第3章
アヤカとミナは再び病院内に足を踏み入れた。
看護士さんや面会を終えたらしい見舞い客何人かとすれ違ったが、
今から来たのはアヤカ達くらいのものだった。
受付デスクに行くと、病院の制服をキッチリ着た女性が対応してくれた。
「池ノ上マイさんのお見舞いに来たのですが・・・」
「少々お待ちください・・・申し訳ありません、面会謝絶になっております」
やっぱり無理か。
「あの、家族は来てますか?・・・親戚なんです」
ミナが横から言った。
「ご親戚の方ですか?・・・ええ、ご家族の方はいらっしゃってますね。あと・・」
受付の女性はチラっと卓上の時計を見た。
「・・・15分ほどで面会終了になります。お会いするなら急いでください。
あちらのエレベーターを昇って5階のフロアです」
「ありがとうございます」
2人は急いで受付を離れ、エレベーターに乗り込んだ。
体がふわっと浮き上がる感覚に襲われ、静かに5階に到着した。
扉が開くと、看護士ステーションが目の前にあった。
受付から連絡が入っていたのか、看護士から左手の503号室ですと案内してくれた。
無機質な白い廊下が長く伸びている。
歩いていくと、左右に集中治療室の個室がずらっと並んでいた。
506、504、・・・っとここが503号室ね。
アヤカとミナはドアの前に立った。
ドアの左横には大きな窓があり、カーテンがかかっていたが、
隙間からベッドがチラリと見えた。
アヤカはミナに無言でうなずくと、ドアをノックした。
「・・・はい、どうぞ」
部屋の中から声がしたので、引き戸を開いて中に入った。
扉を開けると、長ソファと小さなテーブルが目に飛び込んできた。
左を見るとまたドアがあり、廊下から見たベッドの部屋に続いているようだった。
「どちら様でしょうか?・・・あの、マイのお友達の方ですか・・・?」
小柄な女性が少しけげんそうな顔で近寄ってきて、アヤカとミナを迎えてくれた。
「いえ、あの・・・」
ああ、中に入る前に考えておけば良かった。
大学生には見えないし、だからと言って他には・・・。
「マイさんのお母様ですか?
私たち、池ノ上マイさんが事件にあわれる直前にいらっしゃった、
カフェ・ヴェルデというカフェの者です。
事件のことをニュースで知りまして、お見舞いに伺ったんです」
ミナがアヤカの代わりに言った。
ここは正直に言ったほうがいいだろうというミナの判断にアヤカは舌を巻いた。
「ああ・・・マイが言ってました。お友達と一緒に行くんだって・・・。
とても楽しみにしていたみたいでした・・・」
「ええ。お友達と4人でアフタヌーンティーにいらして頂いたんです。
・・・さっき、深田さんともお会いしました」
アヤカはびっくりしてうめき声を上げそうになった。
ミナってば、深田エナと会っただなんて!
まあ、下で会ったことは会ったけど・・・。
「ああ、深田さんと!さっきまでお見舞いに来て下さっていたんです。
・・・立ち話ではなんですから、どうぞこちらへ・・・」
そう言ってマイの母親はアヤカとミナをソファに導いた。
アヤカはそっとマイの母親を観察した。
店に来たときと雑誌の写真でしか見たことがなかったが、
母と娘なだけあって、マイによく似ていた。
きっと連日病院に泊まっているのだろう、
娘の看病に疲れていてようで、顔色が悪かった。
しかし、背筋をスッと伸ばして座り、気丈な様子には感心した。
「失礼します・・・これ、どうぞ」
ソファに座るとミナは焼き菓子が詰まった箱を差し出した。
「まあ・・・わざわざありがとうございます。・・・あの、何かお飲み物でも・・・」
マイの母親が部屋の隅にある小さな冷蔵庫に目を走らせた。
「いえ、けっこうです。
もうすぐ面会時間も終わってしまうので、
マイさんの様子だけでも、お聞きしたかったんです・・・いかがですか?」
ミナが言うとマイの母親がベッドがあるドアに目を向けた。
「まだ・・・意識が戻らないんです、手術でもう頭の外傷はふさがっているんですが。
ピアニストとして大事な指も無事です。ですが・・・意識だけが・・・まだ」
「そうですか・・ご心配ですね・・・」
そう言うと、ミナはアヤカに目配せした。
アヤカが小さくうなずく。
「マイさん、私たちの店にいらしたとき、海外に留学される話をしていました。
学園祭でも優勝されて、お祝いだったんですね」
アヤカが本題に入った。
「ええ、毎日みんなで遅くまで学校に残って一生懸命練習したみたいです。
帰りがいつも遅くって・・・その努力が実って優勝したうえに、
マイはオーストリアへの留学が決まったんです。
すごく喜んでいて・・・なのに・・・どうしてこんなことに・・・」
母親が涙ぐみそうになったので、ミナがリュックからサッとハンカチを差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます・・・」
「お嬢さんは、小さい頃からピアノを・・・?」
ミナが優しく尋ねた。
「ええ・・・。私が家でピアノ教室を開いていますので、赤ちゃんの頃から音楽に親しんでました。
いつも間にか、私の真似をするようになって・・・音大にまで行くようになって。
・・・私も、聖マリア女子大の出身なんです」
「まあ、親子で同じ大学だなんて・・・素敵ですね」
アヤカが言うと、マイの母親は僅かに微笑んだ。
「ええ、まさか聖マリア女子を受験とするとは思ってませんでした。
ウチにはお金が無かったので・・・。
マイは特待生になって奨学金を貰えるようになったんです」
そう言う母親の口調には、娘を誇らしげに思う響きがあった。
「学園祭は見に行かれたんですか?」
ミナが聞いた。
「ええ、もちろん!友達4人とカルテットをやるから、見に来てって。
とても素晴らしい演奏でした」
「他の・・・深田さん以外のカルテットのメンバーはお見舞いにいらしたんですか?」
今度はアヤカが聞いた。
「深田さんは今日初めていらしてくれたんですが、
他のお二方はおととい、ご一緒に来てくれました」
「白井さんと水野さんですね・・・チェロとバイオリンの方・・・」
「ええ、そうです。ずっと心配して頂いてたみたいで・・・あの綺麗なバラも頂いたんです」
母親の視線をたどると冷蔵庫の上には、大輪の白いバラの花が飾ってあった。
その隣りには釣鐘のようなピンクの小さな花をたくさん付けている花瓶もあった。
あと、何を聞けばいいのか・・・あっ!
「そういえば、フユキ教授(だったっけ?)はこちらには・・・?」
(アフタヌーンティーのときにそんな名前が出てたっけ?)
「ああ、冬木教授もご存知なんですね。・・・あの方も一度お見えになりました。
短い時間でしたが・・・」
そう言うとマイの母親はふいに目を伏せた。
「あの・・・どうかされたんですか・・・?」
「実は・・・冬木教授も・・・マイのことをとても心配してくださっているんですが、
もうすぐ大学で海外留学生の発表をマスコミを招いてされるそうなんです。
それで・・・このままマイが目覚めないと・・・
別の人を推薦しなければならなくなってしまうとおっしゃって・・・」
そう言うと、マイの母親はふたたび目にハンカチを当てた。
「お母さま・・・」
アヤカが手を伸ばそうとしたその時、天井のスピーカーから声が流れた。
「・・・間もなく、面会時間終了の時間になります。お見舞いにいらした方は・・・」
ああ、もう終わり!?
どうしよう、もう少し・・・。
「お気持ち、お察しします・・・マイさん、早く回復されるといいですね」
ミナがそう言ってサッと立ち上がった。
ならばアヤカも立ち上がらないわけにはいかない。
これ以上話を引き伸ばしても逆に怪しまれてしまう。
「・・・あの、これ、すいません・・・ありがとうございました」
そう言ってマイの母親がハンカチをミナに差し出した。
ミナはそれを受け取り、
「お邪魔しました。失礼致します」
アヤカを引っ張るようにして部屋を出た。
廊下はまだ面会終了のアナウンスがリピートされていた。
2人は無言で歩き、エレベーターに乗り込んだ。
1階のボタンを押すと、ミナがアヤカを見た。
「どう思う?アヤカ・・・」
まだ・・・わからない。
もやもやとした疑惑ばかり浮かんでくる。
わかってきたのは、あの4人はただ仲がいいだけの友達ではなかったということ。
ライバルというのは、競い合うことでお互いの成長を促したりすることもある。
けど・・・。
とりあえず深田エナは怪しい。
明らかに池ノ上マイに対して悪意というか殺意を持っていた。
さっき一緒にいた男性は誰だろう。
なんとなく、男女の関係を思わせるような仲のようだったけど。
それとフユキ教授。
アフタヌーンティーの時に偶然耳に入ってきた名前だったけど、
まさかそこから情報が得られるとは思わなかった。
冬木教授とは池ノ上マイさん直接の先生ということはわかった。
その教授はマイさんがまだ昏睡状態だというのに、
新しく留学生を選ぼうとしている。
それは・・・あの他の3人からだろうか。
アヤカが考えているうちに、エレベーターはあっという間に1階に着いた。
ガランとした静かなロビーを通り抜け、玄関ドアに向かう。
受付にももう誰もいなかった。
外に出ると、風が出て寒さが増している。
アヤカは着ていたパーカーの前をかき合わせた。
左に行けば、車の駐車場、右に行けばミナのバイクが停めてある駐輪場だった。
2人は玄関ドアの前に立っていた。
「ミナ・・・怪しいことだらけね。
あのさっきの深田エナさんと男の会話、
それにマイさんがああいう状態だからって、恩師が新しい人を選ぶって話も」
アヤカが言うとミナが頷いた。
「・・・だから、もう少し調査は続けたほうがいいと思う。
どう、ミナ?」
「賛成」
風でミナの束ねた髪がなびいていた。
「それに・・・聞いた?
深田エナさん、一緒にいたあの男性にセンセイって言ってたの。
ってことはもしかして・・・」
「あっ・・・」
ミナが眼鏡の奥で目を大きく開いた。
「もしかしたら、あの人、大学のセンセイってこと?」
アヤカがうなずいた。
「それと・・・あの冬木教授の話も引っかかる・・・」
「このまま、池ノ上さんの意識が戻らなければ・・・
あの他の3人にも留学のチャンスがあるってことよね」
ミナが空を見上げた。
アヤカとミナはそのまま左右に別れた。
アヤカは車に乗り込むと、車で自宅のアパートまで走らせた。
車の時刻表示を見ると、7時10分。
どうしよう・・・このまま帰るか、それとも買い物してから帰ろうか・・・。
自宅の冷蔵庫の中を思い浮かべる。
・・・鶏肉はあるし、たまねぎ、じゃがいも・・・。
そうだ、今日は寒いからシチューを作ろう。
ヒヨコ豆の缶詰もあるから、それも入れようかな。
それで野菜は十分取れるから、あとは冷凍してあるパンを解凍しよう。
益戸西病院からアパートまでは7分足らずだった。
車を駐車場に入れ、階段で3階まで上がる。
鍵を開け、部屋に入ると、スマホの着信音が鳴った。
(んもう、誰よ、タイミングが悪い)
表示を見ると母のショウコから。
無視してやろうかと思ったのだが、
皆さんもご存知のように、母親というのはしつこく電話してくるものだ。
恐らく、アヤカが出るまで鳴らし続けるだろう。
アヤカはソファの上にドサッとバッグを投げ、そのままソファに座って着信ボタンを押した。
「もしもし、母さん?」
「ああ、アヤカ、やっと出たのね。もう遅いじゃない!」
「・・・今まで車を運転してたから・・・」
「あら、そうなの?・・・じゃあしょうがないわね」
電話の向こうで母が少し機嫌を直したのがわかった。
「じゃあ、今、家なのね?」
「そうよ。これからご飯を作るところ」
「あら、じゃあ、これから行ってもいいかしら?」
「これから!?」
せっかくこれからシチューを作って、そのあとのんびり過ごそうと思っていたのに。
事件のこともいろいろ考えなくちゃいけないし・・・。
「すぐ病院を出るわね、じゃ!」
有無を言わさず、アヤカの返事も待たず、母からの電話が切れた。
いいとも、悪いともアヤカは言っていないのに。
母は勝手に決めてしまった。
もし、家に娘のボーイフレントが来ていたらどうする気なのかしら。
まあ、いないけど・・・。
ため息をついて、アヤカはエプロンを取り、
これからの母の訪問に向けてシチューを作り始めた。
「美味しいわ。でも珍しいわね、豆が入っているなんて」
母がスプーンでトマトシチューをすくいながら言った。
小さく切った鶏肉、角切りのたまねぎ、じゃがいも、ニンジン、ヒヨコ豆を入れ、
トマトベースで仕上げたものだ。
「最近、ヒヨコ豆って流行ってるの。缶詰でも出ているしね」
アヤカはパンを手でちぎった。
母は予告通り、自分が経営する香椎の病院からアヤカの家に来た。
最近、母は車の運転を再開したのだ。
ひとつは、孫のアンの送り迎えのため。
そしてもうひとつは、カフェ・ヴェルデに来るために。
2人はキッチン横にある小さな2人用のテーブルセットに座り、
シチューとパンの夕食を摂っていた。
「ねえ、アヤカ。・・・ママに何か隠してない?」
それを聞いてアヤカは思わずスプーン止めた。
「・・・チカから聞いたの?」
恐る恐るアヤカが聞き返すと、
「チカ?いいえ」
え、じゃあ・・・?
「今日、ヨウコさんに電話したのよ。明日の茶道のお稽古のことで・・・」
あ!
「そうしたら・・・アヤカ、あなたまた、調査なんてやってるのね」
「え!?母さん、それは・・・」
「もう!なんでママも誘わないのよ!
ヨウコさんから聞いてママ、何も知らなくて恥ずかしかったわ!
私にも何かやらせなさい!」
そんなことってある?
母は私の探偵の真似事に賛成なの?
「とにかく、今までのこと、ママに全部話しなさい」
「ってことなの・・・」
夕食が終わり、アヤカと母はソファに座って食後の珈琲を飲んでいた。
「ふーん・・・じゃあ、あなた達は、犯人は通り魔じゃないって睨んでるのね」
そう言われると自信がないのだが。
アヤカとミナの推理は今までの状況だけで疑惑を持っているだけだ。
証拠は何もない。
「そういう訳じゃないけど・・・もしかしたら警察が言っているように通り魔かもしれないし・・・」
「んもう、どっちなの!」
そんなこと言われたって。
「ねえ・・・今朝の事件のことは?全く手をつけてないの?」
そういえば、そうだ。
小泉ココロのほうは全く考えていなかった。
「どこで殺されたって言った?」
母が聞く。
「聖マリア女子大近くの公園・・・益戸中央公園だって」
「そう・・・」
母がチラリとテレビ上にある掛け時計を見た。
時刻は8時半になっていた。
「じゃあ、これからその公園に行きましょう!」
「ええっ!?」
母はすでに立ち上がっていた。
「無理よ!きっと警察が・・・この間のウチの時みたいに、
黄色の立ち入り禁止のテープを張ってるだろうし・・・」
「ってことはそのテープが張ってあるところが殺害現場のワケね」
母の目が煌いていた。
あ、この目、見たことある。
以前、アヤカたちに内緒でホストクラブに乗り込んで行ったときだ。
「アヤカ、行かないの?じゃあ、私一人で・・・」
「行くわよ、行きますよ!母さん一人で行かせるわけないじゃない!
・・・でも見張りとかがいたら、すぐ引き返すからね!」
「わかったわ」
そう言って母がニヤリと笑った。
アヤカはため息をついた。
秋の夜は長いとは言うものの・・・こんな夜はそうそうないだろう。
「どう?誰かいる?」
「いるわよ。おまわりさんが立ってる」
アヤカと母ショウコは植え込みの影からしゃがんで
隠れるように公園の入り口を見ていた。
公園と道路を挟んだ聖マリア女子大の大きな校舎は真っ暗だ。
今日は休校だったので生徒は誰もいないし、いたとしても少数の先生達か警備員だけだろう。
アヤカが思っていた通り、公園には警官が立っていた。
恐らく現場保持のためだろう。
「ホラ母さん、じゃあ約束通り、このまま帰る・・・」
「待って、こっち・・・」
母が低姿勢をとりながら素早く左へ回った。
アヤカはあわてて母のあとを追った。
今日の母はベージュスエードパンツスーツに、5センチくらいのヒールだったが、
そのことを感じさせないような動きだった。
ジムに通っているとはいえ、アラ還とは思えない。
アヤカはといえば、動きやすいジーンズに裏にボアが付いた暖かいパーカー、
スニーカーという動きやすさと防寒重視というお洒落とはかけ離れたスタイルだった。
しかし母に追いついたときには、アヤカのほうがハアハアと息を切らしていた。
おかしい、私だってカフェで毎日立って仕事しているのに!
母は左右をキョロキョロと見渡すと、素早く低い潅木をまたいで公園に入った。
「ちょっ!ちょっと、母さん!!」
「静かに!早く!!」
小声で母が言った。
うう、母に逆らえるわけがない。
アヤカも母に倣って潅木の上を越えた。
ここでもアヤカの運動不足が証明された。
アヤカは片足を引っかけ、パキパキと細い枝が折れ、小さな音を立ててしまった。
そのとき、アヤカの指にふいに布らしきものを感じた。
思わず掴んで目の前に近づけると・・・ハンカチ?
緊張のまま、そのまま1分程アヤカとショウコは身を屈めていたが、
おまわりさんには聞こえなかったらしく、
誰も駆けつけてこなかった。
「・・・行くわよ」
母が先頭を切って歩き出した。
アヤカも足音を立てないように付いていく。
益戸中央公園は、大きな野球場とテニスコート2面、
高い木が生い茂る森が一緒になっている大きな公園だ。
群生する大きな木が月明かりで、影を落としているので公園内は暗い。
ほんの少し先はもう闇に包まれていた。
ところどころにあるぼんやりとした街灯だけが頼りだ。
木の影からいきなり誰かが出てきそうで、アヤカは怖くなった。
母といえば、キョロキョロとあたりを見回し、現場を探しているようだった。
「どこかしらね・・・」
「ねえ、母さん、もう・・・」
アヤカが言いかけると、ふいに肩に重みを感じ、誰かにぎゅっと掴まれた感触がした。
「きゃああああ・・・・!!!」
アヤカが大きく叫んだ。
「アヤカ!」
母が振り返り、アヤカの体をぐいっと引き寄せそのまま背後に回すと、
二人が入れ替わるようになった。
そして母はそのまま蹴りを繰り出した!
「うわっ・・・!」
母の足は空を切ったようだが、
驚いてその人物はそのまま地面に尻餅をついたようだ。
そしてそのまま母が2発目の蹴りを入れようとしたとき、
「待っ、待って、鈴井さん!!」
え!?
どこかで聞き覚えがあるような声。
暗がりだったが、この倒れた人物・・・男は・・・・一之瀬さん!?
「待って、ママ・・・!!」
慌てて後ろから母の服を掴もうとしたが、アヤカの手はかすっただけ、
あわれ、一之瀬刑事のおでこに母のパンプスが突き刺さったのだった。
「大変申し訳ありませんでした」
さすがの母も悪いと思ったのだろう。
一之瀬刑事には平謝りだった。
アヤカも母と一緒に頭を下げた。
一之瀬刑事の怒り様はすごかった。
それはそうだ。
立ち入り禁止のテープが張ってあるのに、黙って公園に入り、
しかも刑事を蹴飛ばしたのだから。
しかし、3分もすると大きなため息をついて
「もう・・・いいです・・・で、どうしてここにいるんです?」
一之瀬刑事のおでこには大きな絆創膏が止められてあった。
母がバッグに持っていたものだ。
「はあ・・・ちょっと散歩にと・・・」
母が言った。
「散歩・・・ですか・・・?」
一之瀬刑事がチラッとアヤカを見た。
アヤカには前科がある。
以前の事件で一之瀬刑事の制止を振り切ったあげく(不本意ながら)犯人と対峙し、
あやうく命が危ないところだったのだ。
あの時、警察が(正確に言うと久保刑事だが)来てくれなければ、どうなっていたことか。
「だめよ、母さん・・・バレてる」
「・・・まあ、いいでしょう。こちらです」
一之瀬刑事が背中を見せてサッサと歩き出した。
え!?
娘と母は顔を見合わせた。
どうしよう・・・このままパトカーに乗せられるのだろうか。
逃げたい衝動に駆られたが、といっても付いて行かないわけにはいかない。
気が進まないまま、2人でのろのろと付いて行くと、いきなり開けた場所に出た。
鬱蒼とした木々の中から抜け出ると、ここには月の光が届き、明るかった。
真ん中には丸型の噴水があったが、どうやら水は止まっているようだった。
そして噴水のすぐそばに白のチョークで描かれた場所があった。
人型になっている。
まるでドラマみたい・・・じゃあ、ここが・・・?
一之瀬刑事が白線のそばに立った。
「ここで、小泉ココロさんは遺体で発見されました」
一之瀬刑事が静かに言った。
アヤカは重いもので頭を叩かれたような気がした。
ここに来るまでは母を止めようとしていたけど、心の中では興味深々だった。
けど、ここで現実を突きつけられた気がした。
ここで、まだ未成年の女の子が無残にも殺されたのだ。
未来に希望と夢を持っていたはずだった。
怖かっただろう、もっと生きたかっただろう。
私のように興味本位で事件に手を出してはいけない。
でも・・・。
「彼女、何着てました?」
アヤカの静かな問いに、一瞬一之瀬刑事がふいを付かれたような表情をした。
「服装ですか・・・・?えーと・・・白のニットに・・紺のスカート・・・ですね」
「上は着てなかったんですか?」
続けさまに聞くアヤカに母が目を丸くしている。
「上はデニムのジャケットでしたね、確か」
「足元は?」
「・・・茶色の靴。・・・何でこんなことを聞くんです?」
一之瀬刑事が胸の前で腕を組んだ。
「・・・聞きたかったんです、彼女の最後を。
ねえ・・・一之瀬さん、彼女のファッション、どう思います?」
「どうって・・・まあ、今時の若い女性の格好でしょうね。街中でよく見る・・・」
「そうですよね。街中でよく見る服装です。・・・でもここには似つかわしくない・・・」
「ああ、そういうこと・・・」
母が小さくつぶやいた。
「・・・・・・・」
無言のまま、刑事は懐から1枚の写真を取り出し、
アヤカとショウコの前に差し出した。
それは女性の遺体だった。
「・・・これが小泉ココロさんですか?」
「そうです」
アヤカが聞くと一之瀬刑事が重々しく口を開いた。
アヤカと母が写真を覗き込む。
場所は今いるここ、小泉ココロは体をくの字に曲げて横たわっていた。
19才よりも若く見え、まだ高校生の少女のようだ。
肩より少し短い髪で、かなり明るい茶色に染め、ウェーブがかかり、
扇のように広がっていた。
色白なのは、亡くなっているからなのだろうか。
目は半分だけ開かれ、
空虚な視線は空に投げかけられている。
もし生きていたら、
どのにでもいる普通の可愛らしいお嬢さんだったに違いない。
首もとは髪で隠れているが、
おそらくこの下に絞殺の痕があるのだろう。
一之瀬刑事が話した通り、白のニットだが、
真っ白でふわふわした・・・そう、コートに毛が付いてしまいそうなよそ行きのニット。
紺のスカートは、白の細かい花柄が入り、
ツルッとした素材のようでかなり短いフレアスカート。
足元は茶色のチャンキーヒール。
すぐ傍には白のショルダーバッグ。
しかし、上着は見当たらない。
「一之瀬さん、上着はないんですか?」
「ああ、上着は少し離れたところに落ちていました・・・これです」
一之瀬刑事がもう1枚の写真を取り出した。
デニムのジャケットと言っていたが、これはいわゆる”Gジャン”と呼ばれるもの。
「ということは、着ていなくて、手に持っていたということなのかしらね?」
母が写真を見てつぶやいた。
「刑事さん」
アヤカは写真をじっと見つめたままだった。
「小泉ココロさんの死亡時刻は夜中ですよね?
そんな時間に若い女性が一人でこんなとこに来るんでしょうか?
それに、彼女のファッション・・・これはデートとかでする格好です。
こんな夜中に無防備過ぎ・・・彼女は知り合いの男性と一緒だったと思います」
アヤカが写真から顔を上げて言った。
「女性と一緒だったら・・・夜中ですし・・・もう少しカジュアルな服装にするでしょうね。
ジーンズとか、もっと防寒するとか。
この寒い季節でGジャン1枚持っただけなんて・・・すぐそこの・・・」
そう言ってアヤカは公園隣りの真っ暗な聖マリア女子大を見上げた。
「聖マリア女子大からちょっとだけ出てくるか・・・車で来たかだと思います」
アヤカは一気に喋ったあと、一之瀬刑事をじっと見つめた。
二人の間にちょっとの間緊張した空気が流れた。
静寂を破ったのは刑事のほうだった。
一之瀬刑事はふーっと大きな息を吐いた。
「・・・我々でも、誰かと一緒にいたという可能性は考えています。
通り魔の線も捨ててはいませんがね・・・しかし・・・」
そう言ってふっと笑った。
「服装のことなんて全く頭にありませんでしたよ。
服から・・・女性目線から見ると違うものが見えてくるんですかね・・・」
アヤカはほっと胸を撫で下ろした。
良かった。
一之瀬刑事はアヤカの生意気な意見に怒っていないようだ。
啖呵を切ってしまったが、心の中ではバクバクと心臓が跳ね上がっていた。
「このお嬢さんのご家族は?」
母が聞いた。
「被害者は・・・小泉さんは名古屋出身で、ここには一人で上京してきました。
ご両親と弟さんが今朝こちらに」
「さぞ・・・お辛いことでしょうね・・・お嬢さんを亡くすだなんて・・・」
母が沈痛な面持ちで言った。
「ええ・・・そういう場面に立ち会うことが多いんですが、いつもやるせない気持ちになります」
「刑事さんは、小泉ココロさんと・・・池ノ上マイさんの事件は関係していると思いますか?」
アヤカが聞いた。
「さあどうでしょう・・・それはまだ捜査中です。鈴井さん、また何か知っているんですか?」
「え?いえ、まだ」
アヤカは言ってから、しまった口を押さえた。
「まだ・・・ってことは、また調べてるんですね・・・困ったお人だ・・・」
一之瀬刑事が苦笑した。
「・・・明日、お店に立ち寄らせてもらいます。5時頃でいいですか?」
「え!?ええ・・・」
「情報交換しましょう。ただし、非公式でですが・・・」
「え、はい!お待ちしてます!」
アヤカが大きな声で返事をすると、
母が笑い、つられて刑事も素人探偵も一緒になって笑った。