第四夜 半額呪符争奪戦 ― 錯乱する弁当と深夜の血戦
001
本当のことを言うと、僕は弁当を買いに来ただけだった。夕飯を簡単に、でも手を抜いたことを手抜きと呼ばれない程度の尊厳で、済ませたかった。そういう灰色の希望は、夜になると半額の赤に染まる。赤は誘惑の色で、正義でもある。財布の正義。胃袋の正義。生活の正義。
昼の顔を脱いだスーパーは、少しだけ暗い。照明は蛍光灯の白さを保っているのに、棚のガラスに反射する光は妙に赤い。じり、じり。冷蔵ケースのモーターが低く鳴る。床はリノリウム。滑るほどではないけれど、油と夜の湿気の薄膜が足裏に絡む。からり、ころり。カートの車輪が遠くで鳴り、BGMは誰が選んだのか知らない無表情な打ち込みで、閉店までの時間を等分に切り刻んでいる。ちっ、ちっ、ちっ。秒針の気配。時間は、腹が減ると早い。
「さあさあさあ! 本日の競技は、半額呪符争奪戦でございます!」
鼓膜の内側に、聞く準備をしていない声が滑り込む。実況だ。骨川の声だ。三話で鍛え上げられた僕の聴覚は、もはや驚かない。驚かないのに、心拍数だけは勝手に前のめりになる。どく、どく、どく。
「解説の野原です。……あ、ちょっと、今日の売り場、匂いますね」
「いい匂い? 悪い匂い?」
「血の、匂い」
ノイズ。ぷつぷつ。野原の声がラジオの天気予報みたいに遠のき、復帰し、また遠のく。放送事故は生き物だ。今日も健在らしい。頼りない安心。
002
「ルール、いってみましょう!」
骨川が喉を鳴らす。こほん、の擬音まで実況するのは、もはや病気か職業病か。
「半額シールが貼られた弁当は、ただの割引ではない! 貼られた瞬間、呪符となる! それは所有者の晩餐だけでなく、運命まで値引き――いえ、値付けする!」
「言い直しましたね?」
「文学的配慮!」
誰も頼んでいないのに文学を混ぜる。混ぜるのはわさびだけでいい。けれど今日は、わさびより赤が似合う。売り場の隅で、束になった半額シールの台紙が小さく揺れた。ぺら、ぺら。風もないのに。空調の吐息のせいにするには、動きに意思がある。
「ゲームマスターは――バイト七ヶ月、呪符術師・山田君!」
「さらっと職名が魔術寄りになってますが」
「夜は、肩書が育つ」
振り向けば、山田君がいた。青白い顔。真面目な眉。利き手の人差し指に、絆創膏。いや、よく見ると、絆創膏の隙間から赤いものが覗く。滲む、にじむ、にじみ出る。じわり。彼は半額シールの束を持ち上げ、ゆっくり、ゆっくり、歩き出した。足音はしないのに、売り場が軋む。ぎぎ、と目に見えない蝶番が鳴った気がした。
003
「参戦者、紹介!」
骨川の声に合わせて、視線が勝手に選手を拾う。拾い上げた瞬間、彼らは「選手」になる。カメラのないテレビ。観客が僕ひとりのスタジアム。
「主婦歴三十年、女帝・磯野選手! 値札の心理も、家族の胃袋の天気も読む!」
「視線に赤外線、手のひらに家計簿!」
「痛い表現だな」
磯野の指は細いが、節が働いている。紙をめくりすぎて割れた爪に、透明のマニキュア。暮らしの鎧。指先は少し赤い。赤は、夜の色。
「ママさんバレーのエース、江上選手! カゴは盾、身長は槍、俊敏は刃!」
「ドン、バシッ、ガキィン!」
「効果音が物騒」
江上のスニーカーは床に吸い付き、必要なときだけ音を出す。キュッ。髪は後ろでざっくり束ね、手首のゴムには日常の汗と勝利の塩が染み込んでいる。
「転入の新星、“五時半の魔女”こと宮田選手! 家族サイズと孤食サイズを瞬時に仕分ける、呪術的関数!」
「=IF(家族>3,大盛,小盛)!」
「数式で呪文を唱えるの、やめません?」
宮田の目は薄く笑い、その奥で何かが回っている。カチ、コチ、カチ。見えない歯車の音。右手の甲に小さな痣。時計の盤のような輪郭。針は五時半で止まっている。
「元船宿の船頭、幕ノ内選手! 床は甲板、群衆は波、重心は碇!」
「ズズッ、スルッ、ピタッ!」
「擬音で航海するんじゃない」
低い姿勢、柔らかい膝。彼の膝には古い擦り傷が苔のように残っている。治ったはずの赤が、夜にだけ戻ってくる。
「単身赴任の晩酌王、河豚田選手! 酒の肴に人生を賭ける、しかし目利きは賭けすぎ!」
「よいしょー!」
「掛け声のチョイス!」
河豚田は目の下に夜を抱え、しかし瞳孔はきちんと半額に開く。開きすぎないのが社会人の知恵。手の甲に、古いスタンプみたいな赤い印。彼は気付いていない。気付いていないふりかもしれない。
「そして――謎の常連、“弁当仙人”!」
白髪。半分閉じた目。ショーケースの端にひっそり立ち、笑っているのか眠っているのかわからない口元。手ぶら。カゴを持っているところを誰も見たことがない。噂はある。噂はだいたい、事実よりゆっくり育つ。
004
「始まるぞ」
誰の声でもなかった。売り場が言った。冷蔵ケースの呼吸が深くなる。ぶおぉ。山田君が最初のシールを剥がし――指先から、赤いものが、ほんの糸のように垂れた。ぺたり。貼る音が、やけに大きい。貼られたのは「唐揚げ弁当」。醤油の照りの上で、半額シールがじわりと光った。じわ、じわ。シールの赤が、弁当の赤と混じり、奇妙に脈打つ。どく。どく。
「ビチャ……ッ」
「今、音が」
「気のせい。気のせいです!」
骨川が勝手に否認し、同時に勝手に肯定した。誰も突っ込まない。突っ込むより先に、動く。磯野の肘が閃く。江上のカゴが盾になり、宮田の指が舞い、幕ノ内の膝が滑り、河豚田の腕が背後から伸びる。ニョキッ。
「いったぁッ!」
誰かの声。肘が誰かの骨を叩き、骨が誰かの肘を跳ね返し、カゴのプラが人体と衝突して鳴る。ガキィン。けれど、血が飛ぶほどではない。飛びすぎないところに、夜の節度がある。……はずだった。
磯野が唐揚げ弁当を掴み、勝利のため息を――その指先から、赤い線が一筋、弁当の角に落ちた。ぽたり。大葉が吸い、色が濃くなる。彼女は一瞬だけ顔をしかめ、すぐに表情を戻す。暮らしの顔は、すぐに戻る。戻さないと、日が暮れない。
「今の、偶然?」
「因習です」
骨川と野原が、同時に違う方向を見た。
005
「因習のお時間です!」
骨川がうれしそうに言う。うれしそうに言うことではない。
「古来より、この街の弁当には“半額呪符”の話がありましてねえ」
「古来っていつからだよ」
「古来は便利な言葉です!」
野原がノイズ越しに補足する。「半額を掴んだ者は、次の半額を求めに来る。来ない者は、痣が疼き、夢が喉を乾かし、腹が鳴り続ける。だからまた来る。来ればまた奪う。奪えばまた痣が増える。痣は消えない。消えかけた頃に、半額の赤が呼ぶ。この売り場は、そうやって回る」
オカルトじみた豆知識を、売り場の空調が扇風機みたいに拡散する。ぶおん、ぶおん。眉唾だ。眉唾だが、眉の汗に塩が光っている。しょっぱい迷信。信じたもん勝ち。勝ち続けるのは、だいたい疲れる。
山田君が二枚目を剥がす。ぺり。貼る。ぺた。チキン南蛮。甘酢が赤をさらに赤くする。ツヤと呪いの相性が良すぎて、笑ってしまいたい。笑えない。誰も笑わない。笑うと負ける空気。空気は勝つ。
006
争奪の輪――いや、渦。渦に足を入れたものは、もう戻れない。江上が盾を上げる。ドン。宮田が横からすり抜け、指先でシールの端を撫でる。すっ。幕ノ内は人の足の下を蛇みたいに潜り、河豚田は矛盾する二手――真正面と背後――を同時に打つ。器用貧乏の極致。器用のぶつかり稽古。カゴの取っ手が手首に食い込み、手首が痺れ、痺れが痛みに進化する速度が速い。ひり、ひり、ひり。
「五時半」
宮田が呟いた。呟いたのに、声が売り場全体に広がった。耳ではなく、目で聞こえる種類の声。ショーケース上部の時計が――止まった。チッ。秒針が静止する。止まった世界で、だけど人間は止まらない。止まらないのが自慢であり、欠点であり、救いであり、呪いだ。
「魔女、来ましたね」
「来ました、って軽い」
止まった時計の下で、宮田の指が半額呪符に触れる。ぺたり。紙が皮膚と話す音。彼女の手の甲の痣が淡く光る。淡く、淡く。点滅。カチッ、カチッ。止まっているはずの針が、痣の上でだけ動く。五時半。五時半。五時半。今は二十一時を少し回ったところだ。時間は、ひとりごとを言い始めると止まらない。
007
そのとき、売り場の角――揚げ物コーナーの陰から、弁当仙人が出てきた。歩いていたのか、最初からいたのか、わからない。影の濃度が人型を結んだ、みたいな現れ方だ。すう。
「待てい」
低い声。いちばん邪魔なタイミングの呼吸。空気の流れが彼の周囲で変わり、冷蔵ケースの霜取りの音が一瞬だけ止む。しん。彼は笑ったような、笑っていないような顔で、手を挙げた。手ぶら。手の平の、筋の一本一本に、赤黒いものが走っている。刺青のような、痣のような、古い地図のような。
「貼られた赤は、食うたび、次を呼ぶ。食うなら戦え。戦わぬなら、食うな」
ポエムみたいな呪いの文法。誰も拍手しない。拍手はレジが担当だ。ピッ。まだ誰も通っていない。通れない。通る気もない。通ったら負ける。いや、勝ちだ。混乱のなかで、勝ちと負けは指でコインみたいに弾かれ、表と裏が入れ替わる。カチン。床に落ちる音。拾う者なし。
008
「貼ります」
山田君が宣言した。宣言するタイプだったか。宣言するたび、彼の絆創膏の下の赤が増える。赤は増える。夜は増やす。ぺり。ぺた。焼き鮭弁当。僕が来た理由の、真ん中。鮭のオレンジは、半額の赤を引き立てる。色の補完関係。購買意欲の補完関係。理性と本能の補完関係。僕の足が半歩だけ前に出た。出ていないふりをするのが下手な半歩。きゅ。
「ほう、鮭派か」
誰の声でもなかった。売り場が言った。売り場は饒舌だ。黙っていても饒舌だ。だから黙ってほしいときに限って喋る。
伸ばした僕の指より早く、別の手が弁当に触れた。磯野の手。速い。速いが、速さの代償が伴う。指の腹に、紙の端が刺さる。ピリ。彼女は顔色を変えず、そのままカゴに収める。血は出ない。出ないように見える。見えない血のほうが、夜は強い。
次の瞬間、江上のカゴが横から差し込まれ、宮田の指が上から被さり、幕ノ内の肘が下から支え、河豚田の背後からの手が、謎の慣性でぬるりと滑り込む。ぬる。弁当は四方八方から所有権を主張され、重心を失い――ころり。落ちる。床に。パックの角が床に当たる直前、空気が薄くなった。ぺたり。
半額シールが、僕の指に貼り付いた。
009
冷たい。最初に来るのは温度だ。次に痺れ。次に、音。どく、どく。脈打つ音が、指で、耳で、弁当で、売り場で、同時に鳴る。同じ拍。同期。同期の悪夢。視界が少し赤い。照明の赤か、シールの赤か、僕の体内の赤か。識別は不要。赤は赤だ。
「おめでとうございます! あなたも本日から、継承者です!」
骨川が祝う。祝ってはいけない種類の誕生日を、軽薄な紙吹雪で飾るみたいに。
「痣、出ましたね」
野原の声は静かだった。僕の掌には、薄い赤の輪が浮かび、じわりと膨らみ、やがて指紋みたいに細かい線を持ちはじめた。目に見える迷路。迷路は出口のための入り口だ。出口が遠ざかる。入口が増える。
「契約完了、っと」
山田君が小声で言った、小さな声のくせに、売り場の隅々に届いた。呪いの契約書に、店印みたいな音。ぽん。僕は反射的に半額を剥がそうとして――剥がれない。シールの糊は、プラスチックではなく、人生にくっつくタイプだ。べた。べたべた。僕は笑った。笑うしかない。笑うと呼吸が戻る。呼吸は、逃げ道の名前でもある。
010
「戦いは続行!」
骨川が旗を振ったつもりの声。旗はない。旗がないのにフラッグと呼ぶのは、前話の伝統だ。シリーズものの強みは、間違いを繰り返しても許されるところにある。
赤城――と呼ばれていた貼り係の人影は、いない。今夜は山田君が全部だ。全部は重い。重いから、少しずつ落ちる。彼の足取りがわずかに揺れ、貼る手の角度が少し下がる。下がった角度に、群衆が反応する。動線の曲率が変わる。江上が即座に位置を変え、幕ノ内は床の模様を読むようにラインに乗り、磯野は逆側から回り込み、宮田は――時計の止まった瞬間、周囲の視線の瞬きの回数を数えた。数えたのち、笑った。笑いは呪術。笑うだけで、空気が洗練される。洗練された空気は、刺さる。ちくり。
「弁当仙人、黙っていられない」
本人が自称した。黙っていられない、と言いながら黙る。黙り方が長年の芸だ。彼は棚の前に一歩出て、虚空からまるで生まれたみたいに、一個の弁当を持っていた。いつ掴んだ。掴んでいない。掴んだ。どっちでもない。どっちでもいい。弁当はそこにある。海苔弁。海苔の黒は、赤を落ち着かせる。堅実は呪いに強い。
「食う者は、食われる。値引かれた額のぶんだけ、命が前払いされる。腹が減ったらまた来る。来るたび、赤が濃くなる」
彼の掌の痣が、海苔の黒と見分けがつかなくなる。黒い赤。赤い黒。グラデーションの悲鳴。さすがにちょっと詩的すぎる。詩は塩辛いと喉が渇く。
011
売り場の空気が、急に熱を持った。熱といっても温度ではない。気配が熱い。視線が焼ける。誰の眼にも食欲が住んでいて、その食欲が牙を磨く。笑えて、怖い。怖くて、笑える。戦いはだいたい、片方がもう片方を飲み込む瞬間までコメディだ。
貼られる。ぺた。奪われる。バサ。ぶつかる。ガン。息が詰まる。ひゅ。声が出る。あっ。床が軋む。ぎ。氷が鳴る。ガラ。唐揚げの衣が落ちる。ぱら。レジの遠雷。ピッ、ピッ。誰かがもう会計を済ませている。日常は戦場の隣で平常運転だ。片側通行の平和。
「ズルい」
思わず口に出た。僕の声だ。誰への文句でもなく、世界への感想。世界はズルい。ズルいから回っている。正直だけでは滑る。滑る床で、嘘は摩擦だ。摩擦がないと、立っていられない。
012
激戦は、終わらない。終わる気配は急には来ない。来るときは、呆気なく来る。それはいつだって、モブのタイミングだ。
普通の人が、普通に現れた。背中に通勤の疲れ。肩に家族の予定。手にカゴ。カゴの中身は牛乳とパンと洗剤。彼(か彼女かは端的にはどちらでもいい)は、弁当の棚の前でほんの二秒だけ立ち止まり、残っていた「焼き鯖寿司」に手を伸ばし――ぺたり、と貼られたばかりの半額を、特に何も感じた風でもなく掴み――そうして、普通にレジへ向かった。
通路が割れる。戦場の真ん中に、散歩道ができる。歩行者天国。彼(彼女)は、ありがとう、とも、ごめんなさい、とも言わない。言う必要がない。必要がない言葉は、夜がすぐ飲み込む。
「勝者は、生活!」
「敗者も、生活」
骨川と野原が同時に総括した。総括するほどの差も、なかった。あったのは、晩ご飯の有無。あるいは、晩ご飯に至るまでの心拍の増減。心拍のカロリー。燃えたぶんだけ、明日眠れる。
013
人が散り、棚に空白が増える。空白は語る。語りすぎる。語ることがないのに語るから怖い。怖いから笑う。笑うから、帰れる。
僕は手のひらを見た。赤い輪は、薄くなっていた。薄くなって、消えかけて、でも完全には消えない。線の一部が、皮膚に融けて文字みたいになっている。読めない文字。読めないのに、読める気がする。読めそうで読めない文章は、詩よりも呪いだ。たぶん、明日も響く。明後日も、響く。そうして次の夜、足が勝手に売り場へ向かう。向かわないかもしれない。向かわない僕と、向かう僕が、頭の中で議論を始める。議論は、結論の前に眠くなる。
「それでは、本日の放送は以上で――」
「待って」
僕は言った。言う必要があった。実況は便利だが、締めが早い。僕の晩飯はまだ、買っていない。
「コロッケ、ありますか」
自分の声に自分で笑う。笑ってどうする。売り場の角、まだ温かいケースの中に、茶色があった。今日は鮭じゃない。今日は茶色でいい。茶色は、正義。茶色は、血を吸わない。いや、吸うけれど、見えない。見えない優しさ。紙袋が手に渡る。紙の音。がさ。油のシミ。斑点の地図。僕の掌の痣と、紙の油が、少しだけ似合う。似合わないほうが、健やかだ。
014
レジへ向かう。列は短い。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。音は相変わらず短く、世界を区切る。店員の笑顔は、相変わらずプロで、疲れていて、でも、温かい。温かさは、プロにしか出せない種類の温度がある。温度は、夜の唯一の宗教だ。宗教は、胃に入ると消化される。
会計を済ませる。レシートが、ぴろりと出る。ぴろ。白い紙に刻まれた黒い数字。数字は静かで、呪いより具体的で、安心する。具体は呪いを追い払う。たぶん。
「今夜の勝敗表、読み上げます!」
骨川がまだいた。いたのか。いたらしい。帰れ。
「勝者、生活! 準優勝、生活! 特別賞、生活! 参加賞、生活!」
「配当、全部それ」
野原がため息をつく。ノイズが最後に一度だけ鳴り、ふっと消えた。消える音は、空気の擦過音。さよならの代わりに、蛍光灯が一度だけ瞬いた。チカ。
015
自動ドアが開く。ぷしゅ。夜風が頬を撫でる。撫でた風が、僕の掌の痣を冷やす。冷やしすぎない。痣は熱を覚えている。覚えていないふりをして、明日も仕事に行く。明後日も、誰かと話す。来週も、洗濯をする。月末も、家賃を払い、翌月の暮らしを予約する。予約した先で、半額の赤がまた揺れる。揺れた赤が、目の端で手招きする。手招きは優しい。たぶん、優しさのふりがうまい。
駐車場の向こう、歩道の先に、影が並んでいる。列だ。列は尊い。列は罪深い。列は秩序で、同時に欲望の直列回路。電圧が高い。火花が散る。ちら。ちらちら。僕は横断歩道の前で立ち止まり、信号を待つ。赤が青に変わるのを待つ。待つことは、今日のテーマだ。待っている間だけ、争いは縮む。縮んだ分だけ、腹が鳴る。ぐう。紙袋の中のコロッケが、香りで返事をした。ふわ。
「また明日」
誰の声でもなかった。売り場の声か、僕の胃の声か、あるいは半額シールの声。声は、明日にしか届かない種類がある。届いたら、どうするか。どうもしない。晩飯を食べる。歯で噛む。舌で味わう。喉で落とす。胃で抱く。抱いたまま、眠る。眠ったまま、忘れる。忘れたふりのまま、次の夜に歩く。歩いた先で、また赤が揺れる。
薄く残った痣が、街灯の下で、ほんの少しだけ、光った。気のせいだ。気のせいのまま、僕は袋を持ち直す。持ち直した手のひらに、生活が重みをくれる。重みは、呪いに勝つ唯一の道具だ。道具を持っている限り、僕は僕のままだ。
――錯綜するのは、物語だけじゃない。夜の売り場も、列も、欲も、祈りも。色々が、ほどけたり絡まったりしながら、それでもちゃんと進む。進んだなら、拍手。心の中で、ひとつ。ぱちん。僕にしか聞こえないが、僕には十分に大きい音だった。




