第10章
土曜日の午後。
カフェ・ヴェルデには事件の関係者が集まっていた。
ショウ・ヤマテをはじめ、冬木教授、上田講師、
深田エナ、水野アイカ、白井ユウコの聖マリア女子大学の関係者、
庄治准教授、柏原教授、秘書の秋元さんの千花大学の関係者、
ヨウコさん、キクさん、サクラさんのお隣組、
益戸タウン誌のユキコさん、母のショウコは2人で1つのテーブルに着いていた。
店内に他のお客様は誰もいない。
今日はこのために3時閉店にしたのだ。
アヤカは窓の外に目を向けた。
外はまだ明るい、が、日差しは少し西に傾いてきていた。
近づく冬の影が手を伸ばしているかのように、部屋には寒々とした雰囲気が漂っている。
テーブル各自には珈琲や紅茶、そしてナッツタルトを積んだお皿が置いてあった。
時折聞こえるのはひそひそとした話し声と、カップを置くカチャッという音ばかり。
一人異彩を放っているのは柏原教授だけ。
嬉々としてタルトを食べ、珈琲を飲み、
初対面の隣に座っている冬木教授に親しげに話しかけている。
冬木教授は困惑した表情で、しかし我慢強くこの奇妙な教授の相手をしている。
これから何が起きるのか。
聖マリア女子大の人達は、千花大学の人達もヨウコさん達のこともまったく知らない。
この集まりが何なのか、心中困惑していることだろう。
アヤカは決意が鈍りかけていた。
これからのことを考えると憂鬱だった。
あと1時間後にはどうなるのか。
しかし、もう後戻りは出来ないのだ。
アヤカが目で合図すると、ショウ・ヤマテがおもむろに立ち上がった。
喋っていた人達は話をやめ、彼に注目した。
「今日は集まってくれてありがとう。
それぞれ忙しい中、来てもらって感謝しています。
僕と初対面の方が多いと思いますが、こちらのオーナーの方を通じて知っていらっしゃるでしょう。
山手ショウと申します」
ショウ・ヤマテが頭を下げた。
「今回集まって頂いたのは、聖マリア女子大の事件について、
僕が皆さんに話さなくてはならないことがあるからだ。
・・・どうか、これから僕が話すことをよく聞いてほしい」
ショウ・ヤマテの顔には疲労が色濃く刻まれていた。
つい先日、雑誌に掲載された写真とは雲泥の差だ。
若々しさとエネルギッシュなチカラに溢れていたのに、
短期間の間にしわが増え、一気に5~6歳は歳を取ってしまったかのようだ。
「話す?あの・・・何をですか?」
水野アイカが尋ねた。
右隣には不安そうな様子で白井ユウコが座っていた。
「深田くんから聞いた者もいるようだが、僕と・・・池ノ上マイくんのことだ」
「山手くん、それは・・・」
冬木教授がソファの中で身動ぎした。
「いいんです、冬木教授。
これは事件を解明するために必要なことなんです。
僕は・・・話さなければならない」
冬木教授の制止をショウ・ヤマテは首を振って止めた。
深田エナは疲れ切った様子でソファに座り、俯いている。
落ち着かないのだろう、手にしたハンカチを無意識にいじっている。
隣には恋人の上田エイトが座り、深田エナの様子を何かと気にかけていた。
冬木教授は心配そうな様子でショウ・ヤマテを見ていた。
ヨウコさんたちはひとつのテーブルに3人固まって、
好奇心を隠さず成り行きをひたと見つめている。
その隣のテーブルではユキコさんは手帳とペンを持ち、ボイスレコーダーも置いていた。
ジャーナリストとして何も聞き漏らすまいとしている。
母はユキコさんの正面で珈琲を飲んでいる。
しかしその耳はすべてを聞き逃すまいと神経を尖らせているのがわかる。
アヤカはミナとチカと並んでカウンターに背を預け、少し外側からこの集まりを見つめていた。
「まず話したいのは、僕と池ノ上マイの関係についてのことだ。
不穏なウワサが流れているようだ。
驚いたことに、男女の仲ということだそうだね。
だけど、そうじゃないんだ。
僕は・・・僕は池ノ上マイの実の父親なんだ」
深田エナが弾かれたように顔を上げた。
上田センセイからは低い驚きの声が上がった。
ユキコさんは鼻から眼鏡がずり落ちていた。
「え、じゃあ、ということは・・・失礼ですが、
山手教授はやっぱりそれで、自分の、娘のマイを留学生に推したんですか?」
深田エナがおずおずと聞いた。
「それは・・・」
「それは、違う!」
声を上げ、立ち上がったのは冬木教授。
「言わせてくれ山手くん。
この際はっきり言おう・・・よく聞いて欲しい。
山手くんは留学選考会には不参加だったんだよ。
私は山手くんから選考に私情が入っては困ると相談を受けた。
そして彼は自ら辞退した。
表向きは客員教授だからと他の教授連を説き伏せてね。
本来なら、世界を知る山手くんこそが適任なのだが、
他の教授達は二人が親子だというのは知らないから、変に思った人もいたんだがね。
結局、山手くんを除いた音楽学部の教授、准教授の投票で決めた。
それは私が保証する。
他の教授達に聞いてくれてもかまわない。
だが・・・山手くんの心配はまったく必要なかったよ。
もちろん他の教授たちは、自分の担当している生徒を推したかっただろう。
・・・圧巻だった。
池ノ上くんの演奏は素晴らしかった。
他の誰よりも飛びぬけていた。
彼女が海外留学の権利を勝ち取ったのは贔屓でもなんでもない、彼女の実力だ。
世界できっと通用するだろう、素晴らしい才能だ。
しかし池ノ上くんは今・・・」
冬木教授の声がだんだん小さくなっていった。
「・・・ありがとうございます、冬木教授。
ここからは僕が。どうぞお座りになってください」
ショウ・ヤマテが促した。
「そういうことだ・・・マイの母親とは学生時代に出会った。
彼女は聖マリア女子大の学生で、冬木教授の教え子だった。
僕は彼女と将来結婚することまで考えていたんだが・・・突然別れを告げられた。
そのときすでに彼女のお腹には子供が・・・マイがいた。
僕は、彼女が妊娠していたとは知らず、
傷心のまま海外へ行き、そんことを知らず二十数年間が経った。
マイのことは、日本に、聖マリア女子大に来るまで全く知らなかった。
日本に戻ってきてそれを知ったとき、嬉しくもあり、そして過去の自分を何度も責めた。
マイと母親に会いに行き、謝罪した・・・そしてマイの母親に感謝も。
それから僕は個人的にマイの指導を始めた。
父親としてね。
会えなかった、一緒にいられなかった年月を埋めるためと・・・贖罪のために」
一呼吸置いて、ショウ・ヤマテは深田エナを見た。
「たぶん、深田くんが僕とマイが一緒にいるところを見たというのはその時だろう。
なるべく隠していたつもりだったのだが。
ただ言いたいのは、今回の留学選抜は私心が入っていないことをわかってほしい。
それに僕がマイを指導したからといって、必ずしも上達するとは限らない。
本人が努力しないことには・・・それはみんなもプロなんだからわかっているね?
だがあの子は、教えた分だけ何かを吸収していき、さらに練習にも励んだ。
親の贔屓目じゃなく、格段に上達し実力が上がったと思う。
僕だけじゃなく、他の教授の方々も認めて下さったのがあの結果だった」
その言葉に、深田エナは悔しそうな顔をした。
水野アイカと白井ユウコはお互いに顔を見合わせ、こっくりと頷いた。
「僕が話せるのはここまでだ。この先のことは鈴井さん・・・お願いします」
ショウ・ヤマテが座ると同時に、アヤカが静かに前に進み出た。
「カフェ・ヴェルデのオーナー、鈴井アヤカと申します」
アヤカは一同を前に改めて自己紹介した。
聖マリア女子大関係者の間に軽い驚きが走った。
なぜ部外者が、しかもこの店の主人が話に絡んでくるのか。
しかし、ショウ・ヤマテが今いたこの場にアヤカを呼んだのだ。
そのショウ・ヤマテは元いたソファに座り、背をあずけ腕を組みじっと上を向いていた。
「キミは確か・・・」
冬木教授が言った。
「はい、冬木教授。
以前『益戸シティリビング』で取材させて頂いたときに一度お会いしました。
こちらの・・・益戸シティリビング編集長の阿部さんに、
無理やりお願いして同行させて貰ったんです。
騙すような形になってしまい、申し訳ありませんでした」
「・・・そうだったんですか。
しかし、そんな人を欺くようなやり方は良くないと思いますね」
冬木教授は不機嫌な感情を隠そうともしなかった。
「はい、仰る通りです。
騙すような形になってしまい申し訳ありませんでした。
ですが、冬木教授とお話しさせて頂いたおかげで、
今回の事件を解明するキッカケを掴むことができたんです」
「解明・・・?まさかキミ、池ノ上くんを襲った犯人を知っているのかね!?」
「そうです。
池ノ上マイさんの殺害未遂、そして、小泉ココロさんの殺害の犯人。
すべてわかったつもりです。
今日は山手さんにお願いしてこの集まりを開いて頂きました。
聖マリア女子大学以外の他のテーブルの人たちは私の近親者で、
この調査に協力してもらった人達です。
そして・・・」
アヤカが振り返ると、厨房のドアから益戸警察署の一之瀬刑事、久保刑事が現れた。
厨房の窓からずっとこちらを伺っていたのだ。
「ご存知だと思いますが、こちらは益戸警察署の刑事さん達です」
警察の登場に場がざわめいた。
「ああ、あの刑事さん達ですか。何度も話を聞かれましたよ。
不愉快だな・・・山手教授、僕は帰ってもいいですか?」
上田センセイがショウ・ヤマテに向かって言った。
すると、一之瀬刑事が両手を広げてストップのジェスチャーをした。
「ああ、そのままで。この会は非公式な集まりですから。
我々もこの店の常連でして・・気になさらずに、どうぞお話を続けて下さい。
私たちも鈴井さんの話に興味があるんですよ・・・」
「気にするなですって?冗談じゃない、僕は帰る!
刑事がいて、こんな・・・アカの他人の話を聞く必要はない。
行こう、レナ!」
上田センセイは隣にいた深田エナの左腕をぐいっと持ち上げた。
しかし、意外なことに彼女は動かなかった。
「待ってよ・・・私も興味があるわ。
もしこの人が、マイを襲った犯人を本当に知っているのなら、教えてもらおうじゃないの」
深田エナ上田センセイの手を振りほどき、アヤカに挑戦的な目を向けた。
アヤカの心臓が激しく打ち始めた。
これからすることにひどくあがっていた。
でも今さらあとにひけない。
せっかくこの・・・アヤカはぐるりと周囲に目を走らせた。
関係者がすべて揃っている、ショウ・ヤマテが作ってくれたこの機会。
ここで事件を終わらせなければ。
チラっと庄治准教授を見た。
准教授が大きく頷いてくれたので、アヤカも頷く。
深く息を吸い込み勇気を奮い立たせた。
「まず初めに、池ノ上マイさんのことから。
最初の見解だと、不審な人物が学校構内に入り込み無作為に人を襲った。
つまり不幸なことに、防音室にいた池ノ上マイさんがたまたま襲われた、ということでした」
あいまいに頷く人が何人かいた。
「池ノ上マイさんは犯人に抵抗し、ピアノに頭をぶつけ、気を失った。
犯人はそれを見て、池ノ上マイさんが死んだと思った。
そしてバッグから財布を盗み、お金だけを抜いて、
庭に出る昇降口に財布を捨て、そこから校外へ逃亡した。
・・・というのが警察の説明でした。
しかしそれは間違いでした」
「この人は、私たちを疑っているのよ。私たちの学校の中に犯人がいるらしいわ」
トゲトゲしく深田エナが言った。
けれどアヤカは構わず話を続けた。
「犯人は不審者なんかじゃありませんでした。
本当の狙いは、池ノ上マイさんを襲うことでした。
犯人はマイさんと揉み合い、ピアノに頭をぶつけた。
気を失い、流血しているマイさんを見て犯行をやり遂げたと思ったんです。
犯人が脈を確認しなかったのは、幸いでした。
そうでなかったらもう一度どこかに頭をぶつけられ、
・・・本当に池ノ上さんは死んでいたかもしれない。
その後、犯人は深田エナさんのハンカチを池ノ上さんのそばに置いて部屋から出て行ったんです」
「私のを?・・・それってこの間あなたが私に見せたハンカチ?
でも私、どこかに落として・・・犯人はそれを偶然拾ったってこと?
しかもマイの傍に置く?そんなの馬鹿げてるわ!」
深田エナが声を張り上げた。
アヤカはゆっくりと深田エナの顔を見て頷いた。
「そうです、そんなことは馬鹿げているし、あなたのハンカチを拾うなんて偶然は
万に一つくらいでしょう。
けど犯人はエナさん、前もってあなたのバッグからハンカチを盗んでおいた人なんです。
しかしここで二つ、犯人が予期しないことが起こりました」
「予期しないこと?」
白井ユウコが聞き返す。
「そうです。
まず一つ目は、本来なら池ノ上マイさんは死体で発見され、
そばにあったハンカチの持ち主から深田エナさんが疑われ、逮捕されるはずでした。
どうでしょう一之瀬さん、もしそうだったとしたら?」
益戸署の刑事が答えた。
「そうですな。
警察としては犯人の遺留品としてハンカチの持ち主を調べ、
最有力容疑者として、深田エナさんを第一容疑者としていたことでしょう」
「そんな・・・」
深田エナが口に手を当てた。
「しかしそこにハンカチはありませんでした。
どうしてなかったか?それは誰かが持ち去ったからです。
そしてもうひとつ。
第二の予期しないことが起こりました。
それは池ノ上マイさんのお財布が、お金を抜かれた状態で発見されたことです」
「え、ちょっと待ってください!」
白井ユウコが口を挟んだ。
「それっておかしくないですか?
あなたの説だとエナが犯人になるように、ハンカチを置いたんでしょう?
じゃあ、なんでお財布まで捨てたんですか?
そのままお金だけ抜けばよかったんじゃ?・・・なんか変じゃないですか?」
「それは、池ノ上マイさんを襲ってハンカチを置いた人と、
財布を捨てた人が別々の人物だったからです」
アヤカが質問に答えると、部屋にざわめきが走った。
アヤカは部屋が静まるのを待って、
エプロンのポケットからゆっくりとビニール袋を取り出した。
「これがそのハンカチです。
深田さんの家から注文しているオーダーメイドだそうで、市販されていません」
アヤカはみんなに見えるように、透明なビニールに入った白いハンカチを掲げた。
全員の目がハンカチに注がれる。
「このハンカチは益戸中央公園で発見されました。
小泉ココロさんが死体で発見された公園で、です。
私が偶然そこで拾ったんです」
今回のこの集まりのために、一之瀬刑事が特別にこの証拠品を貸してくれたのだ。
「ここからは想像に過ぎませんが・・・こういうことだと思います。
小泉ココロさんは、池ノ上マイさんを襲った犯人を目撃していたんです」
「嘘!じゃあ、なんですぐ犯人の名前を言わなかったのよ?」
水野アイカが鋭い口調で言った。
「それは、犯人を庇うためです」
「庇う?犯人を?」
白井ユウコが目を見張った。
「ええ。そう考えれば、ハンカチがなぜ公園にあったのか説明がつくんです。
小泉ココロさんは、恐らく犯行自体を見たのではなく、
防音室から出ていく人物を見たのでしょう。
なぜなら、あの部屋は外から中を見ることができませんから。
その人物を不審に思った小泉ココロさんは部屋に入り、
倒れている池ノ上マイさんを発見した。
それで部屋から出ていった人物が犯人だと思ったんです。
だから、そばに落ちていたハンカチを拾って隠した」
「でも、ちょっと待って、アヤカ」
母が珈琲カップをテーブルに音を立てて置いた。
「池ノ上マイさんの側に落ちていたからって、それが犯人のものとは限らないでしょ?
彼女の、池ノ上さんのものかもしれないじゃない。
それなのに、そのお嬢さんはハンカチを隠したってこと?」
「そうね。母さんが言うのはもっとも。
でも、このハンカチにはイニシャルが付いているの。
ここに・・・『E』という文字があるわ」
アヤカは母の目の前でもう一度ハンカチを掲げた。
「水ノ上マイさん・・・彼女は『M』ね」
サクラが言った。
「そうです。
小泉ココロさんが池ノ上マイさんの下の名前を知っていたかどうかはわからない。
今となっては確かめることは出来ないけど、
留学生に選ばれた人だし名前は知っていたのかもしれない。
それかバッグとか持ち物などから見てわかったのかもしれない。
とにかく、小泉ココロさんは池ノ上マイさんのものではないと思った。
それは、部屋から出ていった人物の名前のイニシャルが『E』だというのを知っていたから。
だから、ハンカチをそっと持ち出した」
「私じゃないわよ!ホントに失くしたんだから!
それに、その時のアリバイが私にはちゃんとあるわ!」
深田エナが怒りの目でアヤカを睨みつけた。
アヤカはそれを無視して話を続けた。
「あなたじゃありません、エナさん。
小泉ココロさんがあなたを庇う理由はありませんから。
・・・話を戻します。
そのあと小泉ココロさんは、池ノ上マイさんのお財布をバッグから取って、
お金を抜いたうえで、昇降口に捨てた。
そうすれば、部屋を出て行った人を庇い、
外部の、泥棒の犯行に見せられると咄嗟に考えついたんです」
「それを裏付けるようですが・・・」
久保刑事が言った。
「鈴井さんの指摘どおりに、
落ちていた池ノ上マイさんの財布を調べたところ、小泉ココロさんの指紋が検出されました。
二人の間には特に接点もなく、指紋も新しかったので、
鈴井さんの仰るとおり、小泉ココロさんが持ち出したのだと結論付けました」
あちこちでため息が聞こえた。
最初は胡散臭そうにアヤカの話を聞いていた人も、
今は真剣な表情になってアヤカを見ていた。
冬木教授は居住まいを直し、
深田エナも先程までの態度を潜め、真面目な顔つきになっていた。
ヨウコさん達もじっと話を聞いていた。
あの柏原教授でさえも。
店内は針が落ちても聞こえるほどに静まり返っていた。
フロアにいる全員がアヤカの次の言葉を待っていた。
「なぜ小泉ココロさんはそんなことをしたのか・・・なぜ犯人を庇ったのか。
まず犯人は彼女が知っていた人ということですね。
そして、その鍵は後日の友人との会話から推測できます。
池ノ上マイさんが襲われた4日後の月曜日、
彼女は友人に自分が留学に推薦されるかもと話していました」
「学内の留学推薦に?
まさか・・・彼女はまだそのレベルには達していなかった」
冬木教授が言った。
「そのようですね。
なのに、なぜ彼女は突然そんなことを言ったのか・・・不思議なことですね。
どこまで影響力があるかどうかわかりません、あなたでも少しは権限はあるんでしょうか。
それとも、その場限りの言い訳だったんでしょうか。
・・・上田エイトセンセイ」
アヤカの言葉が爆弾のように落ちた。
上田エイトは部屋中の注目を一気に集めた。
みんなの驚きの視線を一身に受けたにもかかわらず、
このハンサムな音楽講師は身じろぎもせず、憎たらしいほど余裕の笑みを浮かべていた。
「あなたなんでしょう?上田センセイ。
池ノ上マイさんを襲い、小泉ココロさんを殺害した犯人は」
上田は組んでいた腕をほどき、何人もの女性を魅了してきたであろう、
輝くような笑顔をアヤカに向けた。
「あなた、何か勘違いしてるんじゃないですか?
僕はただの講師です。
そんな教授や准教授達のように留学を推薦するような力はありませんよ」
「そうですね。確かにあなたにはそんな力はないかもしれません。
でも、自分にそのような力があるように見せかけることは出来るかもしれない。
あなたは女子生徒に人気があり、小泉ココロさんも密かにあなたを慕っていた。
だから、小泉ココロさんはあなたのフルネームを知っていた。そして庇ったんです」
「まあ、人気があるのはありがたいことですが、 僕はエナと真剣な付き合いをしてるんです。
あなたは・・・鈴井さんでしたっけ?
そのハンカチのイニシャルが僕と同じだけということで、僕を犯人にしようとしている。
まったく・・・いい迷惑だ」
そう言って深田エナの肩を抱き、引き寄せた。
この悪びれない余裕の態度。
これが人を一人殺めた人?
(私は・・・とんでもない勘違いをしているの?)
アヤカの胸に不安がよぎった。
素人の自分の推理なんてあっという間に一蹴されてしまうかも。
でも・・・考えに考え抜いた結論だ。
迷っちゃダメ!
アヤカは挫けそうな気持ちを抑えて次の言葉を言った。
「知ってましたか?上田センセイ。このハンカチには松ヤニが付いていたんです」
「松ヤニ?・・・それが何か?
僕はバイオリニストです。松ヤニは毎日使いますよ。
それはエナのハンカチなんでしょう?じゃあ、ハンカチを借りたときに付いたのかもしれないな」
上田センセイは笑って受け流した。
「それだとちょっとおかしいことになるんですよ・・・上田センセイ。
知っていました?
深田エナさんによれば、このハンカチを卸したのはこの店でアフタヌーンティーを催した日の木曜日、
つまり池ノ上マイさんが襲われた日なんです。
朝、家を出てから、池ノ上マイさんが襲われた4時半頃までに、
あなたがこのハンカチに触れる機会があったということですか?・・・深田さん」
「・・・何ですか」
彼女の表情は暗かった。
「この間お話した時、一度もハンカチは使う機会はなかったとハッキリおっしゃいましたよね?」
「・・・そうです。バッグから一度も出さなかった」
「あなたの言うとおりです。
こちらの刑事さんから伺ったところ、このハンカチは一度も水を吸い込んだり、
手を拭いたりした形跡が無く、全くの新品でした。
あなたがあの日、バッグから離れた時はありましたか?」
アヤカが言うと、深田エナは眉をひそめた
「あの日は・・・1限目の講義を受けて・・・そのときバッグは机の横に掛けていた。
そのあと教授の個人レッスンを受けて・・・レッスンの間中部屋を出なかったわ。
すぐ近くにバッグを置いてあったから、盗まれる機会はないはず。
それから、校門で3人で待ち合わせしてこの店に来た。
店を出たあとは、駅ビルで買い物をしてて、ずっと手を離さなかった・・・」
「ここで深田さん、思い出して頂きたいんですが、
あなたはアフタヌーンティーの最中、お化粧室に立ちましたよね。
それは店のスタッフの妹が見ています。
その時、あなたはバッグを席に置いたままだったんではありませんか?」
「・・・そうよ!
トイレに行く時化粧ポーチは持っていったけど、バッグは椅子に置いたまま・・・あっ!」
深田エナが口を押さえた。
アヤカは静かに語りかけた。
「気づきましたか?そう、あなたのバッグからハンカチを取るチャンスがあるとすれば、
それはこの店の中でしかないんです。
他の人があなたのバッグに触ろうとしたら、あなたかお友達の誰かが気づくでしょう。
盗めるのは同じテーブルにいたあなたの友人の3人だけなんです。
水野アイカさん、白井ユウコさん、そして・・・池ノ上マイさんの3人。
しかし、覚えていますか?
池ノ上マイさんはあなたの斜め前に座っていました。
テーブルの下から手を伸ばしてもテーブルの足が邪魔で届かないはずです。
残るは隣に座っていた水野アイカさんと、正面に座っていた白井ユウコさん。
この二人なら、深田さんのバッグからそっとハンカチを取ることは可能です。
しかも、バイオリニストの水野さんとチェリストの白井さんは松ヤニを使います。
しかし、2人とも池ノ上マイさんが襲われたときはアリバイがありました」
「そうよ、私にはちゃんとしたアリバイがあるわ!」
水野アイカが目を吊り上げた。
「私も・・・あります」
と白井ユウコも小さく呟いた。
「そうです。この2人にはアリバイがあります。
ただし、池ノ上さんを襲った実行犯じゃなくても、ハンカチを誰かに渡したという可能性が残ります。
・・・一之瀬さん、お願いします」
この展開を黙って傍観していた一ノ瀬刑事がアヤカの横にすっと並んだ。
「警察はここ数日、ある2人の人物をずっと調べていました。
家を出てから帰宅するまで、日中も夜間も刑事がずっとマークしていたんです。
そしてその2人の人物が、密かに人目を避けて会っていたのを確認しました。
それは上田エイトさん、そして・・・水野アイカさんです」




