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第九夜 蠱毒な終末(こどく・な・しゅうまつ)

01|金曜閉局前、口角十度の呪い

週末は終末の予行練習だ、と私は思う。思うだけで言わないのは、調剤薬局の生命線が口角だからだ。角度十度、ここを保てば患者の不安は半減し、こちらの疲労は倍増する。効能は求められていない。副作用がなければ合格。薬局的に無害であること、それが私の正義で、私の逃げ道でもある。私はこの基準が嫌いではない。嫌いではないが、好きとも言っていない。好きと言った瞬間に効能が発現し、効能が発現した瞬間に副作用が生まれるからだ。

閉局十五分前、ラベルプリンタは正しい熱を持ち、レセコンは平熱、薬袋は白く乾燥、分包機は沈黙、冷蔵庫は低いうなりを保っている。雨は降っていないのに、いつも一枚だけ内側から湿る薬袋が混ざるのはなぜだろう。私の指は袋の内壁の水滴をなぞり、その冷たさが皮膚から骨に移るのを観察する。骨が冷えると、言葉は慎重になる。慎重になった言葉は、舌の上で錠剤化する。

〈薬理〉湿度、保冷剤の結露、紙質の毛細管現象。説明は可能だ。

〈倫理〉可能と納得は別の薬効でしょ。私は納得してない。

〈禁忌〉湿った袋は、口が開きやすい。

最後の囁きに、喉の筋肉がひとつ分、堅くなる。呼吸は相互作用し、息を呑めば心拍が上がり、上がった音が鼓膜を内側から叩き、叩かれると言葉が粉になる。粉を飲み込みながら、私は口角十度を続行した。

自動扉が息を吐き、処方箋が私の手に落ちた。氏名欄だけが滲んで読めない。住所も保険者番号も鮮明なのに、名前だけが、雨を飲んだ紙みたいにひらがなに溶ける。

〈薬理〉インクの個体差、プリンタローラの劣化、ハンコの余熱。

〈倫理〉名前だけ都合よく滲む確率って、宝くじ大当たりくらい薄いよ。

〈禁忌〉名は、呼ぶと効く。呼ばないなら、滲んでよい。

昼勤の先輩、鏑木さんが上着を肩にかけ、良い週末をと言って退勤する。私はうっかり良い終末をと言いそうになり、口角十度を再調整してお疲れさまでしたと返した。レセコンのキーは平熱、読み取りは通る。薬名は鮮明、用法は普通、併用注意は静観、禁忌記載はなし。禁忌は私の側にいる。バックヤードのアンバー瓶の森は白色灯で琥珀に光る。私は一本の空瓶を抜き、腹に白いラベルを貼る。油性ペンの熱で紙は一回だけ呼吸する。——名。見えないものは書けば見える。書けないから滲む。私は名とだけ記し、栓を閉める。小さな、骨の音がした。

〈薬理〉それは気のせい。瓶に骨はない。

〈倫理〉骨の音を知っている口ぶりが怖い。

〈禁忌〉蠱毒は、器の中で名を喰わせる。


02|虫売りとアンバー瓶、笑えない冗談

駅前の通りで、採集ケースを磨く老人が目に入る。季節外れの虫売り。都会で生き延びるために、小学生の夏休みをショーケースに並べたような人。老人は私の腰の名札を見て笑う。薬屋さん、虫のいない蠱毒なんて、どうします。虫は不潔です。滅菌できない、と私は即答する。じゃあ名は滅菌できますか、と老人は問う。私の返答は胸の中で行方不明になり、ラベルプリンタがピッと鳴って代わりに答える。自動扉が息を吸い、冷蔵庫が低く鳴き、バックヤードのアンバー瓶が微かに動く。

〈薬理〉震動。通行人の足音。スチールラックの固有振動数。

〈倫理〉だから動くんじゃない、今、動くな、なのよ。

〈禁忌〉栓は、閉じたほうが開く。

私は瓶を抱いて棚に戻す。抱かれた瓶は、わずかに温かい。温かさに理由があるうちは大丈夫。理由が不要に見えてきたら、そこからが私の領分だ。老人はケースを撫でながら、虫はね、入れておくと喰い合う、喰い合って最後に残った一匹が一番強い、そう言って笑う。私は頷き、でも私は虫を入れない、とだけ告げる。虫の代わりに入れるのは、名と薬と記録。名は呼べば効く。薬は飲めば効く。記録は読むと効く。効きすぎれば副作用が出る。副作用を嫌って効能を捨てるか、効能を信じて副作用を抱えるか。私はいつも両方を棚に並べておく。


03|相互作用の森で迷子になる準備

夜勤帯は静かで、静けさは危険だ。静けさは思考の粘度を上げ、思考が増粘すると現実が固まる。固まった現実は割れやすい。だから私は用法用量を唱える。いっかいいちじょう、いちにちいっかい、しゅうしんぜん。禁忌、重篤な心疾患のある患者。併用注意、CYP3A4阻害薬。警告、眠気を催すことがあるので自動車の運転は避けること。呪文は脳の表面を滑り、裏側で別の声が笑う。

〈薬理〉現代の呪術は添付文書である。

〈倫理〉それを言うと添付文書に怒られる。

〈禁忌〉呪術は、守らないと効く。

棚の最上段から瓶を降ろし、順に並べ替える。名の瓶。薬名の瓶。副作用の瓶。既往歴の瓶。瓶は増殖しない。ラベルが増殖する。ラベルは皮膚だ。瓶の皮膚が増えると、中身の温度が変わる。私は温度計では測らない。指先で測る。指先の精度は、十年ぶんの習慣で構築されている。

〈薬理〉指は温度計にならない。

〈倫理〉ならないで済むなら、誰も恋に落ちない。

〈禁忌〉最強はひとつでいい。

私は指で紙の端を弾き、音の高さで湿り気を推定する。乾いた紙は高く鳴り、湿った紙は低く鳴る。高低の差は、夜の体温の差だ。体温の差は、迷子の前兆だ。


04|湿る薬袋、濡れない夜

午前零時、外は晴れている。路面は乾き、風は止み、砂塵は眠る。なのに一枚だけ、内側から湿る薬袋が生まれる。袋の口を開くと、内壁に微かな水滴。指でなぞれば、薄い苦味の匂い。薬は苦い。苦いのに甘い。甘いのに渋い。渋いのに香る。香るのに消える。消えるのに残る。五味が互いに相互作用し、味覚のラベリングを混乱させる。

〈薬理〉保冷剤の汗。保持していた処方の揮発性成分。説明可能。

〈倫理〉でも湿るべきものが湿ったのと、湿るはずのないものが湿ったのは違う。

〈禁忌〉湿りは、寄り合う。

棚に戻す間もなく、別の袋が内側から湿る。湿りは伝播し、滲みは際限なく増える。私は袋の群れを前に、手を組む。祈るためではない。祈は、私の名字だ。狭間祈。境界に立って祈る、と書く。境界は湿る。祈りは湿る。湿りは相互作用する。

私は一枚の袋の口を指で弾き、乾いた音を聞き分ける。その音は、骨の音に似ていた。


05|無名の男、氏名の滲み

無名の男は、無表情で無症状のふりをして、無駄のない動線で入ってきた。処方箋の氏名欄は滲んで読めない。年齢欄は読める。保険者番号も読める。医師名は楷書。薬名は規格とともに端正に並ぶ。名だけが無い。

お名前のご確認だけ——と言いかけると、男は喉の奥で音を転がした。声帯は震えたのに、音が出ない。吸音材で覆われたみたいに、言葉の輪郭だけが見えた。

〈薬理〉失声症。喉頭痙攣。あるいは故意。

〈倫理〉故意にはラベルを貼れますか。

〈禁忌〉名は、呼ぶと効く。呼ばないなら、滲んでよい。

私は頷き、薬歴の余白に名とだけ書いた。余白は海で、文字は岸だ。岸をひとつ置けば、足をつけられる。置かないまま溺れるよりは、岸だけでも。アンバー瓶の蓋を開け、名の紙片を落とす。紙が瓶腹に触れる一瞬、骨の音がした。

〈薬理〉瓶に骨はない(二回目)。

〈倫理〉骨がないなら、骨が鳴るのは誰。

〈禁忌〉名は骨に近い。

男は会釈だけして去り、自動扉の吐息だけが残る。吐息は誰のものでもない。誰のものでもない呼吸は、世界のものだ。世界の呼吸は、夜になると静かになる。静かになると、私の呼吸が大きくなる。


06|ラベルの雨、栓は閉じたほうが開く

土曜。店内はゆっくりとラベルの雨に満たされる。ラベルプリンタの熱は小さな火事のようで、紙片が空中で焦げないのが不思議なくらいだ。私はラベルを貼り、剥がし、貼り替え、重ね、剥がした裏紙を丸め、捨て、拾い、捨て直す。貼ると世界は落ち着き、剥がすと世界は不安定になり、貼り替えると世界は続行する。

〈薬理〉ラベリングは記憶の外部化。ヒトはラベルの動物。

〈倫理〉ラベルが先に歩くと、人がついていく。疲れる。

〈禁忌〉栓は、閉じたほうが開く。

蠱毒は器の中で行う。虫を入れるのが古典。私は名と薬と既往を入れる。混ぜ合わせ、相互作用させ、最後に残ったひとつを採る。採るために、まず閉じる。閉じるために、強く押す。強く押した栓は、中から開く。私は棚の最奥、最も暗いマスに、空の瓶をひとつ置く。ラベルは白紙。今日中にひとつ、埋める予定がある。私自身だ。


07|冷蔵庫の夜鳴き、アンプルの呼吸

夜が深まるほど、バックヤードは胎内に似てくる。冷蔵庫のミシは骨の成長痛、断続的な圧縮音は羊水の循環、アンプルの薄い硝子は肺胞、そこに眠る溶液は眠気。私は鼻で冷気を吸い、口で温気を吐く。吐いた温気が瓶の肌で霜を解かし、解けた水がラベルの端を濡らし、濡れた端が光を吸う。

〈薬理〉擬人化は危険。正確さを失う。

〈倫理〉正確さだけで夜を越えられるなら、誰も比喩に頼らない。

〈禁忌〉夜は、擬人化しやすい。

私の指は習慣でアンプルカッターを探り、何も切らないまま戻る。切るのはまだ先。切るために、まず閉じる。閉じるために、強く押す。私は、私の名札を外し、白紙ラベルに貼る。私という薬剤の規格外が、瓶に入る準備をする。指の腹が自分の名の角を撫で、角はゆっくりと丸くなる。


08|ラベリングの儀、狭間祈の投函

土曜深夜、私は私の名札を剥がし、白紙ラベルに貼り替え、空の瓶に落とす。祈という字は、瓶の底で仄暗く光る。栓を閉める。骨の音。私は笑う。笑いは薬効を持たない。副作用は少しだけある。笑うと、背中が温かくなる。温かさに理由があるうちは大丈夫。理由が不要に見えてきたら、そこからが蠱毒の領分だ。

〈薬理〉自傷的行為。やめるなら今。

〈倫理〉それを自傷と呼べば止まるの?

〈禁忌〉最強はひとつでいい。

棚の内部で瓶がひとつ、内側から小さく跳ねた。外側から見えない拍動。私は息を合わせる。拍と拍のあいだに、自分の声を薄めて注ぐ。薄めた声は、瓶の内側で濃くなる。濃くなった声は、名に近づく。名は骨に近い。骨は鳴る。だから、瓶は鳴る。


09|日曜の朝、空白の権威

日曜の朝は、やさしい顔で残酷だ。朝一番の処方箋は医師名が消えている。氏名欄の滲みと同じ調子で、権威がひらがなに溶ける。印影だけが残り、誰のものでもあり得る楕円が紙を汚す。

〈薬理〉印字の異常。テストプリントを請求し、事務へ報告。

〈倫理〉権威の空白って言葉、使いたがってる自分がいる。

〈禁忌〉空白は、埋められるためにある。

私は空白を見つめ、ラベルの雨を見上げ、アンバー瓶の森を眺め、冷蔵庫の夜鳴きの名残りを聞く。私の入った瓶は、棚の最奥で中から温かい。温度計では測れない。指先で分かる。十年の習慣は、指先を器官に変える。器官で触れた温度は、脳の奥の静脈を温める。温まった静脈は、言葉より先に頷く。


10|終末の調合、最強の一種

日曜の夕方、私は選ぶ。瓶の群れからひとつを。蠱毒の結末は単純だ。最後に残った一種が、最強。選ばれるのではなく、残る。残るために、古典は喰い合う。私は違う。私は、私を残す。

〈薬理〉自己選択。危険な意思決定。

〈倫理〉危険と不可能は違う。

〈禁忌〉ようやく。

私は名の瓶、薬名の瓶、副作用の瓶、既往歴の瓶を、順番に並べる。並べ替えるたび、温度の地図が更新される。祈の瓶は、地図の中心で脈打つ小さな島。私はそこに指を置き、熱を読み、栓を開ける。閉じたほうが開く。強く閉じたものほど、良く開く。瓶の口から匂いが立つ。メントールが背骨を磨き、フェノールが舌の奥を痺れさせ、エタノールが現実の輪郭を丸くする。私は笑わない。笑うと薬効が薄まる。私は呼吸を調える。

〈薬理〉深呼吸。換気を。

〈倫理〉換気、換気、換気。

〈禁忌〉換気しても、名は残る。

私は瓶の縁を指で一周なぞり、音階のない音楽を聴く。無音の旋律は、脈に同期して強くなる。強くなった拍が、棚の奥行きを狭める。狭間であることを、私は思い出す。


11|終末の投薬、世界の収縮

私は瓶をひとつだけ開ける。音は小さい。骨の音。私はその音を、初めて好きだと思った。好きは危ない。好きは持続する。持続は作用を強める。作用が強まると、副作用も強まる。これが相互作用。私は相互作用を愛している。紙が揺れ、匂いが立ち、世界が静かに収縮する。収縮は、破壊ではない。集束だ。散っていた名が、瓶の口に集まり、祈という字の中へ、細い糸のように納まっていく。私は自分の名字が狭間であることを再確認する。境界を狭める。狭めると、両側が近づく。近づけば、混ざる。混ざれば、蠱毒は完成する。

〈薬理〉完成という語は避けよう。

〈倫理〉完成って便利な終わり方だからね。

〈禁忌〉終末は完成でよい。

私は瓶の中の自分を見つめる。見つめるという動詞を使ったが、正確には見えていない。見えていないのに見える。見えるのに触れない。触れないのに温かい。温かいのに冷たい。二重矛盾が同時に立つ。その瞬間だけ、私の三つの声が、同じ位置に並んだ。重なった声は、一瞬だけ、私を静かにする。静けさは、今夜に限って、危険ではなかった。


12|月曜の不在、転写としての在

月曜の朝、鍵は開いていた。開いているのに、荒れていない。冷蔵庫は静かで、アンプルは整列し、ラベルの雨は止んで、アンバー瓶の森は等間隔。鏑木さんは狭間さんと呼び、返事が来ないことに気づく。薬歴の隅に、薄い文字が転写されている。祈。薄いのに、すべてに。用法の欄、相互作用の欄、禁忌のハイライト、医師名の脇、氏名欄の滲みの上にさえ、薄い祈。

私は、いる。在は転写の形で。私は、いない。不在は肉体の形で。

〈薬理〉観測不能。だが記録あり。

〈倫理〉記録がある在と観測できない在、どちらが在?

〈禁忌〉在は、効くほうを在と呼ぶ。

棚の最奥、白紙のラベルが一枚だけ残っている。栓は、閉じたほうが開く、と手書き。誰の字か。鏑木さんは首を傾げ、白紙のラベルを瓶の腹に貼る。そこだけが、温かい。駅前の虫売りはケースを片付け、誰もいない空気に向かって言う。虫のいない蠱毒は、名が喰い合う。名が喰い合えば、名が残る。看板の朝の白は鳴らない。鳴らないのに、呼んでいる。

週末は終末の予行練習だ。私はもう言っていい。終末は、在の練習でもある、と。口角十度は今日も無害。効能は求められていない。副作用がなければ合格。私は、合格の形で、ここに残る。薄く、だが読める濃度で。


13|転写の視界、紙繊維の森を行く私

転写の私は、薄い。薄いのに切れない。切れないのに破れる。破れないのに剥がれる。紙繊維の森は、木々が逆立ちして地面から生え、インクの川が上から下へではなく、行間から行間へ流れている。私は行間で呼吸する。肺はないが、読点のあたりでひと休みし、句点の横で横たわる。ラベルの接着剤は蜜で、蜜は砂糖ではなくデータで、データは甘くない。甘くないのに、甘い記憶だけが舌に残る。

〈薬理〉視覚過敏。情報の密度が高い。

〈倫理〉密度が高いのはいいけど、余白がないのは窒息するよ。

〈禁忌〉余白は、効く。

私は余白を作る。作ると言っても、書かないだけだ。書かないことで、在を確保する。私は薄い祈として、薬歴の端から端へと身を滑らせ、患者の名の上を渡り、用量の下を潜り、禁忌のハイライトの縁を指でなぞる。指はないが、触れる感覚はある。触れるたび、世界が少しだけ濃くなる。濃くなるたび、私は少しだけ軽くなる。軽くなる私は、風に運ばれやすい。風は、誰のものでもない呼吸だ。


14|瓶の内戦、名と名の静かな戦場

瓶の内側では、名と名がぶつかり、擦れ、重なり、離れ、また寄り添う。喰い合いというより、混ざり合い。混ざり合いというより、映し合い。映った像が像を呼び、似ていないのに似ている顔だけが増える。私は調停者のつもりで、ただ見ている者で、見ているだけなのに混ざってしまう者だ。

〈薬理〉相互誘導。酵素誘導。代謝回路の書き換え。

〈倫理〉難しい言葉で怖さを薄めようとしているね。

〈禁忌〉怖さは、効く。

怖さは、効く。効くから弱くなる。弱くなるために怖くなる。私はこの堂々巡りを、瓶の内側の丸い壁に沿って歩きながら反芻する。丸い壁は天空で、床で、同時に喉の奥だ。喉の奥で、言葉が丸くなる。丸い言葉は、角に当たって跳ね返り、角のない場所に落ち着く。落ち着いた言葉は、祈という字の角をさらに丸くする。角が丸くなれば、ラベルの端も丸くなり、剥がれにくくなる。剥がれにくくなった私は、在の持続時間を延長できる。持続は作用を強め、副作用も強める。私はそれでも、持続を選ぶ。終末まで。


15|虫売りの正体、薬草師の影

日曜の昼、駅前を通りかかった鏡面の自動販売機に、虫売りの背中が二重写しになって映った。二重のうち片方は、若い。肩が真っ直ぐで、手の甲に薬草の染みがある。薬草師。私はラベルの内側から、その像へ触れようとして、触れられないままやめた。触れられないものに名前を与えるのは、私の悪癖だ。名は効く。効くから、遠ざけたい相手には付けないほうがいい。虫売りは振り返らないが、振り返らない横顔で言う。虫のいない蠱毒は、名が喰い合う。名が喰い合えば、名が残る。残った名は、祝詞にも呪詛にもなる。祝う相手がいなければ、呪う相手を探す。呪う相手がいなければ、自分を祝う。私は笑って、やめた。笑いは薬効を持たない。副作用は少しだけある。背中が温かくなる。温かさに理由があるうちは大丈夫。


16|鏡とラベル、私の不在の輪郭

調剤台のステンレスは、鏡のようで鏡ではない。像は歪み、光は散り、私の不在は輪郭だけを残す。輪郭だけの私は、輪郭線の太さで感情を表現する。太くなれば怒り、細くなれば不安、点線になれば迷い、実線に戻れば覚悟。覚悟は太さではなく、滑らかさで表すのだと、私は最近知った。滑らかな線で、瓶の縁をなぞる。縁は冷たく、冷たさで気持ちが落ち着く。落ち着いた私は、やっと思い出す。私は薬剤師だった。だった、に過去形の埃が積もる前に、私は栓を撫でる。栓は固く、固いものは、内側から開く。

〈薬理〉落ち着こう。脳内の比喩濃度が上がっている。

〈倫理〉濃度の単位、気持ちに付くの面白いね。

〈禁忌〉濃いと、効く。


17|配合変化、沈殿する恋愛、透明になる関係

配合変化という言葉が好きだ。混ぜれば透明になるもの。混ぜれば白濁するもの。混ぜれば沈殿するもの。混ぜなければ並んでいるだけのもの。私は私の人間関係を処方箋に置き換え、机上で混ぜる。仕事、友人、家族、そして恋愛。恋愛は沈殿しやすい。沈殿したものは、底に溜まっているだけで、無害と勘違いされる。底を叩けば舞い上がる。舞い上がれば視界を曇らせる。曇りは悪ではない。曇りがあると光が柔らかくなる。柔らかい光で、私は自分の名を読む。祈。祈る相手はいない。祈りは私に向かう。私に向かえば、終末に向かう。終末に向かえば、週末は意味を変える。金曜は前口上、土曜は仕込み、日曜は本番。私はその台本を、瓶の内側で書き直す。書き直すたび、インクは薄くなるのに、意味は濃くなる。


18|余白の終末、在の手触り

終末は音が小さい。小さい音ほど遠くまで届く。私は小さい音で在を確認する。指でラベルの角を弾けば、薄い高音。栓の縁を叩けば、乾いた低音。冷蔵庫の前で立ち止まれば、羊のような寝息。自動扉の前で目を閉じれば、肺のような潮騒。私は音を集めて在を編む。編んだ在は、薄くて丈夫だ。丈夫な薄さを身にまとい、私は口角十度の仮面を、内側から支える。仮面は無害。無害は合格。合格は、在の最小単位だ。私は在の最小単位として、ここに残る。薄く、だが読める濃度で。


19|観測される在、観測できない在

観測は暴力だと誰かが言った。誰かは私で、私ではない。鏑木さんの視線が、薬歴の隅を掃く。薄い祈が、視線の圧でわずかに歪む。歪んだ私は、笑ってみせる。笑いは見えない。見えない笑いは、在の証拠として不十分だ。けれど、在は証拠でできているわけではない。効き目でできている。鏑木さんは棚の最奥から一本の瓶を抜き、栓を確かめ、空のラベルを撫でる。そこだけが温かい。温かさは物理。私は物理の上で、意味を滑らせる。意味は滑りやすい。滑りやすいから、掴まえようとすると逃げる。逃げるものほど、近い。近いものほど、見えない。

〈薬理〉科学的態度を失わないように。観測と解釈を分ける。

〈倫理〉分けられないときに、人は物語るんだよ。

〈禁忌〉物語は、効く。

私は物語る。自分の在を、在るように語る。語ることで、在が増える。増えた在は、終末を先延ばしにする。終末が遅れれば、週末が伸びる。伸びた週末は、終末の練習時間だ。私は練習が好きだ。本番よりも、少しだけ自由だから。自由は怖い。怖いは効く。効くから、自由を薄めて飲む。薄めた自由は、在の味がする。


20|処方箋という予言書、私はサインする

処方箋は、予言書に似ている。名前、用量、用法、期間、併用注意、禁忌。未来が箇条書きにされ、守れば効いて、守らなければ効きすぎる。私は自分の処方箋を書きたくなる衝動を抑え、代わりに瓶の内側に指でサインをする。祈、と。サインは私の在を強め、強まった在は、他の名を侵食しない程度に輪郭を太らせる。輪郭が太ると、鏡の前で私の不在が見えやすくなる。不在が見えやすいと、他人に迷惑をかけにくくなる。私は他人に迷惑をかけない在を目指す。目指すという言葉は、未達の予告だ。未達であるうちは、つづく。つづくという言葉は、終わらない約束だ。終末の物語に、終わらない約束は似合わないかもしれない。それでも私は書く。終わりは、書かれていても、読まれるまで来ないから。

〈薬理〉自己処方は危険。第三者の査読を。

〈倫理〉査読って言葉を日常に持ち込むの、好き。

〈禁忌〉サインは、効く。

私は最後に、冷蔵庫の前で立ち止まる。扉の金属は私の輪郭を映し、輪郭だけが在の証拠になる。私は口角十度を、内側から支え直す。今日も無害。無害は合格。合格は、在の最小単位。最小単位が集まれば、組織になる。組織は、器になる。器があれば、蠱毒は続く。続くなら、私はまた週末に戻ってこれる。戻ってくるたび、少しずつ薄くなっていく。それでも読める濃度で、私はここにいる。


21|終曲、鳴らない鈴と在の輪

鳴らない鈴が、鳴らないまま揺れるとき、空気に波紋が立つ。波紋は音ではなく、気配の濃淡でできている。私はその濃淡を撫で、輪郭の太さを調整する。太くなれば、たしかに私はここにいる。細くなれば、たしかに私はどこにでもいる。どこにでもいる在は、どこにもいない不在と背中合わせだ。背中合わせの境界で、私は相互作用を待つ。風、光、匂い、視線、そして言葉。言葉が来れば、名が起きる。名が起きれば、効く。効けば、残る。残れば、終末に届く。終末に届けば、週末が再定義される。週末は、終わりの練習。終末は、在の練習。私は練習の反復でできている。反復は退屈に似ている。退屈は危険だ。危険は効く。効きすぎると、副作用が出る。副作用が出たなら、用量を減らし、間隔を空け、ラベルを書き換え、栓を閉め、また開ける。

〈薬理〉用法用量、守りましょう。

〈倫理〉守れない夜もあるから、優しくしましょう。

〈禁忌〉守らないと、効く。

私はアンバー瓶の群れの前で一歩引き、森を見渡す。森は動かない。動かないのに、息をする。息をするのに、音がない。音がないのに、伝わる。伝わるものだけが、ここに残る。私は残る。残るという意思を、薄いインクで繰り返し書き込み、紙を重ね、ラベルを増やし、増えた皮膚で瓶を守る。守られた瓶は、在の器だ。器が満ちれば、また終末が来る。終末が来れば、また週末が始まる。私はその往復を、名で結ぶ。結び目は小さく、ほどけやすく、ほどけるたびに強くなる。強くなるたびに、私は少しだけ弱くなる。弱さは効く。効くから、私は生き延びる。

私は最後に、処方箋の余白に小さく書く。祈、と。丸くなった角で。読める濃度で。


22|署名、そして投薬中止の指示

終末のページの最後に、私は署名する。狭間祈。丸くなった角は、他人を傷つけにくく、自分を守りにくい。守りにくさは、在の証拠だ。私は署名の下に、ひとつだけ指示を書く。必要に応じて投薬を中止し、医師の診断を仰ぐこと。医師は誰か。ここでは、私だ。私が私を診るとき、診断は祈りになる。祈りは効く。効くから、薄める。薄めた祈りを、コップに半分だけ注ぎ、口角十度で飲み下す。喉の奥で骨の音が鳴り、背中で冷蔵庫が応え、ラベルの角が一枚、また一枚、丸くなる。丸くなった角は、次の週末までの御守りだ。私は御守りを胸に入れ、鍵を持たずに扉を開ける。開いている。開いているのに、閉じている。閉じているのに、開いている。境界は今日もよく働く。狭間は、在の職場だ。


——終。薄く、だが読める濃度で在ること。

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