バベルの塔と……望み 9
足取りも軽く階段を登るレンズとクックは、バベルのダルそうな声に足を止めさせられた。
錬金術天秤釣合をクリアしたのは自分たちだけと思い込んでいただけに、より一層の疲れが吹き出した。
「終わってなかったんだ。あと2回も闘わなきゃなんだね」
「私の他にも錬金術師がいたなんて。きっと、ゲットさまとカタナは残ってますね」
疲れよりもゲットたちと闘わなくて済んだという期待を裏切られた方が、何倍も精神的に効いている。
「あと2つ。レンズいける?」
「私はなんとでもなります。前向きに考えましょう。あと2つで確実に終わりと」
限界に近い疲労を隠せないクックと自身を励ましながら階段を登り、気力を奮い起たせ扉を開け放った。
扉の先に待っていたのは、銀色の髪と灰色の耳を風に遊ばせ片眼鏡に空を映しているネロだった。
背中には、大きなネズミ色の垂れ耳を生やしたコクが傷だらけで寝息を立てている。
この部屋には天井がなく、レンズの眼鏡にも青い空が映った。
慇懃に頭を下げるネロと挨拶を交わし、クックがその耳はなにと聞く。
「私はハリネズミさんみたいです。コクはゾウさんですよ。本質を表しているそうですが、クックさまはウサギさんですね。レンズさまは、なんでしょうか?」
「アライグマです。ワケは知りません」
「うんとね、メガネをジャブジャブ……いたたた」
クックのウサミミを引っ張り黙らせるやり取りを、ネロは楽しそうに見ていた。
3人の穏やかな空気を壊すのが目的な、棘を含んだバベルの声が流れ出した。
「ピンポンパンポーン。種目は痛苦倍増戦。付加条件は、苦鳴を禁じます。攻撃を受ける度に痛みは増してゆき、悲鳴を溢してしまうと敗けとなります。どうか狂おしい程の痛みを味わい下さい。あと、ネロさんは部屋を壊し過ぎです。今回は天井のない部屋に入れ替えました。次に壊したら酷い目に合わせてやるから」
悪意を全面に押し出したバベルのルール説明を聞き、あの人は絶対にエスだと全員が確信した。
クックが痛いの嫌だなと頭を掻き、レンズは天井がないのはネロのせいかと空を仰ぎ、原因となる攻撃方法を思案した。
「コクには手を出さないで頂けませんか。寝ていますし、起きていても闘う力は残ってはいませんから」
クックは有利になったと喜び承諾しようとしたが、裏があると読んだレンズが止めた。
なにが狙いだと探られる視線をネロは受け流した。
「難しく考えないで下さい。私がレンズさまと全力で戦える力を残せるように、ここまでコクは頑張ってくれました。ただ、休ませてあげたいのです」
妹を案じるネロの表情からは、疑う余地と材料が見つけられなかった。
嘘は言っていないと判断したレンズは、チャルナの別れ際の言葉を思い出した。
「私の最も強い娘」
今の状況を合わせれば、それはネロを指し示している。
それに加え、2対1でも勝てる自信があるに違いない。
ネロの提案は、力を使いきり弱点と成りかねないコクを狙わせないタメの作戦でもあった。
さらに、闘いに美学を持つレンズが受けてくれることも計算されていた。
「いいでしょう。コクへの攻撃は致しません。例え、弱点となる者を追いやる策だとしても。経験上、裏目に出る確率が高いですけどね」
「ご忠告ありがとうございます」
胸に手を置いて頭を下げ、背負っていたコクを部屋の隅に寝かせた。
「お姉ちゃん頑張るから。ありがと」
すぅすぅと眠るコクの頭を撫で、空を一瞥し向き直った。
「お待たせ致しました。始めましょうか」
律儀に待っていたレンズとクックを、音も気配もない光が天井から襲った。
レンズがクックの腕を掴み引き寄せかわした。
2人の居た位置の床が白煙を上げ抉られている。
全く反応が出来なかったクックは、なにが起こったのか解らなかった。
「流石です。避けられるのは、レンズさまくらいだと、我が師の言っていた通りですね」
前触れのない2射目の光をかわし、レンズはクックを背に移した。
そこから、次々と降り注がれる光の雨を紙一重で避け続ける。
「クック、白を。攻撃に転じます」
「えっと、いいや、白守下地」
捕まっているレンズの首に指を走らせ、一筋の白線を引いた。
クックの使う白盾は完璧ではないが、ダメージの半分は軽減を期待できる。
攻撃用の黒や赤ではなく防御の白を頼んだことから、レンズは全てを避けられないと言っていた。
的確に真上から狙ってくる光の凶器に対し、レンズは時去りを用いジグザグに走行しネロとの距離を詰めた。
攻撃の間合いまであと2歩の所で、右足がなにかに取られた。
ネロの能力である透地雷刃と意識したと同時に右足が爆発し、衝撃に体を持って行かれる。
横倒しに吹っ飛び、間髪入れずにクックが口を押さえ、レンズの体に覆い被さった。
そこに降り注いだ光が、クックを貫こうとして打ちのめす。
触れた光の熱と痛みは白盾を易々と貫き、悲鳴を上げそうになる口を必死に塞いだ。
レンズが立ち上がり、クックを抱え後ろに飛びネロを睨み付けた。
「透地雷刃に集光の役目をさせ、光学兵器としているのですね。そんな使い方があったとは知りませんでしたよ」
「ふふっ、流石です。この力は、貴女を倒すタメだけに磨きました。術名をレンズさまに因んで、透鏡光熱線と名付けました」
能力の仕組みを見抜かれたというのに、賞賛の辞を送った。
ネロの身に付けた力とは、透地雷刃に太陽の光を集め位相を揃え熱線を放つものだ。
これまでの闘いで、天井や壁を壊していたのはこのタメであった。
「我が師は仰いました。音よりも速く動くレンズさまを倒すならば、それ以上の速さをと。だから私は、光の速度を持つ力を求めました」
「その師とは誰でしょうか。1度、お会いしたいものですね」
冷静な口調とは裏腹に、自分を庇ったクックの状態を気にしていた。
「サガさまですよ。武闘会でお会いしてから、私にとても優しくして下さいます。なぜか、教えを受けている時は、腰や胸とかに触れるスキンシップが多いですけど」
すぐにサガの趣味を思い出し、レンズは言い知れない悪寒に身を震わせる。
クックが苦しそうに、2人は格好とか似てるからと呟いた。
「息は整いましたか、続きです」
背後から一条の光がクックを打ち、壁に叩き付けた。
レンズすらも反応が出来ない速度だった。
すぐに側に行きたかったが、それでは的にしかならず抑えた。
「クックさまも凄いですね。気は失っていますが、風穴が空くこともなく一切の悲鳴を漏らさないとは」
自らの攻撃の成果よりも、純粋に敵の防御力と忍耐力を称えた。
次はお前だとレンズを見ると、俯き口を動かしていた。
その絶望をしているかのような様から、ネロは勝利の訪れを意識した。
母へ捧げる名誉な勝ち方を思い、打倒するか屈服させるかの2択を考えた。
「仕方ないですね。2度とやりたくはなかったのですが……。まずは、クックの受けた痛みからお返しします」
殊更ゆっくりと右手で眼鏡を外し、沈んだ目をして口元へ置いた。
その刹那、ネロの背に衝撃が爆ぜた。
あまりのことに声すら出せず、血の混じる胃液を吐き出した。
「げはっ、なにを……」
「辛いです……」
互いに涙を流し痛みを耐えている。
ネロは肉体的な、レンズは心の痛みを。
もう1度、同じことをされれば危険だと透地雷刃をばら蒔き、熱線の照準を合わせる。
レンズは眼鏡の弦を口に咥え、両肩を抱いて泣いていた。
無防備に見えるレンズに、四方から熱線が襲いかかった。
そこにレンズの姿はなく、ネロまで一直線に爆発が連続した。
それは、ばら蒔かれた透地雷刃が起こしていた。
対応するのは間に合わないと踏み、歯を食い縛った。
さっきと同じ位置に拳がめり込んだ。
ネロは苦鳴は堪え、吐血だけに済ませた。
霞む視界の先でレンズが泣いている。
未だに相手の攻撃方法が解らず、恐怖に絡め取られていく。
込み上げる鉄の味を飲み欲し、掠れた声で聞いた。
「どうして、泣いているのでしょうか?」
不明な攻撃よりも、ネロにはその方が気になっていた。
形勢は逆転したにも関わらず、レンズの涙は止んではいない。
「私は……私はメガネです。なのに……」
「はい、それがどうなさいました?」
頼りなく肩を震わせ涙声で答えた。
「メガネは、色んな意味でかけるものです。なのに、今は……勝ちたいから咥えてます」
レンズを悲しみの海に沈めていたのは、自己否定だった。
時去の力を使う場合、メガネが落ちないように必ず右手を添えている。
本体を守る当然のことだが、全力を出せない枷でもあった。
右手も使えるのなら、四足獣の如く体を扱え何倍もの速度を出せる。
だが、それではメガネとしての誇りが失われ、存在理由を揺るがす疑問に苛まれ苦しむことと同義だ。
かけないメガネに、存在する価値はあるのかと……。
「主さまのメガネとしてより、目の前の勝利を優先させる私は、最低で悪い女です……」
「そんなことはありません。全てはゲットさまのタメですよね。羨ましいです、こんなにレンズさまに想われて」
まだこの人には勝てないと悟り、ネロは清々しい気持ちで決着を望んだ。
悔いだけは残さぬように、持てる力の全てを注ぎ全方位から熱線を放った。
結果はネロの溢した苦鳴が物語った。
殺すことも容易なはずなのに、手心を加えてくれたレンズに感謝しながら意識を手放した。
涙を拭き眼鏡をかけ、レンズは空を見上げた。
「ピンポンパンポン。自分を捨ててまで勝とうとするのはいいですね。付喪神としての痛みを楽しめました」
いつから居たのか、バベルが壁に寄りかかり手を叩いていた。
「貴女には、この痛みは解りませんよ」
「いいえ、よーく理解してますから。さ、あちらの扉へどうぞ」
それ以上は言葉を交わさず、倒れているネロをコクの側に寝かせた。
壁際で意識の戻っていないクックを背負い、大好きな人と最大の敵との最後の戦いへと続く扉に向けて足を進めた。