第8章
ピンポーン。
約束の12時1分前、インターホンが鳴った。
すぐに開けたかったが、一之瀬さんの言いつけを守り、
チェーンをかけたまま、アヤカはドアをそっと開いた。
「こんにちわ、鈴井さん」
ドアの隙間から准教授の顔が少し見えた。
「こんにちわ、ちょ、ちょっと待ってくださいね」
アヤカは慌ててチェーンをはずし、今度はドアを大きく開けた。
背に日の光を受けて、笑顔の庄治准教授が立っていた。
「あ、あの・・・・今日は誘って頂いてありがとうございます」
その顔を見た途端、アヤカの胸が暖かくなった。
「まずは食事に行きませんか?」
「はい!実はまだ朝ご飯も食べてなくて・・・」
「じゃあ、お腹が空いているでしょう。
お連れしたい店があるんですが・・・フレンチはいかがですか?」
「はい!ぜひ!」
そりゃもう、准教授と一緒だったら、なんでも。
しっかりドアを施錠したことを確認し、二人は陽の下に出た。
秋晴れの見本といっていいような快晴だった。
薄水色の高い空に、雲が一筋横切っている。
半分空けた車の窓から流れ込む風は少し冷たい。
けど、冬の匂いはまだまだ感じられない。
そ~っと右側を向くと、ハンドルを握る准教授がいた。
今日はブルーのニットと、ベージュのチノパン、足元は茶色のローファーだ。
いつも白衣か、青のつなぎを愛用し、
この間はスーツ姿を見たけれど、このラフな格好も素敵。
これって傍から見れば、デート・・・よね?
恥ずかしいような照れるような気持ち。
昨日はあんなことがあったけど、今日は准教授と一緒だから・・・大丈夫よね?
「着きました・・・ここです」
到着したのはアヤカの家から東の香椎方面へ15分ほど行った、
上小金駅近くの小さなレストランだった。
青い屋根と白い壁、表には陶器のウサギが並んでいて、
『ビストロ・ラパン』という看板が頭上に掲げてある。
車を近くのパーキングに止め、准教授の後ろに続いて店内に入ると、
カウンター席と、テーブルが8つ、
フランスの農家のような、畏まらないカジュアルなお店のようだ。
天井からはドライフラワーが吊るされ、素朴な花瓶やお皿が飾られている。
店の一番奥は厨房になっているようで、4人ほどのシェフが忙しく動いていた。
「いらっしゃい・・・あら、庄治くん!?」
「エイコ先輩、ご無沙汰しちゃって・・・」
先輩?
アヤカ達を迎えてくれたのは、
ハキハキとした喋り方と、華やかな笑顔の綺麗な女性だった。
「本当にそうよ。どう?最近の千花大学は」
「相変わらずですよ、教授も、部屋も。
あ、こちら、益戸にある『カフェ・ヴェルデ』のオーナーの鈴井アヤカさんです」
そう言って、アヤカを振り向き、紹介してくれた。
「ああ、そうなの!あのお店の・・・。
初めまして、綾瀬エイコです。とりあえず、席に案内するわね」
焦げ茶色のロングの髪を片側に垂らし、
白のシャツに黒のパンツ、
足元は少しヒールのある黒のパンプス、耳元にはダイヤのピアスが光っている。
青のギャルソン風のエプロンを腰に巻き、
身長はアヤカよりも高く、170センチはあるだろうか。
何気ない普通の格好なのに、逆にエイコさんのスタイルの良さを際立たせていた。
逆三角の顔に、ハッキリした二重の目、
長い睫毛、ふっくらした唇に赤いリップがお似合いだ。
まさに人目を惹く美女だ。
美人といえば、ミナも美人だが、この人はまた違う。
ミナがクール系だとすれば、この人はラテン系。
准教授が先輩と呼ぶからには40才以上のはずだが、
どう見ても30代前半にしか見えない。
アヤカ達は、奥の二人掛けのテーブル席に案内された。
テーブルにはすでにテーブルマットとカラトリーがセットされていた。
「さあ、こちらにどうぞ。
私ね、あなたのお店には二度ほどお邪魔しているのよ。
雰囲気がとてもいいお店よね、珈琲もお菓子も絶品だったわ」
エイコさんは瓶入りの水とグラスをテーブルに置いた。
「鈴井アヤカです、初めまして。
ウチの店に来て頂いていたなんて、嬉しいですわ」
「ふふ。
もちろん、最初は新しい店が出来たってことで敵状視察ってことで行ったんだけどね。
シフォン・ケーキと珈琲を頂いたんだけど、とても美味しかったわ!
ウチもデザートを出しているから、ちょっと悔しいけどね」
「そんな・・・・ありがとうございます」
「あの・・・」
准教授が戸惑ったように、手を挙げている。
「先輩、今日のメニューを・・・」
「ああ、そうね!今、持ってくるから!」
カツカツと靴音を立てながら、エイコさんは行ってしまった。
「ふ~、このままだと飢え死にしてしまいますよ」
准教授がグラスに水を注ぎながら、ため息をついた。
「さあ、どうぞ。ここ、何でも美味しいんですよ。
たまに、柏原教授や秋元さん、ゼミの後輩とも来るんです。
忘年会をやったりね。
そのときはお任せにしてるんですが。
ランチはミニコース仕立てで、メインとデザートは選べるんです」
「そうなんですか。あの・・・綾瀬さんとは千花大学の先輩後輩なんですか?」
「そうですね。僕は大学3年のときに柏原教授のゼミに入ったんですけど、
先輩はすでに院生として、研究室にいました」
「こら、年齢がバレちゃうじゃないの!」
エイコさんがメニューを持って戻ってきた。
「ウチの大学はね、2年生までは一般教養で、
そこから自分の行きたい学部を選んで、そして所属するゼミを選ぶの。
そうしたらね、すごいオドオドした3年生がウチに入ってきて。
ね、アヤカさんは・・・アヤカさんって呼んでいい?
知ってる?柏原教授ゼミの名物研修旅行って」
あ、確か・・・暑いジャングルに連れて行かれて、
観光とかもなく、ただただ植物採集するという地獄のサバイバルとか。
一度、柏原教授から直接聞いたことがあった。
無事に帰ってきた人も、それがトラウマになって、
その後研究室に残る人は少ないということだ。
「あの・・・何か、サバイバルみたいな?」
遠慮がちにアヤカが言った。
「そう!誰よりも早く脱落すると思っていたんだけど、庄治くんは生き残った数人の一人なのよねー。
頼りなさそうだけど、以外と肝が据わっていて動じないのよ」
エイコさんは、アハハと口を大きく開いて笑った。
美人は口を大きくしても美人だ。
うーむ、ということは・・・この人もその生き残りなのね。
「ちょっと、そんなことはいいですから。それより先輩、今日のお勧めは?」
顔を赤くしながら、准教授が聞いた。
「あ、ごめん、ごめん。
今日は築地から新鮮なハマチが入っているの。
それを昆布締めにしたものを最初の前菜にしているわ。
それと、もちろんキノコ類もいろいろ。
それを使ったポタージュも美味しいし、マリネしたのも美味しいわよ。
メインは常陸牛のステーキと鴨のコンフィと真鯛のポワレ。
特にウチの鴨のコンフィは絶品でオススメなのよ、アヤカさん」
「じゃあ・・・僕のメインは常陸牛のステーキで。
それと運転しているのでワインはやめて、炭酸水を。
・・・鈴井さんはどうします?」
「あ、私は・・・メインはその鴨でお願いします。それとアイスピーチティーを」
「了解!デザートと食後の飲み物はどうする?
今日はタルトタタンと栗のズコット、梨のタルト、クリームブリュレがあるわ」
わあ、どれも美味しそう!
ウチの店は通常、生菓子は出していないのよね。
「じゃあ、僕は梨のタルトと珈琲で」と准教授。
「私は、タルトタタンと紅茶を」
「了解!少々お待ちください」
踊るようにエイコさんは席を離れていった。
エイコさんはアヤカ達の注文を厨房の奥にいる少し年配のシェフに伝えていた。
店内は満席で、カップルの二人連れ、女性のグループなど女性に人気があるようで、
静かに食事をする場というよりは、ワイワイと食事を楽しむ店のようだ。
居住まいを整えて、改めて准教授と向き合うと、さて、何を話していいのやら。
今までプライベートのことはあまり話したことがないし、
二人きり、しかも仕事の場以外に会ったことがない。
「あの、鈴井さん」
「な、なんでしょう。准教授」
突然の呼びかけに、アヤカは思わず声が上擦ってしまった。
「今更ですが、急に誘ってしまって、その、よかったんでしょうか」
見ると准教授の顔が少し曇っている。
「昨日・・・あんなことがあったばかりだったので、
まだ動揺していらっしゃるとは思ったんですが、
気分を変えたほうがいいのかと考えて、お誘いしたんです」
「とんでもない!
誘っていただいてとても嬉しいです。
・・・あのまま家にいても、きっと昨日のことを一人で考えてしまっていたと思うんです」
「そうですか・・・。
柏原教授から話は聞いていたんで、僕もネットで事件のことを見てみたんです。
同じ大学の生徒が被害者ということで、いろいろな憶測が飛んでいますね。
それで・・・どうなんですか?」
「そうですね・・・」
その時、一皿目が到着した。
「おまちどお様。まずはこのサラダからね。
手作りのショウガのドレッシングがかかっているわ」
「・・・とりあえず、頂きましょう。その話はデザートのときにでも」
准教授がフォークを取り上げた。
そうね、事件はデザートのあとで。
それからは、何気ない話が続いた。
6種の前菜を載せたプレート、お店で焼いているというパン、
旬のキノコのポタージュが運ばれた。
アヤカは准教授の年齢が38才であること、
住まいが東京であることを初めて知った。
「え、益戸じゃなかったんですか?」
「ええ、住まいは亀有なんですよ。伊戸川を渡ったらすぐなので、
大学までもそんなにかからないんですよ
亀有も下町の賑やかさがあって、いいところですよ」
「あの、ご実家なんですか?」
「いえ、実家は静岡なんですよ。大学に来てからはずっとこっちですね」
そうなんだ。
・・・ついでに聞いてみてもいいかしら。
「あ、あの・・・准教授、ご結婚は・・・」
これって地雷かしら?
男性にも聞いていいことなのかしら。
「いや、恥ずかしい話ですが、准教授なんて給料も安いですし、
中々家にも帰れない、研究室に泊まるなんてこともありますしね。
こんな毎日泥だらけになってあちこち歩き回っている男に
付いてきてくれる女性なんて、早々いないと思いますよ」
准教授は照れたように笑った。
そうなんだ。
アヤカの心臓は高鳴っていた。
思い切っていろいろ聞いちゃった。
でも、結婚していなくても・・・恋人くらいはいるのかもしれない。
だってこんなに素敵なんだもの。
ミナは准教授のことをボーっとしているとか言うし、
チカも頼りにならなそうとか言うけど、それは優しさの別面ってことじゃないの?
それに・・・昨日の准教授はとても頼りがいがあった。
だから、きっと私以外にも准教授のことを気にしている人がいるはず。
「失礼します。こちら、鴨のコンフィです。
そしてこちらが常陸牛のハラミステーキね」
アヤカの目の前に置かれたお皿には、皮がパリっと焼けていい飴色になった鴨肉。
ナイフを入れてみると、ほろっと柔らかく崩れた。
ソースは・・・バルサミコかしら?
酸味があるソースに少し甘みがあるから、蜂蜜も入っているのかもしれない。
一緒に添えてあるポテトグラタンも美味しかった。
「美味しいです!特にこの鴨のソース、絶品だわ!」
「あら、ありがとう!秘密を教えちゃうと、オレンジジュースが隠し味で入ってるのよ」
エイコさんがこっそり教えてくれた。
「うん、こっちのステーキも美味いですね・・・いい焼き加減だ。
そうそう、エイコ先輩は菌類の専門家なんですよ」
「菌類?」
それって、細菌とかカビとか?
「やーね、庄治くん、そんなこと言ったら誤解されちゃうじゃない」
エイコさんが後ろから准教授の首に両腕を回した。
え、ちょ、ちょっと!?
「要するに菌類って、キノコのこと。
私は大学でキノコの研究をしてたってワケ」
そうなんだ・・・というか、准教授にピッタリくっついてる!
「そのまま、研究を続けたかったんだけど、実家のこの店を継いじゃったのよ」
そうなんだ、このお店、エイコさんのお店だったのね。
「でも、まあそれでも良かったわ。ねえ?庄治くん」
エイコさんは女性のアヤカから見てもドキッとするような色っぽい笑顔を浮かべた。
「はあ、そうですね・・・」
准教授は困ったような表情を浮かべた。
え、まさか・・・エイコさん。
「じゃあ、ごゆっくり」
そう言ってにっこり笑い、エイコさんは立ち去った。
デザートは美味しかった。
酸味があるりんごを使った甘さ控えめのタルトタタン。
紅茶も芳醇だった。
だけど、さっきの准教授とエイコさんの様子が気になるあまり、アヤカは上の空になっていた。
准教授は事件の話をしていたが、途中でやめた。
おそらくアヤカの様子が変だったせいだろう。
二人は店を出て、再び車で走り出した。
「またいらしてね」
エイコさんは店の外まで見送ってくれた。
アヤカはチラッと振り返った。
同じ女性のアヤカから見ても魅力的なひとだ。
それ以上にエイコさんからにじみ出る自信というか、
強さみたいなものがより一層彼女の魅力を上げていた。
二人とも仲良さそうだったし、
それに・・・准教授、エイコさんって名前で呼んでる。
「・・・さん?鈴井さん?」
「は、はい、なんでしょう?」
さっきからずっと話しかけられていたのだろう。
「気分が悪いんですか?・・・先ほどから少し様子が変です。
もう家に戻りましょうか?」
「あ、い、いえ、大丈夫です。
その、少しボーッとしてしまって・・・睡眠不足のせいですね」
アヤカは慌てて否定した。
ああ、ダメだ、さっきから睡眠のせいにばかりしてる。
「あの、でも、大丈夫です!・・・お食事はとても美味しかったし、お天気もいいし」
「無理しないでください。これから本土寺に行こうと思っていたんですが・・・」
「本土寺?」
「あ、知りませんか?この近くにある紫陽花で有名なお寺なんです」
准教授の説明によると、益戸市だけじゃなく全国的にも有名な所だそうだ。
特に紫陽花の時期はたくさんの観光客が訪れるらしい。
「紫陽花が有名ですが、秋には隠れた紅葉の名所にもなるんです」
千花大学の准教授の研究生も、よくここに来て調査しているそうだ。
「紅葉し始めなので、少し早いですがそこへ行こうとしていたんです」
「・・・行きます!」
「え!?じゃ、じゃあ、行きましょうか」
勢い込んで言ったアヤカに准教授は少しびっくりしていた。
・・・そうよ、いろいろ考えたってしょうがない。
まだ結婚相手はいないって言ってたし。
とにかく今は。
益戸市の日蓮宗本土寺。
元々は源氏の名門家の屋敷跡だったが、
後に日蓮聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったそう。
桜は枝垂れ桜、ソメイヨシノ、八重桜など合わせて百本程あり、
三月の下旬から四月の上旬にかけて見ることができ、
六月上旬にはは花菖蒲が五千本、下旬に向けて十種類以上の紫陽花が境内中に咲き渡る。
紅葉は十一月の下旬頃に盛りを迎え、「山もみじ」「大盃」、関東の気候に合うよう品種改良した
「秋山紅」と呼ばれる三種類の紅葉、およそ千五百本が本土寺を紅く彩る。
また、年に一度は雪が降り積もり、雪化粧をまとった木々やお堂は普段の趣きとは
一線を画した景観になります。
・・・そうな。
チケット売り場の横にあったパンフレットを見ながら、アヤカは准教授と歩いていた。
益戸市の隣の香椎市で育ったのに、近くにこんな広い寺社があったことをアヤカは知らなかった。
紅葉し始めたばかりなので、園内に拝観客はまだ少なかった。
きっと秋が深まるにつれ混んでくるのだろう。
緑の紅葉や楓もまだたくさん残っているが、その緑と赤のコントラストがまた美しい。
准教授が歩きがなら、所々で本土寺のスポットを紹介してくれる。
「ゆっくり見て回ると、1時間くらいなので、ちょうどいい散歩になるんですよ。
ここは五重塔で、中には千体の黄金の観音様が納められています。
今、ちょうど中を公開しているみたいですね」
なるほど、1階の扉が開き、
車座に座った小さな観音像がずらりとたくさん。
厳かな金色の光を放ち、
優しげな微笑みを浮かべていた。
「6月頃だったら、この五重の塔あたりは、紫陽花が美しいんです」
「そうなんですか・・・見てみたいなぁ」
「じゃあ、よければ今度は梅雨の頃に来ましょう」
え、次!?
社交辞令かもしれないけど、アヤカの心臓は思わずハネ上がった。
これってデートの誘いよね?
「え、ええ、そうですね・・・きっと綺麗でしょうね」
「じゃあ、今度はあちらへ・・・」
アヤカと庄治准教授は、ゆっくりと時間をかけて園内を歩いた。
本土寺は昔の、50年くらい前の日本の田舎の原風景を
切り取ったような場所だった。
広々とした敷地には、田んぼや紫陽花畑、
今は時期が外れているが、アヤメ園だという場所にはアメンボが水の上でスケートをし、
上空にはトンボが自由気ままに飛び交っていた。
隣では准教授が時折、植物の説明を挟みつつ、アヤカの歩調に合わせて歩いてくれていた。
時々少年のような無邪気な表情を覗かせる。
(やっぱり・・・素敵だわ)
アヤカはふわふわとした心地で、歩いていた。
ぼーっと歩いていたら・・・躓いた。
「あ、大丈夫ですか!?」
准教授が両手を伸ばし、アヤカの体を支えてくれた。
どきっと心臓が跳ねた。
「あ、す、すいません!」
「まだ、体調が不安定なようですね。手を繋ぎましょう」
そう言って准教授がアヤカの左手をぎゅっと握った。
どうしよう!
手を繋いじゃってる!
心臓のエンジンがものすごいサイクルで動いている。
アヤカと准教授は手を握ったまま、歩いていった。
まさか、この心臓の音、聞こえてないよね!?
このままずっと歩いていたいな。
本当に・・・夢みたい。
「・・・少し休みましょうか」
少し開けた場所出た。
大きな池があり、真ん中にはお堂がある。
准教授は、アヤカを池の前のベンチに座らせた。
「ちょっと待っててください、そこで飲み物を買ってきますから」
そう言って、庄治准教授はすぐ近くの自販機に歩いていった。
アヤカは手を振って見送った。
准教授の背中を見ながら、知らず知らずに微笑んでいた。
園内をおよそ1キロくらい歩いただろうか、額が少し汗ばんでいた。
秋の涼しい風がアヤカのブラウスをなでていく。
(気持ちいい)
池には蓮の花が浮かんでいて、こういうのが極楽浄土なのかとアヤカは思った。
(なんだか穏やかな気持ち)
こういう景色を見ていると、あの事件は遠いところの出来事なのかと思いたくなる。
事件のことなんて忘れちゃえ・・・そう考えたこともあった。
もともとは好奇心から調べ始めた事件で、アヤカには直接関係ないはずだった。
しかし昨日、カフェ・ヴェルデの窓が破壊され、自分の身にも危険が迫ってきた。
何より・・・病院のベッドで横たわる池ノ上マイの姿が浮かんでくる。
彼女の努力して、努力してやっと掴みかけた夢が壊されようとしている。
それを暴力で奪おうとした犯人。
やらなきゃ。
自分でもわからないが・・もう少し・・・そう、もう少しできっと解決するはずだ。
・・・そんな気がする。
「今日はありがとうございました」
すでに陽は傾き、午後5時になっていた。
アヤカと准教授は本土寺を出て、途中、食料調達のため寄ったスーパーを
経由してアヤカの家の前に戻ってきていた。
「いや、気分転換になったんなら、良かったんですけど・・・」
「ええ、もちろん!美味しいお店も教えて頂いたし。
・・・今日こそ、美味しい珈琲入れますので、上がってってください、准教授」
「いや・・・しかし・・・」
あ、また尻込みしてる。
「取って食べたりしませんから・・・それに事件のこともあまり話していないですから」
アヤカが笑いながら言った。
けど、心の中はドキドキだった。
「・・・そうですね、じゃあ・・・お邪魔します」
わあ、ホントに准教授が私の家に!
いざとなると、嬉しさと恥ずかさ、半分半分の気持ちが込みあがってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます、頂きます」
アヤカはとっておきの豆で挽いた珈琲と、
ミニシナモンロールをお皿に4個をリビングのテーブルに置いた。
そして、そっと准教授の隣に座った。
・・・ただし、少し距離をとって。
准教授はアヤカの部屋を物珍しそうにぐるっと見回してからソファに座り、
テーブルに置いてあった「益戸シティリビング」をパラパラとめくっていた。
「これですか・・・例の聖マリアの学園祭の記事は」
そう言って、珈琲を口元に持っていった。
「・・・ん、美味しい!これ、僕好みですね。酸味が強くって・・・目が覚めるほど強いですね」
「ふふ、これ、軽井沢にある”ミカド珈琲”のものなんです」
ミカド珈琲とは。
70年近い老舗の珈琲店だ。
軽井沢の老舗の有名な喫茶店として知られているが、
実は創業地は東京日本橋だということを知る人は、少ないのではないだろうか。
戦後、まだ珈琲というものがまだ馴染みのない時代から、
伝統を守りつつも、時代の流れを汲んで味を受け継いできている珈琲店だ。
アヤカはこのミカドの”レギュラーブレンド”を准教授に出したのだ。
「ここのは、酸味が強いのが特徴なんです。・・・よければミニシナモンロールもどうぞ。
アフタヌーンティーの時に出したものなんですが、好評だったんで、
メニューに入れようか考え中なんです」
准教授はミニシナモンロールを手に取った。
「・・・うん、これも美味しいですね。珈琲とすごく合う」
「スウェーデンでは、珈琲とシナモンロールの組み合わせが人気なんですよ。
北欧は珈琲が大好きで、一日4回も
珈琲タイムを取るんですって。
もちろんスイーツも一緒に」
アヤカはウェットティッシュの箱を渡しながら言った。
シナモンロールはたっぷりとシナモンを入れ、渦巻状に形成して焼いた焼き菓子だ。
上にはアイシングもかかっている。
映画「カモメ食堂」でも紹介されていた。
「へぇ、軽食としても良さそうですね。
シナモンで目が覚めそうです・・・ところで」
指先を拭きながら再び准教授は雑誌を手に取った。
穏やかだった笑顔を潜め、真剣な面持ちでアヤカを見つめた。
「この記事を読んだんですが・・・」
「はい」
アヤカも珈琲を置いた。
「僕も、一応大学に身を置くものとして、思うところがあるのですが。
この・・・留学選考会というのは、教授同士の諍いや、牽制などは無かったんでしょうか」
「諍い?」
「・・・ええ。
この成都を海外留学というのは、
聖マリア女子では初めてのことなんでしょう?
だとすると、この選考というのは自分の愛弟子が選ばれるかどうかで、
教授達のその・・・学内におけるパワーバランスにも関係してくるはずです」
「パワーバランス・・・つまり・・・選ばれる生徒だけじゃなく、
その教授達にも大きな影響があるってことですか?」
「そうですね。
ウチの、千花大学でもあることなんですよ。
学内の権力争い、派閥とかね・・・。
柏原教授のような方はそんなことは全く意に関していませんけどね。
教授は自分の好きな研究が出来ればいいんです。
教授の学業を追求する、その情熱と姿勢は素晴らしいんです。
ですが、
そういう教授を疎ましく思っている教授の方々も
いらっしゃいます。
教授は馬耳東風ですけどね。
僕は・・・そんな柏原教授を尊敬してるんです」
そうか、そういう見方もあるのね。
生徒同士だけじゃなく、教授や准教授、
もしくは講師同士の権力争いか。
一応、アヤカの父も大学教授に籍を置いている。
ただし、日本のそういうシガラミがイヤで、今はスウェーデンにある大学に行っている。
たまにしか・・・というか新学期が始まる前の2ヶ月程しか帰ってこないが。
それにアヤカもマスコミの世界に身を置いていたことだってあったのだから、
一般の企業内でも派閥争いとか・・・そういうのは見聞きしてきた。
しかし、まあ、あの柏原教授に権力争いがあるとは思ってもいなかったけど。
そういタイプじゃないもの。
とすると・・・
「じゃあ、あの4人の担当教授、
いえ、冬木教授以外の先生たちのアリバイも確認しないとダメですね」
ああ・・・せっかく捜査の範囲が狭まってきたと思ったのに・・・。
また容疑者が増えた。
アヤカの気持ちは沈んだ。
「いえ、やはりあの被害者以外の3人に関わる人だけではないでしょうか。
もし、犯人だとしたら、自分の出世がかかっているとはいえ、ことは殺人です。
早々できる事ではありません。
並大抵の覚悟がなければ出来ないでしょうからね」
翌日の日曜日、
アヤカの家にミナ、チカ、姪のアン、そして母が集合した。
別に口裏を合わせたわけではなかったらしい。
それぞれがアヤカを心配して来てくれた。
ミナはアヤカが家で食べられるように、たくさんの食料を持ってきてくれた。
アサリをたっぷり使ったクラムチャウダー、
お得意のミニキッシュとミニパン(これらは冷凍すればしばらくもつとのこと)、
ビーフの赤ワイン煮込み、などなど。
「赤ワインで煮込んであるから、これも2~3日は持つから」
チカは数冊の雑誌と推理小説。
「しばらく、家にいたほうがいいわよ。なんなら、明日も休んだって・・・」
それは丁重にお断りさせて頂きました、はい。
だって、私の店だもの。
あれくらいの妨害で負けてられない。
何より脅しに屈したとは犯人に思われたくなかった。
「はい、これ、持っておきなさい」
母から渡されたのは、催涙スプレーと防犯ブザー。
・・・良かった、ナイフじゃなくて。
アヤカは有り難く受けとった。
アンからはうさぎのぬいぐるみ。
「アタシのうさちゃん、アヤカちゃんに貸したげるね。
このコがいれば、さびしくないよ」
そう言って渡してくれた。
「ありがと、アン」
アヤカはアンの気持ちが嬉しくて、ぎゅっと抱きしめた。
「それで、どうだったの」
ミナがふいにアヤカを見て言った。
みんなでミナが持ってきてくれたご馳走を食べながら、
事件の話をしていたときのことだ。
「どうって・・・何のこと?」
ちょ、ちょっと母さんの前で!?
「報告は無し?」
「何?ミナちゃん、なんのことなの?」
母が不思議そうな顔をして、アヤカとミナの顔を交互に見た。
「アヤカと准教授のデートのことです」
「え!?そうなの!?まあ!」
ああ、やっぱり。
母がものすごい勢いで食いついてきた。
そんな・・・ただのデート、いえ出かけただけなんだからそんな大げさにしなくても。
しかし、事件の話はあっという間に脇に投げられ、アヤカのデート報告会になったのだった。
アヤカは昨日何を着たか、准教授の服装、『ビストロ・ラパン』での食事、
お寺での散策のこと、などなど、細かく掘り下げられてみんなの前ですべて披露するハメになった。
「・・・ふ~ん、その女性、怪しいわね」
とチカ。
特にみんなのアンテナにカチッときたのは、その女性、つまり綾瀬エイコさんのことだったらしい。
「名前で呼んでるのね」
ミナの目がメガネの奥で細くなる。
「ビストロ・ラパン・・・ね」
母が何やら考えている。
「ちょ、ちょっと!・・・まさか母さん・・・行く気じゃないでしょうね!」
ぎくっとアヤカが慌てる。
なんせ、うちの母には前科がある。
以前、一人暴走して事件の容疑者の店に調査しに行ったのだ。
しかも変装までして。
「あら、アヤカ、行くって何のこと?」
「・・・母さんが『ビストロ・ラパン』に行くってことよ」
「私がどこへ食事に行こうが勝手じゃない?別にその彼女は事件に関係ないんでしょ?」
そりゃ、そうだけど・・・。
でも、イイ年した娘のために、ライバルかもしれない女性の店に視察に行くなんて。
恥ずかしいじゃない。
そうそう、昨日庄治准教授に指摘された聖マリアの教授たちの利権のことは、
あのあとすぐ、一之瀬さんに電話してみた。
「もちろんあの時、校内にいた関係者たちがどこにいたかは
確認済みです。しかし・・・いや、そうですか・・・わかりました。
そういうことなら念のため、もう一度確認しましょう」
「お願いします。それと・・・何か進展はありました?」
「あれからは何もありませんな。
・・・しかしいいですか、鈴井さん。
これからも身辺には充分気をつけてください。
まだ・・・犯人は捕まっていないのですからな」
そう言って電話を切ったあと、何も連絡はない。
あれからどうなったのだろうか。
きっと一之瀬さんたちは犯人を捕まえるために精力的に動いている。
カフェのこと、事件のこと、・・・エイコさんのこと。
考えることはたくさんある。
でも私は・・・とりあえず、明日からまた仕事だ。