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第七夜 夜の錯綜断章 ー しじまの校内アナウンス

01|オープニング・コール(鳴らないのに鳴る)


 放送が鳴った。いや、正しくは、鳴らないのに鳴った。天井の四角いスピーカーは干乾びた口みたいに開いたまま、乾いた白。けれど声だけが空気を揉み、教室を撫で、僕の鼓膜の前だけでピタリと止まる。

「本日もはじまりました校内ビーチフラッグ――のはずが、本校に砂浜は存在しません。解説の野原さん?」

「ありません。砂浜もなければ海もない。あるのはリノリウムと名札です」

 名札。そこですか。僕は机の上で転がしていたシャープペンを落とした。床の埃が細やかな拍手で迎える。窓際、静間りんは頷いて、首のチョーカーに触れる。銀の鈴は揺れても鳴らない。鳴らない音は、逆にいちばん大きい。脳の奥の、音という名前の空洞が、風鈴みたいに高く鳴る。

 静間りんは黒いスケッチブックを開いて、白い紙に三行だけすばやく書く。

《話すと鳴る》

《鳴ると消える》

《助けてくれる?》

 たった三行で、僕の中の避難訓練が始まった。


02|ルール説明(聞かれていないけど始まるのがルール)


「ルールは単純!」実況の声は快活だ。「帰りのチャイムまでに各自の名札を守り抜け! 呼ばれるほど削れる! 消えたら退場! 校内全域、教員関与は任意!」

「補足します」解説は咳払い。「名は音で擦れる。とくに本人宛の固有呼称に弱い。『おいお前』はセーフ、『フルネーム+驚嘆符』はアウト。削れ方は個人差」

 そんな個人差いらない。僕は思う。思うけど口には出さない。口は削る装置だ。沈黙は安全装置。僕と静間りんは、目だけで作戦会議を始めた。


03|心の声(僕の脳内はだいたい満員電車)


 言葉は刃物じゃなくて消しゴム。間違いを正すふりで線を薄くする冴えたやり方。だったら——書けばいい。書いて保つ。僕の胸の中の急ごしらえ作戦本部が、拙いホワイトボードで矢印を乱立させる。発声×、筆記〇。名は二重化。音声媒体で劣化、文字媒体で保存。アナログ冗長化、いける。いけるのか? いけ。

 僕は静間りんのスケッチブックを借りて、太字で一行。

《君の名を、僕は呼ばない》

 彼女は小さく横に振って、三行を足す。

《あなたの名も守る》

《呼ばれる前に書く》

《書けば残る》

 うなずいて、僕らは席を蹴った。無言で廊下へ。名を消すのは声、名を縫うのはチョーク。白い粉を指先に纏って、僕らは背中に文字を足して回る。黒板消しではなく黒板足し。冗談みたいな作業だが、命綱は大抵、だれかの冗談からぶら下がっている。


04|漫才(実況と解説はどこから見ているのだろう)


「おっと出ました無音ユニット! 発声ゼロ筆圧全振り! これは守備的な革命!」実況の声は体育会系。

「理に適います。記号は媒体依存。音で削れ、文字で残る。ここで二重化、さらに三重化、四重化――」

「四重化はやりすぎ! 字で重くて走れない!」

「重文は国語の採点では減点です」

 どこから響くのか分からない掛け合いが、廊下の天井に浮かぶ蛍光灯の白に重なる。僕は苛立つ。けど、同時に安心もする。異常を異常だと言ってくれる声が世界の端にあるだけで、崩壊はまだ先送りできる。


05|開幕ダッシュ(廊下はすでに海になっている)


 チャイムはまだだ。だが廊下の空気は波だ。呼び声が足首へ押し寄せて、膝へ、腰へ。走る靴音が泡立ち、名札の文字は白く擦れ、剥片は鱗のように床へ落ちる。僕の心象風景の画角が勝手に広がる。白い粉雪の廊下、旗の代わりに夕陽が立ち、名の影が長い。人間には影が二つある。ひとつは光がつくる影、もうひとつは名前がひっぱる影。後者が薄くなると、身体は自分を置き忘れる。

「委員長!」誰かが叫ぶ。

「やめろそれは通称だろうが!」僕は心でツッコむ。通称でも擦れるんだよ、たぶん。たぶんじゃ困る。


06|委員長登場(ツッコミは現実の安全ピン)


「君たち、廊下は走らない」三つ編み眼鏡のクラス委員長が、半ば呆れ、半ば心配で立ちはだかる。「で、何をしているの?」

「保全です」僕は無言でスケッチブックを見せる。委員長は事情把握が速いタイプだ。読む、理解する、計画する。三手先まで一息で。

「なるほど。じゃあルールを作ろう。『呼称禁止条約』。同時に『筆記推奨指令』。指揮系統は——」

「今つくったんだよね条約」

「今つくったけど、今必要でしょ?」

 その通りだ。正論はいつだって急だ。

「放送室、使える?」と委員長。

「使えます!」と実況。

「誰に聞いたの今の」

「空気です」と解説。嘘をつかないのが逆に胡散臭い。

 委員長は職員室方面に目を向け、僕に親指を立てる。「三分なら説得できる。三分で校内放送をもらって、十秒でルールを敷く。だから、それまで現場を抑えて」

「任された」とは言わない。言葉は削る。僕は頷いて走る。静間りんが並走する。鈴は相変わらず無音だが、無音ほど心強い鐘はない。


07|中ボス:職員室(自治と矛盾の間にあるドア)


 職員室のドアには大きく《私語厳禁》。私の語り、厳禁。いやそれは困る。僕たちはその私の語りで生き延びようとしているのに。中から先生の声。「点呼は声で行う。匿名化は出席簿に不具合が——」

「不具合は命よりも優先ですか?」委員長は微笑んで、静かな声で押し切る。「代替案があります。音声点呼を暫定廃止、筆記点呼で回します。一本線=在、二本線=不在、丸=保留。教員は最小限の発声に努め、固有名詞は——」

「呼ばない」

 僕が口を挟むと、先生が険しい顔をこちらに向ける。やばい。僕は慌てて口を閉じ、ペンで空中に四角を描く。名前を囲えば護符になる。理屈はない。理屈は後ろからついてくるものだ。祈りは先に走る。

「三分だけ、放送室を貸してください」委員長が頭を下げる。先生は逡巡し、そして頷く。理屈は彼らの味方、緊急は僕らの味方。味方は多いほど心は軽い。


08|心象風景Ⅱ(名前の墓地と、白い海)


 走りながら、僕は見てしまう。床一面の白粉の下に、小さな墓標が並ぶ景色を。ひとつひとつが文字の形をしていて、風が吹くたびに「ん」とか「お」とかが転がる。そこは名の墓地で、しかし埋まってはいない。埋めるための土が、まだ僕らの喉に詰まっているからだ。飲み込みたい言葉と、吐き出したくない息。世界はいつも、二者択一に見せかけて、実は二者抱擁だ。どっちも持って走れ。両手が塞がるなら、歯で咥えろ。心の声がうるさい。うるさいけど、静けさよりは頼りになる。静けさはりんの鈴に任せよう。僕は騒音担当でいい。


09|緊急放送(十秒で敷く、拙速な安全)


『緊急放送。これより終業チャイムまで、校内全域で固有呼称の発声を控えてください。点呼は筆記で行います。どうしても呼ぶ場合は通称やイニシャルではなく、「あなた」「そちら」など、意味の薄い代替で——』

 委員長の声は滑舌が良すぎて、速度制限が必要なくらいだ。実況と解説が、さながら副音声みたいに合いの手を入れる。

「副音声のほうが人気出がち!」

「メインを食うのは良くないです」

 放送が終わる。静けさ。いや、静けさ風のざわめき。みんなが言葉を飲み込む音は、聴こえないけど確かに存在する。飲まれた言葉はどこへ行くのだろう。胃か。心か。学校の天井裏の空隙か。いずれにせよ、名札の文字は少しだけ濃く戻る。粉雪の下から、黒い骨格が覗く。


10|事件(誰かの声は、いつだって後ろからやってくる)


「——りん!」

 背後から。呼ぶな、と思うより先に、静間りんの名札の終端が、するりと欠けた。『ん』が落ちる。ひらがなの尾が切れて、床で跳ねる。ことん。僕は即座にチョークを走らせる。『りん』を書き足す。ひらがなで縫う。漢字が削れても読みが残る。読みが残れば意味は後から追いつく。実況が甲高い悲鳴を上げ、解説が落ち着いて指し棒を伸ばす(どこから出した)。

「はい、いまのは典型的デフネーミング。命名の逆運動ですね。対処は『書き足し』、あるいは『囲い』」

 囲い。僕は自分の名札を四角で囲んだ。とっさの囲いはいびつだが、それでも気分が違う。名前に住所ができる。迷子になりにくい。理屈は(以下略)。


11|真面目な話(シリアスは急にブレーキも鳴きもする)


 名というのはそとに置く自分だ。教室の出入り口に靴箱があるように、社会の出入り口に名前箱がある。名前はそこに並んでいて、僕たちはそれを履いて出かけ、帰ると脱ぐ。脱ぎ忘れたら裸足で帰るだけ、という話なら平和だが、名前は時々、靴よりも先に歩き出す。学籍番号の列で、名札だけが先に並ぶ。心があとから追いつく。その逆もある。心が早足で名前を引きずる。だから、時々、ほどける。そういう話を、僕らは何度も聞かされて、何度も笑って、何度も忘れた。

 今は忘れなくていい。忘れられない。名札の四角は、護符であり、縫い目であり、思い出の仮止めだ。静間りんの鈴が鳴らないのは、世界がまだ壊れていない印だ。壊れていたら何も鳴らない。鳴らないという現象すら、起きない。


12|心象風景Ⅲ(白い砂嵐、黒い骨格、文字の雨)


 五時間目と六時間目の間の十分間、校舎は砂嵐の中に立っていた。白い粉が日光に浮かび、粒子一つ一つが文字の死骸に見える。僕はそれを踏まないように、名の墓地を縫う。静間りんは並ぶ。僕らの影は二本。光の影と名前の影。両方が重なったところだけが、いちばん濃い。そこに立て。立って書け。書きながら立て。立ちながら守れ。僕の内側の実況が喋りすぎて、解説が嘆息している。

「自分の中に実況解説を飼っているのはだいたい危険です」

「でも孤独よりは安全です」


13|職員室・第二戦(理屈は味方、緊急はもっと味方)


 委員長が職員室から戻ってくる。「筆記点呼、採用。帰りの会は静粛に。固有呼称は禁止。どうしても呼ぶ必要があるなら——」

「手を挙げろ、ですかね」解説が嬉々として乗る。

「ジェスチャーは音じゃない。削らない」委員長は冷静だ。「で、君」

 君は僕のことだ。はい。口に出すと削るので、胸に手を当てて会釈。やり取りは早いに限る。

「放送、もう一度いこう。最後に『名の保険』の話を。名の保険は、複数表記で担保する。漢字、かな、ローマ字、ピクト。どれかが削れても、別の表現が引っ張る。フォント違いで複層化も」

「フォントで命は守れますか?」

「守れるの。今日は守れることにするの」

 強い。理屈はあとから慌てて追いついてくる。


14|終盤戦(残り六十分からの六十秒は同じくらい短い)


 時間はやさしい顔をして冷酷だ。終業チャイムまであと一時間。短い。六十分は短い。六十秒と同じくらい、短い。僕らは教室→廊下→階段→昇降口→図書室。点で線を縫い、線で面を塞ぎ、面で校舎をくるむ。白い粉が手の甲を乾かし、指紋を消していく。指紋が消えるのは不味い。個人の証跡が減る。名札と指紋は遠い親戚だ。保存の仕方は違うけど、どちらも「わたしはわたし」という主張の手触りだ。

 静間りんの鈴が揺れる。鳴らない。鳴らない音が、僕の背中を押す。実況が叫ぶ。「残り六十秒! 名を守れ! 声を飲め! 字を置け!」

 解説が珍しく熱い。「音は空気の震え。静けさもまた震え。揺れていないようで揺れている。ならば彼らは、静けさの上に名を置こうとしている」

 置け。置く。置いた。世界がほんの少し、静かに鳴る。


15|終鈴(勝者はだれか、という問いは要らない)


 チャイムが鳴る。終わりの合図はいつも始まりの痛み。各自の名札が、いっせいに軽く重くなる。軽いのは救い、重いのは責任。実況がまとめる。「本日の勝者は、名を続けたすべての人!」

 解説が相槌。「珍しく綺麗にまとまりました」

 教室に戻ると、僕の机に僕の名が三通り置かれている。漢字。かな。ローマ字。冗長だ。けど冗長は冗談の親戚で、冗談は生の防腐剤だ。僕は三枚すべてをポケットに入れる。重い。けど軽い。軽いけど、落とさない重さがある。

 静間りんはスケッチブックを閉じて、最後の一行だけ僕に見せる。

《ありがとう ――なまえは、まだ、いる》

 いる。僕もいる。君もいる。いることを、こんなに慎重に確認する日があってもいい。


16|アフタートーク(漫才は片付けまでが漫才)


「いやあ、危なかった!」実況の声が肩で息をしている。息をするな。空気が揺れる。

「反省会です」解説は真顔。「本日のポイントは『呼ばない』『書く』『囲う』『二重化』『委員長は強い』」

「最後、評価軸が雑!」

「重要です」

 教室の床は白くて、粉の雪が積もっている。放課後の陽が傾いて、黒板のチョーク跡が金色に反射する。僕らはモップで粉を集める。集めながら思う。今日の粉は、誰かの名の剥落だ。捨てていいものではない。でも溜めていいものでもない。だから掃いて、捨てる代わりに、覚えておく。覚えておく代わりに、書いておく。書いておく代わりに、笑っておく。笑うのは防腐剤。泣くのは消毒液。どっちも必要。どっちかだけじゃ、しみる。


17|エピローグ(鳴らない鈴と、鳴っている世界)


 静間りんは鈴に触れる。鳴らない。鳴らない音は、今日もいちばん大きい。僕は机の角に肘を置いて、目を閉じる。目を閉じると、心象風景が勝手に色を増す。白い砂嵐、黒い骨格、文字の雨。そこに、細い糸で縫い付けられた名前が揺れている。ゆっくり揺れる。ほどけない速度で揺れる。その揺れが、僕の呼吸の目安だ。

 委員長が言う。「明日からは、もう少し、うまくやろう」

「もう少し、ってどのくらい」

「今日より、ちょっとだけ」

 ちょっとだけ。ちょっとだけでいい。ちょっとだけが、だいたい全部を救う。僕は頷き、静間りんは笑う。笑いは無音だが、効果音は豪華だ。頭の上で紙吹雪が散る音、誰も鳴らしていないファンファーレ、鳴らない鈴。鳴らないのに、鳴っている。

 僕たちは席に戻る。席に戻るたびに、世界はやり直される。やり直されるたびに、名は少しだけ強くなる。強くなるたびに、呼びたくなる。呼びたくなるたびに、書きたくなる。書きたくなるたびに、笑いたくなる。

 そうやって、今日も終わる。終わるけれど、終わらない。名は続く。ひとまず、僕らの呼吸が続く限り。

 放送は鳴らない。天井のスピーカーは干乾びた口みたいに開いたまま。それでも声は届く。僕と君のあいだで。僕と僕のあいだで。静間りんの鈴と世界のあいだで。

 聞こえるだろう? 鳴らない音は、いちばん、大きい。


(了)

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