイヴィスは普通じゃなかっただろ? だからそこまで気に病まなくていいと思うよ」
「確かにあの時の私はどうかしていましたわ。まるで自分が自分でないかのように暗い心に歯止めが効かなかった……けれど、例えそれがどんなに小さくとも私の心に宿っていたことには違いありませんわ」
「けどそれは……」
「どうしてワタルは! どうしてワタルはこんな私を責めませんの……? 言って下さい……こんな私に女王に足る資格など無いと! 旧知の友人に対して嫉妬に狂う、こんな私に失望したと!」
沈痛な叫び。涙は無い。それが、既に枯れるほど泣いた後だったからということなど、その瞳を一目しただけで察した。
「……そんなアイヴィスだから助けたいと思ったんだ」
「えっ……」
「誰だって心に小さな闇を抱えてる。女王として先を越されれば嫉むのだって人間なら誰しもそうだ。そのことにこんなに思い悩んでるアイヴィスが女王に相応しく無いなんて俺には思えない。完璧であることが女王の資格だって言うなら、俺はアイヴィスに女王になんてなって欲しくないよ」
「ワタル……」
俺が差し出した手を彼女は見つめる。
「それでもどうしても納得出来ないって言うなら、そうだな……女神様に懺悔でもしに行くか? あんまりオススメはしないけどな」
苦笑する俺に、彼女は手を取ることで応える。そこに浮かぶ笑顔は、屈託のない、まるで陽だまりのような彼女の心そのものだった。