第6章
「これでよしっと・・・」
アヤカはカフェ・ヴェルデの裏庭で、自分の愛車に荷物を積み込んでいた。
「忘れ物はない?」
ミナが残りの荷物を持って立っていた。
「大丈夫」
アヤカは笑いながら受け取った。
「お菓子は全部積んだし、珈琲豆や紅茶、紙コップや紙皿、
ナプキンもたくさん入れたし・・・
念のため、一応カトラリーも少し入ってる。準備万端よ」
「そう、大丈夫そうね」
木曜日の午後2時。
アヤカは千花大学で行われる、
教授会のケイタリングに出発するところだった。
今日のアヤカは、白のとろみがあるブラウスに、
グレーに白のストライプが入ったアンクル丈の
パンツを合わせていた。
アクセサリーは短いパールネックレスを合わせた。
足元はネイビーのウェッジソール、
助手席には靴と合わせたネイビーのジャケットと、
黒のカッチリした『フルラ』のショルダーバックが置いてある。
これで見かけだけでも、少しは有能な女性オーナーに見えるかしら。
ケイタリングに加えて、サーブもするので会場で浮かないようにしたつもりだ。
昨日、アヤカとミナは店を閉めてから下準備を始め、
今日も朝早くに出勤した。
チカも早めに出勤してくれて開店準備を一人で引き受けてくれたので、
アヤカとミナは厨房に籠ることができた。
朝からオーブンはフル回転状態。
厨房はこのケイタリング分のお菓子と、
今日店に出すお菓子でいっぱいになり、置場所にも大変だったところ。
「この前のアフタヌーンティーは成功だったし、
このケイタリングで今月は臨時収入が増えるはず。
臨時ボーナスとかも出せるかもしれないわ」
バタンと車の後ろを閉めながらアヤカが言った。
「私はお菓子さえ焼ければ・・・」
「あはは、そうよね。ミナは純粋だもんね」
「アヤカ、なんかオーナーっぽくなってきたわよね」
ミナがぽつりと呟いた。
「それって守銭奴ってこと?」
アヤカが口を尖らす。
「ううん、しっかりしてきたなと思って」
「そ、そお?」
ミナの言葉に思わず動揺した。
「今のところ店はうまく軌道に乗ってるわよね。
あのね、経営って支出と収入が同じだけじゃダメなの、
売り上げがあるのは大事なことなんだから。
それがないと経営が不安定になるし、スタッフだって安心して働けないんだから」
ミナが真面目な顔で言った。
「でも・・・それって当たり前のことなんじゃないの?」
「そうなんだけど、
それが出来ないからダメになってしまうお店が多いんじゃない?
・・・夢や理想だけじゃダメなのよ。
私やチカちゃんが安心してここで働けるのは、
アヤカが現実的に店のことをしっかり考えてくれてるからよ」
まさかミナからそんな言葉を聞くとは思ってもみなかった。
そういえば、ミナの元夫は、
フランチャイズのブーランジェリーを経営している御曹司だった。
そういう元夫を間近で見ていたから言えるのかもしれない。
あの我が母上だって、病院を一人で経営している。
娘として近くで見てきたつもりだが、いろいろと苦労していたに違いない。
同じ経営者として今はわかるつもりだ。
アヤカは車に乗り込み、イグニッションキーを回して、
シートベルトをしっかりと締めた。
運転席の窓を降ろし、アヤカはミナを見上げた。
「ねえ、ミナ。
もし、私が間違えそうになったら、暴走しそうになったら・・・止めてくれる?
友達として、同じ店で働く仲間として」
「たぶんね」
「たぶんって・・・」
アヤカが戸惑っていると、ミナがニッコリと笑った。
「私が何も言わなくても、アヤカは立派な経営者になってきてると思う。
でも、もしものときはきっと止めるから。
私だけじゃない、チカちゃんもきっとそう。
アヤカはこの店のオーナーだけど、私達だってこの店が大好きなんだから」
ガタガタッ。
アヤカは一瞬だけ車の後部を振り返った。
普段だったら、カフェ・ヴェルデから千花大学までは
車で10分もかからない平坦な道のりだ。
しかし、今回は違う。
大事なお菓子を積んでいるのだから、慎重に慎重に運転しなければならない。
そういうわけで、ゆっくりと運転した結果、千花大学の校門を通ったのは2時20分だった。
急がなくちゃ!
慎重に、しかし急いで業者専用の駐車場に車を入れようとすると、
そこには見慣れた人物が手を振って待っていた。
「鈴井さん、今日は大変な仕事を引き受けて頂いてありがとうございます」
庄治准教授が笑顔で立っていた。
いつもの白衣、もしくは青のつなぎではなく、
ネイビーのスーツ、水色のシャツ、ブルーのストライプのネクタイまで締めていた。
なんだか、髪型もキマッているようだった。
こんな准教授、初めて見る。
(スーツ姿の准教授・・・素敵)
「こ、こんにちわ」
思わず緊張してしまって、声が裏返ってしまった。
いけない、いけない。
今日は仕事で来たんだから。
「荷物を運ぶの手伝いに来ました・・・後ろですか?」
「はい、今開けます!」
アヤカは慌てて車を降りた。
すでに1時から教授会は千花大学の小ホールで行われていた。
アヤカは荷物を抱え、後ろのドアから静かにホールへ入った。
教授会というのは、もっと賑やかな、
会議みたいなものだと考えていたが、静かに進行していた。
ホールを埋める教授や講師たちは80人ほどいるだろうか。
一人が壇上で、スライドなどを使いながら、自分の研究成果を話している。
但し、質疑応答の時間になると話は別。
矢継ぎ早に質問、疑問が飛び、さながら国会中継のように賑やかだった。
「どうした、どうした!」
「そこで終わりか?」
ヤジが飛んでいた。
あれは・・・柏原教授の声だったような。
アヤカ自身はあの柏原教授がどういう話をするか興味があったのだが、
準備しなければならなかったので聞くヒマがなかった。
予定では3時までに終了するらしいので、
それまでにすべて完璧に用意しておきたかった。
准教授にも手伝ってもらい、車から会場への運搬は3往復で済んだ。
ホールの後ろに控室があり、簡素な台所が備えつけてあった。
アヤカの戦場はそこだった。
たくさんの珈琲や紅茶を用意しなければいけないのに、
コンロのガス台は二口しかなく、お湯を沸かしたりするのは一苦労だった。
(ケイタリングをするときは、現場の状況を聞いておくべし!)
今後のために、アヤカは心の中でメモをした。
カラの大きなポットを4つ持ってきていたので、
お湯を沸かしては珈琲や紅茶を入れ、その中に入れて保温する。
こうすれば時間になったらすぐお出しすることが出来る。
レモンをスライスしたり、砂糖やミルクを什器に入れたりしていたら、
あっという間に3時になり、教授会が終わりを迎えようとしていた。
(さあ、これからが私の出番)
「お疲れ様でした。
アヤカさんのおかげで、今回の柏原教授主催の教授会は大好評でしたわ!」
「秋元さんこそ、お疲れ様でした。教授会って・・・大変なんですね」
教授や講師たちの研究会発表が予定とおりに終わると、
秋元さんの指示のもと、
大急ぎで柏原教授の研究室の生徒達や事務関係者達が、
机をコの字にして会場をセッティングした。
アヤカも急いで緑のテーブルランナーを敷き、カフェ・ヴェルデ自慢の焼き菓子、
珈琲、紅茶のポットなどをバランスよく配置させた。
もちろん、紙ナプキンや紙コップなども。
10分で用意が整った。
柏原教授の長い挨拶のあと(珈琲が冷めちゃう!)、
各自、思い思いに飲み物やお菓子を手に取り、
教授や准教授、講師や秘書、スタッフたちが雑談に花を咲かす。
秋元さんいわく、
学部を超えて交流するというのはあまりないらしく、
こういう場で情報交換をしたり、人脈を広げたりするそうだ。
今回カフェ・ヴェルデが用意したものは概ね好評だったようだ。
アヤカがテーブルにお菓子や珈琲を補充していると、
あちこちで声を掛けられた。
「今度、ウチが主催するときもお願いしたい」
「家内が店のファンでね・・・」
アヤカはエプロンのポケットに名刺を入れていた。
話しかけられた人には名刺を配った。
「念のため、持っていったほうがいいんじゃない?」
(チカの忠告を聞いておいて良かった!)
始まって30分ほどで、焼き菓子や珈琲が無くなってきた。
学業に準じた仕事というのは頭を使うからか、甘いもの好きな人が多いようだ。
アヤカは慌てて追加の珈琲を沸かし、
念のためと予備で持ってきていたお菓子を出しても、すぐ無くなってしまった。
結局バタバタと1時間近く、アヤカは忙しく動き続けた。
どうやら懇親会、もしくはカフェ・ヴェルデ初のケイタリングは成功だったようだ。
「もし余ったら、ウチの研究室のコ達にも配ろうと思っていたんですけどね」
秋元さんが笑いながら言った。
アヤカは柏原教授の研究室で、秋元さん、柏原教授とともに
のんびり珈琲ブレイクを楽しんでいた。
すでに4時を大きく回っていた。
店に電話をしてみると、こっちは大丈夫だからとミナが言うので、
アヤカもしばらく休憩しているというわけだ。
珈琲はこの研究室の台所で改めて沸かしたばかり。
そしてテーブルには、なぜか完売してしまったはずの焼き菓子が乗ったお皿。
「キミ達のためにこっそり取っておいたんだよ」
教授は前もって、カフェ・ヴェルデの焼き菓子を抜き取っておいたらしい。
私のおかげだといわんばかりだが、
きっと自分のためにこっそり盗んで・・・もとい、先取りしておいたのだろう。
そして、さっき誰よりもたくさん食べていたのに、またもやお皿に手を出している。
「まあ、教授、ありがとうございます。お優しいこと」
笑ってはいるが、秋元さんには見え見えのようだ。
すでに懇親会で使った道具などは車に運び終わっていた。
相変わらずこの研究室はムッとする湿気と、
ビニールハウスのような暖かさだが、最近はもう慣れた。
まるでジャングルの中でお茶しているようだった。
それはそれで中々のものだが、ジャングル・アフタヌーンティー・・・は無いかな。
何を出したらいいかわからないし。
でも、ミナなら何が考え付くかも。
アヤカはそんなことを考えて、一人で苦笑した。
庄治准教授は先程の会場の後片付けで残っていたので、この場にはいない。
でも、もうすぐこの部屋に帰ってくるだろう。
そうしたら・・・・。
「どうだったかね、私の演説は、鈴井クン!心に訴えてくるようだっただろう?」
「え、ええと・・・」
アヤカが返事に困っていると、秋元さんが助け船を出してくれた。
「そうですわね・・・持ち時間をかなりオーバーしていましたね」
各自15分の持ち時間のうちに発表するそうだが、
教授はなんと・・・予定時間をだいぶ過ぎても、他の人が止めるまで話し続けていたらしい。
「そうだろう!あの枠じゃ収まりきらなかったんだ。
もっともっと話したいことがあったんだがね」
「でも、皆様とても感心していらっしゃいましたよ」
恐らく、秋元さんは懇親会の準備でほとんど聞いていなかったはずだけど。
「やはりそうか!今度は持ち時間をもっと増やすように・・・」
そう言って柏原教授が勢い込んで腕を振り上げると、
肘がマグカップに当たり、珈琲がテーブルこぼれ、
置いてあった教授の原稿にまで広がってしまった。
「こりゃ、いかん!」
「まあ、大変!!」
秋元さんは台所へ走って行った。
「教授!火傷しませんでした!?」
アヤカも慌てて横に置いておいたショルダーバッグからハンカチを取り出した。
「これ使って・・・」
と、そこで動きが止まった。
手元に目を落とす。
それは見覚えがない白いハンカチだった。
何これ・・・私のじゃない。
アヤカがハンカチに気をとられているうちに、
テーブルの上に置いてあった原稿用紙に珈琲が染み込んでいく。
「あー、まずいな、こりゃ・・・」
柏原教授はティッシュの箱を抱えて、テーブルと原稿を拭いている。
アヤカはハンカチをじっと眺め、ゆっくりと広げた。
上質なものね・・・レースなどの飾りはない。
しかし、よく見ると隅に『E』という文字が刺繍されていた。
これはイニシャル?
よく見ると、茶色の染みで汚れている部分がある。
このハンカチ、誰の・・・。
あ!!
アヤカはドスンと音を立ててソファに座った。
そうだ、これ、母さんと一緒に行った益戸中央公園で拾ったんだった。
たしか、植え込みに引っかかっていたのよね。
それをポケットに突っ込んで、それから・・・バッグに無意識に入れたんだ。
一之瀬さんと話したりしていてすっかり忘れてた。
あのときの母さんと一之瀬さんったら・・・。
思わず顔がニヤリとした。
・・・あれ?
刑事さんが言ってたっけ。
確か、小泉ココロの首筋に茶色の塗料が付いていたって。
もう一度、茶色い染みをよく見てみる。
まさかこれって・・・犯人の落としもの?
そんな訳ないわよね。
アヤカは無意識に首を振った。
だって、小泉ココロが発見されたのは火曜日の朝だったはず。
私達が行ったのは火曜日の夜中だもの。
その前に警察が徹底的に捜索したはずだから、
見落としたなんて考えられない。
これが犯人のものかもしれないなんて。
でも・・・。
アヤカは顔をしかめた。
自分の考えに没頭していると、急に声を掛けられた。
「鈴井くん、どうかしたのかね?」
アヤカは見ていたハンカチから顔を上げると、
柏原教授と真正面から向き合う形になった。
手にはまたミナが焼いたフィナンシェを持っている。
「ええ・・・あの・・・」
「何だい?変な顔をして」
「まあ、教授ったら。女性に変な顔だなんて言ってはダメですよ」
戻ってきた秋元さんは、ふきんでテーブルを拭いている。
フォローのつもりで秋元さんは言ってくれたんだろうけど、
何だか逆に傷つくような。
「これなんですけど・・・」
アヤカはハンカチを差し出しながら、
公園で拾った経緯と、事件のことを二人に話した。
「まさかこれ、犯人の落し物ってことはないですよね・・・」
「どれ、見せてみなさい」
アヤカが何か言う前に、柏原教授がハンカチを引ったくった。
ああ、そんな乱暴な。
「ふーん・・・キレイなものだね」
「これ、シルクでしょう?高級品ですわよ。
シンプルなものですから、男性のものか女性のものか、
ちょっとわかりませんわね・・・」
教授の隣で秋元さんも覗き込む。
「で、これかね?」
そう言って柏原教授は、隅にある茶色い塗料を指で擦り、
フガフガと大きな鼻息を立てながら、
指の匂いを嗅いでいた。
(ああ!証拠かもしれないのに!)
アヤカは心の中でパニックになっていた。
「なんだ、これ松ヤニじゃないか」
「え?」
「この茶色いの、松ヤニだよ、鈴井くん」
「松ヤニって・・・木の松ですか?」
「そうだ」
あの公園には松の木が多いのかしら。
じゃあ、ハンカチが犯人のものだとして、
松の木に手を触れた犯人が小泉ココロの首を絞めたあと、
このハンカチで手を拭いたってこと・・・?
「それは有り得ないね」
アヤカの推理は即座に教授に一蹴されてしまった。
「この松ヤニというのはね、樹脂なんだ。
松の木にちょっとやそっと、触っただけじゃくっつかないんだよ。
松の樹脂を採取して、蒸留する。
それを固めたのが松ヤニだ」
教授が得意そうに指を振りながら言う。
「それって、どうやって使うんですか?」
アヤカが質問した。
「うん?そうだね、主に滑り止めとして使う事が多い。
例えば、粉状にして野球ボールのロジンバッグ・・・
ほら、投手が投げるときに白い粉の袋みたいなのを使うだろう?
他にはハンドボールの滑り止めとしても使うね」
白?
でもこれは茶色いわ。
「バレリーナのトゥシューズの靴先にも、
滑り止めで付けるそうだ」
バレリーナ・・・?
犯人はバレリーナで、公園でクルクルと回りながら首を絞めたってこと?
想像するだけでも奇妙な光景だった。
夢に出てきそう・・・しかも悪夢のほう。
「それとだ」
柏原教授がにんまりと笑う。
「擦弦楽器、弓の塗布剤としても松ヤニは使われる。
つまり、バイオリンなどにね。
その場合は固めたまま、茶色いままだ。
キミの言う容疑者達にぴったりのモノじゃないか?」
ふう。
アヤカは車を発進させて、千花大学を後にした。
頭の中では教授の言ったことがずーっとグルグルしていた。
とにかく、このハンカチを警察に届けなきゃいけない。
事件とは関係ないかもしれないけど、
ひょっとしたら、重要な証拠なのかもしれない。
柏原教授もそうしろと勧めてくれた。
車の後部には焼き菓子が入っていた使い終わったダンボール、
珈琲ポット、カラトリーなどが詰め込まれた
大きなビニールバッグが、車の振動でガタガタと音を立てている。
(せっかく、庄治准教授と話せると思ったのに・・・)
あれから、柏原教授の研究室で待っていても、准教授は部屋に戻ってこなかった。
「恐らく、他の先生方に捕まっているんでしょうね」
秋元さんは笑っていたが、残念。
今日はいつもの店の制服じゃなくて、女性っぽくエレガントにしたつもりだったし、
目元にアイカラーもひいて、新しく買ったリップもつけてきたのに。
(少しは綺麗にできたかと思ったんだけどな)
アヤカは小さくため息をついた。
しょうがない。
とりあえず、店に帰って残りの時間を働かなきゃ。
私はカフェのオーナーであって、探偵ではないのだから・・・。
お店が終わったら、あのハンカチを警察に届けよう。
ん?
車を走らせていると、
目の端に反対車線の道路脇を走っている赤い自転車が見えた。
それに乗っているあれは・・・確か、白井ユウコ!?
アヤカは首をぐるりと回し、振り返った。
しかし、すぐに慌てて前を向き、
今度は急いで車のサイドミラーを覗き込んだ。
茶色い長い髪を風になびかせた人物が、だんだん遠のいていく。
あれは本当に白井ユウコだったのか。
見間違いかも・・・一瞬だったし。
追いかけるべきか。
(ええい、迷ってるヒマはない、今ならまだ間に合う)
アヤカは決心し、少し先にあったコンビニの駐車場に車を入れた。
そのままUターンし、赤い自転車を追いかける。
車だからすぐ追いつくはず。
そう思ってアヤカは車を走らせた。
・・・いた!
赤い自転車は急ぐふうでもなく、左前方を走っている。
前のカゴにはバイオリンケースと思われる黒いケースが入っていた。
サドルには白の小さな布バッグ。
でも・・・。
白井ユウコらしき人を見かけたからといって、なんで私は後を付けてるのかしら。
ただ通りかかっただけじゃないの。
ふと我に返った。
急いでお店に戻らなきゃいけないのに。
(どこまで行くのかしら)
アヤカがもう諦めようかと思い始めたとき、赤い自転車の主はふいに左へ曲がった。
慌ててウィンカーを出し、アヤカも結局左へ道を入った。
左右に家々が続く細い道だった。
後をつけているのがバレてしまわないように、
距離を空けてアヤカは車を減速した。
赤い自転車は5メートル先を走っている。
家がまばらになり、空き地や、ちょっとした畑が現れた。
どこへ行くのだろう・・・。
ここは白井ユウコの家がある”本郷寺”とは離れている。
友人か知人を訪ねていくのだろうか。
それともやっぱり白井ユウコではなく、人違いだったかしら・・・?
すると、突然赤い自転車が止まった。
自転車を降り、白井ユウコらしき女性は自転車を押しながら、
大きな木の支柱で出来た門をくぐっていった。
アヤカは後ろから車が来ていないことを確認し、少し手前で車を止めた。
半分開いている車の窓から、賑やかな声が聞こえてきた。
窓を下げて見上げると、白い木製の壁と緑屋根の2階建ての建物だった。
よく見ると白い壁はすすけ、ペンキがところどころ剥げ、
かなりの年月を経ている建物だった。
家の前には、滑り台や砂場などの遊具、花壇などがある大きな庭があった。
賑やかな声はそこで遊んでいる幼い子供たちだった。
庭のベンチに年配の白髪のほっそりとした女性が一人座っていた。
(幼稚園、いえ、保育園かしら?)
自転車に乗っていた茶色の長い髪の女性が、庭にいた女性に笑顔で近づいていく。
その顔には見覚えがあった。
やはり白井ユウコだった。
ベンチの女性と何か言葉を交わしている。
庭で遊んでいた子供たちも周りに集まってきた。
白井ユウコはバイオリンケースとトートバッグを持っていた。
そして子供たちに囲まれながら、その女性と一緒に家に入っていった。
なぜここに?
アヤカの好奇心がムクムクと湧き上がってきた。
アヤカは少し先にあった、草がぼうぼうと生えている空き地に車を停めた。
しばらくなら大丈夫だろう。
助手席に放っておいたジャケットに腕を通し、
バッグを肩にかけ、徒歩でその家に戻った。
木が2本立てられただけの門の横には表札が下がっていた。
『こばとの家』
一瞬ためらったが、アヤカは門をくぐり、玄関まで近づいてみた。
引き戸の大きな玄関は、磨りガラスになっていた。
中ははっきりと見えなかったが、微かに物音がしていた。
玄関から右に壁伝いに回ってみると、バイオリンの音色がアヤカの耳に届き始めた。
左に曲がり、また左に回るとちょう玄関の裏側に出た。
大きな窓があり、アヤカはそっと中を覗いてみた。
白井ユウコがバイオリンを弾いていた。
ピンクのニットに、ブルーのジーンズを履いていた。
立ったまま目を閉じ、音色にあわせて体を揺らしていた。
彼女を中心に、子供達が円を作り座っている。
窓を通しても、演奏が聞こえてくる。
アヤカには何の曲か、わからなかったが美しい音色だった。
思わず目を閉じた。
白井ユウコの演奏は上手だった。
チェリストのはずだが、バイオリンもまた弾けるのだろう。
池ノ上マイが留学コンペで選ばれたというが、
この白井ユウコのこの専門外の演奏だって、立派なものだった。
素人ながらも、アヤカも雑誌記者のときは
いろいろなアーティストの演奏を取材しに行ったものだ。
プロの演奏に勝るとも劣らない・・・と思う。
ということは、池ノ上マイはこれ以上ということなのか。
「よかったら、お入りになりませんか?」
いつの間にか窓が開かれていて、
先ほど庭にいた年配の女性が窓際に立ち、アヤカを見下ろしていた。
綺麗な白髪に、ハイネックの白のブラウス、
紫のシンプルな長いスカートを身に着けていた。
小さな銀色のメガネを掛け、アヤカに向けられた眼差しはとても優しかった。
全く気がつかなかった。
「あ、あの、すいません・・・私、つい・・・音が聞こえて・・・」
ああ、私ってばバカ!
こんなしどろもどろな言い訳なんかして、
不審者丸出しじゃないの。
「まあ、そうですか。じゃあ、中へ入ってお聞きになりませんか?」
女性が笑って窓が大きく開かれた。
(ええ!?)
部屋の中から子供達のたくさんの目や、白井ユウコの目がアヤカに向けられていた。
「お姉ちゃん、こっちおいでよ!」
「こっち座って、一緒に聞きなよ」
子供達の声に、アヤカはどうしようもなく、靴を脱いでのろのろと部屋に上がった。
すると子供達に引っ張られ、
アヤカは白井ユウコの真正面に座ることになってしまった。
白井ユウコはアヤカにニッコリと微笑み、再びバイオリンに弓を当てた。
(私のこと、覚えてないみたいね)
アヤカはホッと胸を撫で下ろした。
再び演奏が始まり、美しい旋律が部屋を満たしていく。
アヤカは部屋をぐるりと見回してみた。
壁の一面にはここの子供達が描いたと思われる絵が飾ってある。
花や、動物や、友達の絵など。
隅には片付けられたいくつかの木製のテーブルと、椅子。
部屋の後ろには木製のロッカー。
驚くほど片付けられた部屋だ。
子供達は目を輝かせて白井ユウコを見つめ、行儀よく演奏を聴いていた。
アヤカを招いてくれた年配の女性は、
低い子供用の椅子だろうか、それに座り暖かい目で見守っていた。
演奏が終わった。
わあ!
歓声が上がり子供達は嬉しそうに手を叩きながら、白井ユウコを囲んだ。
「ユウコお姉ちゃん、今度は"アナ雪"弾いてよ~」
「違うよ!仮面ライダーだってば!」
「待って、待ってよ、順番ね。じゃあ最初は・・・」
白井ユウコは子供たちを制止しながら、
リクエストを次々と弾いていった。
「彼女、音大生なんですよ」
いつの間にか、アヤカの隣りに女性が腰を下ろしていた。
「そ、そうなんですか」
今さら白井ユウコを知っているだなんて言えない。
「上手でしょう?定期的にここに来て演奏してくれるんです」
「え、ええ。本当に素敵な演奏ですね。
私、つい、それに惹かれてしまって・・・。
じゃあ、彼女はボランティアで、こちらのような幼稚園や保育園で演奏してるんですか?」
アヤカが言うと、女性は少し困った顔をした。
「そうですね・・・ここ・・孤児院なんですよ」
「え!?」
そういえば。
改めて子供達を見てみると、制服を着ていないしスモックも着ていない。
私服だけの園児施設はあることはあるけれど、
よく見ると、2~3才くらいの小さい子もいれば、
小学2年生くらいの大きい子もいて、年齢はバラバラだ。
今、5時前、年上の子たちはまだ学校から戻っていないのだろう。
「明るい子達ばかりですが、内面に寂しさを抱えている子も多いんです。
彼女は時々ココに来て、演奏してくれるんですよ。
子供たちも楽しみにしてるんです・・・とても楽しそうで・・・音楽の力って不思議ですよね」
女性はアヤカに優しく微笑んだ。
アヤカが白井ユウコに目を向けると、何の曲かわからないが、
彼女の演奏に合わせて子供たちが踊っていた。
そこには寂しさのカケラなども感じさせない、幸せな一枚の絵のようだった。
アヤカがお礼と暇を告げて、門の外に出ようとすると、
白井ユウコが走って追ってきた。
「待ってください!」
軽く息を切らしながら、アヤカの前に立った。
「あの・・・私、あなたのこと、見たことが、お会いしたことがあるような・・・」
ああ、もう隠してはおけない。
アヤカは白井ユウコに真っ直ぐに向き合った。
「私、カフェ・ヴェルデのオーナーをしている、鈴井アヤカと申します」
「ああ・・・あの店の・・・」
「すいません!」
アヤカはガバっと頭を下げた。
「え!?」
「私、あなたの後をつけたんです!」
「私を・・・?」
白井ユウコはきょとんとしていた。
アヤカは白井ユウコを見かけ、後をつけてこの家に来たことを白状した。
「・・・そうですか」
「はい・・・不快に思われたでしょうね」
白井ユウコは下を向いて、もじもじと体を揺らしたあと、
決心したようにつと顔を上げた。
「私・・・この家の出身なんです」
「え?」
「私、孤児だったんです。
両親は私がまだ赤ちゃんの頃に離婚して、私は母に引き取られました。
でも、母は私を育てることが、出来なくなったんです。
それで小さい頃、私はこの養護施設に預けられたんです・・・4才でした」
「あの・・・お母様は病気とかで?」
アヤカは聞いた。
すると、白井ユウコは悲しげに首を振った。
「育児放棄・・・ですって。
今だとネグレストって言うんですってね。
母は夜の飲食関係の仕事をしていたそうです。
でもある日、私を部屋に残してどこかへ行ってしまったそうです。
私は、たまたま児童保護局の方に発見され、保護されてこの家に来ました。
小さかったので、何となくしか覚えていませんけどね」
上田ユウコはふふっと小さく笑った。
「すいません・・・こんな話聞かされても困っちゃいますよね?
私はここで8才まで育って、幸運なことに今の両親に引き取られました。
・・・とても優しい父と母です。
ここまで育ててくれて、音大にまで行かせてくれて」
白井ユウコはどこか寂しそうな笑顔を見せた。
「ここにはたまにバイオリンを持ってきて、演奏するんです。
私の実家のようなものですね。
私ね、子供たちの前で弾いていると心が落ち着くんです。
この場所では、あの子たちの前では、
自分を作らなくていいんだ、無理しなくていいんだって。
思い切り自分を解放できるんです。
・・・大学は息苦しくって・・・私には向かないんです。
違うのに・・・お嬢様のフリをしなくちゃいけないから」
「そうですか・・・」
アヤカはなんと言っていいかわからなかった。
何不自由なく、育てられたかのように見えた白井ユウコ。
おっとりとしたその振る舞いからはそんな風には見えなかった。
しかしそんな辛い過去や苦しみがあったのか。
アヤカはショウ・ヤマテが言っていたことを思い出した。
白井ユウコの演奏は素晴らしいものを持っているのに、
どこかもどかしく、思い切りが足りないと。
それはこういった素性からきているのだろうか。
音大は、入るのにも入ったあともお金がかかると聞く。
池ノ上マイのように奨学金を貰うのはごく稀で、
大抵はお金持ちのお嬢さんしか学校に行けないという。
一之瀬刑事から聞いた話だと、白井ユウコの家は裕福のようだが、
本人は養護施設の出身ということがコンプレックスになって、
演奏に影響しているのだろうか。
あ、そういえば・・・。
「あの・・・失礼ついでにお聞きしたいんですが、
水ノ上マイさんが襲われた事件ですが、
その時間、もしかして・・・ココにいたんですか?」
アヤカは急に閃いて聞いてみた。
「はい。あ、・・・私を疑っているんですね。
それで私の後を・・・」
「すいません。
池ノ上マイさんが襲われた時間、白井さんはご自宅にいたって警察の人にお聞きしたんですが、
ハッキリしたアリバイがないって言っていたものですから。
もしかして・・と」
「フフ・・・」
白井ユウコは長い髪を耳に掛け、小さく笑った。
「あの日・・・お店を出たあと、一度家に帰ったことは本当です。
あの時、チェロケースを持っていたので、一度家に置いてきたかったんです。
それからバイオリンを持って、自転車でこの『こばとの家』に来ました。
ここに来たのは、4時過ぎだったと思います。
私のアリバイは、園長先生や子供達が証明してくれると思います」
それが本当なら、白井ユウコはシロだ。
彼女は嘘は付いていない・・・・気がする。
一之瀬さんなら、かかった時間とか防犯カメラなどで調べてくれるだろう。
アヤカにはもう一つ引っかかったことがあった。
「あの、もしかして、
ご両親にはここに来ることは秘密なんですか?」
「ええ。ここに来ていることを知ったら、
両親に気を使わせてしまいますから。
私が孤児院にいたことをまだ引け目に思っているのかと・・・。
・・・だから警察にはずっと家にいたと嘘を
つきました」
「そんなことないと思います」
「え?」
白井ユウコは目をパチクリした。
こんなことを言うべきじゃないことは
自分でもわかっていた。
おせっかいにもホドがある。
でも、このコには自信というものが欠けている。
「とても素晴らしいことだと思います・・・白井さんがしていることは。
子供って・・・素直ですよね。
あんなに音楽を純粋に楽しんでいました。
あの優しそうな女性が言ってましたよ?
白井さんが来てくれることで、子供たちの寂しさの溝を埋めてくれていると。
ご両親が白井さんがしていることを聞いたら、きっと誇らしく思ってくれるはずです」
白井ユウコは黙っていた。
アヤカは続けた。
「こんなに優しくて思いやりがある、娘に育ってくれたって思ってくれるはずです。
もっと・・・自信を持ってもいいんじゃないですか?
ごめんなさい、何も知らないアカの他人がこんなことを言って」
「・・・そうでしょうか。
でも、私、それくらいしか、
演奏することしか出来ない」
白井ユウコの頬に涙が一筋流れた。
アヤカは大きく頷いて、明るく言った。
「充分じゃないですか?
あなたの演奏、本当に素晴らしかったです。
私や子供達だけじゃなく、ご両親にも、
いろんな人にも伝わりますよ、きっと」
「で、そのハンカチ、どうするの?」
ミナは作業台で珈琲を入れながら、
テーブルの上にあるジップロック入りのハンカチを顎で示した。
白井ユウコとの話のあと、急いで店へ戻ったが、
店で残業することになってしまい、
千花大学でのケイタリングもあってクタクタに疲れていたので、
結局そのまま家に帰り、警察には行かなかったのだ。
「ん~~・・・あとで、一之瀬さんに電話しとく」
アヤカは今日のオススメの焼き菓子の撮影に勤しんでいた。
今は金曜日朝のミーティングの時間。
アヤカはミナとチカに前日の白井ユウコとの話をしていた。
「本日のオススメ、アップル・スティックパイよ。
ピーナッツ・スティックパイと同じ感じね。
ジャム状にしたリンゴを入れて、生地を捻ったあとアーモンドクランチをかけたの。
・・・だけど驚いたわね」
ミナが珈琲を飲みながらお菓子の説明してくれた。
「どれ、ひとつ・・・」
チカが皿の上のアップル・スティックパイに手を出した。
「もう、チカってば!・・・まあ、もう写真撮ったからいいけど・・・」
「うん、美味しいよ!ミナちゃん。
サッパリした甘さで、レモンが効いてる。
小さな子供も好きそう、
子供はりんごが大好きだから。
だけど、ネグレストか・・・許せないね」
そう言ってチカはあっという間に完食してしまった。
「うん、正直、驚いた」
アヤカはパソコンを操作しながら言った。
「ニュースではよく聞くけどね・・・」
ミナが難しい顔で言った。
「うん、出来た。
今日のオススメ、完成。
・・・ねえ、ミナ、ちょっと相談があるんだけど」
「何?アヤカ」
アヤカはノートパソコンを閉じた。
「あのね、もし、たまに余ったお菓子があったら、
あ、大体売切れちゃうとは思うんだけど・・・」
「うん?」
「その・・・時々だけど、
『こばとの家』に持って行ってもいい?
もちろんミナが前日作ったお菓子は売らない主義は知ってるよ?」
アヤカは慌てて手を振った。
「でも、私たちも持って帰ったりしてるし・・・。
・・・良かったらだけど」
「もちろん。いいことだと思う。
でもその前にそういうことは
市役所とかに確認したほうがいいわよ」
ミナがにやっと笑う。
「じゃあ、届けるのは私がやろうか?」
チカがもうひとつパイに手を伸ばした。
「チカ・・・いいの?」
「うん。ちょっと遠回りになるけど、
私もアンのお迎えに行く前に寄れると思う。
4時半くらいになっちゃうけど、いいかな?」
「ありがとう、チカ」
アヤカの胸にじんわりした暖かいモノがこみ上げてきた。
「私たちでも、ちょっとはイイコトが出来るかもね。
喜んでくれるといいな・・・ね、ミナちゃん」
「そうね」
そう言ってミナもふっと笑った。
午後2時。
ドアベルが鳴ったので、新しいお客様が入店されたのかと、
アヤカが玄関に目を向けた。
「いらっしゃいま・・・・あら!」
そこには、深田エナを先頭に、
水野アイカ、そして昨日会ったばかりの白井ユウコの3人がいた。
アヤカは白井ユウコの様子が気になったが、
顔を背けて目を合わせようとしてくれなかった。
昨日の今日だし、アヤカに話したことが気まずいのか、
それとも、やはり怒っているのか。
そう思って、アヤカは普通のお客様同様に接客した。
深田エナは、ショコラマフィンと珈琲。
水野アイカは、アップル・スティックパイと珈琲を。
白井ユウコもアップル・スティックパイと紅茶を注文した。
番号札を渡し、作業台で注文されたものを用意しているとふいに声を掛けられた。
「あの・・・鈴井さん?」
「はい?・・・あ・・・」
振り向くと、カウンターに白井ユウコが立っていた。
「あの・・・ちょっといいでしょうか?
昨日のことなんですけど・・・」
白井ユウコの声は小さかった。
昨日の?
やっぱり怒っているのね。
アカの他人なのに口ばしを突っ込んで、
おせっかいな勝手なことばかり言って。
アヤカは次の言葉を覚悟して待った。
「今日は私が2人を誘ってここに来たんです。
鈴井さんに話したいことがあって。
実は昨日の夜、帰ってから両親に『こばとの家』に行っていることを話したんです。
そこで時々、演奏をしていることも。
そうしたら、その・・・怒られました」
怒られた?
「ごめんなさい、私が余計なことを・・・」
「違うんです。
そうじゃなくて・・・どうしてもっと早く言ってくれなかったのかと。
私が『こばとの家』に行っていたことを秘密にしていたことを怒られました」
そう言って、白井ユウコは笑った。
「実は、両親は私を引き取ったあと、『こばとの家』に
ずっと寄付や援助をし続けてくれていたんですって。
私が気にするかと思って、両親も私にそのことを内緒にしていたんです」
「じゃあ・・・その、お互い同じようなことをしてたってことですか?」
「はい、私も両親に文句を言っちゃいました。
なんで黙ってたのって。
園長先生は私と両親、両方とも知っていて、黙ってくれていたんですね」
白井ユウコの目から一筋涙が流れた。
「笑っちゃいますよね。
親子・・・揃ってお互い内緒にしていただなんて。
でも、嬉しかった。
両親が『こばとの家』、私の家だったところを
ずっと援助してくれていたことに・・・本当に優しい両親で。
でも、ああ私たち、似たもの親子なのかなあって。
私・・・やっと、本当に両親の子になれた気がします」
白井ユウコの話に胸が温かくなったアヤカだったが、
どうしても聞きたいこと、というか、聞かなきゃいけないことがあった。
カウンターの奥から3人がいるテーブルを眺めた。
和気藹々(わきあいあい)と楽しそうにお喋りに花を咲かせているようだ。
せっかくカフェ・ヴェルデに楽しもうと来てくれたのに、
これからアヤカが割って入ることには気が咎める。
けど、数日前の光景とは違う。
ここにいない、池ノ上マイのことを思った。
彼女はいまだに意識が戻っていない。
本当ならこの輪の中には彼女もいたはず・・・・。
聞くなら3人が揃っている今しかないのだ。
「チカ、ちょっと上に上がってくるね」
「え?うん・・・」
チカの返事を待つ前に、アヤカは2階に上がっていった。
アヤカは控え室に置いてある自分のバッグから取り出したものをじっと見つめた。
もしかして、私がしたことでまずいことになるかもしれない。
でも・・・ごめん、一之瀬さん!
どうしても、今聞きたいの!
「・・・失礼します」
アヤカが3人がいるテーブルに近づいた。
3人がこちらに向いた。
「あの、こちらのハンカチに見覚えはありませんか?」
そう言ってアヤカはジップロックを差し出した。
中には例の白いハンカチが入っている。
アヤカはそれをテーブルに乗せた。
3人の目がジップロックを通してハンカチに注がれた。
「これ・・・エナの・・・」
水野アイカが小さく呟いた。
「・・・私のだわ!」
深田エナが叫んだ。
「ああ、良かった、見つかって!
いつの間にか失くしちゃったのよ!
探したけど、どこにいったかわからなくって。
あの、ここに落ちてたんですか?」
深田エナが嬉しそうにアヤカを見上げた。
じっと深田エナを見つめるアヤカの顔は険しかった。
「・・・あの?」
「これは、あなたのですか?」
「ええ、そうです。
これ、東京のお店でオリジナルで作ってもらってるものなんです。
ほら、ここに・・・私のイニシャルの『E』も入ってるし・・・」
そう言ってイニシャルの場所を指差した。
それでも、アヤカの険しい顔は変わらなかった。
「あの、これ返してもらっていいんですか?」
不安げに深田エナが言った。
アヤカが口を開く。
「実はこれ、店の中に落ちていたんじゃないんです。
私が公園で拾ったものなんです。
聖マリア女子大の向かい側の益戸中央公園で」
アヤカの声は硬い。
「益戸中央公園で?
でも・・・私、そんなとこ行ってないわ。
でも、これ、絶対私のなんです!」
水野アイカと白井ユウコは、アヤカと深田エナの様子をジッと黙って見ていた。
「これを拾ったのは、火曜日、益戸中央公園、
小泉ココロさんが殺害された場所の近くでなんです」
アヤカは一言一言、ハッキリ区切りながら言った。
「小泉ココロ・・・?
ああ・・・あの、殺されたっていうウチの大学の声楽科のコね。
それがどうしたっていうの?」
「これはあなたのものだとおっしゃいましたね?
私は、小泉ココロさんが殺害された公園に落ちていた・・・と言ったんです」
真夜中に拾ったことと、松ヤニのことは黙っているつもりだった。
もしかしたら、何か喋るかもしれない。
「・・・何が言いたいの?」
深田エナの声が震え始めていた。
「私も池ノ上マイさんのお見舞いにも行ったんです。
火曜日の夜に。
あなたもお見舞いにいらしていましたよね?
偶然、あなたを駐車場でお見かけしたんです。
男性と一緒でしたね。
深田エナさん、あなた、その人にこう仰っていましたね」
アヤカは一呼吸置いた。
「『だから、このまま死んでくれれば、私が選ばれるのよ』・・・って」
「なっ!そんなこと・・・」
深田エナは動揺していた。
アヤカの一言は水野アイカと白井ユウコにも衝撃を与えたようだった。
アヤカは顔を上げ、フロアの様子を確認した。
店内は忙しくなるお茶の時間前なので、客数は少なかった。
こちらの様子に気づいているお客様はいない。
ただし、チカはフロアを回りながら、こちらにチラチラと視線を投げていた。
いつの間にか厨房から出たミナも、
カウンターに寄りかかりながら、こちらの様子をじっと見ていた。
二人とも、私に何かあればすぐ飛び出せる体勢だ。
アヤカは深田エナに向き直った。
「一緒の男性は上田センセイっていう、大学の講師の方ですね。
あなたとはとても親しげな様子でした。
・・・教えてくれませんか?
『死んでくれれば』って誰のことなんです?」
「上田センセイって・・・私の担当の上田先生のこと?」
水野アイカが深田エナに顔を向ける。
「あなたには関係ないでしょ!?失礼ね!立ち聞きしてたの?」
水野アイカの問いかけには答えず、
深田エナの声は怒気をはらみ、アヤカに向けられた。
「・・・偶然、近くの車の中にいたんです。
それで聞こえてきたんです。
あなたは、留学生を選ぶコンペで池ノ上マイさんが選ばれたことで、
彼女を恨んでいたんではありませんか?
・・・だから、学校で池ノ上マイさんを襲った・・・違いますか?
この人がいなければ、自分が選ばれるのだと。
あなたはその時間、
近くの駅ビルにいたとのことですが、大学までは5分程度。
そっと抜け出すことは可能です。
ピアノに頭をぶつけ、流血したマイさんを見て、
あなたは彼女が死んだと思った。
小泉ココロさんは、偶然池ノ上マイさんを襲った現場を目撃し、
そこであなたは小泉ココロさんも・・・」
「デタラメ言わないでよ!何の証拠があるのよ!」
「じゃあ、コレはどう説明するんですか!?
このハンカチはあなたのものなんでしょう?
なぜこれがあの公園に?」
そう言ってアヤカがジップロックを持ち上げた。
そして少し優しい声で聞いた。
「これを失くしたのは、いつですか?」
「・・・わからないわよ!
この間この店に来たときに、
あのアフタヌーンティーの日に新しく卸したんだもの!」
「無くしたと気づいたのは?いつですか?」
「そんなのわからない・・・知らないわよーー!!」
深田エナは叫んで、テーブルに突っ伏して泣き出してしまった。
その声にとうとうこちらの様子に店内のお客様が気づき、
何事かとテーブル越しにこちらの様子を伺っている。
その時ミナがさっとトレーを手に取り、テーブルを回り始めた。
「こちら、最新作のティークッキーです。試食にどうぞ」
「あら・・・ありがとう」
訝しげにこちらを見ていたお客様が視線を逸らした。
「紅茶とも合いますが、今飲んでいるカフェオレにも・・」
よかった。
おそらくケンカか何かだと思ったのだろう。
ミナの機転でこちらの関心は薄れた。
アヤカはテーブルに突っ伏している深田エナに静かに語りかけた。
「ごめんなさいね、深田エナさん。
あなたを追い詰めるようなマネをして。
でも、池ノ上マイさんのために、どうしてもあなたに確認しなきゃいけなかったの」
「ヒック、ヒク・・・」
深田エナはうつ伏せたまま、しゃくりあげている。
「エナ・・・」
白井ユウコが深田エナの肩に手を置いた。
「あの、鈴井さん、さっき言ったことは本当なんですか?
その・・・エナが死ねばいいのにって言ったこと・・・」
水野アイカは下を見て黙りこくったままだ。
アヤカは頷いた。
「本当です、私以外にも聞いた人がいます。
ねえ、深田エナさん。
池ノ上マイさんはまだ意識が戻っていません。
私がお見舞いに伺ったとき、お母様はとても疲れていらっしゃいました。
いつ目覚めるか・・・ずっと付き添っていらして・・・お辛いでしょうね。
私は・・・犯人を見つけたいだけなんです。
アフタヌーンティーの時、
あなたたちはとても仲が良さそうで楽しそうでした。
まさか、そのあとすぐ池ノ上マイさんにあんなことが起きるとは・・・
考えてもみませんでした。
・・・お願いします、教えてください。
どうして、駐車場であんなことを言ったんですか?」
「エナ・・・本当に・・・そんなことを言ったの?」
白井ユウコが聞いた。
「ね、話して、エナ」
「この人の言ったこと、嘘でしょ?ねえ、エナ、私たち友達でしょ?」
水野アイカももう片方の肩に手を置いた。
「だって、私、見たんだもの!」
深田エナが二人の手を撥ね退け、突然ガバっと起き上がった。
その目はギラギラと燃えていた。
目の中に炎が見えるようだった。
「あの子、マイはショウ・ヤマテとデキているのよ!
あれは、どう見ても教授と生徒っていう感じじゃなかった。
恋人同士のように顔を寄せて笑い合って。
ショウ・ヤマテはマイの肩に手も置いていたのよ!
マイは山手教授に取り入って、留学生に推してもらったのよ!
そんなの卑怯よ!」
「そんな・・・」
「やめてよ、エナ!マイがそんなことするわけないじゃない!」
白井ユウコと水野アイカが言った。
「じゃあ、あれはどういうことなのよ!?
一緒にいること自体がおかしいでしょ!?
マイの担当教授でもないし、会っていたのは学校の外だったのよ?
そんなの変でしょ!?」
「だから、マイさんを襲ったんですか?
池ノ上マイさんが、その、卑怯なことをしたから。
マイさんがいなくなれば、自分が留学に推薦されるからですか?」
アヤカが鋭く切り込んだ。
「そんなことしないわよ!
マイを殺そうとするなんて!するわけないじゃない!!
私は・・・告発しようと思ったんです。
手紙かなんかを学校に、校長か、理事長宛に送ろうって。
マイは教授に色目を使って、推薦を不正に貰ったんだって!」
「エナ・・・」
水野アイカは悲痛な声をあげた。
「信じられない・・・マイがそんなことするなんて。
その二人、本当にマイと山手教授だったの?
エナの見間違いじゃないの?」
白井ユウコの顔は泣きそうだった。
「見間違いなんかじゃないってば!
だって私、後を付けたのよ?二人は仲良さそうにマイの家に一緒に入っていった。
それっておかしいでしょ!?」
深田エナは顔を真っ赤にして言った。
「もう、やめてよ!」
水野アイカが深田エナの腕を揺さぶった。
アヤカは三人の様子を見ながら考えていた。
池ノ上マイとショウ・ヤマテが?
深田エナが言っていることが本当なら、二人は男女の関係という可能性が高い。
昨日母も同じようなことを言っていた。
アフタヌーンティーの時と病室で眠ったままの池ノ上マイしか知らないけど、
そんなことをするようなコとは思えなかった。
ショウ・ヤマテもインタビューの時や、冬木教授の話からもそんな感じは受けなかった。
だけど、あのパソコンの写真はそういうことなの?
恋人同士だから?でも、あのような写真を飾るだろうか?
いや、だったら、もっと笑顔の写真をデスクトップにするのでは・・・?
(ああ、わからない。何が、どれが本当のことなの?)