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9/11

第9章

月曜日、また新しい週が始まった。

アヤカはいつもより早い時間にカフェ・ヴェルデに出勤していた。

金曜日から車を店に置いたままだったので、久しぶりの電車通勤。

といっても、アヤカの家の最寄駅から益戸駅までは2駅、時間にして6分だったけど。

ミナもまだ出勤していない店内はシンと静かだ。

約束通り、一之瀬刑事は新しいガラスを入れ、

床に散らばっていたガラス片なども片付けてくれていた。

が、念のため軽く店内を掃除した。

毎日の習慣だし、いつものルーティーンをこなすことで、

1日の仕事に立ち向かう心構えになるのだ。

掃除が終わると、アヤカはイングリッシュガーデンに出てみた。

イングリッシュガーデンは秋の穏やかな光を浴び、

花も葉もピカピカに輝いていた。

アヤカは庭に漂う花たちの甘い香りを思い切り吸い込んだ。

金曜日の襲撃が嘘のような平和な庭だった。

この場所から石を投げ込まれただなんて。

ここに犯人が立っていた・・そう思うと、足元がひんやりしてきた。

もしこの店の窓を破壊したのが、事件の犯人と同一人物なら、

私達が接触した誰かって・・・ことよね。

でないと私が、この店が狙われるわけがない。

私の大事なカフェ・ヴェルデに手を出すなんて・・・。

そう考えると恐怖よりも怒りがこみ上げてくる。

アヤカは拳をぎゅっと握った。

・・・このまま引っ込んでいられますか。


コンコン。

朝8時半になるところだった。

誰かが厨房裏のドアをノックしている。

アヤカとミナは無言で顔を合わせた。

誰だろう?

材料を届けてくれる業者さんはもう来ていたし、チカが出勤するには早すぎる。

まさか、金曜日の襲撃者がまた・・・・?

「私が出る」

ミナがキッパリと言った。

しかし、クッキー生地を伸ばしていたミナの手は粉だらけだったので、

出るためには手を洗わなければならない。

「大丈夫、私が出るから」

(まさか、こんな朝から襲ってくるわけないわよね?)

ミナを止めたものの、不安にかられながらアヤカが細くドアを開けた。

「おはようございます」

そこに立っていたのは、益戸商店街の

『グリーン・フラワーマーケット』オーナーの緑川さんだった。

薄手のベージュのニットにブルージーンズ、

白いアディダスのスニーカーを履き、斜めがけにバッグを提げていた。

緑川さんとは、カフェ・ヴェルデを開店したばかりの頃、

アヤカが初めて出席した益戸商店街の会合で、

声を掛けてもらったのがキッカケで仲良くなった。

緑川さんは花屋の3代目で、ご両親から店を受け継いだあと、

内装を変えたり、出張フラワーアレンジメントを始めたりと、

おっとりした見た目にもかかわらず、仕事に関してはバリバリに突き進む実行力の持ち主だった。

アヤカは女性起業家の先輩として彼女を尊敬していた。

時々店の経営について相談したり、アドバイスを貰ったりしていた。

その彼女も仕事の合間にこの店に来てくれていた。

緑川さんのお気に入りはカフェ・オレと日替わりのスコーン。

アヤカもカフェ・ヴェルデに飾る花を、時々仕入れさせてもらっている。


「おはようございます、緑川さん!中に入って、珈琲でも飲んでいってください」

ほっとして、アヤカは大きくドアを開き、

厨房のスツールを勧めた。

「ありがとう、でも配達の途中だから・・・」

「新作の焼き菓子があるんです。よかったら、感想を聞かせてください」

ミナも作業の手を止めて言った。

「じゃあ・・・お言葉に甘えて・・ちょっとだけ」

緑川さんがにかんだように笑った。

髪を低いポニーテールにし、薄化粧に淡いピンクの

口紅をつけている。

アヤカはカフェフロアに回り、スタッフ用の珈琲サーバーから、

先程沸かしたばかりの熱い珈琲をマグカップ3つを注いだ。

厨房に戻るとミナはすでに手を洗い、焼いたばかりの新作のお菓子を勧めていた。

「今日初めて作ってみた『ミンス・タルト』です。召し上がってみてください」

「ミンス・タルト?初めて聞くわ」

緑川さんが首をひねる。

「イギリスの『ミンス・パイ』をアレンジしたんです。

ミンス・パイはイギリス発祥で、クリスマス時期に家族で作ったりするパイなんです。

いろいろなドライフルーツを包むんですけど、それをタルト用にアレンジしてみたんです」

アヤカは調理台のテーブルを拭き、そこにマグカップを置いた。

「こちらもどうぞ。こっちも新作なんですよ。

大阪の『土居珈琲』という焙煎店のブレンドです。

丁寧に焙煎されていて、豆の香りが素晴らしいんです」

「ええ、とってもいい香りね。目が覚めるようだわ。

それにこのタルト、ねっとりしてて、いろんな味がして楽しいわ」

「ドライフルーツは体にもいいし、エネルギーを蓄えられるんですよ。

ヨーロッパでは昔からこうやってフルーツを保存していたんですって」

ミナが説明する。

「そうなの?へー勉強になるわね。

それにこんな時に来るなんて私ったら、ラッキーだわ。しかもこんなに至れり尽くせり」

3人に笑いが弾けた。

「あ、そうそう、ちょっと待っててね!」

そう言って、緑川さんは厨房のドアからいそいそと出ていった。

暫くすると、紙に包んだものを持って帰ってきた。

「はい、これ」

そう言って、アヤカに紙包みを渡す。

ふわっとした香りが漂った。

「美味しい珈琲とお菓子のお礼。良かったら、お店で飾って」

アヤカが紙包みを広げると、ピンクの小さな花をびっしり付けた、花束だった。

「わぁ、可愛い花ですね」

「この花珍しいのよ。

『エリカ』って言うんだけど、日本ではなかなか栽培されていなくて、わざわざ海外から取り寄せたの。

特別注文された花なんだけど、多めに仕入れたから。

それと、これ。

つい、ここに来た理由を忘れそうになっていたわ」

緑川さんがバッグから取り差し出したのは、

益戸商店街の12月の会合のお知らせだった。

「今度の集まりで5月の益戸駅前の恒例のフェスティバルについての話し合いをするんですって。

アヤカさんたちは初めてよね。出てくれると嬉しいんだけど。

それじゃあ、ご馳走さま。そろそろ配達の続きに行かなくっちゃね」

笑顔で手を振って緑川さんは出ていった。

アヤカはエリカの花束と珈琲を持って、カフェフロアに移動した。

エリカの花は小さなピンク色のベル型の花を枝にびっしりと付け、

瑞々しい香りを放っていた。

テーブルに小さなガラス瓶を並べ、

ハサミを持ち、エリカの花をパチンパチンと小さく切っていく。

花びんに3~4枝入れ、すべてのテーブルに置いた。

アヤカは満足げにぐるりと見渡した。

カフェフロアはピンクに彩られ、まるでお花畑の中にいるみたいだった。

あれ?

これ・・・どこかで見たことがあるような。

なんだろう・・・思い出せたらいいのに。


「おはよう、姉さん。うわー、なんか店の中が華やかね!」

そのとき、厨房のドアからチカが元気よく飛び込んできた。

アヤカの思案はたち消えた。

「あ、おはよ、チカ。

どう?キレイでしょ。さっき、緑川さんが来てたの。

一緒に珈琲ブレイクして、そのお礼にっておすそ分けに貰ったのよ」

「へーそうなんだ」

そう言いながら、チカは着ていたベージュのトレンチコートを脱いだ。

相変わらず、チカはおしゃれにキメていた。

赤と白のボーダーのトップスに、少し太めのデニムを履いている。

足元は『スペルガ』のネイビーのスニーカー。

髪は複雑にねじってまとめ、可愛い星形のピンで留めている。

器用なチカだからこそできるワザだろう。

ぶきっちょなアヤカには出来ない神業だ。

「・・・どしたの?姉さん。ジロジロ見て」

チカが首を傾げた。

「・・・ううん、何でもない」

まさか、妹のファッションに見とれていたとは言えない。

「変なの・・・ああ、そうそう」

2階への階段を昇りかけていたチカが戻ってきた。

「姉さん、これいらない?」

チカが『オーシバル』のネイビーのトートバッグから取り出したのは、

映画のチケットが2枚。

「この間、ミッキーが会社で貰ってきたの」

ミッキーとは、チカの夫のことだ。

本名はミキヒコだが、付き合い始めたころから結婚した今でも、

チカはずーっとその愛称で呼んでいる。

そして羨ましいことに未だに仲がいい。

「仕事関係の人から貰ったらしいの。

今、テレビで宣伝しているSF系の映画みたいなんだけど、姉さん知ってる?」

チケットには、宇宙を背景に光る剣を持った主人公の男性と、ヒロインらしき女性の写真。

「ああ、これね。チカこそ知らないの?アメリカのすっごい有名なシリーズよ?」

「そうなの?じゃ、姉さんにあげる。

アンにはまだ難しいし、私、こういうの興味ないし・・・。

そうだ!ねえ、庄治センセイを誘ってみたら?」

チカがパンッと両手を合わせた。

「え!?・・・でもこういうの、准教授は興味なさそうじゃない?」

「わかんないわよ?もしかしたら好きかもしれないじゃない。

ほら、明日来る予定でしょ?

今度は姉さんから誘ってみたら?」

そう言って、チカはトントンと階段をリズミカルに上がっていった。

アヤカはチケットに目を落とした。

どうしよう、誘ってみようかしら?

この間のお礼で今度は私がっていうのは、別におかしい事じゃない。

そう、そうしたら映画のあとでどっかでお茶して・・・・。

アヤカは立ったまま、あれこれと考えていた。

その時、アヤカの頭に閃きがあった。

それは頭の中から准教授をかき消した。

私ってば・・・そうよ。

勘違いしてた。

こういうことなんだわ・・・アレは。

だから、あの人はあんなことを・・・。

「どうしたの、アヤカ。変な顔して」

「姉さん、変顔の練習?」

いつの間にか、ミナと着替えが終わったチカがアヤカの前にいた。

変顔って・・・私が考えているときってそんな顔してるの?

複雑な心境だったが、

今思い付いたことはまだアヤカの脳裏から消えていなかった。

「あのね・・・ミナ、チカ。私、事件のことわかったかも」

アヤカは二人をジッと見て言った。

「え!?なんで?・・・ホントなの?姉さん!!」

チカが興奮して言った。

「う、うん・・・多分」

「多分って・・・アヤカ」

ミナは呆れ顔で腕を組んだ。

「思い出したことがあるんだけど、

もしそれが私の記憶通りだとしたら・・・。

でも、まだ証拠がなくて憶測だけなんだけど、考えがあやふやで・・・」

突然閃いた考えにアヤカ自身が混乱していた。

カフェ・ヴェルデに沈黙が落ちた。

「・・・証拠はないけど、アヤカは犯人がわかった・・・のね?」

ミナが静寂を破った。

「・・・うん」

アヤカが首をゆっくり縦に振った。

「話してみてよ、姉さん。一人で考えこまなくていいでしょ?

私たちに話せば整理つくかも」

「その前に電話を掛けさせて?・・・そうしたら話すから」


「確認した・・・やっぱり思った通りだった」

二階に行き、アヤカはある人物に電話を掛けた。

そして、降りてきて二人に犯人の名前を告げたのだった。

「・・・意外ね」

「そうなの・・・?」

ミナは視線を落としたままだし、チカは動揺していた。

3人はひとつのテーブルに座っていた。

目の前にはカフェ・オレが置かれていた。

アヤカが簡単に事件の説明をしたところだった。

最初は半信半疑で聞いていた二人だったが、

「信じられない」

ミナが言った。

「そんな裏切りって・・・ひどい」

チカは泣きそうな顔をしていた。

「そうね、私だって自分の推理は最悪だと思う。

でもどうやら・・・これしかないみたいなの」

「で、どうするの?」

ミナがアヤカを見た。

「うん・・・まずは私の考えが合っているのか、もっと確かめなきゃ」

「証拠が必要ね。そのためには、もう・・・私達だけじゃムリ」

「そうね。気が重いけど、やっぱり一之瀬さんに話さなきゃね」


「どうしたんです?鈴井さん。なんか暗いですよ?」

「え、ええ・・・いえ、そんなことないです」

今日は火曜日。

庄治准教授は庭のローズマリーの様子を見に来ていた。

カフェ・ヴェルデをオープンするときに、

イングリッシュガーデンの一部を提供して、准教授の研究用にローズマリーを植えていた。

今准教授が研究しているのは、ローズマリーの品種改良らしい。

ローズマリーは普通は白い花を咲かせる。

水色や薄紫色やピンクの花の品種もあるようだが、

准教授が研究しているのは、黄色のローズマリーを咲かせることらしい。

大学でも実験しているようだが、別の土壌での育ち方も見ているそうだ。

「事件のことでしょう?」

准教授が腰を上げた。

立ち上がると、アヤカの頭ひとつ背が高い。

「何かまたあったんですか?」

「准教授は・・・ある人の大事な秘密を知ってしまって、

それを話さないと、事件が解決しないとしたら・・・どうします?」

アヤカはジッと准教授を見上げた。

いつもだったら、こんなに真っ直ぐ見ることは出来ないだろう。

でも、アヤカは疲れていた。

誰かの助けを欲していた。

「・・・難しいところですね。

僕みたいに植物を相手にしてばかりだと、そういうことは避けがちですから。

でも・・・」

准教授はアヤカの手に摘んだばかりのローズマリーを、そっと乗せた。

「被害者の方が二人、いるんですよね。

亡くなった方もいるんですよね、若くして。

その人にはこれからまだまだ未来があって、いろんな可能性もあったでしょう。

でもその方は、もう何も出来ないんですよね」

そう。

水ノ上マイさんは意識が戻らず病院に横たわったまま、いまだ生死を彷徨っている。

もう一人の被害者、小泉ココロさんは亡くなった。

彼女にはまだまだ未来があっただろう。

まだ19才という若さ、これからだったのに。

犯人はそれを無残にも奪い去った。

「・・・人は生きてさえいれば、何回でもやり直しが出来るはずです。

乗り越えることが出来るはずなんです。

だから、鈴井さん、もしあなたがその人達のために出来ることがあるんだったら・・・

僕は・・・やらなければいけないと思います」

「わかりました。

私・・・やります。二人のためにも、それと、容疑をかけられたままの人たちの為にも」

准教授の言葉は、アヤカの迷っていた心の霧を晴らしてくれた。

そう、私は、私が出来ることをやらなければ。

例え傷つく人が出ても、きっと立ち直ってくれる。

もう一之瀬さんにも話したし、事態は進んでいるのだ。

終わらせなければならない。

「良かった、やっと・・・笑いましたね」

准教授の顔に穏やかな笑顔が広がり、アヤカも笑みを返した。


益戸市の中央にある『20世紀の森公園』。

公園は東京ドーム11個分の広さがあり、

大きな湖や湿地帯や森林といった、昔からある自然を生かした公園だ。

音楽堂、市立博物館、図書館、アスレチック場、バーベキュー場などもある。

湖には野鳥が飛来し、子供たちが観察出来るように観察小屋も備え付けられている。

公園を一周ぐるりと出来る散策路もあり、子供からお年寄りまで楽しめる公園だ。

音楽堂は大小ホールの他に、会議室、リハーサル室、レセプションホールなどを備えた

地域屈指の多目的ホール。

特に約2,000席を誇る大ホールには、オーケストラピットも備えられており、

多くのアーティストのコンサート、発表会など、様々な催し物に利用されている。


アヤカは公園入り口の駐車場にグレーの愛車を滑り込ませた。

金曜日の午前11時。

アヤカは傘を差し、肩にカバンを掛けて、勢いよくドアを閉めて外へ出た。

見上げると、まだシトシトと雨が降っている。

秋の長雨・・・空はどんよりとしたグレーの色だ。

アヤカはゆっくりと音楽ホール入り口に向かった。

ここに来たのはショウ・ヤマテが今週行われる日曜日のコンサートに向けて、

リハーサルをしていると聞いたからだ。

教えてくれたのは、白井ユウコだった。

以前店に来たときに、電話番号を交換していた。

電話をしてみるとちょうど大学にいたので、山手教授の予定を調べてくれた。

「10時から”森の音楽堂”でリハーサルみたいです」

「あれから・・・深田さんはどんな様子ですか?」


先週金曜日、カフェ・ヴェルデから泣きじゃくる深田エナを

水野アイカ、白井ユウコが両方で抱えるように店を出ていった。

そのあと、警察からの事情聴取も受けた。

あの時のことをアヤカは少し後悔していた。

21才の、まだ少女のような年齢の女の子を攻め立てたのだ。

アヤカはただの一般人、警察のような権限はない。

「・・・ずっと、学校を休んでます。

あのあと、家まで送ってったんですけど、何も話しませんでした。

電話も掛けてみたんですけど、出てくれなくて・・・」

「ごめんなさい・・・私のせいです」

「・・・鈴井さん、マイのためにやったことでしょう?

事件のこと、調べてるんですよね?だったら・・・続けてください」

「・・・」

「私のこと、励ましてくれましたよね?

それは私の為を思ってくれてのことだったんですよね?」

その言葉にアヤカは沈黙した。

「エナに厳しいことを言ったのは、

マイを、小泉さんを殺した犯人を見つけるためだったんでしょう?

・・・だったら、続けて下さい!

エナだって・・・取り乱していたけど、それを望んでいるはずです」

白井ユウコの言葉に、アヤカは勇気が少しづつ湧き上がってくるのを感じた。

「犯人が見つからないまま、こんなお互い擬人暗鬼のままじゃ、

私たち、もう友達じゃいられなくなる。

4人ともライバル同士だったけど、でも・・・友達だから」

「・・・わかりました・・・出来るだけのことはします。

もう少し、もう少しで終わりますから・・・」

「ホントですか?お願いします!こんな状態もうイヤなんです。

早く・・・早く見つけてください!!」


アヤカは森のホールのドアを開けた。

エントランスホールは静まりかえっていた。

ちょうどここのスタッフと思われる人が大ホールから出て来たので、

アヤカはショウ・ヤマテがどこにいるか聞いてみた。

「ちょうど今、大ホールの舞台の上にいらっしゃいますよ。大学の方ですか?」

「ええ、まあ、そんなとこです」

曖昧に言葉を濁してから、大ホールの扉を開けるとアヤカはそこの空気に圧倒された。

出版社の記者時代、アヤカはこのホールでいろいろなアーティストを見て来た。

ロックバンド、ソロのシンガー、オーケストラなど。

もちろん、ピアニストの取材もしたことがある。

しかしこれは・・・。

ホールの空間全てを覆いつくすような豊かな音の波。

決して大音量というわけではない。

舞台にはグランドピアノが一台だけ。

ショウ・ヤマテが弾いている。

オーケストラのような迫力とは違う。

この海外で活躍するアーティストはたった一台のピアノの旋律だけで、

二千人は集客できる大ホールを一人で支配しているのだ。

席には大学の関係者や機材を操作するスタッフらしき人達があちこちにいた。

アヤカは列の一番後ろの椅子に座り、目を瞑って旋律に身を委ねた。

なんという美しい空間だろう。

確かに・・・ショウ・ヤマテは素晴らしいピアニストだ。

しかも稀に見る天才だろう。

しかし、アヤカは彼が作り上げたこの美しい旋律に、これから影を落とすことになる。

「じゃあ、15分休憩で」

その声にハッと目を開けると、

ショウ・ヤマテがホール中央の通路をまっすぐこちらに歩いてくる。

アヤカの胸はドキドキと高まったが、会ったことを忘れてしまったのか、

アヤカの姿には目もくれず、ショウ・ヤマテは外へ出ていった。

慌てて後を追い、アヤカも玄関ホールに出た。

ショウ・ヤマテは休憩用の革張りのソファに向かって歩いていく。

「待ってください!」

アヤカが声をかけると、ショウ・ヤマテが訝しげに振り向いた。

今日は白のシンプルなシャツを腕まくりし、ネイビーのチノパンツ、

黒のスニーカーを履いていた。

その額には汗が光っている。

「何か?・・・ああ、この間の・・・」

アヤカはやっと追いつき、ショウ・ヤマテの目の前に立った。

「今日はまた何か?」

決して歓迎している顔ではなかった。

アヤカはごくりと唾を飲み込むと、ポケットに入っているボイスレコーダーを密かに作動させた。

「この間は、取材を受けて頂きありがとうございました。

実は・・・お伺いしたいことがあります」

「何だろう・・・先日かなりのことを話したはずですが・・・」

「池ノ上マイさんのことです」

アヤカの言葉は静かなエントランスに響いた。

ショウ・ヤマテはアヤカをジッと見つめていた。

負けじとアヤカもショウ・ヤマテから目を背けない。

もしここに針が落ちたとしたら、聞こえたことだろう。

「・・・何のことだろう」

ショウ・ヤマテのほうから先に視線を外した。

「間違いだったら、申し訳ありません。

こんなことは私が言うのは間違っているとは重々承知ですが・・・

山手教授、あなたと池ノ上マイさんは父と娘・・・親子なのではないですか?」

ショウ・ヤマテは視線をそらしたままだ。

しかし、指先がピクッと動いたのをアヤカは見逃さなかった。


「・・・座らないか」

そう言ってショウ・ヤマテは全身の力が抜けたように、ソファにドカッと座った。

アヤカも静かに隣りに座った。

但し、人一人入るくらいの間を取って。

二人並んで座ったものの、どう切り出そうとアヤカが迷っていると、

「・・・記事にするのか?」

ショウ・ヤマテは顔を手にうずめ、小さい声でつぶやいた。

「いえ実は・・・」

アヤカはショウ・ヤマテに洗いざらいを告白した。

自分は記者ではないこと、池ノ上マイの見舞いに行ったこと、

カフェ・ヴェルデのオーナーであること、そしてこの事件を調査していること。

「なるほど・・・それで私のところに」

まだ半信半疑のようだが、アヤカが本物の記者ではなく、

池ノ上マイを心配していることをわかってくれたようだ。

今までダマすようなことをしてきたことを考えれば、とてもありがたかった。

「初め、山手教授の部屋で池ノ上マイさんの写真を見たときは驚きました。

もしかしてあなたと池ノ上さんは・・・その・・・」

「教授と生徒を超えた仲だと?」

少し安心したのか、その声は少しからかうようだった。

「・・・すいません。

はい、最初はそう疑いました。

しかし、冬木教授からお話を伺ったとき、

池ノ上マイさんのお母様も聖マリア女子大の音大生だったとお聞きしたんです。

そして、将来有望だったのに半ばで・・・と残念そうにおっしゃっていました。

女性で・・・途中で学業を辞めたとすると・・・

いろいろな可能性はありますけど・・・妊娠・・と思って。

マイさんは今21才・・・ちょうどその頃です」

「・・・・・・・・」

「冬木教授はこうもおっしゃっていました。

『山手教授は留学選考会の審査には関わっていない』と。

あなたは選考を辞退された。

あなたのような世界を知る方こそ、審査に加わるべきなのに。

それは少しでも私情が入ることをあなた自身が一番恐れたから。

池ノ上マイさんのお母様とも師弟関係がだった冬木教授は、その事情を知っていらしたんですね」

「・・・そうだ」

「それにあの病院の花・・・」

「花?」

訝しげにショウ・ヤマテは首を傾げた。

「ええ、あのピンクの花です。

『エリカ』というんですね・・・知り合いの花屋さんに教えてもらいました。

主にスイスやドイツで自生しているそうですね。

珍しい花なので益戸市内では、一軒だけしか仕入れていないそうです。

ウチと懇意にしている花屋さんなんです。

しかも、特別注文で・・・。

その人にあなたの写真を見せたら、覚えていました。

その花が池ノ上マイさんの病室と大学のあなたの部屋にあった」

アヤカは緑川さんにスマホでショウ・ヤマテの写真を送り、

注文したのはこの人だと確認してくれた。

「そうか・・・」

「それらの事実を組み合わせて考えてみたら・・・」

「こういう結論になったということか」

2人の間に沈黙が流れる。

ふいにホールのドアが開き、若い女性スタッフが声を掛けた。

「山手先生、そろそろ休憩時間が終わりですけど・・・」

「ああ、そうか・・・すまない、もう少し休憩にしてもいいか?」

「わかりました」

ニッコリ笑って、その女性はホール内に姿を消した。

そして玄関ホールにはまたアヤカとショウ・ヤマテだけが残った。

ショウ・ヤマテはポツリポツリと話し始めた。

「・・・エリカは住んでいるドイツでよく見る花で、僕がとても好きな花なんだ。

マイの母親・・・池ノ上ナオコとは僕が東京の音大の1年にいるとき、大学交流会で知り合った」

アヤカはこっくりと頷いた。

「僕は彼女の奏でるピアノにまず惹かれ、

彼女の美しさ、優しさ、一緒にいる居心地の良さ・・・すべてに惹かれた。

僕は将来、彼女と一緒になるつもりだった」

そう言って頭上を仰いだ。

「僕が3年生のとき、突然オーストリア、ウィーンの名門音大の留学生に選ばれた。

それまで国内では何度か賞をとったりしていたが、

音楽のプロとしてやっていくには、国内だけじゃダメなことはわかっていた。

それは今の時代も同じだが・・・千歳一隅のチャンスだった。

僕は喜んでウィーンに行くつもりだった。

もちろん、ナオコも一緒にと思っていた。

だが・・・断られた」

「え?」

「僕との将来に希望を見いだせない、と。

確かに、音楽家として身を立てられるのはほんの一握りだけだ。

それほど厳しい世界だというのは分かっていた。

でも、それでも彼女は僕について来てくれると思っていた。

しかし、彼女は僕とは別れると。

別のお金がある男性と付き合ってると言われたよ・・・」

「でも・・・それは、きっと・・・」

アヤカが口を挟むとショウ・ヤマテは手で制した。

「わかってる。

彼女は僕の為に嘘をついて身を引いたんだと。

今ならわかるが、そのときの僕は金もなく、自分の未来すら曖昧だった。

そんな僕が彼女を連れて行ってもいいのか、ずっと迷っていた。

彼女に苦労をさせたくなかった。

ようするに、自分に自身がなかったんだ。

ナオコがそんな金に惹かれるような女性じゃないとわかっていたのに・・・」

ショウ・ヤマテは寂しそうに微笑んだ。

「僕はウィーンへ留学し、そのままドイツで師について修行を積んだ。

ナオコを・・・彼女を忘れるためにも必死にね。

そのうち国際的なコンクールなどで賞を取り・・・今の妻と出会った。

ナオコのことは時々ふっと思い出すことがあったが、幸せに暮らしていると思っていた。

今回・・・ここの大学の客員教授として招かれ応じたのは、

ナオコのこともあったからなんだ。

もう一度会えるとか、そんな甘いことを期待したんじゃない。

ただの、センチメンタルな感情からだった。

そこで僕は何十年ぶりかに、ナオコが妊娠し、聖マリア女子大を中退したのをやっと知った」

「冬木教授からですね?」

アヤカが尋ねるとショウ・ヤマテは「ああ」と頷いた。

「まさか、そんなことだったとは・・・。

今更、僕はやっとあの時のナオコの態度に納得がいったんだ。

僕は・・・バカだった。

彼女があんなことを言うわけがないことはわかっていたのに。

僕は自分に自信を持てなくて、そのまま受け入れてしまった。

彼女が幸せになるならと・・・逃げてしまったんだ」

「マイさんのお母様は、・・・ナオコさんは、あなたのことを深く愛しておられたんですね。

だからこそ、子供が出来たことを隠して、あなたを思って黙って世界に送り出した」

「そうだ。

今、僕がこうしていられるのも彼女のおかげだ。

しかし、彼女は、ナオコは一人でどんなに心細かっただろうか。

だからそのことを聞いて、冬木教授に無理やり住所を教えてもらい・・・教授には止められたが、

すぐにナオコに連絡を取り会いに行った。

そこで、僕の子供が、娘のマイが聖マリア女子大にいることを知ったんだ」

大きく息を吐いて、ショウ・ヤマテは立ち上がった。

アヤカはそれを目で追った。

近くにあった自販機に行き、飲み物を買っている。

後ろ姿は疲れているように見えた。

池ノ上マイを心配するあまりか、辛い過去の告白のせいか。

ショウ・ヤマテは缶珈琲を2つ持って戻ってきた。

「どっちがいいかな・・・カフェのオーナーさんに渡すのは気が引けるけど」

ほんの少しショウ・ヤマテが笑った。

「どちらでも。缶珈琲も好きですよ」

「そうか・・・もう少し話に付き合ってくれるかな?」

カフェオレの缶を差し出したので、アヤカは受け取った。

ショウ・ヤマテは再びアヤカの横に腰を下ろした。

プルトップを開け、ショウ・ヤマテはぐいっと珈琲を煽った。

そして温かさを求めるように缶を両手で包むように持って、ソファの背にもたれた。

「それで・・・そこでマイと初めて会った。

マイは若かった頃のナオコにとてもよく似ていた。

まっすぐな目、ピアノの才能・・・そっくりだ。

二十何年ぶりに会ったナオコとは、どういったらいいのかな・・・僕の過去の青春、

懐かしさと辛い恋の痛みが交じり合ったような気持ちだった。

僕はすでにドイツで家庭を持っているし、妻を大事にしている。

ナオコもそれはわかっていた。

それから僕は時々彼女の家を訪れ、マイにレッスンをした。

僕の・・・罪滅ぼしのつもりだった」

「罪滅ぼし・・・」

「マイのピアノの才はナオコ譲りだった。

僕の厳しい指導にもよく付いてきた。

マイだったら、僕の推薦が無くても世界に通じるピアニストになるだろう。

しかし・・・私心があってはならないのが厳しい音楽の世界だ。

だからこそ、僕は留学選考会を自ら外れたんだ。

冬木教授も賛成だった。

しかし・・・まさかこんな・・・こんなことになるとは・・・」

ショウ・ヤマテの顔が苦痛に歪んだ。

上を見上げながら、マイさんのことを考えているのだろう。

自分の娘がずっと昏睡状態のままなのだ。

この数週間、父親として表立って心配することもできず、

この人はどれだけの辛さを一人で抱えていたのだろう。

ショウ・ヤマテがゆっくりとアヤカに視線を戻した。

「キミは・・・誰がマイを襲ったんだと思う?もう・・・犯人の目星が付いているのか?」

「山手教授。

本当のことを話してくれてありがとうございました。

これで、最後の疑問も解消されました。

このことは、決して口外しません。

ええ、もうわかっています・・・この事件の犯人も」

「本当か!?」

ショウ・ヤマテが目を見開いてアヤカを掴み掛からんばかりに顔を近づけた。

「今・・・証拠を集めています。

警察と協力して、確実に捕まえられるように。

明日、ウチのカフェにいらしてくださいませんか?

・・・そのときすべてをお話します」


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