第1章
【プロローグ】
誰にも見られていない。
激しく打ち続ける心臓を押さえながらそっと辺りを見渡した。
日が落ちかけた薄暗い庭にいるのは自分ひとりだけ。
アイツさえいなくなれば未来は開かれるはず。
かすかにピアノの旋律が聞こえてきた。
誰が弾いているのだろう。
耳を澄ましてみると、これは・・・ショパンの『葬送行進曲』?
・・・なんてこの場にふさわしい。
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「もう秋か・・・」
アヤカは独り言を言いながらベッドルームのクローゼットから
今日着る服を選んでいた。
アヤカのクローゼットの半分のほとんどはスーツが占めている。
以前出版社に勤めていたときの名残だ。
もう半年以上も前に辞めたのだからそろそろ片付けなくてはならない。
(と言っても忙しくてそんな暇ないのよね・・・)
はい、これは言い訳です。
ただ面倒くさいだけ。
今の仕事になってから増えたワードローブはジーンズとTシャツ。
もう高いヒール靴もいらないわね。
アヤカは少し迷ってグレーのワッフル素材のカットソーとカーキのベイカーパンツを取り出した。
これだけだと地味なので、パールの揺れるイヤリングを付ける。
髪は低い位置でポニーテールにまとめた。
これでよし!
鏡の前でくるりと一回りして満足した。
鈴井アヤカは花の独身(死後!)35才。
都内から川をひとつ越えた益戸という近年人口増加が著しいベッドタウンに住み、
『カフェ・ヴェルデ』というカフェのオーナーだ。
今日は10月3週目の金曜日。
チラっと部屋の掛け時計を見るともう8時過ぎ。
そろそろ行かないと。
ソファに置いてあった雑貨店で買ったキャンバス地のボーダーのトートバッグと
黒のロングカーディガンを持ち、
グレーのスエード素材のバレエシューズを引っ掛け、急いで部屋を出る。
おっと、忘れた!
慌てて半分だけ部屋に体を入れ、玄関の靴箱に放っておいた車のキーを急いで取り、
鍵を閉める。
そして指差し確認!
急いでアパートの3階から階段を駆け下りていった。
車に乗り込み、窓を半分だけ開けてからスタートさせる。
運転しながらいつも同じチャンネルに合わせてあるラジオをつけた。
アヤカの大好きなボサ・ノヴァだ。
ゆっくりしたテンポと少しノスタルジーな雰囲気が好きだ。
店内でも会話の邪魔にならない程度にボサ・ノヴァのナンバーを流している。
アヤカの住むアパートから益戸までは川沿いの道を走っていく。
窓から入り込む風が気持ちいい。
夏より空も高くなり、雲ひとつない薄い水色の爽やかな秋空だ。
軽くリズムを取りながら15分ほど車を走らせると、ほら、見えてきた。
白い壁、緑色の屋根、そして季節ごとに表情を変えるイングリッシュガーデンを持つ、
私の『カフェ・ヴェルデ』
いつも通りに裏庭のスタッフ専用の駐車場に愛車を入れた。
すでに駐車場には黒い大型バイクが停まっていた。
アヤカは車から降りるとぐるりと庭を見渡した。
何も変わったことはない、よし!
もう癖になってしまったアヤカの習慣だ。
裏口までの短い小道を歩き、ドアをノックしてから開けた。
「おはよう、ミナ!」
「おはよう、アヤカ」
大きな鉄板を持ちながらシェフコートに身を包んだ我がカフェ・ヴェルデが誇る名パティシエ、
平原ミナが微かに笑顔を見せた。
鉄板の上には焼きあがったばかりのスコーンが乗っている。
「イイ匂いね。今日は何?」
アヤカはスコーンに顔を近づけてその芳しい匂いを吸い込んだ。
「今日はカボチャのスコーンとミルクティスコーンよ」
ミナは日替わりで毎日スコーンを焼いている。
1日中コンスタントに売れる大人気の焼き菓子で、
アヤカも今日はなんだろうと楽しみにしている。
「もうすっかり秋のスウィーツね」
「そうね。秋は素材が豊富だからやりがいがあるわ。
今日は金曜日だからたくさん焼かなくちゃね」
金曜日と土曜日はカフェ・ヴェルデにとって稼ぎ時になる。
週末用にテイクアウトで購入されるお客様が多いからだ。
「こっちは何か手伝う?」
「ううん、大体終わっちゃったから。あ、もう来てるわよ」
「おはよう、姉さん!」
元気な声とともにカフェフロアから厨房に飛び込んできたのは妹の神宮寺チカだった。
今日もきっちりとお化粧をし、30才のママで、若さと生命力に溢れている。
明るい茶色い髪を無造作にまとめているのに、とても洒落て見える。
「おはよ、チカ。今日も早いわね」
チカはカフェの制服を着ていた。
といっても決まった制服は緑色のギャルソンエプソンだけ。
その他は某ファストファッションで買ったものを制服としてアヤカとチカは着ている。
秋になったので、白の七分袖のカットソーと黒のクロップパンツ。
そして足元は動きやすい黒のバレエシューズ。
これだと地味だというチカの抗議で首にはネイビーの小さいバンダナを巻いている。
これが最新のカフェ・ヴェルデのスタッフファッションだった。
「チカちゃん、今日も早めに来てくれて厨房を手伝ってくれたのよ」
ミナが冷ますためにラックにスコーンを移しながら言った。
「えへ、だって早く覚えたいんだもん」
チカが照れながら手に持っていたテーブル拭き用のダスターを洗っている。
最近のチカは早めに出勤することが多い。
ウェイトレスとして働きはじめたチカだが、
接客や販売作業だけにとどまらず、
そのうち興味を覚えたのか、アヤカからはラテ・アートを、
ミナからは焼き菓子の作り方を積極的に習い始めた。
今ではラテ・アートで、ハートや葉っぱ、熊なども描けるようになっていた。
「アンがココアに熊さんを作ると喜ぶのよ」
チカが嬉しそうに言った。
アンはチカの一人娘で、アヤカにとっては姪にあたる。
成長するにつれ、チカにますます似てきていた。
可愛らしい顔立ちに、最近はツインテールにイチゴの髪飾りがお気に入りらしい。
しかも5歳ながらも独立心を持ち、
母であるチカが日中いなくても理解を示しているようだ。
チカの夫はわりと自由が効く仕事なので、
チカが早く出勤するときなどは幼稚園の送り迎えなどもしてくれている。
むしろそれを理由にアンと一緒にいられる時間が増えたことを喜んでいるようだ。
アヤカとチカの母のショウコも時々孫を幼稚園に迎えに行ったり、
ときどきはアンを連れてここに立ち寄る。
アンはご近所のカフェの常連さん達にも可愛がられていて、
店のマスコットのような存在になっていた。
アヤカは2階に上がり、”制服”に着替えてから、カフェフロアに降りてきた。
開け放された窓から外を見ると、秋の日の光を浴びて植物が輝いていた。
秋のイングリッシュカーデンは秋バラが何種類も咲き、華やかな香りに包まれている。
それにハーブの一種の『セージ』の水色の花、
薄紫色の小さなラッパような『アキチョウジ』も群生していた。
『ウィンターグリーン』と呼ばれる木は夏のあいだは白い花が咲き、
今は赤い小さな実をつけて、秋の庭に彩りを加えている。
アヤカの朝一番の仕事は、
ミナの焼き上げたお菓子の数々をカフェ・ヴェルデのホームページに載せることだった。
厨房から先ほど焼きあがったスコーン2種を窓近くのテーブルに置き、
デジカメで撮ったあと、パソコンで店のホームページにアップさせる。
『スパイシー・パンプキン・スコーン 秋の王様パンプキンにシナモンを加えた大人のスコーン』
『ミルクティー・スコーン ミルクティ風味に甘いアイシングをかけた紅茶にぴったりのスコーン』
っと、謳い文句はこれでいいかな。
その他の情報も更新し、ホームページの出来上がりに満足してから、
昨日買っておいたミニカボチャの飾りつけにかかった。
もうすぐハロウィンの時期。
アヤカ自身はハロウィンに縁も興味もなかったが、チカ曰く、
「今、アンの幼稚園でも衣装を作ったりしてるんだから。絶対やったほうがいいわよ」
そう言うので近所のなじみの花屋さんからミニカボチャを買っておいたのだ。
オレンジのミニカボチャに庭のウィンターグリーンの赤い実のついた木の枝と、
森で拾ってきた小さな松ぼっくりを一緒に小さな皿に飾った。
出来上がりにじっと目を注いだあと、
それだけじゃ寂しい気がしたので、カボチャに店のリボンをぐるりと一周巻いてみた。
これをいくつも作った。
「きゃー、可愛いじゃない、姉さん!」
チカが近寄ってきてひとつ取り上げて目線まで持っていく。
「うん、いいじゃない!秋とハロウィン感が出てて」
「そう?ありがと」
各テーブルに飾り終わり、店の時計を見上げるともう9時58分。
「そろそろ時間ね・・・みんな、準備はいい?」
厨房に向かってアヤカは大きな声を投げた。
「私はいつでも」
厨房の窓からミナが顔を出した。
「準備はオーケー!」
チカがこぶしを振り上げた。
「じゃあ・・・カフェ・ヴェルデ、本日の開店です!」
「いらっしゃいませ・・・本日はこちらのパンプキンスコーンがお勧めです」
「こちらの番号札をお持ちになってください」
開店時間とともにお客様が続々と来店した。
アヤカとチカはお客様の注文を受け、お会計をし、
注文されたものをトレーに用意してからテーブルに届ける。
朝のブランチにと、テイクアウトで買い求めにいらっしゃるお客様も。
ミナは厨房の立てこもり、次々と極上の焼き菓子を焼き上げていく。
今のところ、これがこのカフェ・ヴェルデのローテーションだった。
そうこうするうちに店内はお客様でいっぱいになった。
お客様は皆、珈琲や紅茶を飲みながら、
美味しい焼き菓子に舌鼓を打っている。
どの顔も笑顔にあふれているよう見えた。
アヤカはそれを見ながら幸福感に胸をふくらませた。
こういう瞬間、アヤカはこの店を開いたことに心から良かったと思うのだ。
安定した職を辞め、全財産を投じ、
不安ながらも出発したこの店はすでに益戸で人気店になっていた。
「姉さん、次、焼きあがったって!」
チカの声が飛んできた。
妄想から慌てて現実に戻り、カウンター後ろの厨房の窓から新しい焼き菓子を受け取る。
「フラワー・ポム・タルト・・・アップルタルトね」
ミナが顔を出す。
「わー!可愛いわね」
タルトの上に皮ごと煮た薄切りのリンゴが花のように円形に並べられていて、
リンゴの下にはカスタードが敷き詰められている。
ほんのりシナモンの香りもした。
アヤカはケーキドームにお菓子を収め、その前にカードを立てた。
『フラワー・ポム・タルト とろっとしたカスタードに甘酸っぱいリンゴがマッチ』
これでよし!
今日は本当に忙しい。
しかも今日はカフェ・ヴェルデにとって新しい試みをしようとしている日だった。
「アフタヌーンティーをやってみない?」
話は9月の半ば、いつもの朝のミーティングの時間に遡る。
「アフタヌーンティー?」
チカが聞き返す。
「そう。オープンしてからもう3ヶ月よね。
そろそろみんなこの店のローテーションに慣れてきたでしょ?
だから新しいことをやってみようと思うの」
アヤカが言った。
「でも新しいことって、こんなに忙しくてこれ以上、大丈夫かな?」
チカが心配そうな顔をする。
「2人とも、これを見てくれる?」
アヤカがテーブルにノートパソコンを乗せて、2人に見せるように向けた。
「6月のオープンから今までの売り上げとその時間帯なんだけど・・・
お客様一人当たりの単価は大体¥1,000くらいね。
そして見て・・・・この時間帯なんだけど、
この昼の1時から3時くらいまで売り上げが落ちているのがわかる?」
「これって、お昼ごはんあとってことよね」
チカが画面を指差しながら言う。
「そう。ちょうどお昼を食べ終わったあとで、
お茶が飲みたい3時くらいまでのデッドタイム。
この少し空いている時間にアフタヌーンティーをやろうと思うの」
「なるほど・・・」
ミナが頷いた。
「1時スタートにして、少し遅いランチも兼ねるような感じにしようと思うの。
まずは期間限定で、
どれくらいお客様が入るかわからないから予約制で。
この方法だったら、前もって必要人数分用意出来るでしょ?
ウチのような少数のスタッフでも対応できそう。
2人の意見はどう?」
アヤカは2人の顔を交互に見ながら言った。
オーナーとはいえ、自分一人の強硬な意見を通すつもりはなかった。
3人チームとして動いているのだから。
もちろん2人が反対であればやめるつもりだった。
最初に口を開いたのはチカ。
「私は賛成!やろうよ、面白そうだし。まだお試しでしょ?ミナちゃんはどう?」
チカがミナを促した。
「確かに・・・面白そうね」
ミナがにんまりと笑い、腕組みした。
「どういうアフタヌーンティーにするつもりなの?アヤカ」
待ってました!
「そうね、私が考えていたのはテーマがあるアフタヌーンティー」
「テーマ?」
チカが首を傾げた。
「そう。たとえば今9月でしょう?
だったら『秋のアフタヌーンティー』というのはどう?
秋の素材を使ったお菓子を中心にするの。
時期によってクリスマスアフタヌーンティーとか、
バレンタインだったらチョコレートをメインにするとか・・・そういうこと」
「なるほど・・・」
ミナの目が煌きだした。
「もちろん、何を作るかはミナに任せるわ」
それがこのカフェ・ヴェルデにミナが入る条件だった。
ミナが好きなものを自由に作り、思う存分腕を奮う場所をアヤカが提供すること。
厨房のミナはいつも生き生きとしている。
あまり表情に出すことはないけれど、
いつも忙しく立ち回り、
心の中はお菓子に対する情熱でいつも燃えている。
最近は・・・ちょっと別の・・・恋らしきものに情熱が向けられているようだが。
本人が気づいているのかどうか。
ま、それはミナには言わないほうがいいようだ。
もともと美人なのに、ミナはあまり化粧をしていない。
ほぼすっぴんで、そこらへんのモデルに負けないくらいの美人なのに、
ミナはそれをちっとも生かそうとしない。
その気になれば男性の目に魅力的に映れるのに。
もったいないなあとアヤカは思っているのだが、本人がそれでいいのなら仕方ない。
「じゃあ、メニューは任せていい?どお、いつぐらいにする?」
「そうね・・・メニューを考えたり試作する時間が欲しいから・・・10月の真ん中ぐらいでどう?」
そんなに早く?
アヤカが考えていたよりも早い展開になりそうだ。
ミナは困難なことであればあるほど燃えるタイプだった。
「オッケー。じゃあ、すぐアフタヌーンティーの予告と予約の受付を始めるわね」
そして今日は、とうとう第一弾の『秋のアフタヌーンティー』の日。
とりあえず今日と明日、2日間の限定だ。
ホームページや店頭で宣伝を始めると、
常連さんやネットを見た人から予約や問い合わせが殺到した。
一人¥3,000というカフェ・ヴェルデで支払うには高額なものだったが、
あっという間に2日合わせて定員の40名になり、すぐ締め切りになった。
予約が取れなかったお客様からは、すでに次回のアフタヌーンティーのことを聞かれていた。
ミナは秋のアフタヌーンティーに向けてメニューを開発し、試作品も多数作成していた。
どれもこれも美味しいに決まっていたが、ミナに妥協は無かった。
アヤカとチカも準備に向けて動いていた。
アフタヌーンティーといえば、3段トレーに盛り付けられるのがポピュラーだ。
豪華な雰囲気を演出する欠かせない道具が、アフタヌーンティースタンド。
アヤカはネットで皿の取り外しができる折りたたみ式のゴールドの3段トレーを買い、
それとともにちょっと豪華なカップとソーサーも購入した。
カップ&ソーサーは奮発して『ノリタケ』のボーンチャイナ。
白地に水色の白の花柄の上品なセットだ。
チカもアヤカと相談しながら一緒にリネンのナプキンやカラトリーなどを選び、
アヤカからはアフタヌーンティーの基礎を学び、自分でも勉強していた。
お昼過ぎ頃からテーブルが空いてくると、
『リザーブ』の札を置いてテーブルを確保した。
午後1時近くになると、少しづつアフタヌーンティーを予約したお客様が集まってきた。
初日のお客様は18名。
多くは女性客だったが、夫婦らしき年配の男女、
ご近所の顔なじみの常連さんもいた。
どの顔も期待と興奮に満ち、皆少しお洒落な装いをしていた。
カジュアルな格好でももちろんいいのだが、こういう機会だ、
せっかくなら少しお洒落してお茶を頂くのもいいのかもしれない。
アヤカとミナは秋のアフタヌーンティーというテーマでテーブルセッティングした。
テーブルには金の刺繍をした白のテーブルランナーを敷き、
金の縁取りをした白い皿を並べ、オレンジのリボンで結んだ白のリネンのナプキンを置き、
その上に、お客様の名前を書いたカードを置いた。
テーブルの真ん中にはミニリンゴとカモミールで作ったミニブーケを飾り、
ナイフやスプーンなどのカラトリーは金色で統一した。
「わあ、素敵!」
「まあ豪華ね~!」
席に着いたお客様からはささやかな歓声があがる。
よし、出だしはいいみたい。
1時になったところで『秋のアフタヌーンティー』がスタートした。
まずは紅茶をサーブする。
紅茶は『マリアージュフレール』の『マルコポーロ』にした。
今回のアフタヌーンティーのために、
フランス老舗の紅茶店、マリアージュフレールから取り寄せた紅茶だ。
400種類以上のフレーバーを揃えたこの店で何にするか迷うと、
これを一番に勧められる。
フランスの紅茶といえば薄めに入れたものが多いが、
これは濃い目のベースにストロベリーやバニラなどの華やかな香りを立たせた紅茶だ。
オープニングを飾る紅茶として相応しいと選んだ。
「いい香り!」
あちこちで感想があがる。
このタイミングで、チカが一皿目を運んできた。
「海老と柿のカクテルサラダとポルチーニキッシュです」
海老と枝豆とオリーブ、そして柿をマリネしたもので、
カットグラスに綺麗に盛られている。
さっぱりした味わいの中で甘い柿がアクセントになっている。
そして秋に美味しいキノコのポルチーニとチーズを贅沢に使ったミニキッシュ。
今回のアフタヌーンティーでは、初めて料理のレシピを出している。
これもカフェ・ヴェルデでは初の試みとなり、ミナにとってもかなりの挑戦になる。
今のところ好評みたいなので、アヤカは安堵に胸をなでおろしていた。
そこに入り口のドアを開けるベルが鳴った。
「すいません、遅れちゃって!!」
4人の若い女性がバタバタと玄関から入ってきた。
「すいません、もう始まってますよね・・・まだ大丈夫ですか?」
先頭に立った黒髪の可愛らしい女性が心配そうに言う。
アヤカがカウンターに置いてあった座席表を見ると、あ、あった!
まだチェックされていない・・・・ええと、深田様、4名ね。
「深田様、4名様ですね。よくいらっしゃいました。
コースはまだ始まったばかりですので大丈夫ですよ・・・どうぞこちらに」
「ありがとうございます!」
4人の女性たちがホッと安心したような笑顔を見せた。
見ると、一番後ろにいる女性が・・・なんだろ?
楽器の・・・大きなケースを持っていた。
よく見ると、もう一人もバイオリンのケースを胸に抱えていた。
「あの、よろしければ、その・・・お荷物はこちらに」
アヤカが声を掛けた。
「あ、すいません。これ邪魔ですよね・・・ねえ、アイカも」
大きなケースを持っている女性が、バイオリンの女性を促した。
確かにバイオリンはまだしも、
その大きいのは他のお客様にもちょっと邪魔になる。
玄関を入って左にスペースがあるので、
アヤカはそこに柔らかいマットを敷き、場所を作った。
そして先頭に立って、4人をまだ1つだけ空いていたテーブルに案内した。
「良かった、間に合って。フユキ教授ってば話が長いんだもん」
「私、ここに来るの楽しみにしてたんだから!」
「マイが歩くの遅いから!」
「私よりチェロを持ってるユウコのほうが遅いじゃない!」
「しょうがないでしょ!」
4人は席に着くと安心したのか弾かれたように一斉に喋りだした。
(ふふ・・・きっと女子大生ね、私にもあんな頃もあったなぁ・・・)
「すぐ紅茶と一品目をご用意しますね」
「はーい!」
思わず4人ぴったり揃った返事に女子大生たちが顔を合わせて笑い、
アヤカも釣られて笑っていた。
「さつまいものソイポタージュです」
アヤカとチカの2人でスープを配った。
さつまいもを裏ごしし、豆乳で延ばしたまろやかなスープだ。
皿の横にはサツマイモをスライスしてカリカリに焼いたものが添えてある。
お好みでそのまま食べても、割って入れても美味しい。
そしてスープ皿が下げられ、
本日の主役、三段重ねのアフタヌーンティースタンドが登場した。
「わあ、すごい!」
「素敵!豪華ね!」
お客様から歓声があがり、小さな拍手が起こっているテーブルもあった。
アヤカとチカはそれを満足の目で見守った。
立ち上がって写真を撮っている人もいる。
最近はSNS投稿により、店やメニューの評判が広がったりするので
カフェ・ヴェルデの宣伝のためになってくれるかもしれない。
今回のアフタヌーンティースタンドは、秋がテーマ。
一番下の段にはサンドウィッチなどのパン系が4種類。
白パンはサーモンとキュウリとカマンベールチーズ、
ライ麦のパンにはカボチャサラダを挟んだサンドウィッチ、
薄切りにしたフランスパンにアンチョビのペーストを塗り、
酢漬けされたキャロット・ラペを乗せたオープンサンド。
それにミナ特製のミニシナモンロールもある。
中段には2種類のほんのり温かいスコーン。
バニラの香り高いシンプルなプレーンスコーンと、
酒浸けされたレーズンと胡桃が入ったスコーン。
これにスコーンによく合う『エシレ』のクロテッドクリームと、
お手製のアップルジャムが添えられた。
一番上の段はケーキやフィンガーデザートなどのスイーツ。
ミナお得意のタルトは、柿のタルトと洋梨のタルトの2種類が用意された。
カボチャのミニパイ、キャラメルプリン、ミニモンブラン、マスカットのチョコレートかけと、
これでもかとミナの傑作スイーツが乗せられた。
「ねえ、このカボチャサンド美味しいわ!」
「このモンブラン、ここで買えないのかしら・・・」
あちこちからため息と感想が上がっている。
お客様の感想に満足を噛みしめながら、
その間アヤカとチカは忙しく、お代わりのお茶を注ぎ続けた。
希望するお客様には珈琲も用意した。
アフタヌーンティーを召し上がっていないお客様からは、
あれは何?という質問や、
次回はいつやるのかという話もあった。
どうやら成功のようね!
ふとチカの目が合い、にっこりとうなずき合った。
あの遅れてきた女子大生4人組も楽しそうだ。
「・・・あのカルテットが決め手だったみたい」
「うん。優勝しちゃったもんね!」
「なんか音楽会社からCDデビューしないかって・・・」
「美人カルテットとかなんとかって・・・」
4人の会話に興味を覚えてついアヤカは話しかけてしまった。
「皆さん、音大生なんですか?」
一瞬、ピタッと会話が止まった。
が、さっきの先頭にいた黒髪の女性がややあって話し始めた。
「ええ。そこの聖マリア女子大学の音楽学部なんです、みんな」
他の3人が揃ってうなずく。
聖マリア女子大学は益戸駅近くにある大きな大学だ。
「そうなんですか・・・あの大きいケースはコントラバスとか・・なんですか?」
「いいえ、あれはチェロです。コントラバスはもっと大きいんですよ」
クスクス笑いながら明るい茶色の髪の女性が言った。
「私たち、4人でカルテットを組んでいるんです」
おっとりとした声で少しウェーブがかった黒髪をハーフアップにした女性。
「この間、大学の学園祭で優勝したので、今日はそのお祝いなんです。
それと、この・・・マイの留学のお祝いも。
こっちのエナが予約してくれたんです」
恥ずかしそうに肩をすくめたのはさきほどのハーフアップの女性。
この人がマイさんなんだろう。
ショートカットの女性に指差されたのは肩までの黒髪の女性、深田様だっけ・・・。
「そうなんですか、おめでとうございます!
じゃあ、お祝いに相応しいこちらを飲んでみませんか?」
アヤカが4人の前でポットを掲げた。
「え?」
「『シャンパーニュ・ロゼ』という名前の紅茶です。
シャンパンとストロベリーの華やかな香りでお祝いにピッタリなんですよ」
そういう言うと、アヤカは4人のカップに次々と注いでいく。
「うーん、甘酸っぱくて素敵な香り・・・」
「でもスッキリとして飲みやすい!」
女子大生たちの感想にアヤカは笑顔で答えた。
「どうぞ、ごゆっくり」
そう言ってアヤカはゆっくりとテーブルを離れた。
午後3時前。
そろそろアフタヌーンティーの魔法が溶ける時間だ。
最後にお土産に買おうとしているのか、
カウンターを見ながら購入しているお客様もいた。
コースの最後に〆の紅茶とミニクッキーを出し、小さな箱をテーブルに置いた。
「これ、何ですか?」
お客様が箱を指しながら聞いてきた。
「こちらは『レオニダス』のシャンパントリュフでございます。お土産としてお持ちください」
アヤカが説明した。
『レオニダス』はベルギー老舗のショコラティエだ。
ベルギーはいわずとしれたチョコレート大国だが、
レオニダスは庶民価格で高品質なチョコレートが買えるショコラティエだ。
アヤカもたまに自分のご褒美として買うことがある。
「わあ、お土産付きだなんて」
こういうちょっとしたプレゼントは喜ばれる。
お客様は次々と名残惜しそうにテーブルをあとにして帰っていった。
あの女子大生たちも。
「これから学校で自主練しなきゃ・・・」
おっとりとした声が聞こえてきた。
あれは・・・マイさん・・・だっけ。
「え、これから?部屋の予約取れたの?」
「うん、さっきスマホで予約した・・・」
漂っていたざわめきの声がだんだんと玄関のほうに消えていく。
華やかな祭りは終わり。
しかし、アヤカにはこのアフタヌーンティーはうまくいったという自信があった。
「アフタヌーンティーは大成功だったわよ」
そう厨房の窓からミナに告げるとにっこりと笑顔を返してきた。
「そう、やったわね」
「お菓子もそれにお料理もどれも好評!
ミナもフロアに出てくればよかったじゃない」
そうアヤカが言うとミナは少し照れ笑いしながら、また厨房に引っ込んだ。
ミナがフロアに出て挨拶すれば、賞賛の拍手の輪の真ん中に立ったことだろう。
あまり人前に出ることが好きでないミナ。
しかし、後姿は嬉しさが隠しきれないように弾んでいた。
一息つきたかったが、今日もまだ通常営業は続く。
ミナには2時から休憩を取ってもらったので、今度はチカに休憩に入ってもらう。
「チカ、休憩に行ってきていいわよ。疲れたでしょ?」
「ううん、ちっとも!姉さん、今日大成功だったわよね?なんか私まで楽しくて!」
チカも興奮を抑え切れないようだった。
「ええ、好評だったわね!でも今日もまだ普通の仕事はあるし、
明日もアフタヌーンティーがあるんだからね。ちゃんと休んでよ?」
「わかった。じゃあ・・・」
そう言ってチカが2階にあるオフィス兼休憩室に続く階段に向かおうとしたところ、
カランという音が鳴った。
振り向くとそこには千花大学園芸科の准教授、庄治マコトが立っていた。
「いらっしゃ・・・」
「先生、いらっしゃい!」
アヤカの声を掻き消すようにチカが小走りで准教授の前に進み出た。
「こんにちわ、チカさん。・・・鈴井さんも」
今日もいつもどおりの正装だった。
准教授ならではの。
青のつなぎの作業着の上に、お医者様用の白衣を着ていた。
足元はいつもだと長靴のはずだが、今日はアウトドア用の茶のブーツを履いていた。
「このあいだ頂いたチューリップの球根、アンと一緒にプランターに植えたんです」
「そうですか。なるべく外に出すようにしてくださいね。
寒さにあてないと逆にダメになってしまうんです」
「アンが毎日水をあげるって聞かなくて・・・」
「はは。土が乾いたときだけでいいんですけどね・・・」
2人の間だけで話が弾んでいて、アヤカは口を挟む余地がなかった。
准教授はチカのことは名前で呼ぶが、アヤカのことは『鈴井さん』と呼ぶ。
それは最初出会ったのがアヤカのほうだったので、
チカを『鈴井さんの妹』と呼ぶわけにはいかなかったからだろう。
今更変更するわけにはいかないけど・・・なんだかチカのことが羨ましいアヤカであった。
「じゃあ、そろそろ庭を見てきます」
「はい。姉さん、あとお願いね」
「え!うん。・・じゃあ准教授、お願いします」
急に話しかけられてアヤカは物思いから我に返った。
チカは階段を上って行き、准教授は玄関から出て行った。
カフェ・ヴェルデのイングリッシュガーデンは玄関から左にぐるっと回ったところから入る。
大きな窓の外に准教授の姿が現れた。
イングリッシュガーデンはこのカフェの自慢だ。
庄治准教授率いる千花大学園芸科の生徒たちが作ってくれた庭だ。
研究のためということで、一部を准教授のために貸している。
そのため、時々ふらりと立ち寄り、ついでに庭全体を見てくれている。
しばらくすると、准教授がまた玄関から入ってきた。
「終わりました・・・ずいぶんとバラが盛んですね。
ですが、ちょっと咲きすぎていたので間引いておきました。
花は選り分けときましたから、良かったら使ってください」
「お疲れ様です。どうぞ、こちらに・・・」
アヤカが空いたテーブルに案内する。
そしてトレーにスタッフ用の珈琲サーバーからマグカップに珈琲を注ぎ、
柿のタルトを皿に乗せて戻ってきた。
アフタヌーンティー用にミナが多めに作っておいたのだ。
「どうぞ。今日のアフタヌーンティーで出した柿のタルトです」
「ああ、前におっしゃってたアフタヌーンティー、今日だったんですね。
秋元さんも来たがってたんですけどね・・・頂きます」
准教授はタルトを手にとり、大きくガブリと一口食べた。
秋元さんとは、庄治准教授の研究室の長、柏原教授の秘書をしている50代くらいの女性で、
カフェ・ヴェルデにもたまにふらっと寄ってくれる。
とても上品な物腰の人で、なぜかミナと仲がいい。
「いかがです?」
「うーん・・・」
うめきながらもう一口食べ、珈琲を飲んだ。
准教授は見かけによらず、甘党というかスイーツ好きなのだ。
「最高ですね!こんな柿のタルトなんて食べたこと無かったけど、美味しいです!
柿がとろっとしていて、きな粉の風味が感じられます。
和風のタルトって感じですね」
准教授から笑顔で見つめられ、アヤカは耳まで熱くなるのを感じた。
「これ、アフタヌーンティー用のなんですか?お店でも出したらいいのに」
残りを口に入れながら、准教授が言った。
「よければ、お持ちになります?まだ・・・8個くらいありますので、
秋元さんや柏原教授にも差し上げてください」
「え、まだあるんですか?ありがとうございます。
あ・・・もちろんお代は払わせて頂きますから」
「いいんです。いつも庭を見て頂いているので・・・」
「ほら、ダメですよ、鈴井さん。前にヨウコさんに言われたでしょう?
あなたは店のオーナーなんだから、もっと商売にしっかりと精を出さないとって」
准教授が笑いながら言う。
ヨウコさんはこのカフェ・ヴェルデのお隣さんだ。
「そうですね・・・じゃあ千円で」
「平原さんに怒られますよ、安すぎるって」
愉快そうに笑う准教授の視線が合って、アヤカも思わず一緒に笑ってしまった。
間もなく閉店時間の6時になる。
チカはとっくに帰り、お客様もあと数人だけ。
テイクアウト用に買い求めるお客様の波も一息ついた。
いつも通りの心地よい疲れをアヤカは感じていた。
あともう少し。
初の試みとして、秋をテーマにしたアフタヌーンティーは大成功だった。
今日と明日の2日間限定だったが、また来月初めにでもやってみようかしら。
今回出せなかったミナの傑作スイーツはまだまだあるし。
この感じだったら他のテーマでやっても予約が殺到しそう。
クリスマスをテーマにしたら・・・。
伝統のシュトーレンやミニブッシュドノエルなんかもいいかもしれない。
アヤカが沸々(ふつふつ)と思考を重ねていると、玄関ドアが開いた。
「いらっ・・・」
「今晩わ」
「久保さん?こんな時間に珍しいですね・・・」
颯爽と店に入ってきたのは、益戸署捜査課の久保刑事だった。
アヤカが抱く刑事のイメージ・・・よれよれのスーツに
汚れた革靴を履いている・・・とは違い、
クリーニングに出したようなピシッとしたスーツを着こなし、
家では台所にも立ち、家事をこなすことも好きなんだそうだ。
ちなみに独身らしい(納得)。
久保刑事とは、6月に起こったある事件がキッカケで知り合った。
上司の一之瀬刑事はあの事件以来会っていないが、
紅茶党の彼は、その後も時々店に寄っては、紅茶と焼き菓子を食す。
そしてどうやら・・・。
「い、いらっしゃいませ、久保さん・・・」
声を聞きつけたミナが急いで厨房から出てきた。
「平原さんも・・・こんばんわ」
いつもなら爽やかな笑顔を浮かべてこの店を訪れる久保刑事がの表情が、今日は硬い。
「すいません、ちょっと・・・いいですか?」
アヤカとミナ、2人を前に久保刑事が言った。
「?ええ・・・何を召し上がります?」
「いや、違うんです・・・話を聞きにきたんです・・・仕事で」
「実は、先ほど聖マリア女子大で、女生徒が意識不明で発見されました」
そう言うと久保刑事は紅茶を一口飲んだ。
すでにカフェ・ヴェルデは閉店時間を過ぎていたので、
店内にいるのはアヤカ、ミナ、久保刑事の3人だけ。
この物騒な話をするのに、久保刑事は閉店時間まじかのタイミングを狙って来たらしい。
事件の一報が益戸署に届いたのは今日の午後4時半過ぎ。
聖マリア女子大学は益戸駅近くにある学校だ。
音楽学部の防音室で女性が倒れているのが発見され、
学校が通報してきたらしい。
「防音室?」
アヤカが繰り返した。
「そうです。音が遮断されるように作られた小さな音楽室です。
大学構内におよそ20室くらいあるみたいですね。
各部屋にピアノが備え付けてあって、授業はもちろん、
部屋が空いていれば、自由に生徒は使えるみたいです」
ミナがカウンター上にあるフィナンシェを皿に移しながら、顔だけこちらを向いた。
「そこで発見されたってことですか?・・・でもなぜウチに?」
「それは・・・その女生徒が倒れていた部屋に彼女のバッグとともに、
こちらの紙袋があったからなんです」
「ウチの・・・ですか?」
ミナが4つほどフィナンシェを皿に乗せて席に戻ってきた。
「そうです。袋にはチョコレートが入った箱とスコーンが2つ入っていました。
なので、こちらに今日来ていたのではないかと思いまして。
まだ捜査は初動なので、女生徒の今日の足取り・・・行動をハッキリさせないといけないんです」
「ちなみにスコーンはどんなのでした?」
アヤカが顎に手を当てながら聞く。
「えっ、そうですね・・・あれはカボチャと・・・プレーンですかね」
アヤカとミナが顔を合わせてうなずいた。
「じゃあ、本日お買い求めになられたものです。
ウチのスコーンは日替わりなので・・・ホラこれです」
アヤカがエプロンポケットからスマホを取り出し、
カフェ・ヴェルデのホームページを久保刑事に見せた。
「・・・今日更新したものです。本日のオススメ、スパイシーパンプキンスコーンと、
ミルクティースコーン・・・ね?」
「ああ!そうです、同じものです。じゃあ、今日こちらに来たんですね。
でも・・・何時頃に来たかまではわからないですよね・・・」
「いえ、それが・・・わかるんです」
「え?」
「袋の中にチョコレートの箱が入っていたって言いましたよね?
それは今日行われた『秋のアフタヌーンティー』のお土産なんです」
「秋のアフタヌーンティー?
ああ・・・そういえば、先月くらいからカウンターの上にお知らせが置いてありましたね」
アヤカが頷く。
「そうです。アフタヌーンティーは今日午後1時から3時までで、
チョコレートは最後にお土産として配ったもので・・・・あ!」
「どうしたんです!?」
「じゃあ、あの音大生達の一人ってことなのかしら!」
「覚えてるんですか!?」
久保刑事が慌てて手帳を取り出し、ペンを構えた。
「はい。4人で来てました。えーと、予約したのは深田様、あと・・・アイカさん・・・ユウコさん、
それとマイさんだったかしら・・・」
「その人です!マイさんです。被害にあった女生徒は!」
久保刑事は思わずアヤカにペンを突きつけた。
「あの人が・・・・」
アヤカは必死にその姿を思い出そうとした。
黒髪で・・・あの4人の中では一番大人しそうな女の子だった。
「被害者は、池ノ上マイさん・・・21才、3年生です。
防音室のグランドピアノの傍で倒れた状態で発見されました。
頭に裂傷があり流血していました。
誰かともみ合った形跡があり、その際ピアノにぶつかったか、
あるいは故意に叩きつけられたのか。
ピアノにも血痕が大量に付着していました。
今、益戸西病院に運ばれて手当てを受けていますが、まだ意識は戻っていません」
「大学内に誰か・・その変質者とかが入り込んだとかですか?」
ミナが久保刑事のほうへフィナンシェの皿を滑らせた。
「今のところその線で進めています。
・・・ありがとうございます。
というのも、部屋に置いてあった池ノ上さんのバッグから財布が取られ、
現金が抜かれていました。
財布は庭に続く音楽学部棟の昇降口あたりから発見されたんです。
どうやら、犯人はそこから逃げた模様。
だから、できるだけ早く情報が欲しいんです」
久保刑事が手帳とペンを置き、フィナンシェを手に取った。
「目撃者はいるんですか?」
アヤカが聞いた。
「もぐ・・まだすべての生徒たちに話しを聞いたわけではありませんが、
今のところありません。
彼女の意識が戻れば詳しい話を聞けるんですがね・・・」
久保刑事はそう言って紅茶を手に取り、ゴクンと流し込んだ。
アヤカはあの4人組が座っていたテーブルに目を向けた。
数時間前まではあそこで楽しそうにお茶を楽しんでいた。
それから数時間あとにそんなことになるなんて・・・。
ひどい・・・お気の毒だわ。
確かそのマイさんて人は海外留学も決まっているって言ってたはず。
「ともかく・・・ありがとうございました。
こんなに早く有益な情報を頂けるとは思いませんでした。
これからすぐさっき伺った他の3人にも話を聞きにいってみます」
そう言って久保刑事は席を立ち、店を出ていった。
「意識が戻るといいわね・・・」
戸締りをしながらアヤカが言った。
「そうね」
ミナも心配そうな表情を浮かべていた。
翌日の朝、地元のローカルニュースでその事件が報じられていた。
しかし、アヤカはアフタヌーンティー2日目ということもあり忙しく、
事件のことは頭の片隅にあったものの、ミナと朝少し話しただけだった。
そしてその後は毎日の忙しさのなかで、アヤカもミナも事件のことは忘れてしまっていた。
再びそれを思い出したのは、4日後。
いや、思い出したというよりも、文字通り目の前に突きつけられた。
それは、美しい音楽を奏でる学び舎に起きた、2度目の悲劇の報せだった・・・・。