暗い雨の中で【挿絵】
更に数日経ったある日。
その日は、昼過ぎまでクエストに行った後、廃墟へ行き、師匠のところで夕暮れまで修行をしていた。帰り支度をしていると、僅かに雨が降り始めたが、走れば間に合いそうだったので、気にせず廃墟を後にする。
だが、空模様は俺を裏切り、あっという間に空を覆った黒い雨雲は大粒の雨を地面へと叩きつけ始めた。
荷物を頭に掲げながら走る俺の体を覆う服は、滝のような雨に曝されて重たくなり始めている。これでは雨宿りをしても体が冷えそうだ。さっさと屋敷まで戻ってしまおう。
まるで止む気配のない土砂降りの雨の中を走り抜ける。当たり前だがこんな天気で外を出歩く物好きなどいるはずもなく、街道は空いている。
屋敷まではもう少し距離がある。このまま街道を行ってもいいが、たしかあそこの路地を突っ切った方が早く着く。
一刻も早く屋敷へと戻る。それだけを考えていた俺には、その狭い路地から僅かに漏れる気配を感じ取ることは出来なかった。
路地の中は人が三人並べないぐらいの狭さだが、走り抜ける分にはそれほど苦労はしない。少し遠くに街道の灯りが見える。さっさとこのまま……
少し大きな水溜りを踏み鳴らし、水しぶきを巻き上げた俺の足に、その空間とは別の空気の流れを感じる。
入り組んだ路地には分かれ道もいくつかある。俺が今いる場所もその一つだ。このまま真っ直ぐ行けば街道に出て屋敷にも戻れる。だが、一度感じた違和感は、路地の分かれ道へと足を運ぶ以外に拭う方法はなかった。
これだけの雨量と雨音にも関わらず、足元を流れる空気を感じ取ることが出来る。それは恐らく、下を漂うように流れる空気が、周りよりも重く感じるからだろう。そしてそれは次第にはっきりしていった。
路地を進んで行くと僅かに明かりが見える。少し開けた空間に街頭が灯されているようだ。路地の中にもそんな場所があるなんて知らなかった。
その場所に人の気配を感じる。そこの曲がり角を曲がった先だ。予感を孕んだ空気に踵を返すことも出来たが、俺は恐る恐る路地から顔を覗かせた。
そこには知らない人間が三人居た。男が二人、女が一人だ。何をしているのか分からなかった。見たままを言えば、「女が男の足から剣を引き抜いている」だが、何故こんなところでこんな時に?
不用意に剣を抜かれた男の足からは血が吹き出し、溢れた悲鳴は豪雨によって掻き消される。もう一人は既に事切れている。あれでは助けを呼ぶことなど出来ないだろう。
俺の脳裏には”ギルドメンバー狩り”という言葉が浮かんだ。男達がギルドメンバーなのかはここからでは判断出来ないが間違いないと断言出来る。
許すことは出来ない。だが、今は事を構えるのではなく相手が何者なのか知るのが先だ。顔さえ分かればギルドに報告してどうにでも……
女は作業を終えたかのように剣に付いた血を振り払い、僅かに体を横に向ける。その顔を絶対に忘れないようにしようと思っていた俺だったが、その必要は全く無かった。何故なら……
「……そこにいるのは誰だ」
俺はあまりに理不尽な現実に、身を隠すことも忘れて立ち尽くしていた。
「……クライス」
「貴様は……」
クライスは一瞬、驚いた表情を見せたがすぐに収めて瞳を伏せる。
「……あえて貴様とその仲間には手を下さないようにしていたが、まさかそちらから来るとは……」
「どうして! どうしてだよ!? なんでクライスがこんなことを……」
何かの間違いであって欲しかった。
「……構わないか。どうせ覚えておくことは出来ないのだから……」
彼女は呟くように言った後
「……アイヴィス様の御命令だ」
「アイヴィスの……? ……そんなこと言うわけがない。いや、もし言ったとしてもおかしいと思わないのか?」
取り乱す俺とは対象的に、彼女は小さく息を吐き出す。
「私がどう感じるかなど関係ない。アイヴィス様に従う、それだけだ」
「でも……」
それ以上の問答を遮るように、クライスは鞘から細剣を抜く。
「見たところ、ギルドメンバーを狩る私を止めるつもりなのだろう? なら、そうするといい」
「……そんなこと出来ない……俺は……」
その言葉は、飛来した氷の棘によって遮られる。
「ならば、無抵抗のまま死ぬか?」
「ぐっ……」
否応なしに、風で体を包む。やらなければ殺られる、そういうことだ。
短剣を鞘から引き抜いた瞬間、彼女は一瞬で俺の目の前へと飛び込み、細剣を喉元へと突き立てる。それを短剣で逸し、そのまま彼女の……
斬る……? クライスを? この短剣の刃で……?
俺の躊躇いを見逃さず、颶風のように細剣を走らせる。避けきれず僅かに体に触れるものの致命傷には至らない。振り払うようにして振り切った短剣を彼女は大きく飛び退いて躱す。
「鈍ってはいないようだな。力を使わずに貴様の相手をする、というのは骨が折れそうだ」
クライスが扱う氷の魔法は強力で俺も何度か助けられたことがある。その力を今度は俺に向けて使おうとしている。
「確かにお前の氷魔法は強力だ。けど、忘れたのか? 俺にそれは効かないってことを」
"氷皇竜の氷衛"。氷竜族の女皇の秘玉から授かったこの力の前には、闇の王の氷魔法ですら打ち砕かれる。
何も言わずに前に出した彼女の手を、避けもせずに眺める。例え、修練によって魔法の威力が高めていたとしても突破できるような軟な能力ではない。
足元から徐々に氷が覆う。無駄なことだ。俺が一歩前に出れば氷は砕かれ……
同時に、彼女が浮かべた歪な笑みの理由を理解する。
氷が……砕けない……? ありえない。なぜ……
「愚かな……私が何の策もなく貴様と対峙すると思うか?」
そう言って彼女は手を掲げる。付いているのは……指輪……?
「神器"オルブリット・ラース"。万物を凍らせる神器だ。私の力とよく馴染む」
「神器……? それでも氷には変わりないはずだ……」
「有象に存在する神器ならそうだろうな。だが、世界に二つとない稀覯の神器。その力を防ぐのに、そのような前時代の能力では力不足だ」
「くっ……そ!」
完全に足元が凍り切る前に、精霊魔法を自分の足元に放ち、どうにか氷を砕くが、微調節など出来ず自傷せざるを得なかった。もう掴まるわけにはいかない。一気に片を付けるしかない……
飛び掛かり、距離を詰めようとした俺の足は地面から離れることはなかった。
足元には一面の氷……それだけではない、俺の周りは全て氷の世界に変わっていた。
「この無限に等しい水量の中で、氷を防ぐ術のない貴様が私に勝つことは不可能だ。諦めろ」
水に濡れていた体は一瞬で体温を奪われ、凍傷に陥り、もはや指一つ動かすことは出来ず、俺は氷の地面へと膝をついた。
彼女は踵を鳴らしながら俺へと歩み寄り、身を屈め、そっと頬へと手を添える。氷よりも更に冷たい手だった。
「心配する必要はない。貴様とその仲間には手を出さないと約束する。それに、今日のことも忘れさせておいてやる」
頬に触れていた手を額へと移動し、触れた指先からどんどん頭の熱を奪われていくのを感じる。そして意識は徐々に朧に……
「クラ……イス……」
最後に瞳に映った彼女の表情は、半年前、別れたあの時と変わらないものだった。