バベルの塔と……望み 11
レンズは先の戦いでの精神的なダメージから、心に陰りを落とす暗雲を未だ晴らせずにいた。
背で気を失っているクックも気がかりだ。
このままクックが目を醒まさずに闘いが始まれば、恐らくは危ない。
自分の疲労も限界に近く、少しでも回復を図ろうと殊更ゆっくりと階段を登った。
せめてクックが起きるまで階段には続いて欲しかったが、無情にも踊り場に辿り着いてしまった。
そっと背を確認し、ここまで来れたのもクックのおかげと自分を納得させ、礼を口に乗せメガネをかけ直した。
「必ずや勝利を……」
金色の扉に手をかけ開こうとしたが、押しても引いても動く気配は無かった。
なにか訳があると踏んだレンズの行動は早かった。
求めていた回復の時間に充てようと、すぐにクックを下ろし、その場に座り込んだ。
目を閉じ呼吸を整え、余計なことは考えず血の巡りに意識を集中させる。
死神たちとの連戦の日々を思い出し、こんな緊張感は久し振りだと肩から力が抜けた。
息が整い終えると、感情を隠さないざらついたバベルの声が降ってきた。
なにか想定外のことがあったようだ。
時間がなによりも欲しかったレンズにとって、これは幸運としか言えないトラブルであった。
「ううん、いつつ。あれ、おはよう」
クックが体を起こそうとして背中の痛みに顔をしかめながら目を覚ました。
「横になっていて下さい。休憩の時間が貰えました」
「ネロとは、どうなったの?」
「もちろん勝ちましたよ。クックのおかげです」
にっこり笑い大の字に体を床に預ける。
他に誰も居ないとはいえ、足を広げキュロットの隙間から下着が見え隠れしている。
はしたなく思い注意しようとしたが、疲労を考え楽な体勢を取っているだけだとレンズは堪えた。
「ね、次はさ、お兄ちゃんとカタナだよね。本気になれるかな……」
頭の中から追いやろうとしていたことを切り出され、沈黙しか返せなかった。
どれくらい静かな空気が流れただろうか。
静寂を守るように目を閉じていたレンズが口を開いた。
「カタナの望みを知っていますか」
「ううん、しらない。レンズは知ってるの?」
横になったままクックは首を振った。
「あの子の望みは、驚かないで聞いて下さいね」
知っているのにも関わらず、言葉を切らざるを得なかった。
自分も再度、驚かないように胸に手を置いた。
「ゲットさまの子供を授かることです」
「ええ、え、赤ちゃん、なんで」
驚くなと前置きがあったにも関わらず、がばっと勢いよく体を起こした。
「だ、ダメだよ。僕たち物だよ。付喪神だよ、人間さんじゃないんだよ。だってだって」
せわしなく視線の逃げ場を探し、お腹に手をあてる。
初めて聞いた時はレンズも全く同じ反応で安心した。
「驚きますよね。私には想像すら出来ません。だけど、あの子は本気でした。幸せそうに、少しも疑わず、なんの迷いもなく言っていました」
ゲットを探す旅の途中で、レンズは何度もカタナの話に驚かされることがあった。
自分には思いもよらないバカな絵空事。
それをカタナは、さも当然のようにレンズに語った。
まるで、自分が人間かのように……
「人間になりたいと思ったことはありますか」
先のことが気になりすぎて、なにも言えず小刻みに首を振った。
「憧れはしますよね。人の型を望んだのですから。でも、なりたいと思ったことはありません」
「うん。だって僕は物だもん」
「はい、私も同じです。持ち主に大切にされた物で在りたい。人の型を望んだのも、恩返しがしたかったからです」
これが普通の付喪神の在り方だ。
全てにおいて、持ち主への感謝と奉仕の気持ちが最優先となる。
それなのに、カタナは自分が愛されることを夢見て身体を作りあげ、付喪神としては有り得ない希で異端な思想を抱いていた。
「持ち主が望むのなら、どんな少数派性癖な要望にも応える自信があります。メガネに練乳をかけたいだとか、メガネをかけたままでアレとか……。むしろ、して欲しいです。でも、愛して欲しいとは口が裂けても言えません」
目を潤ませるレンズとお揃いにして、クックは下唇を噛んだ。
「僕も、スニーカーをクンクンして欲しいとか、ちゅーして欲しいとかは頑張れるけど、言えない愛してなんて」
「ふふっ、それが普通の付喪神です。悔しいですが、あの子が特別なんです。他にも沢山あるんですよ、びっくりするお話が。結婚したいとか、あ、これは形だけとはいえ式は挙げましたね。ムカついてきました」
悔しいとかムカつくと言いながら、ちっとも怒ってはいない。
いつもそうだ、カタナの話をする時は、レンズの口は滑りが良くなってしまう。
それこそ大好きなローションでも仕込んであるかのように。
「いいな。羨ましい」
「ですよね。あの子には勝てないなって思う時が多々ありますから」
そっちじゃないとクックは聞こえないように呟いた。
「それでです、そんな特別なカタナに勝つにはどうするか、ゲットさまも相当にやりにくいです」
「わかってる、僕なんでもする。ぜったいお願いを叶えたいの」
目を拭い両の拳を握り頷いた。
レンズは頷き返し、勝つ為に越えなければならない一線と作戦を口にした。
作戦の確認を終えたのを待っていたかのように、闘いの始まりを告げる気の抜けたバベルの声がこだました。
「行きましょう。勝ちますよ」
「ぜったい勝つよ」
覚悟と決意を新たに、気合いを入れ立ち上がった。
その拍子にレンズのスカートの裾から1枚の紙がゆらゆらと舞い落ちた。
手に取って見ると、あるメッセージとネロとコクの名が記されていた。
不思議がるクックに、それはとレンズはポケットから覗く紙を指差した。
いつの間にと考えても答えはなく、書かれている内容は同じで今度はノワールからであった。
「ズルいね。どうする?」
「気にする必要はありません。望みは自分の力で叶えるものです。それより、聞いてませんでしたが、クックの望みはなんですか?」
2枚の願いを託された紙を大事そうにポケットに仕舞い、クックは楽しそうに笑った。
「へへ、みんな一緒にね……。やっぱり、ないしょ」
「いいですよ、勝てば解りますからね」
最後にして辛い闘いになると決まっている筈なのに、互いに笑い合い一緒に扉に手をかけた。