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010_初代王者イルグリム

「――うぇぉろろろろ!!」


 暗がりの人物は突然身を二つに折ったかと思うと、盛大な音を立てて胃の中のものをぶちまけた。


「やだ、イルじいさん!! 掃除したばっかだっていうのにやめてよね!?」

「う……仕方ないじゃろ。呼ばれたと思ったら延々待ちぼうけで飲んでいたんじゃ……ケコッ」


 イルじいさんと呼ばれた男が再び餌付いたところで、アストリアが持って駆け寄った洗面器が間に合った。


「だからって飲みすぎよ。ごめんなさい、ちょっとお水を一杯汲んでもらっていい?」


 何だかよくわからないままマリアは言われるままにグラスに水を汲んで、イルじいさんと呼ばれる男――洗面器を抱えた老人にグラスを渡した。


「これ……」

「おお、すまんの。カァーッ!!」


 グラスの水で口をすすいだかと思うと、老人独特の謎の気管支音を立て洗面器に水と痰を吐き出した。その様子を見てさすがのマリアも目をそむけた。


「モップを持ってくるからちょっとお願い」

「え、あ。ええ」


 ウェザリア地下闘技場の初代王者。イルグリム・グライストン。

 確かにマリアはそのように紹介されたはずだ。


 しかし今自分の目の前にいるのは、酒を飲みすぎて潰れた普通の老人だ。


「どういうことかわからないけど――《解毒/キュアーポイズン》」


 さすがにこの状況では話しなどできまい。仕方なく老人に解毒の魔法を施す。《解毒/キュアーポイズン》の使い方としてはかなり異端の使い方であるが、酒は身体の中の毒として扱われ、酩酊状態からすみやかに脱することができる。


「苦しいところはない?」

「……解毒の魔法。そうか、あんたがマリアか」


 イルグリム老人は楽になった身体にきょとんとしたが、すぐに合点がいったという顔でにっこりと微笑みを返した。

 老人を支えていたマリアはその笑みに、思っていたよりも若いのかもしれないと思ったが、とても元闘技場の王者とは思えないくらいその肉体は小さく、非力であるように思えた。


「あんたがウェザリアに来てくれたおかげで、ワシはずいぶん楽をさせてもらっているよ。解毒の魔法も含めてありがとうな」

「イルじいさんは引退してから、ずっと闘技場お抱えの接骨師なの」


 モップとバケツを手に戻ってきたアストリアが床を拭いながら紹介した。


「関節が外れたとか骨折したって奴はたいてい治してもらってるから、ワシは楽なもんだわい」

「そう? 仕事を奪ってしまって悪いなって思ったけど」

「いんや。ワシは歩合でなく給料制でな」


 すっかり具合がよくなったイルグリムは、背筋を伸ばして愛嬌たっぷりの笑顔だった。その様子を見ると、先程までの茹ですぎた野菜のようになっていた老人の姿とは違い、かくしゃくとした様子が伺えた。


「その礼といっては何じゃが、古馴染みのアストリアの頼みもある。骨の折り方ってのを教えてやろうと思っての」

「そう……でも、無理しないほうがいいわ」


 そういわれてみたものの、イルグリム老人の全身はスキだらけだった。

 とうていマリアが求める強さを引き上げてくれるとは思えなかった。


「高齢になると、些細な怪我が命取りになることもあるわ」

「なんじゃ。ワシに敬老精神を発揮してくれるのか?」


 老人の目がぎらりと光った気がした。


「はぅッ!!」

「きゃっ! ご、ごめんなさい!?」


 イルグリムはこれまでマリアが感じたこともない殺気を放った。ハムやガルーダの本気もかくやという圧力が、反射的にマリアの身体を動かし、老人の首筋に手刀を叩き込んだ。


 放たれた殺気とは不釣り合いなほど無抵抗に、マリアの手刀は老人の耳の裏を痛打し、その一撃はイルグリム老人の意識をたやすく刈り取った。

 

「マリアがこんなに慌てる様子も見られる目なんて、今日は珍しい日ね」


 手慣れた様子でモップをかけるアストリアは、楽しそうにバケツの水で汚物をすすぐのだった。

 



「ごめんなさい。イルグリムさんがその……殺気を放ったと思ったの」


 マリアの手刀を受けて昏倒したイルグリム老人を介抱して、マリアは素直に頭を下げて弁明する。あの殺気を放つ人物がマリアの手刀をかわせないまでも、一撃で意識を失うというのはあまりに意外だった。


「ええ、ええ。あんたは正しい」


 すでに打撲はマリアの回復魔法で治癒しており、先程の痴態に凝りもせず手酌で酒をあおる。


「手っ取り早くあんたの実力が知れた。この闘技場では中の上ということろか。混沌神の魔法を使えばベルガスかリキエルに勝てる、というところかの」


 一撃でのされた割に、イルグリム老人の言葉は的確であった。それはマリアの自己評価とも一致し、上級闘技者たちになんとか匹敵できる。というのは常々考えてはいたことだ。

 しかしである。


「失礼だけど、わたしごときに倒される人に教えを乞う気はないわ」


 いくぶん気分を害してマリアの語調はつっけんどんだ。自分に非があったからといって、それはそれ。これはこれと割り切るのがマリアという女の(さが)だ。あるものにはそれが好ましく、またあるものは受け入れがたい遠慮のなさであった。


「青いのう。そんな狭い視野をしているうちはベルガスにも勝てんわ」

「なんですって?」

「ちょっとマリア」


 腰を浮かせたマリアを制したのはアストリアの黒い腕だった。しかし、イルグリム老人は、よいよいと声をかけると席を立って数歩、マリアから遠のいた。


「冒険者にはわからんだろうが、職業としてこの地下闘技場に長くいた者にしか出せん味ってものがあるんじゃ」

「味で骨を折れるのかしら」


 アストリアに制されているものの、マリアは髪を逆立てんばかりの怒りをむき出しにして、自分を侮辱する老人を睨みつけた。売られた喧嘩は最大限買う。それがシンプルかつ、自由奔放に生きる混沌神の信徒、マリアだった。


「味がわからねば糞も味噌もわからんじゃろう」


 イルグリム老人はマリアからほど離れたところまで歩くと、くるりと向き直った。その間合いはたとえ剣を持っていたとしても一撃を加えるには遠い。


「あんた。そこそこの腕のようじゃが、どうだ。ワシを殴り倒してどう思った。ワシの強さがどんなものか教えてくれんか?」

「ゴブリン以下ね。まるっきりの素人」


 挑発的な言葉にマリアは即答した。確かに殺気を感じたものの、老人の身のこなしや打たれ弱さは冒険者たちのそれには遠く及ばない。いうなれば、一般人の域を出ないといっていい。


「それじゃあそのゴブリンが今からあんたを攻撃する。あんたは三分くらいでいい。その攻撃をみんな避ける。あんたは攻撃したら駄目。もしこのゴブリンの攻撃を避けられたら、ワシのいったことはすべて暴言だと謝ろう」

「いいわ」


 その展開にため息をついたのがアストリアだ。それでもカウンターから砂時計を取り出すと、手首を返して砂が落ちる面を置く。木と木が打ち合わされる軽い音が闘技場のバーに響き渡った。


「そら」


 殺気を感じたと思ったときには、老人の皺だらけの手がマリアの左頬に触れていた。


「な――!!」


 背筋に氷柱(つらら)をねじ込まれたような寒気に、マリアは飛び退いた。

 先程よりももっと遠い間合いに。すでに飛び道具でなくては一息に詰められないような位置へ。


「安心せい。今のは挨拶じゃ。触れただけじゃろ?」


 イルグリム老人の軽口とは裏腹に、マリアは言葉に詰まった。

 油断はしていなかった。勝負事で油断をするほどマリアは甘くない。

 どういうことだかは分からないが、今のがもし悪意ある攻撃だったとすれば、致命傷を免れないほど無防備な体制だったことはマリアにもわかった。


 マリアは腰に吊るしていた剣を外し、胸当てのバックルを外す。

 攻撃はしない。であれば戦士としての戦いではなく、盗賊としての身のこなしが必要だと判断したのだ。少しでも重たい装備を外して、回避にのみ専念する。

 攻撃をいっさい考えずに回避に専念すれば、ハムやガルーダたちの攻撃を見切ることもできる。


「ホッホ、様になっておる」


 身軽になったマリアはできるだけ身体をコンパクトに折りたたみ、足で軽いステップを踏んだ。攻撃を捨て、回避に特化した構えだった。


「現役のときならともかく、この距離を一歩じゃきついの……」


 大仰ともいえるくらい間合いを取ったマリアに、イルグリム老人はわずかに重心を移す。今度はその動きを見逃さなかった。


「――闇よ、覆え《暗闇/ダークネス》」


 マリアは左手の薬指にはめた指輪に意識を集めると、魔法語の呪文を唱えた。魔術師であれば誰でも使える初歩の魔法。《暗闇/ダークネス》の魔法だ。


「なんじゃ! 魔法語も使えるなんぞ聞いとらんぞ!?」


 マリアを中心として真なる闇が産まれた。さすがに予想外の行動で、イルグリムは呆気に取られた。


「謝ってもらうわよ」


 暗闇の中でマリアの声が聞こえた。これにはアストリアもイルグリムも呆れた。マリアは確かに攻撃はしない。だが、三分の間暗闇に紛れてやり過ごすつもりだ。


「冒険者っちゅうのはなんとこすっ辛い……」


 唖然とするイルグリム老人であったが、すぐに表情を引き締めて暗闇の空間にぬっと入り込んだ。そしてしばらくの沈黙のあと、闇の中から何かが盛大に転んだような音が響いた。


「今のはたまたまワシの足があんたの足を刈り飛ばしただけじゃが。どうじゃ? この暗闇じゃ自分がどう転んだかもわからんじゃろ?」


 そうはいっているが、アストリアは暗闇の中でも精霊の気配と、闇エルフの特殊な瞳はふたりの動きをおぼろげに捉えていた。イルグリム老人がまったく見事にマリアの出足を払ったのがわかった。


「光よ《光明/ライト》」


 マリアの魔法語が暗闇を中和した。


「精霊の動きでぼんやりと動きがわかる分、こっちが有利と思ったら……」


 マリアは魔法語も精霊魔法もごく初歩の初歩のみ扱うことができる。暗闇に紛れたあとは相手の体内にある精霊の動きを頼りに、イルグリム老人の動きを先回りと思っていたのだが、魔法に使う心の力のぶんだけ損をしたようなものだ。


「発想は感心じゃが、闘技場で観客に見えなくしてどうする」

「地下闘技場の王者だっていうのは本当だったのね」

「信じておらっんかったのか」

「どうして信じられるのよ」


 軽口を叩くが、マリアにはもう余裕がなかった。

 今の攻防で完全にイルグリム老人の間合いに入っていたのだ。先程のように、魔法で小細工するだけのスキはもうない。


 そうこうするうちに、砂時計はあと少しですべての砂を落としきろうしている。

 実質的にマリアはすでに二度攻撃をもらったようなものだが、意地にかけても次の攻撃を見切ろうと全神経を集中させた。一撃を避ければ、逃げることはできる。


「その顔はまた小ずるいことを考えとるな……」


 呆れたようにイルグリム老人が間合いを詰めた。詰められたぶんだけマリアも慎重に間合いを外す。


「闘技場の人間とはまた違うがの。どんなことをしても勝とうとする根性は認めてやろう」


 もはや呆れを通り越して感服した。という具合である。

 そして、何のてらいもなくイルグリム老人はすたすたとマリアに近づき、その自然さにマリアは懐への侵入を許した。


「ほれ、別に触れたからと攻撃が当たったことにしようとは思わん。行くぞ――」


 それこそ酒瓶でも掴むような無造作で、マリアの腕を掴みにかかった。

 当然その腕を払おうとする。そして老人の枯れた腕を払うべく触れたとき、もう一本の腕が蛇のように交差し、マリアの腕はあれよという間にねじられて不自然な方向に曲がりつつ、床に転がされた。

 

 ボグッ。

 

 マリアの肩の関節が外れる鈍い音がした。


 それと同時に、砂時計に残っていた最後の砂の一粒が落ちた。

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