バベルの塔と……望み 13
今までどんな窮地においても感じたことのない、寒気に似たなにかに背筋を撫でられている。
否定はしても、レンズには正体が解っていた。
それは恐れ。
カタナがゆっくりと歩みを進め、重なり倒れている2人の側に落ちている刀を拾い腰の鞘に納めた。
そのままレンズに向けて、走るでもなく構えもせず自然に歩いて行く。
拭えない恐れが、次の行動への思考を鈍らせる。
普段のレンズなら、刀を拾っている段階で攻めていた筈だ。
臆病者に勝利は掴めはしない。
そう己に喝を入れ、得意の戦術にすがり足に加速を命じ姿を消した。
立ち尽くすカタナの背後に回り、速度という威力を持たせた左拳を後頭部に叩きつける。
これが決まれば自分のペースに持って行けると信じた拳は、後ろに上げた手に止められた。
予想外による動揺が、連撃に繋ぐ筈だった足を引っ込められる。
カタナは見えていた訳ではなく、ずっと見てきたレンズの戦術のパターンから読んだ勘だった。
背後が駄目なら前からと思わせ、背後から攻めるが同じ結果が待っていた。
「見えているのですか、私の姿が」
「さあな。来いよ……」
ハッタリかどうかの見極めが、今のレンズには判断が付かない。
もっと焦ろと、カタナは怒りの炎に焼かれながら祈っていた。
どちらでも構わない、そう思いながら恐怖を振り払い真正面から拳を叩き込んだ。
やっと当たった拳はダメージを与えた気がしなかった。
口から血が垂れるのも、お構い無しにカタナは腕を掴もうとした。
するりと速度を上げて逃げられ、代わりに刀の束を握り締めた。
単発では意識を刈り取れないレンズに、連撃でなければ沈まないカタナ。
足を止めないレンズが次に選んだのは、最高速による連撃だった。
防がれはしても、捕まらなければ一方的に攻撃が可能となる。
壱が極らなくとも、矢継ぎ早の弐と参の矢が突き刺さる。
腕を上げ急所を守るように体を丸めるカタナに、2ダース分の連打を浴びせ締めに蹴り飛ばした。
壁際まで吹き飛んだカタナが咳をしながら体を起こした。
肩で息をしながら、手応えからのダメージを推測する。
「効いたぜ、だけど俺の勝ちだ」
まだ軽口を叩ける余力がと思ったレンズに、突然の異変が生じた。
左腕は肘から先が、左足は膝から下が重くなり黒に染まっていく。
「矛盾粧が1化、黒厚化粧ってんだよバカ野郎。散々、殴ったり蹴りやがって。次は俺の番だ」
黒に染められた箇所は徐々に重さと色を増していき、左腕は右手で支えなくてはならず、左足を置いている床に亀裂が入った。
レンズは気付けなかった、連撃の合間に挟まれる防御の度、少しずつ施される化粧に。
三盾の性質を他者に施す矛盾粧は、クックも使うことができ、レンズも当然のように知っていた。
だが、クックの施す力とは、比較にならない別物であった。
「こんな使い方があったとは。黒盾は重いのでしたね、打つ手が見当たりません」
「くっははは、無敵のレンズさまに誉めて戴いて光栄だな。お礼をしなきゃな。突っ立てろ、俺の気が済むまでな」
必死に打開策を思案するレンズの前に、カタナが立った。
左腕の重さにより、前屈みに差し出されている顔を平手で張った。
メガネと血が飛び床に落ちた。
ぼたぼたと白い床を汚すレンズの髪を掴み、力任せに顔を上向かせる。
「ゲットに詫びを入れろ」
「勝つまでは、出来ませんね」
解ったと目で伝え、持ったままの髪を下に向け膝にキスをさせた。
カラカラとレンズにだけ聞こえる音が口から響き、血と白い欠片を吐き出した。
悲鳴の1つも貰えないカタナが、耐えるように歯を食い縛った。
「とうしました、つきをどうそ」
呂律の怪しい催促に、急かすなよと答え、お望みの一撃を腹の真ん中にプレゼントした。
床スレスレに身を屈め、度を越えた丁寧なお辞儀をする。
レンズは決して、打たれ強い方ではない。
基本は攻撃を回避することが前提の能力であり、それを活かす為の身体だ。
一発ずつが炸裂弾さながらの、カタナの攻撃を受けるようには出来てはいない。
そもそも、耐えられる者がいるか探す方が難しい。
なかなか来ないおかわりを待つ間、揺れるカタナの足を見ていた。
「そろそろ気が変わったか? 詫びれば、すぐに終わらせてやるよ」
髪を引っ掴み顔を覗き込む。
目が合った瞬間、レンズの右足が揃った足をまとめて払い除け、カタナの身体が宙を舞った。
「せーのっ」
らしくない掛け声を連れて、左腕に貰った重さにお礼を足して顔に叩き付けた。
硬い物を砕く感触を味わい、口を抑え声にならない痛みを表現しようとするカタナの腰から、右手で刀を抜き放り投げた。
「くそっ、てめえ」
レンズを縛っていた黒い重さが消え、確かめる間もなくカタナは連撃に襲われた。
「貴女が消耗していて助かりました」
重りを付けられた時から、必死に考えていた。
なぜ、左腕と左足だけなのかと。
本来ならば、五体の全てを縛れていたのかもしれない。
単純に出来なかったのか、それとも体力が削られていたせいか。
クックと共にした検証から、手から離れた力を維持するのは難しく、レベルこそ違えど性質は変わらないと理解していた。
それらの分析を踏まえ、自分の攻撃による成果と、カタナの様子から後者と読んだ。
そして、付喪神が本体を身に付けていなければ、力を使えないことも承知の上で機会を待っていたのだった。
「正直、敗北を覚悟しました」
喋りながら蹴りを入れるレンズに、カタナは苦鳴しか返せるものがなかった。
「もう、いいでしょう。貴女は頑張りました。ゲットさまも責めはしないです。降参なさい」
足を止め、反応を待った。
「ひっ、ひっく……」
腫れに塞がれた眼に涙を溢し泣いていた。
「負けたくないよぉ……レンちゃん、勝たせてよぉ」
「なっ、なにを言って……」
戦いの最中に、涙を流し勝ちを懇願するなど、レンズの常識には有り得ないことだ。
常識外れの行動に、どうしていいか解らず視線が泳いだ。
待ってましたと、カタナが側にあった足首を掴みひっくり返した。
細い足首を持ったまま、体勢を入れ替え腹に自慢の尻を乗せ、馬乗りにレンズを見下ろした。
「覚えとけ、泣き落としって裏技だ」
叫びながら殴り続ける。
もう待ったりはしない、どんな反撃を受けるか怖かったから。
息の続く限りに殴り、レンズが動かなくなったのを見て、ようやく手を止められた。
「終わり……です……か?」
蚊の鳴くような小さな声に恐怖が甦った。
振り上げた拳に、レンズが笑った。
「カタナ、大好き」
血に塗れ歯も欠けているのに、とても綺麗でカタナは固まり縫い付けられた。
「ウソです」
腹筋だけで体を起こし、額を顎先にぶち込んだ。
完全に力の抜けた無防備な所に飛び込まれ、意識の大半を持って行かれた。
今度はレンズが上になり、カタナを見下ろした。
「私をどんな目で見てるか知りたくないですけど、貴女が言ってたんですよ。男を落とすには涙。女を殺すには笑顔と」
「ミスったわ……」
虚ろな意識を手繰り、使う武器を間違えたと認めた。
息も絶え絶えに、拳を振り上げ落とされる。
ぺたんと抜けた音を合図に、レンズがふらりと横に倒れた。
「動けません。そちらはどうですか?」
「ああ、ムリムリ」
「どうしましょうか。もう殴りたくありません」
「奇遇だな、俺もゴメンだわ」
そこで、2人は大声で笑い出した。
身体中が悲鳴の拍手を挙げて、咳と血も盛大にお揃いに。
「手加減ありがとな。普段のお前なら目に指突っ込んだりすんのによ」
「お互いさまですね。五体が丸ごと残ってますから」
どこまで本気だったのか、相手が死神で敵だったとしたら、どんな凄惨な結果だったのだろうか。
「なあ、もう一回さ、さっきの笑った顔を見せてくれよ。そしたら、俺の敗けでいいからよ」
「イヤです。裏技は、ここぞという時にしか使えないものですからね」
「ケチだな。勝たせてやるってのに」
「それより、ゲットさまに謝罪をしますから許して下さい。本当に怖かったです」
「あれな、ゲットが殴られたの見た時よ、頭の中が真っ白になってな」
「真っ白なら、まだマシです。私なんて、殴った瞬間に真っ暗になりましたよ」
2人とも天井を眺め、本音を語るのが楽しくて仕方なかった。
痛みも疲れも忘れ、心のままに口を動かし続ける。
「お前さ、俺のこと好きだろ。笑った時の告白はどさくさに紛れてガチだよな」
「どんな妄想を拗らせたのか知りませんけど、キライですね。貴女のような、浮気性の方なんて」
「どういう意味だよ、それ?」
「知ってるんですよ、私だけじゃなく、クックのお箸にも手を出そうとしてるの」
「は、いや、迷ったけど、やってないから。お前とゲットのだけだって」
「やっぱり。カマをかけてみました」
「ひっで。でもさ、クックも小さいのに頑張ってて可愛い……よな」
「そう……ですね。頑張り屋さんです……から」
旅をしてる時を思い出し、ずっと話していたかった。
永遠なんてあるはずもなく、瞼という幕が降りかけ終わりの時間が迫っていた。
「レンズ……好きだぜ」
「私は……ウソですが……キライです……」
「好きって……いえよ……」
「貴女には……かないませんね……」
最後に手を重ね合い、2人は一緒に目を閉じた。
「ちゃんと寝たかな?」
「たぶん。あーあ、ほんっとに、羨ましい」
少しの確認の間を見計らい、2つの影がむくりと体を起こした。