第4章
「ずるい!いっつも私だけ除け者にするんだから!」
昨日に引き続き、水曜日の朝もチカは怒っていた。
どのことかといえば、
ミナと病院に行ったこと、母との夜の秘密捜査、
そして今日5時からの刑事さんと非公式ながらの捜査会議
(つまりチカが帰ったあと)、などなど。
いろいろあるらしい。
アヤカはカフェの開店準備をしながらチカに昨日の出来事を話していた。
「なんで私も連れていってくれなかったのよ!?」
チカが荒々しくテーブルを拭いている。
あまりに激しいのでガタガタと音を立てていた。
ミナが厨房から心配そうにこちらを見ている。
イングリッシュガーデンを眺めることができる大きな窓からは、
日が差し込み、店の黄緑と白のストライプの壁紙を明るく照らしている。
その光は店内のテーブル、花瓶、お菓子を入れるケーキスタンド、
すべてをキラキラと光り輝かせていた。
それなのに店内には暴風雨が吹き荒れている。
どうしよう。
これからサクラさんと一緒に聖マリア女子へ出かけなくてはならない。
このままアヤカが予定通りに出かけてしまったら、
チカの不満が本当に爆発し、
カフェ・ヴェルデの平和は破綻するかもしれない。
アヤカは掃除していたモップの手を止め、
腹を決めてチカに話しかけた。
「ねえ、チカ聞いて。
あんたには家庭があるのよ?それを忘れないで。
危険なことかもしれないの。
旦那様とアンに心配かけるわけにはいかないでしょ?」
「それはそうだけど、でも・・・」
ここは店のオーナーというよりも、長女の威厳を見せるべきだわ。
「まず第一に自分の家庭を考えて。
ここで働くのだって、家族の協力があってこそ・・・でしょ?」
「わかってるわよ・・・でも・・・」
チカの声が次第に小さくなっていった。
アヤカの妹、そしてあの母の娘ということで、
チカも好奇心旺盛、興味があることに突き進むタイプだ。
しかし、チカにはやさしい旦那様と娘のアン、
アヤカにとっては可愛い姪がいる。
チカを危ないことに極力近づけさせるわけにはいかないのだ。
「ねえ、チカ・・・・」
アヤカはチカの肩に優しく手を置いた。
「もちろんチカにも手伝って欲しいのよ。
あんたはよく気がつくし、観察力があるし。
こないだの事件でも活躍してくれた。
でも、一番に家族のことを考えなきゃいけないのよ?」
「・・・わかってる。わかってるけど、でも何かしたいのよ」
うーん。
気持ちは嬉しいけど、
安全に殺人事件の調査してもらうことなんて出来るのだろうか。
11時にはサクラさんが迎えにくる。
チカにはこれからフロアで頑張ってもらわなくてはならない。
アヤカがいなくなるので、
今日はミナにもフロアに出てもらうつもりだった。
ミナは今日分のお菓子はもうほとんどを焼き上げてしまったという。
チカにこのままここで頑張って欲しいなんて言ったら、
怒りに火を注ぐだけだ。
何かチカに出来ることは・・・。
そのとき、エプロンのポケットに入れておいたスマホが振動した。
アヤカは無言で取り出し、
表示された名前を見て電話に出た。
「もしもし、ユキコさん?」
「あ、アヤカ?お早う、今もう店よね?」
「ええ、今、準備中です」
アヤカがチラっとフロアの時計を見ると9時40分。
もう少しで開店する時間だ。
「あのね、山手ショウの取材許可が取れたんだけど・・・
午後2時からならいいって。
学校に行くのお昼って言ってたでしょ?・・・どうする?」
電話の向こうからざわざわした雰囲気が聞こえてきた。
ユキコさんは編集部から電話してきているらしい。
懐かしいなぁ。
私もあそこで何年も働いていたのよね。
今の仕事にはもちろん満足しているけど、
あの戦場のような忙しい空気、張りつめた緊張感。
それはそれで、楽しかった。
「・・・で、私は本当に取材するつもりだから、
2時に行かなきゃいけないのだけど・・・聞いてる?」
「ああ、はい!聞いてます、もちろん・・・そうですね、ちょっと待ってください」
ふっと我に帰ったアヤカは、
耳元からスマホを離して通話口を手で押さえた。
顔には知らず知らずのうちに笑みが浮かんでいた。
「チカ!ちょっと来て!」
しょんぼりとカウンターにいたチカをアヤカは手で招いた。
チカは私?と自分を指差し、急いでそばに来た。
「ねえ、私の代わりにお昼から聖マリア女子大に行かない?」
「えっ・・・ええ!?」
「ユキコさんの取材が2時になったの。
だから、私が2時から行くから、
あんたはお昼にサクラさんと大学に行って調査してくるのよ」
「でも・・・・」
「どう?行くの?行かないの?」
「・・・行くわ!もちろん」
チカの目がキラキラと輝きはじめた。
「あとで私も2時から行くけど、
チカの目で見れば、違う観点から事件を考えることができるかもしれないわ。
・・・でもお願いだから危険なことはしないでね。
それと1時40分までには帰ってきて、私と交代するのよ」
「わかったわ!任せて、絶対何か探りだしてくる!」
チカは満面の笑みでガッツポーズを作った。
「それに、あんただったら、まだ女子大生で通じるんじゃない?」
アヤカがにやっと笑うと、
「もうさすがに無理よ!」
チカは思わず吹き出してしまった。
「じゃあ、お願いね・・・もしもし、ユキコさん?」
ふたたび、アヤカがスマホを耳にあてると、
チカは早速ウキウキとした足どりで、厨房のミナのところに飛んで行った。
「聞こえてたわよ・・・じゃあ、私は1時半頃にそっちに着けばいいわね?」
ユキコさんは電話の向こうでクスクスと笑っていた。
「ええ、お願いします。じゃあまたあとで」
そう言ってアヤカはスマホを切った。
チカがミナに大学の潜入捜査のことを話している。
良かった、これならチカも安全に(?)調査に参加できるわ。
捜査するのは好きだけど、家族の平和を保つことはもっと大事なことなのだ。
予定通りにサクラさんは11時40分頃にカフェ・ヴェルデに迎えに来てくれた。
アヤカが予定変更を伝えると、驚いていたが快く承知してくれた。
「わかりました。じゃあ、チカさん、行きましょ」
サクラさんは膝くらいのデニムのスカート、ブルーのギンガムチェックのシャツ、
白の薄手のコートに黒の靴下、コンバースの黒のスニーカー、
大きなキャンバス地の肩掛けバッグという格好だった。
今日は午前中の講義だけだったそうで、午後の予定はもうないそうだ。
「今日からまた授業だったんでしょ?・・・どう?学校の様子は」
アヤカが聞くとうーん、とサクラが難しい顔をした。
「やっぱり噂になっていて、ざわざわしてます。
面白がってたコもいたけど・・・ウチの生徒が2人も襲われたでしょう?
不安がって休むって言ってたコもいました」
やっぱり・・・・。
「おばあちゃんもまだ心配してますし・・・私は平気なんですけどね」
事件が立て続けに起こったことで、
生徒達の間でも動揺が広がっているようだ。
保護者にしても、事件があった学校に
娘を通わさせることに心配しているのだろう。
「それじゃあ、行ってきます!」
チカとサクラは手を振りながら、元気に玄関を出て行った。
普段着に着替えたチカは、
黒のVネックニットに、ブルージーンズ、
足元は赤のバレエシューズ、
厚手のグレーのロングカーディガン、
頭にグレーのニット帽という服装だった。
(本当に女子大生に見えるわ・・・)
心の中でそう思いながらアヤカは手を振って二人を見送った。
お昼を過ぎになると客は減り、いつもどおりに店が落ち着いてきた。
ミナも厨房から出てカウンターにいた。
「チカはうまくやってるかしらね?」
アヤカはカウンターで珈琲を補充しながら背中越しにミナに話しかけた。
「大丈夫よ。彼女はしっかりしているもの」
ミナは静かに笑いながらケーキスタンドの位置を変えていた。
ミナの言うことにアヤカも同感だった。
前の事件では、調査のためにアヤカはチカとホストクラブに潜入した。
その時のチカの対応力にアヤカは下を巻いた。
アヤカ自身は初めてのホストクラブでどうしていいかわからず、
オタオタしてたっけ。
ん?
彼女は?は?
ミナの発言、なんか引っかかる。
問いただそうとしたとき、アラーム音が厨房から響いてきた。
「あ、ちょっと奥に行ってくる」
そう言ってミナはカウンターを出て、厨房のドアに駆け込んでいった。
アヤカが厨房の窓を覗くと、
ミナは手にミットをはめ、オーブンから何かを取り出していた。
アヤカに鼻腔に甘いバターの香りが届いた。
「何焼いたの?ミナ」
ミナがアヤカに向けてオーブンから取り出したばかりのトレーを見せた。
「新作、ピーナッツ・スティック・パイよ」
それはナッツをたっぷり散らした細長くねじったパイだった。
「いい匂いね、食欲をそそるわ」
「そうでしょ。中にはピーナッツペーストも入ってるの。
この間アフタヌーンティーで初めてパイを出して、
あれ、好評だったみたいだから、
これからはパイもメニューに入れようと思って」
「いいじゃない!いろんなバリエーションも出来そうね」
ミナのお菓子の創作力は高まるばかりだ。
カフェ・ヴェルデの評判も高まってるし、
アフタヌーンティーのイベントも大成功だった。
店の経営は今のところ順調。
あとはこの事件が解決すればすべていいんだけど・・・。
来店を告げるカランというベルの音が鳴り、玄関ドアが開いた。
「いらっしゃ・・・秋元さん!」
そこに立っていたのは、千花大学園芸学部の秘書、
秋元さんだった。
「こんにちわ、アヤカさん」
秋元さんはおそらく50代半ば、
髪はかなり白くなっているが、綺麗に整えている。
小柄で活動的な女性だ。
そしていつも暴走気味な柏原教授の歯止め役でもある。
「この間のアフタヌーンティー、好評だったみたいね。
私のお友達も来ていたの。私も来たかったんだけど、予定が合わなくて・・・」
「それは残念です。平日でしたからね。
今日はゆっくりしてって下さい・・・何になさいます?」
「あ、今日は予約注文をお願いしようと思って」
「予約?」
「そうなの。実は明日、千花大学で教授たちの合同会議があって、
今回は園芸科、しかも柏原教授が主催なの。
それで軽食を出さなきゃいけないんだけど、
こちらの焼き菓子がいいかしらって」
「そうなんですか。どのくらいご用意すれば?」
「そうね・・・」
そう言って秋元さんは頬に手を当てて首を傾げた。
その仕草はとても愛らして、まるで少女のようだ。
「200個もあれば足りると思うわ」
「200?・・・ですか!?」
アヤカは驚いた。
「ええ。きっと1人2つは食べるでしょう?
こちらのお菓子は美味しいから、あっとい間に無くなってしまうわ。
益戸キャンパスの全教授、准教授、
あと講師の方たちを合わせると200個、それくらいは必要ね」
大変だわ!
こういった大口注文を受けるのは初めて。
ウチのような小規模経営のお店では、突然の対応には答えられない。
でも、前もって予約してくれれば何とか用意出来そう。
それにビジネス的には臨時の大きな収入になるはず。
「秋元さん、会議は明日なんですよね。
何時からなんですか?」
「明日の3時から。急でごめんなさい・・・用意出来るかしら?」
秋元さんが心配そうな表情を浮かべる。
「ちょっとお待ち頂けますか?」
アヤカはカウンター後ろの窓から厨房のミナに声を掛けた。
「ねえ、ミナ!」
「何?アヤカ」
絞り袋を持ったまま、ミナの顔が覗いた。
「ちょっとこっちに来られる?秋元さんがいらしてるの」
「え!?そうなの?」
ミナが玄関横の厨房に続くドアから急いで現れた。
「いらっしゃいませ、秋元さん」
「ミナさん、こんにちわ。今日も美味しそうなお菓子ばかりね」
「・・・ありがとうございます」
ミナが顔を赤らめている。
初めて会って以来、ミナは秋元さんにどうも弱い。
おっとりしたこの慈母のような微笑みのせいだろうか。
そういえば、あの柏原教授をうまくコントロールしている人なのだし。
アヤカはミナに明日の教授会のことを話した。
「・・・でね、ミナ。明日、あのピーナッツ・スティック・パイ、
どれくらい焼ける?」
「好きなだけ。秋元さんが言う分、もちろん焼くわ。
でも、まず味見して頂いたほうがいいわね」
そう言うとミナは急いで厨房に戻り、
先ほどラックに置いたばかりの
まだ暖かいパイを3つお皿に取り、戻ってきた。
「秋元さん、こちらへ」
ミナが先頭に立ち、窓際のソファに秋元さんを導いた。
アヤカは急いでトレイに珈琲マグを3つを用意する。
秋元さんとミナ、そしてアヤカの分。
アヤカはキョロキョロとフロアを見渡した。
今のところ新しいお客様も来ないようだし、
追加注文もなさそうだ。
ちょっとだけなら休憩しても大丈夫だろう。
「とても美味しいわ!それに手に持ちやすいから会議にピッタリよ」
「気に入って頂けました?」
ミナが緊張した面持ちで聞く。
「もちろんよ。あなたのお菓子ならなんでも美味しいけど、
これは絶品ね!」
褒められたミナはとても嬉しそうだ。
ほんのり頬がピンク色になっている。
「大勢参加されるから、
フィンガーフードのように手で持てるほうがいいの。
人数分のナイフやフォークなんて用意出来ないでしょう?
今まではそこのデパートで
サンドウィッチやクッキーを買っていたのよ」
アヤカもひとつ食べてみた。
香ばしい風味が口の中に広がっていく。
サクサクとしたパイの食感と、
中に入っているピーナッツペーストのねっとりした甘さ。
そして回りにまぶしたピーナッツの食感が楽しい。
スティックタイプはとてもいいアイデアだと思う。
軽食はこのピーナッツ・スティック・パイを含め、
数種類の焼き菓子を明日の2時半にアヤカが届けることになった。
ついでに珈琲や紅茶もカフェ・ヴェルデから持っていき、
現地で用意する。
初めての試みなので少し不安だが、
こういうケイタリングのようなこともこれから考えてみてもいいだろう。
秋元さんはさらにいくつかの焼き菓子をテイクアウトして帰って行った。
これから柏原教授は研究室に篭って、
スライドや発表文の作成の追い込みをしなければならないらしい。
その夜食ということだ。
あの柏原教授でもちゃんと仕事するんだ。
意外な気がしたが、曲がりなりにも大学の教授だ。
ということは・・・庄治准教授も今夜研究室に缶詰なのかしら。
このあいだ会ったばかりだけど、明日また会える。
何を着て行こうかしら・・・。
「アヤカ!来たわよーー!」
大きな声にビクッとして振り向くと、
ネイビーのスーツでバッチリキメたユキコさんが玄関に立っていた。
もうそんな時間?
店内の掛け時計を見上げると、まだ午後1時15分だった。
ほっと胸を撫で下ろし、足早に玄関でユキコを迎えた。
「ごめん、ちょっと早く来ちゃった!
お昼はもう食べたから出かける前に、ちょっと珈琲を飲もうと思って。
かまわないわよね?
珈琲だけ・・・と思ったけど、
これ、新作のパイ?これもお願いね」
アヤカが口を開く前にユキコさんは早口で喋りながら、
さっさと空いているテーブルに腰を下ろした。
慌ててアヤカは言われた注文を用意し、
ユキコさんの座るテーブルに向かう。
「ありがと」
そう言ってユキコさんは珈琲に口をつけた。
「ちょっとだけ座る時間あるかしら?アヤカ。
行く前に少しだけ打ち合わせをしたいの」
「は、はい!」
慌ててアヤカはユキコさんの前のソファに座った。
(こうやってると思い出すなあ)
アヤカがタウン誌の編集者をしているとき、
何度もユキコさんの前に座ったっけ。
・・・大体怒られる時だったけど。
「2時からのショウ・ヤマテの取材なんだけど、まず私の仕事をさせてね。
今度のコンサートの取材は完了しているんだけど、
もうちょっと彼の生涯というか、成功の軌跡を載せたいの。
そのほうが記事に深みが出ると思う」
アヤカがこっくりと頷く。
そのとき、横からスッと珈琲マグが差し出された。
驚いて見上げるとミナが立っていた。
「ユキコさん、新作のピーナッツ・スティック・パイ、楽しんでくださいね」
「ええ。絶対美味しいに決まってるけど」
ユキコさんがミナに向かってにっこり笑って答えた。
ミナがテーブルを離れると、ユキコさんは再び真顔で話し始めた。
「で、そのあとアヤカのほうに取り掛かりましょ。
でも何を聞くつもりなの?」
「実は・・・」
アヤカは昨日のささやかな調査のことを手早く話した。
ふんふんと頷きながら、ユキコさんは時々メモを取っている。
「・・・ふーん。じゃあ、アヤカ達の疑いはそんなに的外れじゃあないってこと?」
「いえ、まだわからないですけど・・・」
「でも、いろいろと怪しいところがあるみたいね・・・」
「引っかかることが多過ぎるんです。
あの仲良さそうだった4人組の関係もなんだか怪しいし、
公園で殺された女子生徒も同じ大学。
学校の先生たちもなんだか・・・」
そうだ、私もわかったことをメモしたほうがいいかも。
あとで役に立つかもしれないし。
「その教授・・・うん、美味しい!
冬木教授だっけ?その人にも取材できたらやってみましょう。
留学生の発表をするくらいだから、大学もそうとう力を入れているはずだから。
マスコミ関係が取材すると言ったら応じてくれるかもしれないわ」
ユキコさんはパイを半分ほど食べ、珈琲で流し込んだ。
そこへ静かにカランという音を立て玄関からチカとサクラが帰ってきた。
2人の顔には笑顔が浮かんでいる。
「ただいまーー」
チカがカウンターにいたミナに微笑みかけた。
「おかえりなさい、サクラさんも。あそこにアヤカとユキコさんがいるわ。
珈琲入れるわね」
「ありがと、ミナちゃん。
ただいま、姉さん!ユキコさん、いらっしゃい!」
チカとサクラさんがアヤカ達のテーブルに近づいてきた。
「おかえり、チカ、サクラさん」
アヤカがソファから立ち上がって2人を迎えた。
「なんかいいことあったみたいね」
ユキコさんが言うと、チカとサクラさんが同時に話し出した。
「姉さん!大変なことがわかったのよ!」
「アヤカさん、この事件、もしかしたらウチの大学が大変なことになるかも!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
アヤカは興奮気味の2人を手で制した。
時計を見るともう取材時間予定まであと20分。
もう行かなきゃいけない。
取材に遅れることはこの業界ではタブーで、信頼を失うことになるからだ。
「ごめん!帰ってから聞くから!ユキコさん、そろそろ行かないと・・・」
「えーーーー!!すっごい大事なことなのにーー!」
チカが手を振り回す。
「ちょっとだけでも聞いてください」
サクラも追随する。
その言葉を振り切って、アヤカは2階への階段を駆け上がった。
記録的な早さで着替えると、そのまま玄関で待っていたユキコさんと合流した。
アヤカは取材するのにふさわしい格好として、
出版社を辞めて以来着なくなっていた、黒のパンツスーツを身に着けていた。
少しヒールが高めの黒のパンプスとカッチリしたバッグを肩にかけて。
チカとサクラさんはアヤカたちがいた席に座って話していた。
この2時間の共同作業のおかげか、ふたりはかなり仲良くなったらしい。
アヤカはこの新しいコンビに急いで言葉を投げた。
「4時には帰ってくるから。
そうだ、わかったことをメモにしてくれると助かるんだけど!」
「えーーー・・・、んもう、わかったわよ」
チカが口を尖らせる。
「じゃあ、私がメモしておきます。チカさん、これからまた仕事でしょう?
私、これから何も予定はないし」
「じゃあ・・・サクラさん、お願いしていい?」
「わかりました!」
「じゃあ、あとはヨロシクね」
アヤカは軽く手を振りながら、ユキコと肌寒い空の下へ出ていった。
アヤカが聖マリア女子大に来るのは実は初めてではない。
タウン誌勤務時代に何度か取材に訪れたことがある。
ただし、音楽学部を訪れるのは初めてだ。
カフェ・ヴェルデからは歩いていった。
益戸駅の向こう側に渡り、歩いて3分ほどすると聖マリア女子大本館の校門が見えてくる。
聖マリア女子大学は学部によって、この本館以外にいくつか点在している。
音楽学部、サクラがいる児童学部、栄養学部、
それに事務所や大きなホールがあるのはこの本館だ。
そしてすぐ近くには、あの益戸中央公園がある。
校門はレンガと錬鉄のどっしりとした高さがある立派なものだ。
塀に沿って紅葉し始めた大きな木々が並んでいた。
歴史ある大学のため、樹齢はそうとうなものだろう。
アヤカは校門をくぐりながら、左右に監視カメラがあるのを確認した。
(きっと警察はこれを調べているはず・・・刑事さんが来たら聞いてみよう)
アヤカはそれを心に留めた。
門をくぐるとあちらこちらで女生徒たちの姿を見かけた。
二十歳前後の女の子たちが多く、
楽しげな笑い声と、華やかな雰囲気が漂っている。
さすが女子大、これは男女共学の千花大学には無いものだろう。
歩いていくと目の前に事務所棟が見えた。
まずはここで取材訪問の手続きをしなければならない。
ガラスドアを開け、土足でいいらしい、
ユキコさんが事務室受付用の窓ガラスをコンコンと叩くと、
メガネをかけた若い女性が顔が見せた。
「はい?」
そう言って引き戸の窓ガラスを開けてくれた。
「益戸シティリビングの阿部と申します。
本日2時から山手教授に取材をお願いしています」
ユキコさんは営業スマイルで言った。
「少々お待ちください・・・」
女性がパソコンをカタカタと操作する。
「はい・・・はい、承っています。
2時からのご予定ですね。・・・山手教授の部屋はおわかりですか?」
「はい、以前も取材させて頂いたので・・・このまま行っても?」
「直接そのままどうぞ。山手教授にはこちらから連絡しておきます」
「わかりました。本日はよろしくお願いします」
アヤカが腕時計を見ると、1時53分、
ちょうどいい時間だ。
聖マリア女子大は事務や庶務を行う棟を中心に、
廊下を渡っていろいろな校舎に行くことができる。
右側の校舎が音楽部だそうだ。
各学科棟は1階の廊下で全て繋がっていて、
2階や3階に行くには一度1階を通らなくてはならない。
アヤカ達は1階の廊下を歩いて音楽棟に移動した。
音楽棟に入ると、目の前にたくさんの小部屋が左右に並んでいた。
目の前の部屋のプレートを見ると、『防音室7』と書いてある。
どうやらこのずらっと並んだ小部屋すべてが防音室らしい。
(ここが防音室ね・・・)
ドアには小さな窓が付いているが、内側から黒いカーテンが掛けられていて、
中の様子は全くわからない。
(池ノ上マイさんが襲われたのはどの部屋だろう・・・)
左右の廊下の突き当りにそれぞれ昇降口があった。
右は校門の方になるので、庭に出るのは左だろう。
たしか、庭側に池ノ上マイのお財布が落ちていたと久保刑事が言っていた。
(犯人はそっちに逃げたのかしら)
二人はすぐ右にあった階段を昇り始めた。
目指す山手教授の部屋は5階にあるという。
3階に到達する頃には2人ともヘトヘトになっていた。
(しまった、やっぱりエレベーターを使えばよかったかしら)
アヤカはすぐ前を歩くユキコさんを見ながら思った。
毎日お店で立ち仕事しているのにそれとこれとは別なのかしら。
しょうがない、アラフォーとアラフィフのコンビですもの。
息を切らしながら5階に到着すると、そこは下の階とは違い、
重厚な木目の茶色のドアがずらっと並んでいた。
「こっちよ」
息をゼエゼエさせながらユキコさんは左に曲がった。
アヤカはユキコさんのあとに続いて歩いた。
部屋のプレートを目で流しながら歩いていくと、〇〇教授、応接間などの部屋。
それぞれの部屋の入り口の横には、小さなテーブルと花を生けた花瓶が飾ってある。
教授の部屋兼、来賓を迎えるためなのだろう。
歩きながら息を整えていると、一番奥の一際豪華なドアの部屋の前に着いた。
プレートには『特別客員教授 山手 将』
アヤカが腕時計を見ると1時58分。
「行くわよ」
ユキコさんの言葉にアヤカが無言で頷いた。
すっかり忘れていた記者時代の緊張感が体の中に沸いてきた。
「失礼します、松戸シティリビングの阿部です」
ユキコさんがドアをノックすると中から声が・・・聞こえない。
ユキコさんがもう一度木目のドアを叩いた。
今度はもっと強く。
しかし、声も音も何も返ってこない。
ユキコとアヤカは顔を見合わせた。
目に見えることができるなら、
2人の間には大きなクエスチョンマークが浮かんでいるはずだ。
さっき、事務の人が連絡してくれたはずだけど・・・?
「この部屋も防音なんですか?」
「ううん、そんなことはなかったはずなんだけど・・・」
ユキコさんがドアノブに手をかけると、簡単に・・・開いた。
静かにドアを押していくと、部屋の様子がだんだんと見えてきた。
2人でそろそろと部屋に入る。
正面には艶々したアンティークように磨き上げられたどっしりした机。
上には開きっぱなしのノートパソコンとピンクの花の鉢植えがある。
足元はふかふかとしたカーペットが敷き詰められ、
机の後ろは横に大きく広がった窓、
左手には豪華な応接セットとグランドピアノがあるが、
山手教授の姿はどこにもない。
「どこ行っちゃったのかしらね・・・。まあ、いいわ、
アポは取ってあるんだし、待たせてもらいましょ」
ユキコさんはソファに向かってさっさと歩いていく。
アヤカは正面の窓にゆっくりと歩いていった。
窓からは5階からの眺めのいい景色が広がっていた。
薄青い秋空がどこまでも続き、
下を見れば、黄色や赤に色づき始めた木々と小さな庭、
そして小さな小路があり、どうやらこの学校の外周をぐるっと回れる
ちょっとした散歩コースになっているらしい。
ちょうどこの音楽棟から出てきた3人の人も見えた。
(もし・・・・)
アヤカは窓下を見ながら考えた。
もし、池ノ上マイが襲ったのが外部の人間だとしたら、
犯行後、この庭へ逃げたのかもしれない。
庭と外の道路の間にはフェンスがずっと張り巡らせてあるが、
よく見る緑色の針金で編んだフェンスのようだ。
よじ登れば、簡単に乗り超えることが出来る。
男でも、女でも。
庭の外は一般道路、そのままどこにでも逃げられる。
アヤカはユキコさんに習ってソファに座ろうと体の向きを変えた。
すると、アヤカの目に否応なくパソコンの画面が飛び込んできた。
他人のプライバシーを覗くのは悪いことだと思ってる。
そして決してやってはいけないことだとアヤカもわかっていた。
しかし、目に入ってきた画面はアヤカが息を止まらせるほど驚かせた。
アヤカは画面を凝視しながら、そろそろとパソコン画面に近づいた。
体が動かなかった。
これは・・・。
「ユキコさん!ちょっと来てください!」
アヤカの大きな声にスマホに目を落としていたユキコがパッと顔を上げた。
「何、アヤカ・・・・ちょっと!ダメじゃない、人のを・・・」
「いいから、早く!」
アヤカの只ならぬ様子にユキコは急いでアヤカの元に来た。
「これ、見てください」
アヤカが指差したそれは、池ノ上マイの写真だった。
ただの写真だったら、アヤカもここまで驚いたりしない。
池ノ上マイはここの生徒だし、
カルテットを組むように進言したにもショウ・ヤマテだったという。
その生徒の写真があってもおかしくはない。
しかし、この写真の池ノ上マイはベッドに1人で横たわっていた。
目を瞑ったまま、頭には包帯が巻かれている。
そして着ているものは水色の前あわせ着物・・・そう、これは病院着。
昨日、アヤカがお見舞いに行ったときに池ノ上マイが着ていたもの。
この写真は池ノ上マイが入院している部屋で写したものだった。
「これ・・・池ノ上マイよね?」
ユキコがメガネの縁を押さえながら画面を覗き込む。
「そうです!昨日この病室にお見舞いに行ったんです。
間違いない、同じ部屋。
なんでこんな写真を山手教授が持ってるの・・・・?」
そのとき、ドアの外で人の気配がして、微かに声が聞こえてきた。
「・・・ああ、じゃあまた連絡してくれ・・・」
やばい!
ユキコが素早くアヤカの手首を取り、
急いでソファのほうへ引っ張っていった。
ドアが開き、ショウ・ヤマテが部屋に入ってきた。
手にはスマホを持っている。
「お邪魔しています」
ユキコさんが何食わぬ顔で挨拶する。
「ああ・・・申し訳ない。2時からの約束でしたね」
ショウ・ヤマテは柔らかい笑顔を浮かべ、
低音の心地のいい声で謝りながら、颯爽とアヤカ達のほうへ近づいてきた。
実際に会うショウ・ヤマテは雑誌よりも若々しく、
体中から自信と成功のオーラを放っていた。
仕立てのいい(おそらくオーダーメイド)薄グレーのスーツ、
黒のシャツを着て、ジャケットのポケットには濃いグレーのチーフ、
ツヤツヤとした黒の紐靴を履いていた。
「先にお部屋に入って申し訳ありませんでした」
「いや、いいんですよ・・・お待たせしたんですから」
そう言いながら、机の上の開きっぱなしのパソコンにチラッと目を走らせた。
アヤカは自分の身体が硬直したのを感じた。
「本日はショウ・ヤマテの成功の軌跡をお聞きしたいと思ってお邪魔しました。
・・・いかがですか、今度のコンサートに向けてのコンディションは」
ユキコさんがパソコンからこちらに注意を向けようとしてくれている。
「そうですね・・・今回のコンサートでは・・・」
全員が着席し、インタビューが始まった。
ユキコさんはテーブルの上にボイスレコーダーを置いていた。
アヤカも出版社時代に使っていたボイスレコーダーを持ってきていた。
こっそりとバッグの中から取り出し、膝の上に置く。
「・・・東京の芸大で・・・」
「・・・この聖マリア女子大にも・」
「ドイツでは・・・」
アヤカはユキコの隣りに座りながら、
ユキコさんのインタビューを半ばうわの空で聞いていた。
あの写真はどう見ても池ノ上マイの病室。
しかもこっそり隠し撮りしたとかではなく、ちゃんと撮られたものだった。
(もし・・・)
もし、お見舞いに行って写真を撮ろうとしたら、
娘のそんな姿を撮ることは、母親が許すはずはない。
ならば、こっそり部屋に入って撮ることは出来るだろうか。
母親が部屋を出た隙に・・・とか?
それまで部屋の外で待機する?
そんな人がいれば怪しまれるし、
看護師さん達も巡回しているから、そんなことは不可能。
親戚が撮ったということもないと思う。
そうなると怪しいのは、部屋に見舞いに来ていた人だ。
カルテットのメンバーは3人とも来ていた。
池ノ上マイの担当教授の冬木教授も。
それに他の友人もお見舞いに来ていたかもしれない。
それとも、このドイツ帰りのショウ・ヤマテが自ら撮った?
考えれば考えるほど、わからなくなる。
「あの・・・」
アヤカが声を出した。
「ん?」
ユキコとショウ・ヤマテが存在をすっかり忘れていたかのようにアヤカを見た。
急に注目されたので、アヤカが自分の顔が赤くなるのを感じた。
「あの・・・山手教授は、その・・・この大学のオーケストラや、
海外の留学生選考にも携わっていると聞きました」
「ああ・・・そうですね。
この学校は優秀な生徒が多く、オケのレベルは相当高い。
やり甲斐がありますよ」
「では、その優秀な生徒さん達の中から、
世界に羽ばたけるような留学生を選考されたんですね?」
アヤカの問いにショウ・ヤマテは少し動揺した様子を見せた。
「そうだね・・・残念なことに・・・再選考しないといけないのだけどね」
「池ノ上さん・・・まだ意識が戻らないみたいですね。
山手教授はお見舞いに行かれたんですか?」
「あ、いや、僕は行っていないのだけど
・・・彼女が師事している冬木教授から様子は聞いたよ」
「どうです?
ショウ・ヤマテから見て、池ノ上さんに代わるような、
優秀な候補の生徒さんはまだいらっしゃいますか?
私は学園祭で演奏を聞かせて頂いたんですが、
池ノ上さんが組んでいたカルテットの他のメンバーもとても優秀なようですが?」
ユキコさんがアヤカを援護してくれた。
「そうだね・・・」
うーんと、山手教授はソファに背中を預け、斜め上を見つめた。
その顔は険しい。
「池ノ上くんとダブルでピアノを弾いていた深田くんは・・・感情の起伏が激しい性格なのか、
それが演奏にも出てしまっている。
それがコントロール出来れば、かなりいいところまでいくだろうね。
ヴァイオリンの水野くんは、なかなか優秀だが、
まだ少しテクニックが足りないね。
チェロの白井くんは感性が豊かで、それを音に乗せることができるが、
大胆さが無く、ここぞというところで思い切った演奏が出来ない。
・・・しかし、おそらくこの3人の中から決めることになるだろう。
池ノ上くんは残念だが・・・」
なるほど、やはりあの3人はライバル同士なのか。
「・・・私もね、大学在学中に留学生に選ばれて、オーストリアに留学した。
向こうに行ったからといって、成功するとは限らないが・・・。
でもこれはチャンスだよ。
世界各国から集まった素晴らしい金の卵たちと切磋琢磨し、鍛え上げられる。
もっと、もっと大きな世界へ行かなくては。
この留学制度は、
そんな原石たちを世界に羽ばたかせる素晴らしい機会だと思っている」
そう言って教授は夢見るように滔滔と語った。
ヤマテ・ショウはおそらく犯罪に関係ない。
アヤカは直感的に思った。
目をキラキラとさせて音楽を語る純粋な人だ。
アヤカはどうしても、この教授と暴行や殺人を結びつけることが出来なかった。
ちらっと横を見ると、ユキコさんはうっとりと教授を見つめていた。
30分のインタビューを終え、アヤカはユキコさんと部屋を出た。
ショウ・ヤマテは笑顔でドアまで送ってくれた。
次に2人が向かったのは、冬木教授の部屋だった。
山手教授との会話の中で、冬木教授に会いたい旨を伝えると、
親切にも内線でアポを取ってくれたのだ。
冬木教授は3時から講義があるので、
20分程度ならと時間を割いてくれることになった。
山手教授の部屋から、すぐ近くの部屋だった。
「ねえ、ユキコさん、あの写真どう思いました?」
アヤカが廊下を歩きながら尋ねた。
「うーん、変よね、あれは。自分の担当生徒ではないし・・・」
長く会話する間もなく、二人はすぐ冬木教授の部屋に到着した。
「アヤカ、何聞くの?」
「とりあえず、どういう人なのかと・・・」
そう言って、アヤカはドアをコンコンとノックした。
「どうぞ」
今度は部屋の奥からちゃんと声が聞こえてきた。
部屋に入ると、白い口髭をたっぷりと蓄えた白髪の教授が、
机の向かって座っていた。
「あの・・・」
ユキコさんが話しかけると、指を一本立てて、話を遮断した。
目の前の書類に何か書き込んでいるらしく、
アヤカとユキコは立ったまま、1分ほど待たされた。
その間に、アヤカはたっぷりと部屋の様子を観察した。
先ほどまでいた山手教授の部屋よりも少し狭く、
豪華な雰囲気は無かったが、
そこかしこにセンスの良さを感じられる調度品が置いてあり、
キチンと整えられていた。
「待たせてしまったね」
冬木教授が立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「いえ、お忙しい中、突然の申し込みにも関わらず、ありがとうございます」
ユキコさんが進み出たので、
斜め後ろにアヤカは立ち、冬木教授をこっそり観察した。
教授は茶系のチェックのツイードジャケットに、
これまた茶色のツイードのパンツ、
柔らかそうな白のシャツに、首にボルドーのスカーフを巻き、
よく磨かれた茶色の靴を履いていた。
冬木教授はまるで英国紳士のような雰囲気を漂わせていた。
白い口髭もキチンと手入れされているようで、
神経質そうな性格のようだ。
しかし、表情は温和で優しそうだった。
冬木教授に促され、アヤカ達はショウ・ヤマテの部屋よりは小さめの
応接セットの布製のソファに座った。
時間もあまり無いし、さて、どうやって聞いたらいいか・・・。
アヤカが考えているうちに、ユキコさんが口火を開いた。
「冬木教授。
今回お伺いしたのは、来年留学予定だった女子生徒さんが事件に巻き込まれ、
別の候補を立てることになったとお聞きしたからです」
池ノ上マイの名前が出ると冬木教授が顔を曇らせた。
かまわず、ユキコさんは話を続ける。
「益戸シティリビングで以前取り上げさせて頂いた生徒さんが、
被害に合われて大変残念です。
ですが、今回の貴校の海外留学制度によって、
益戸から世界に羽ばたく音楽家が生まれるかもしれないということで、
注目しているんです」
ユキコさんが一気にまくしたてると、
冬樹教授は安心したような表情が浮かべた。
「そうですか。
いや、そう言って頂けると当校としても喜ばしい限りです。
わが校でも世界に通じる音楽家が出ればと思っています」
「どうでしょう?
池ノ上さんが留学生に決まったのは、
どういう理由からだったんでしょうか?」
「彼女の場合は、まずものすごい努力家だということです。
学校でも通常のレッスン、自主練習もしていますが、
多くの生徒は家でも練習しています。
しかし、池ノ上さんの場合は、その努力が凄い」
ここで教授は一息入れた。
「ほぼ寝る間も惜しんでいたのかもしれません。
彼女の演奏を聞くとそれがわかる。
そして池ノ上さんのおだやかな性格もいいほうに現れている。
感情豊かな調べの中にも負けず嫌いというか・・・激しい気性も秘めている。
彼女はまだまだ伸びますよ。だから、選ばれた。
・・・あとは遺伝でしょうか・・・」
最後のほうはつぶやくようだった。
遺伝?
そういえば、池ノ上マイの母はこの学校の卒業生だと言っていた。
もしかして・・・。
「冬木教授は、池ノ上マイさんのお母様もご存知なのでしょうか?」
アヤカが言った。
教授はふいを突かれて、少し驚いたようだった。
「ああ、よくご存知で。
池ノ上マイさんの母親は私が昔、担当していた生徒だったんです」
そうだったのか。
なら、親子二代でこの冬木教授を師事していたのか。
「実は昨日、池ノ上さんのお見舞いに伺ったんです」
「え!?・・・それはそれは・・・」
アヤカの告白に教授は驚きを隠せなかったようだ。
それと同時にアヤカの顔をいぶかしげに眺めた。
しまった!余計なことを!
言わなければよかった。
アヤカが後悔していると、ユキコさんが助け舟を出してくれた。
「今回の事件を聞いて、お見舞いに伺わせて頂いたんです。
取材もさせて頂いて親しくなっていたので、心配になって・・・」
「ああ、そうだったんですか。いや、ありがとうございます」
冬木教授がペコリと頭を下げた。
アヤカは気づかれないようにそっと息を吐いた。
(ありがとうユキコさん)
小さく呟くと、ユキコさんはこっちを見て素早くウィンクした。
アヤカは再び勇気づけられて、冬木教授に向き合った。
「お母様といろいろとお話させて頂きました。
そのとき、お母様もこの聖マリア女子大学の出身だと聞いたんです。
親子二代で同じ大学というのはすごいですね」
「私もねぇ、まさか、あの池ノ上くんの娘さんがねぇ・・・とびっくりしたんですよ。
彼女もとても優秀な生徒だった・・・」
そう言うと、冬木教授は笑みを浮かべた。
「彼女も将来をとても期待されていたんだが・・・。
まさか親子でこんな不運に会うなんてね。
いや、本当に池ノ上くんは残念だよ」
「こんなことを言ってはなんですが・・・
池ノ上さん以上にその・・・留学にふさわしい候補の生徒さんはいらっしゃるんでしょうか?」
ユキコさんが言った。
「例えば、池ノ上さんのカルテットの同じメンバーとか・・・」
ユキコの発言に続けてアヤカも言い添えた。
うーん、と冬木教授は顔を曇らせた。
そしてなんとも言いにくそうに話した。
「そうなるだろうね・・・。
他にも候補者はいたんだが、最終的にあのカルテットの4人だった。
その中でも池ノ上くんが選ばれたんです。
他の3人も、師事している教授がそれぞれ推していたが、
投票でやはり池ノ上くんが抜きん出ていた。
次点でいうと・・・深田くん・・・だったかな」
「あの、ショウ・・・いえ、山手教授も審査に加わったのでしょうか?」
ふと思いついてアヤカが聞いた。
「いや・・・彼には審査からは外れてもらった。
その・・・カルテットを組んだらと言ったのは山手くんだったからね。
個人的感情が入ってしまうということでね・・・」
教授がしどろもどろに答えた。
それはおかしい。
それなら、それぞれの担当教授も投票から外されたはず。
ショウ・ヤマテは、世界に通じる才能を持っているのだから、
意見は尊重されたはずだし、留学生の選考に関わっていないとおかしい。
「ああ、すまない、そろそろ講義の時間だ」
冬木教授が腕時計を見て立ち上がった。
お礼を言って、ユキコとアヤカは部屋を出た。
二人とも黙って5階の静かな廊下から1階に降りると、
授業が始まる前の生徒たちの逆流にぶつかってしまった。
「ああ、どうしよう、この曲苦手なのよね」
「このあと、お茶行くー?」
「バイトであんまり寝てなくて、授業で寝ちゃいそう・・・」
賑やかな集団がアヤカ達の横を通り過ぎていった。
事務室の受付で挨拶し、ゆっくりと校門まで歩いた。
少し寒いが、うららかな秋の日差しは暖かく感じられた。
「どうだった?」
ユキコさんが口を開いた。
ショウ・ヤマテ・・・。
とても犯罪には関係ある人となりとは思えないけど、
あの池ノ上マイの写真、彼はなぜそれを持ってるの?
それになぜ留学選考会の審査員から外れたのか。
それに冬木教授も、池ノ上マイだけでなく、母親とも繋がりがあったとは・・・。
あの紳士然とした雰囲気からは想像もつかないが、
お見舞いに行ったときに、写真を撮ったという可能性もある。
それに・・・引っかかった言葉が。
「ねえ、ユキコさん、冬木教授、親子で不運だって言ってませんでした?
それってどういうことでしょう?」
「ああ、言ってたわね・・・娘さんが意識不明でお母さんも大変だってことかしら・・・?」
ああ、いろんなことを聞きすぎて、頭の中でグルグルする!
「わからないけど・・・いろんなことがわかった気がします」
アヤカにはそう言うだけで精一杯だった。