第八夜 牛丼異譚 -並葬《なみおさめ》~とある雑文へ捧げるオマージュ~
01|赤の由来(血か、夕焼けか、電飾か、それとも誰かの戒めか)
看板の赤は血の色だ――と、誰かが言った。誰だ。たぶん俺だ。言った覚えはないのに、覚えている感触だけが舌の上に残っている。砂を運ぶ西風は優しくない。優しくない風は、店の油膜を薄く剥いで、未明の冷気に晒す。ここは西部のど真ん中、地図の余白。町と呼ぶには心許なく、荒野と断じるにはネオンがしぶとい。このしぶとさがす▲家で、俺はその内側で十年、鍋とカウンターの番をしている。
十年という数字は重いが、日々は軽い。箸の重さ、丼の重さ、勘定の重さ。軽いものを積み上げるほど、重さは見えなくなる。見えなくなった重さは、ある夜にまとめて落ちる。怪談はだいたい、そこから始まる。
02|鍋は喋る(泡は言葉、湯気は息、ツユは記憶)
鍋は黙っている。けれど、泡が破裂するたびに、短い言葉が溢れる。「まだ」「足りない」「そこ」「やめろ」。俺の耳は十年かけて、その言葉に都合良く意味を与える術を覚えた。タレはこげ茶の湖、玉ねぎは半透明の月、牛肉は沈んだ星。浮力と重力が綱引きし、勝ったほうが旨い。勝つたびに出るアクを掬い、負けたほうの沈黙を飲む。スープの呼吸、一の型、ツユダク。鍋の境地はだいたい、祈りの境地に似ている。
「本日の実況です! 鍋、順調に水面下交渉!」
「解説です。交渉の余地はありません。鍋が正義、世界が従属」
俺の頭の中には実況と解説が住んでいる。雇用契約は結んでいないが、彼らは定時に働き、残業代は要求しない。ありがたい。ありがたいが、うるさい。
03|一枚板の楔(場違いの誇りは、場違いの怪異を呼ぶ)
店長の趣味はチークの一枚板。す▲家に一枚板。場違い? 場違い。だが、場違いは場違いを呼ぶ。今日も東海岸風のスーツ二人組がテーブル席で空瓶を増やしている。布地はテカり、語彙は薄く、声は無駄に太い。若さは万能薬であり劇薬。効き目が切れると、急に世界は荒くなる。
「いらっしゃいませー」
バイトの女の子、十八。語尾が長く伸びるのは緊張のせいだ。緊張は湿度だ。湿度が上がると紅生姜が映え、紅生姜が映えると怪異は嬉しがる(たぶん)。
04|「いつもの」の護符(儀式は店を守り、人を縛る)
スイングドアが鳴る。常連のカウボーイ――ジィさんが入ってくる。ヤニで黄ばんだ歯が笑うと、なぜか光って見える。
「おう」
「いつものな」
店長は重々しく頷く。ここがす▲家である最後の証拠は、その短いやり取りに凝縮されている。俺は鍋から肉と玉ねぎを救い、銀シャリに降らせ、タレで結び、紅を添える。ジィさんは箸を口に咥え、片手で割る。パチン。乾いた祈り。
彼の食事は儀式だ。儀式は店を守る。守るが、縛る。縛るからこそ、破られたときに世界が動く。俺は知っている。俺は十年で、嫌というほど、知ってしまった。
05|禁忌:箸置き(置いた瞬間、何かが始まる。だいたい悪いほうで)
破裂音みたいな「やめてください!」が店内を裂いた。テーブル席の二人がバイトに絡んでいる。
「ちょっとくらい酌したってさ」「いいだろ?」
ちょっとの幅は無限大。彼らの語彙は無限小。
俺がカウンターから身を乗り出した時、ジィさんが箸を置いた。――置いた。彼が。箸を。置いた。
儀式の破断は、世界の段替えだ。椅子が跳ねるより早く、鍋の湯気が一度だけ逆流した。無風なのに、のぼる湯気が沈む。沈んだ湯気の下から、冷気が顔を出す。
「ニィさんよ。そういうのは酒場でやれ。ここはす▲家だ」
「うるせえよ」「年寄りは引っ込んでろ」
テンプレの悪態。テンプレほど怪異は好む。回しやすいからだ。ジィさんの蹴り上げた椅子が膝に命中し、ひとりが座り込む。もうひとりが腰を引く。腰は真実だ。腰が引いたら、魂も引く。
そして――銃が抜かれる。音はない。抜く音のしない抜き方は、長い時間と数え切れない修羅場の褒賞だ。冷気は銃口の周りで輪を描き、空気の輪は目に見えない手で客の首を撫でた。
06授丼料(会計二万、端数は恐怖さ)
「いくらだ?」
背中のままの問い。俺は伝票を暗算する。十年の暗算は反射神経。
「一万五千ちょっと」
「二万置け。端数は授丼料だ」
授丼料。教訓は高いほど効く。若いほうが札を叩きつける。紙幣は音を出すために叩かれる。音で恐怖を追い出そうとするが、恐怖は無音を好む。無音の恐怖は残り、札だけが行く。
「覚えとけ。す▲家は並の店だ。入ったら迷わず並。食い始めたら箸は置くな。それが男だ」
「女でも」
と、俺の内なる解説が付け加える。
「男女平等の箸罰です」
07|戻らない砂(半径三十キロ禁足令)
二人はトボトボと去った。ドアの軋みが彼らの背中で鳴る。砂が足元で笑う。
「半径三十キロ以内に入るな」
目に見えない線が地面に引かれる。見えない線ほど、踏むと痛い。俺は知っている。後で知ることになる。
ジィさんは椅子に戻り、俺は丼を作り直して前に置く。さっきの箸置きはなかったことにしたい。儀式をやり直す。
「ありがとよ」
ワシワシと掻き込む音が戻ってくる。音は距離を作り、距離は安堵を作る。安堵は油膜のように鍋の表面を覆い――それがひとまずの終わり、のはずだった。
08|最初の怪(看板の赤が垂れる夜)
不意に、看板の赤が揺れた。風ではない。揺れ方が、滴の揺れだ。
ネオンの赤が、文字の輪郭から一筋、ガラスを伝い落ちる。雨? いや、雨は降っていない。乾いた砂が鳴っている。赤いものはガラスの内側を滑り、電飾の継ぎ目で止まって震えた。
赤は血か、夕焼けか、電飾か――あるいは、誰かの戒めか。
「実況です。看板、出血。止血の気配なし!」
「解説です。あれは象徴の出血です。物理的影響はないが、精神に効くタイプ」
効いた。俺の胃の下のほうがひやりとし、鍋の湯気が一拍、呼吸を忘れた。
09|二人の帰還(禁足令は破られるためにあるが、破った者はだいたい後悔する)
日付が変わる前。砂の向こうにヘッドライトが二つ、揺れて見えた。戻ってきた。禁足令は破られるためにある。しかし破る者は等しく後悔するように、この世界は設計されている。
スイングドア。入ってくる影は二つ――のはずなのに、床に落ちた影は三つあった。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「おかしい」
俺が呟く前に、バイトの女の子が「いらっしゃいませー」と言い、声の端がぶるりと震えた。
三つ目の影は、彼らの足元に遅れてついてきて、椅子に座らず、ただ、カウンターの下に潜り込んだ。椅子に座らない影は、だいたいろくでもない。
「すいませーん、並ふたつ。……三つで」
若いほうが、言い直した。言い直した通り、俺は三つ作った。
――三つ目は、空席の前に置いた。置いた途端、湯気が、ひとつだけ逆光を受けたみたいな影を作った。座っていないのに、誰かがいるような影。
「実況です。影、着席!」
「解説です。名前のない客は、影から座ります」
10紅生姜の蛆(視界の端にだけ現れる類のやつ)
紅生姜を載せようとして、トングの先で赤いものが蠢いた。気のせい? 視界の真ん中には居ない。けれど端にだけ、細い赤が、細長い生物のような粘度で身をくねらせた。
目を凝らせば逃げ、目を逸らせば戻る。
「気のせいです」
内なる解説が言う。
「気のせいならそれでいいが」
実況が言う。
紅を三つに盛り、三つ目の丼の紅だけ、縁から一筋だけ垂れた。垂れた紅は、紙ナプキンの上で、赤の字のように滲んだ。
その時、俺の足首の皮膚を、何かが艶めかしく撫でた。
鼠? いや、鼠は乾いている。これはぬるい。ぬるい赤が、足首からふくらはぎへ舌のように這い上がる。俺は無意識に、カウンターの下を蹴った。蹴った感触はなかった。ただ、紅の匂いが一気に強くなった。
11二挺箸(早撃ち早喰い、儀式の裏側)
ジィさんが立ち上がった。
「半径三十キロ、言ったよなァ」
声は低い。低いが熱い。彼はいつも右手で箸を割る。今夜は、左でも、割った。二膳。
「二挺拳銃じゃなくて?」
実況が珍しく困惑する。
「解説です。二挺箸。儀式の裏技。丼二つを同時に食べ、第三の丼を“弔う”技です」
弔う?
ジィさんは二つの丼を左右に持ち、同時に、しかし乱れなく食べ始めた。早い。だが雑ではない。箸の先は肉を掴み、米を拾い、紅を絡め、ツユをすくう。左右で別々の動き、左右で同じ速度。見惚れた。見惚れてはいけない。見惚れている間に、三つ目の丼の湯気が形を持ち始めた。形は、椅子に座らない三つ目の影を、座らせた。
「――いただきます」
声がした。聞こえるのに、喋った口が見えない。
俺の背中がぞわりと波打ち、バイトの女の子の「いらっしゃいませー」の残響が、店のどこかに引っかかったままになった。
12|一枚板の棺(年輪の波紋に葬列が通る)
カウンターの一枚板が、微かに鳴った。木が鳴るのは普通だ。乾いた夜は、木が縮む。だが今夜の鳴り方は、棺が開く音に似ていた。俺は聞いたことなんてないのに、そう思った。思った時点で、もう似ている。
年輪が波紋みたいに広がる。その波紋の上を、小さな足音が列を成して通り過ぎる。足音は聞こえない。見える。見える足音なんてあるか? ある。今夜は、ある。
「実況です。葬列、通過!」
「解説です。並葬。“並”で弔う。死者ではなく“名”を送る儀式」
名を送る?
俺は三つ目の丼の前に、名札を置いた覚えがない。名のない客は、しかし確かに「いただきます」と言った。その声の濁音の位置が、妙に正確だった。
13|影の会計(小銭は結界、結界は円環、円環は戒め)
現金二万――夕方に叩きつけられた札は、いつの間にか小銭に崩れて、床を転がり、止まり、円を作っていた。円環は結界。結界はしばらく効く。効力は、信じるほど強い。強く信じるのはだれだ。俺か、バイトか、鍋か、ジィさんか。
円の外側で、三つ目の影は丼に手を伸ばす。伸ばした手は見えないが、湯気の薄れ方で分かる。湯気は影を避ける。
「ダメだよ」
バイトの女の子が、円の内側に立っていた。いつ動いた? 声は震えているが、足は震えていない。彼女のエプロンのポケットから、鈴の音がした――いや、鳴らない鈴が、鳴らないまま揺れた。
誰も鳴らしていないのに、鳴らない音が、確かに店の空気に波紋をつくった。
「実況です。鳴らない鈴、発動!」
「解説です。これは“静音の符”。音を立てずに“名”だけを鳴らします」
14|名の影(呼ばれないで削れる、新種のデフネーミング)
三つ目の影の輪郭が、ざらりと剥がれた。名前が剥がれるとき、人はだいたい、呼ばれる。呼ばれて削れる。だが今は逆だ。呼ばれないのに、削れていく。
名が、どこにも書かれていないから。
俺は慌てて、ペンを取る。空席の前の紙ナプキンに「並」と書く。乱暴すぎるか? いや、今は漢字の正しさより、表記の有無が大事だ。
「並」
書いた瞬間、湯気が一度だけ濃くなり、そこに口が浮かんだ。
「――いただきました」
過去形。食べ終わった挨拶。
丼の中身は減っていないのに。
俺の胃の下の寒気が、刃物の形になって固まった。固まった刃は、心に刺さらず、心の横に立った。立って、見守った。見守る刃は優しい。優しい刃は、いつか刺さる。
15|逆流(湯気が沈み、砂が上がる)
鍋の湯気がもう一度、沈んだ。沈んだ湯気の代わりに、店の床から砂が、細かい砂が、空気の中へとじわりと上がってきた。
外は無風。中も無風。なのに砂だけが、下から上へ。
一枚板の年輪の間を、砂が埋める。埋めた砂は、線香の灰みたいに薄い。灰は誰のものだ。名のない客の。あるいは、名だけの客の。
「実況です。逆流開始!」
「解説です。これは“並葬”本番。丼を棺に、タレを香に、紅を花に見立てて送ります」
誰が?
ジィさんは二つの丼をもう空にして、三つ目の丼の前で立ち止まる。箸を交差させて、丼の上にそっと置いた。――置いた。箸を。置いた。
禁忌では?
「今はいい」
と、内なる解説が珍しく短く言い切る。
16並葬(“並”で送るのは、死者ではなく、名)
ジィさんは、丼の縁を指で一周なぞった。指先は味を確かめず、熱だけを確かめた。熱はまだある。あるうちに、送る。
「合掌」
小さく言って、彼は目を閉じた。バイトの女の子も、店長も、俺も、なぜか目を閉じた。
目を閉じれば、見えるものがある。年輪の葬列、砂の灰、紅の花、タレの香。
そして、声。
「――ごちそうさま」
今度は、現在形の奥に、ちゃんと過去が収まっていた。
丼の表面のツユが、無風なのに、わずかに波打ち、中央に小さな渦を作る。渦は一度だけ、“並”という字の形を作り、それから静かにほどけた。
俺たちは目を開けた。
三つ目の影は、いなかった。
丼は減っていなかった。
でも――減っている味だけが、あった。味のどこかが、確かに、少しだけ、軽くなっていた。塩が一粒、砂糖が一粒、どこかへ行ったみたいに。
17|帰結(会計は二万、端数は恐怖さ――再掲)
若い二人は青い顔で立ち尽くし、やがて財布を出した。
「さっきの続きだ」
ジィさんは言わない。言わないが、そういう顔だった。
二万。
床の小銭の円は、いつの間にか二重になっていた。二重円環は、結界を二倍にするが、抜け道をひとつ、作ってしまう。抜け道は、バイトの女の子の足元にあった。彼女のエプロンの鈴――鳴らない鈴が、もう鳴らなかった。
鳴らないものが鳴らない時、世界は静けさを取り戻す。取り戻す代わりに、何かが減る。きっと、減って困るものではない。減って助かるもの。たとえば、怨みの素。たとえば、名の棘。
俺は、丼を下げ、鍋の火を少し弱め、バイトに水を渡す。水は無味。無味は救い。救いは無音。無音は、今夜は怖くなかった。
18|後始末(砂は掃き出す。名は掃き出さない)
床に溜まった砂を、モップで寄せる。寄せると、砂は小さな丘になる。丘の上に、小銭がひとつ、光っていた。拾って掌に載せる。掌の熱で、冷たいはずの金が、少し温かくなる。
「実況です。本日の後片付けは“並”!」
「解説です。並がいちばん難しい。過不足がないことは、過剰よりも難しい」
そうだ。過剰は目立つ。並は忘れられる。忘れられることが、救いになる夜もある。
名は掃き出さない。掃けない。名はそこに残る。残る名は、明日の丼の旨味になる。旨味は、祓いだ。
19|赤の再考(血ではなく、合図)
看板の赤は、もう垂れていなかった。痕跡は残っていない。
血だったのか、夕焼けだったのか、電飾だったのか。
どれでもよかった。今夜の赤は合図だった。合図は理解されなくても効力を持つ。理解したがるのは、だいたい怖いからだ。
「怖い?」
実況が尋ねる。
「怖いです」
解説が素直に答える。
怖い。怖かった。怖いのに、悪くなかった。悪くない、は最高の褒め言葉だ。最高は長持ちしないが、悪くないは長持ちする。長持ちした“悪くない”は、怪異に勝つ。勝つというより、負けない。負けないというより、続ける。
20祓いの一枚板(場違いの誇り、場違いの楔)
カウンターの一枚板を磨く。磨きながら、俺は知る。これは棺ではなく、祓いの台だ。昼の油を詫び、夜の灰を宥め、名の影を撫でる。撫でられた影は、たぶん、柔らかくなる。柔らかくなった影は、椅子に座れる。座れた影は、**「いただきます」と言い、「ごちそうさま」**と言える。
それができる限り、ここはただのす▲家でいられる。
ただの、がいちばん難しい。いちばん、尊い。
21|明け方前の約束(箸は置くな。置くと始まる。始まったら、並で送れ)
鍋の火を落とす。泡が二回だけ、名残惜しげに弾ける。
バイトの女の子は、ポケットの鈴を指で確かめた。鳴らない。鳴らないことを、確かめる。確認とは、祈りの別名。
「店長」
「なんだ」
「明日も、やれますよね」
「やる」
短い。短いのに、重い。重い言葉は遠くへ飛ぶ。明日へ飛ぶ。
箸は置くな。置くと始まる。始まったら、並で送れ。
掟は単純。単純さは暴力で、同時に救済だ。
22|最後の一口(悪くない、で締める葬列)
ジィさんは水を飲み干し、ポケットの小銭をジャラとこぼし、いつも通りぴったりの勘定で、いつもより小さな声で言った。
「ごッソさん」
音階は低く、上がりきらない。それでいい。上がりきらない終わりは、続けられる終わりだ。
俺はカウンターを拭きながら、胸の奥で小さく呟く。
悪くない。
悪くない、は、葬列の最後尾を歩く言葉だ。花でも鐘でもない、淡い声。
看板の赤は鳴らない。鳴らないのに、呼んでいる。
呼び声に応えるために、俺は鍋に蓋を被せた。
蓋は静かに、夜を閉じた。
(了)




