第三夜 値札乱舞、錯乱実況、きつね色の正義 ~とある雑文へ捧げるオマージュ~
001
本当のことを言うと、僕はコロッケを買いに来ただけだった。夕飯は茶色に限る、という家訓があるわけではないが、きつね色の幸福は胃と心を同時に丸くする。だから鮮魚売り場は毎度スルーする予定だった。予定だったのに、予定はいつだって黙っていない。予定外は、何も考えていない顔でいつも定刻にやって来る。
「本日もいきなりはじまりました! ビーチフラッグス! 会場はスーパーの鮮魚売り場でございます!」
スピーカーが見当たらないのに、鼓膜の内側で実況が滑るように始まった。鮮魚売り場は今日も元気、氷は白く、床は危険、値札は黄色で、僕の平穏は紙より薄い。いや待て、ビーチはどこだ。砂も波もヤシの木もない。あるのは、空調の風と、魚の眼だ。眼がこちらを見返す。ぎょろり。ひやり。ぬめり。ケースの蛍光灯が、魚の鱗をチラチラと反射させる。チラチラ、チリチリ、チカチカ。床はワックスと水滴でヌルヌル、カートの車輪はキュルキュル、子どもの靴はピコピコ音を鳴らし、店内BGMはなぜか「さかなさかなさかな~」のあれの演歌アレンジである。しゃらり~ん、と三味線。誰の趣味だ。
「解説の野原さん、どうでしょう!」
「どうでしょう、じゃないですよ。ここビーチじゃなくてリノリウムです。しかも濡れてる。ウロコ踏んだらすごく滑る。命の危険」
「命は常に危険! スリルは買い物のスパイス!」
「塩でいい!」
正論が投げられたが、正論はだいたい実況の天敵で、勝率は低い。実況は止まらない。止まる気がない。僕は聞こえないふりを試みたが、ふりは三秒で破綻した。周りの客は誰も反応していない。つまりこれは選ばれし観客席、僕一人前。名誉か不名誉かでいえば、不名誉だ。
002
「それではルールを説明しましょう!」
誰も頼んでいないのに、説明パートが巻き込まれる。巻き込まれるのはいつも無関係なやつだ。
「この地域最大級のスーパー鮮魚売り場では、毎日十八時三十分に特売が開始されます! ただし開始位置はゲームマスターである店員の気紛れ! どの棚がスタートか、何が目玉か、すべては風のように未定! 運! 瞬発力! そして生活力! 勝敗を分けるのは、それら全部と、少しの愛!」
「愛は塩少々、砂糖ひとつまみ、酢をちょろりで頼みます」
「味付けにうるさい解説キター!」
愛は調味料くらいの分量でいいのか。実況のレシピは大胆だ。だがわかりやすい。要するに、氷上の早い者勝ちである。早い者勝ちに哲学を混ぜないでほしい。混ぜるならマグロに山わさびを混ぜてほしい。山わさびは泣ける。泣けるのは青春で、泣かないのは節約で、泣き笑いは買い物に似合う。
ケースの側面に貼られた半額シールの台紙が、ペタペタと存在を主張する。ペタ、ペタ、ペタ。店員の手先で踊るシールは、貼られる瞬間にだけ神々しく、貼られてしまえばただの丸い太陽になる。その太陽を、みんなが待っている。視線の数だけ、太陽は眩しい。
003
「有力選手をご紹介しましょう!」
来た。来ないでほしいのに来た。観客席ゼロでも紹介はする。視聴率は僕ひとり。
「まずは主婦歴三十年、特売の女帝、磯野選手! 値札の心理を読むのに長け、季節の裏切りにも強い。彼女に並ぶ者は、だいたい並ばされます!」
「おおっと既に目が“シールセンサー”になってますね。赤外線か何か?」
「家庭線です!」
「聞いたことない線!」
磯野選手の眼がきらり。きらり、なのにギラリ。手首のスナップはペリッと半額シールを剥がす音まで幻聴させる。ペリ、ペタ。怖い。
「次にママさんバレーのエース、江上選手! 身長を活かしたリーチと俊敏、カゴがもはやラケット、動線は常にショートカット!」
「ガシャッ! 今カゴでフェイント入れましたね」
「審判! いや審判いない!」
江上選手のスニーカーはキュッ、キュッと鳴る。滑る床でも止まるところは止まる。その靴底には経験が貼り付いている。経験はだいたいノンリターンのポイントカードだ。ためるだけ。ためたら強い。
「注目の新人、他リーグからの転入、“五時半の魔女”こと宮田選手! あだ名の真意は不明、本人も不明、でも強いという噂だけは先行!」
「魔女要素は?」
「夕飯の支度前に世界を動かす魔法です!」
「それ家事!」
宮田選手は小柄で、物静かで、しかし視線の移動速度が早い。左上の価格表、右下の消費期限、斜め前の家族連れの人数、背後のタイムセールの気配――全部いっぺんに見ている。脳内でエクセルが走っている気配。カタカタ、カタカタ。関数は=IF(家族>3,大盛,小盛)。現実は条件分岐。
「男性陣! 元船宿の船頭、幕ノ内選手! 荒波で鍛えたバランス感覚、混雑にも船酔いしない重心!」
「ススス……と、隙間が水路に見えますね」
「これは海です。いやリノリウムです」
幕ノ内選手は腰が低い。低い腰は信頼がある。重心が床と友達。床のぬめりが逆に味方。ズル、スル、ピタ。摩擦係数は友情で上がる。
「そして単身赴任サラリーマン、河豚田選手! 晩酌の肴を求めて通い詰め、なぜか店員に好かれている疑惑! ただし目利きは不安定!」
「彼は“背後からの手”で世界を取る! が、選球眼は盲目!」
「辛辣!」
河豚田選手の顔は疲れているが、目だけは輝いている。酒の肴に向ける種類の輝き。キラリ。けれど輝きと鮮度は比例しない。彼のカゴにはよくわからない缶詰が入っている。なぜそれを選んだのか。自分でもわかっていない顔。わからないまま選ぶのが、人生の大半だ。
004
「現場です! 本日のゲームマスターが現れました! バイト半年、山田君!」
山田君が、発泡スチロールの箱を抱えて登場する。動作が遅い。字幕で「遅い」と出るレベルで遅い。遅いことは悪ではないが、競技中の遅さは競技そのものである。彼が箱を置くまでに、周囲の十秒が体感で一分になった。時間の伸縮は怪異の第一条件だ。つまり彼は怪異だ。気の毒な怪異だ。
「解説の野原さん、今日はどこから始まると見ます?」
「二列目のシャケが消えてます。あそこですね。それか、あの空いたトレイの無言。空白が語りすぎている」
「空白が語る売り場、名言出ました!」
的確なコメントの後、唐突に雑音が走った。
「あべしひでぶたわばっ………!!!!!」
「ただいま放送事故がありました。以降の解説はディレクターの骨川がお届けします」
「人手不足!」
野原さんは消え、骨川さんが現れた。テレビの生放送みたいな空気だが、テレビでもないし生でもない。僕の鼓膜の番組だ。編成に抗議したい。抗議窓口は僕の脳内しかない。無人。無慈悲。無記名。
005
「おっと、始まりました!」
合図はなかった。が、選手は動く。合図より気配に従うのが群衆で、気配の起点は山田君が半ば置いたままの空のトレイだ。空は埋めたい。人間の脳は空欄を見ると埋めたくなる。心理テストで習った。いや、習ってない。習っていなくても、空欄は埋めたくなる。埋めるのは正義。埋まるのは安心。埋めすぎると過密。
磯野の肘が、氷上を切る。シャッ。江上の足が、床の水膜を味方につける。キュッ。宮田の視線が、値札よりも早く値段を決める。ピッ(脳内スキャナ)。幕ノ内は人混みの間を、波を読むみたいに滑っていく。ススス。河豚田は背後から腕を伸ばし、吊革のように刺身を引っ掛ける。ニョキッ。人は練習した動きを、だいたいどこでも使う。万能は習慣の別名だ。
「本日の特売は、お刺身盛り合わせ三割引き!」
実況が高らかに宣言するより早く、目の前で赤と白と緑(大葉)が乱舞していた。舟盛りは小舟で、カゴは港で、レジは税関だ。比喩が忙しい。忙しさは鮮度の敵だ。鮮度は時間に弱い。時間は実況に強い。実況は誰にでも強い。
「どけどけーっ!」という言葉は誰も言わない。言わないのに肘は語る。語らぬ肘、雄弁。ぬるり、すり、からん。カートの金属音がチリン、子どもの笑い声がキャッ、氷がガラガラと鳴る。音の海。声の渦。売り場は小宇宙。
006
「来ました! 河豚田選手、得意の背後アタック!」
「その腕は電車で鍛えた筋肉と羞恥心の合成! 伸びる! 伸びすぎる!」
「しかし掴んだのは“骨だらけアジ盛り”! 量は多いが口内攻撃力が高い! 芸術点マイナス!」
「イタイイタイイタイ!」
河豚田が苦い顔をする。彼は晩酌の器用さに比べて、刺身の選球眼が壊滅的だ。人生はだいたい、得意と不得意を同時に配布する。配られたカードでやるしかない。ジョーカーは、だいたい骨だらけアジだ。噛むたびに人生を考えるやつ。
江上は、バレーボールのトスみたいにカゴを掲げ、落ちてくるパックをふわりと受け止める。ふわっ、すっ。床との距離感が完璧だ。宮田は小さめの舟に迷いなく手を伸ばし、家族構成と冷蔵庫の隙間と今夜の気温を一瞬で暗算する。カタカタ。=SUM(配膳)。磯野は大きい舟を一度掴んでから、わざと戻し、山田君の次の箱を待つ。待つ。待てる人は、勝つ。勝つけれど、たまに負ける。だから待つ。待つことのうちに勝敗が混ざっている。混ざりものは旨い。旨すぎると飽きる。
「山田君、次の箱を……遅い! 遅いがゆえに緊張が持続する! もはや演出!」
「演出じゃなくてただの手際」
「ディレクターが言うな!」
骨川が辛辣に刺す。だが辛辣は山田の背中を押さない。背中を押すのは、空いたトレイの視線だ。空はまだ語っている。空欄は、希望の形でもある。埋められる余地があるというのは、世界の優しさの証明でもある。優しさは冷蔵ケースの冷気みたいに、常に流れている。ぶおー。
007
僕はといえば、カゴを空のまま提げて立ち尽くしていた。実況は僕を呼ばない。骨川も呼ばない。僕の物語は、僕だけのものだ。だが目は前に釘付けで、脳は実況の字幕を生成し続けている。スクロール、スクロール。無関係で居続けるのは、関係者より体力が要る。逃げるのも勇気だが、立ち会うのもまた別の勇気だ。勇気は今日みたいに特売していない。
そのとき、僕の視界の端で、小柄な影がよろけた。幕ノ内だ。押し波にさらわれかけ、重心が一瞬迷子になった。僕は反射で手を伸ばす。肘を支える。重さは確かで、温度は生きていて、支えたという事実は実況よりも強く僕の中に鳴った。とん、と内側で音がする。
「すまんのう」
「いえ」
短い礼の一音で、僕の胸が少し鳴る。音が戻る。怪異はだいたい、こういう小さな事実で輪郭を失う。僕は何もしていない。いや、肘を支えた。支えたなら、それでいい。人を支える行為にはレジを通さなくていい。税がかからない善意は、世界最後の免税品。
008
「メインイベント、来ます!」
山田君が、ついに次の箱を開けた。空気がひゅっと細くなる。陳列台に置かれたのは、伝説の半額サーモンブロック。値引きシールが太陽だ。とうとう太陽が沈む時が来た。日没は一瞬で、影は長い。長い影の上を、視線が走る。すっ。
磯野の視線が鋭角になる。江上の足が半歩前へ。宮田は微笑、幕ノ内は腰を落とし、河豚田は腕の角度を調整する。全員が同時に重心を未来へ傾けた、その一瞬。
隣の通路から、エコバッグを持った一般客がすっと手を伸ばし、サーモンを取った。普通の顔で、普通の速度で、普通に籠へ。カゴのなかでサーモンは「ぽす」と音を立てた気がした。ぽす。世界が終わる音にしては、優しい。
「まさかのモブ乱入!」
「ルール違反とは言い切れません。生活は常に正義。競技は生活の脇役」
「競技が泣いている!」
「夕飯が笑っている!」
選手全員の肩が落ちた。肩が落ちる音は聞こえないが、目で聞こえた。僕も少し笑った。笑うしかないタイミングが、世界には定期的に配布される。配られたら、笑う。笑うのはタダだが、尊い。
009
「試合は続きます! 第二次主役、マグロ中落ち掘り出し祭!」
山田君が別の箱を開ける。今度は身の色が夜のように濃い。中落ち、限定数。スプーンですくうと幸せが出るやつ。幸福はだいたい、骨の隙間から出る。隙間は宝庫。宝庫は混む。
磯野は再び最前列を確保し、江上は跳ばずに置く動きで位置を作る。宮田は家族チャートを脳内に展開し、幕ノ内は人と人の流れの狭間を抜け、河豚田は背後からの手をやめ、真正面から挑む。真正面は怖い。怖いが、真正面はかっこいい。かっこいいが、勝てるとは限らない。
「ここで骨川、審美眼チェック! 今日の献立、審査員の目は厳しい!」
「審査員って誰です?」
「レジの方々です。彼女たちは世界の結末をピッで決める」
「ピッ審」
レジのピッは、世界を区切る音だ。今日の物語の境界線。ピッの向こうが晩ご飯、ピッの手前が戦場。ピッは短いのに、分ける力が強い。ピッの音程はいつでも一定。人生の一定は救いだ。一定があるから、変化が映える。
010
中落ちは瞬時に消えた。消えたという事実だけが残り、残るという事実は、今度は空欄ではない。棚の透明なアクリル板が、虚無のように美しい。虚無は綺麗だ。綺麗だが、夕飯の役には立たない。立たないものは、心の棚に並ぶ。心はしばしば在庫過多。
「ここで特別演目! 芸術点採点!」
実況が急に番組を変えた。柔軟だ。柔軟すぎて骨がない。骨は大事だ。マグロの骨も大事だ。骨は出汁になる。出汁は正義。正義は茶色と相性がいい。
磯野のカゴには大舟とフライ。江上のカゴには刺身と豆腐と小松菜。宮田のカゴには小舟と味噌とプリン。幕ノ内のカゴには干物二枚と大根。河豚田のカゴには骨だらけアジ盛りと謎の缶詰。勝敗は、見る人の胃袋で変わる。胃袋は国境なき審査員。
「総合評価、僅差! だがここで――」
店内放送が割り込む。実在の放送だ。現実の音量が実況を押しのける。スピーカーはレジ上の四角い箱。そこから、あまりやる気のない声が降る。
『タイムセールのお知らせです。たまご、本日限りで……』
世界の実況は、世界自身が担当した。僕の頭の番組は、一時中断する。現実が勝つ。勝っていい。むしろ勝ってください。僕の生活は現実でできている。
011
ここで一幕。試食コーナーが出現した。いつのまにか、牙のつまようじを刺した角切りのマグロが、銀色の皿の上で照明に照らされ、艶々と存在している。店員のお姉さんが「どうぞ~」と声を伸ばす。どうぞ~、の母音だけビブラート。どうぞ~~~。周囲の子どもが集る。パク、パク、パク。ひとりはパクのあとにペッとした。やめなさい。マナーは心の調味料。母親に頭をこつんと小突かれていた。こつん。小突きの音が可愛い。
僕もひとつもらう。もらう瞬間の、爪楊枝が刺さるか刺さらないかの、皮膜の抵抗。ぷつ。口に入れる。むに。舌の上で、冷たい脂が広がる。ひやり、ぬるり、ほどける。塩気が足りないが、足りないからこそ熱いご飯を連想する。連想しただけで唾液が拍手する。ぱちぱち。口の中の小劇場。
実況が耳元で小声になって囁く。「うまい?」うまい。小声の実況は、友達である。大声の実況は、だいたい敵だ。
012
レジに長蛇の列ができる。ベルトコンベアの上を、各人の生活が流れる。仕切り棒の向こうに、それぞれの今日が並ぶ。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。僕は空のカゴを見つめる。まだコロッケを手に入れていない。僕は何を観ていたのか。いや、何に立ち会っていたのか。立ち会ったなら、それでいい。記憶はときどき晩ご飯になる。晩ご飯はときどき、物語になる。物語はたまに胃もたれする。正露丸は比喩を治さない。
ふと、レジの向こうで骨川がこちらを見て、小さく手を振った。気のせいかもしれない。気のせいでも、手は振れる。僕はほんの気持ちだけ、指先を動かした。ひら、ひら。返ってくるのは、ピッ。ピッ。会計の断続的な拍手。生活の拍手は、機械が代行する。
013
列の途中、幕ノ内が僕に会釈をした。肘を支えただけの関係に、頭を下げる必要はない。ないのに下げるのが人間だ。人間はときどき、必要ないことを必要みたいな顔でやる。それは優しさに似ている。いや、優しさそのものだ。優しさはレシートに出ない。ポイントにもならない。だが残る。心の明細に印字される。読めないけど。
江上はスマホで何かのレシピを確認している。「刺身丼 副菜 簡単」。検索窓を覗くな。覗いてない。覗けない距離だ。宮田はプリンの数を指で数えている。プリンは家族の人数で割ると、争いの種になる。だが争いは、プリンの上でなら甘い。スプーンがカチ。カチ。小さな金属音は、たぶん幸福の基本単位。磯野はわずかに迷って、フライ詰め合わせをひとまず戻した。戻した。戻せるのがベテランだ。戻さない自由と戻す勇気。両方持つのが大人だ。河豚田は缶詰をそっと棚に返し、代わりに豆苗を手にとった。彼の晩酌は今日、少しだけ青くなる。青は落ち着く。青い肴は健やか。健やかは翌朝に効く。
014
ここで売り場の照明が、ふ、と瞬いた。蛍光灯が寿命の端でダンスをする。チカ、チカ、チカ。ケースの中の魚が一斉に瞬きをしたように見えた。ぎょろり。ぎょろり。ぎょろ。僕の背筋に小さく涼風が走る。涼風は空調。空調は機械。機械は霊感がない。たぶん。
「今、光が……」
「怪異の兆候ですね! 来ますよ、半額妖精!」
「いない!」
骨川の声がむだに高揚する。が、来ない。来るのは山田君だ。相変わらず遅い足取りで、今度はカニの足を持っている。足なのに手に見える。いや、足だ。赤い。派手。派手だが静か。静かな派手は芸術点が高い。
「カニ足、行きまーす」
「間延びした声やめて!」
陳列された瞬間、売り場は無音になった。音が吸われる。すーっ。次の瞬間、音が弾ける。ばららっ。カゴがぶつかり、氷が飛び、値札がめくれ、誰かが「ちょっ」と言い、誰かが「すみません」と言い、誰かが「カニは高いから今日は……」と撤退する。撤退の勇気。勇気は今日みたいに特売していない(二回目)。
015
「臨時企画! “むき身早剥き選手権”!」
「そんなの始まってません!」
実況は好き勝手に番組を増やす。増やすだけ増やして、責任を持たない。責任はレジが持つ。レジは何でも持つ。袋も持つ。袋は有料。世界は有料。
隅では、魚屋の職人が包丁を研いでいる。しゅっ、しゅっ。銀色の刃が光る。光が目に刺さる。刺身の未来が刃先に宿る。職人がサクを引く。すうっ。空気が裂ける音。人だかりができる。おお、と小さな歓声。拍手。ぱち、ぱち、ぱち。包丁は舞だ。舞う刃は危険で、美しい。美しい危険は、だいたい売り場の端にある。
016
いつの間にか、僕のカゴにはコロッケが入っていた。入れたのは僕だ。忘れていた。僕は僕の行動をたまに忘れる。忘れても、コロッケはそこにある。茶色い安心。まだ温かい。ビニール越しにぬくもりが伝わる。ほわ。温度は感情を軟化させる。固い日でも、温かいものは味方だ。
そのとき、耳の奥で小さく鈴が鳴った気がした。ちりん。気のせいで構わない。気のせいの音も、僕には届く。届いたなら、それでもう十分だ。音は存在のサイン。サインは一度でいい。二度鳴れば念押し。三度鳴れば儀式。今日は一度で足りる。
017
「続報! “本マグロの解体ショー、始まるかと思ったら今日はやらない日”!」
「やらない報告するな!」
骨川が空振りのテロップを出して、すぐに引っ込める。脳内テロップは忙しい。忙しいけれど、誰も困らない。困るのは僕の集中力だけだ。集中力は薄い。薄いから伸びる。伸びるけど切れやすい。
目の端で、宮田が棚の隅に残っていた「昆布〆」を拾い上げるのが見えた。昆布の香りが、冷気を伝ってわずかに鼻に届く。くゆり。昆布は時間の味。かすかで深い。深いのに軽い。軽いのに重い。言葉は昆布を説明できない。できないのに説明したくなる。説明はだいたい余計。
018
レジ前のサッカー台で、見知らぬ老夫婦が袋詰めの速度を競っている。手は震えているのに、動きは速い。シャッ、シャッ、シャッ。彼らの間に会話はない。ないのに意思疎通がある。長年連れ添うと、沈黙は最高の通信手段になる。無線。無言。無事故。袋詰めはスポーツ。スポーツは家庭を強くする。たぶん。
「保冷剤おつけしますか?」と店員。夫が「いらない」と言い、妻が「いる」と言い、二人で笑う。いることになった。氷がカラン。笑いは氷を溶かす。ゆるり。
019
僕の番だ。僕はコロッケ二つと、安い味噌汁の具と、なぜか半額の長ネギを置いた。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。短い音の連続が、今日の僕を完成させる。レシートがちょろりと出る。ちょろり。白い紙に黒い数字。数字は冷たいけれど、今日の数字はぬるい。許せる温度。許せる日は、だいたい正しい。
「本日の勝敗は、採点によるものとなりました!」
「勝者は誰?」
「それは――あなたの食卓!」
実況が戻ってくる。戻ってくるのが早い。早いが、許す。勝者は誰か。磯野か、江上か、宮田か、幕ノ内か、河豚田か。僕はレジ袋の口を結びながら、心の中でだけ答える。勝者は、たぶんみんなだ。あるいは、誰でもない。あるいは、生活だ。あるいは、今日だ。あるいは、塩だ。塩はだいたい勝つ。
「そして残念ながら放送はここで終了です。またいつかどこかで! 解説は骨川でした!」
「事故により退場した野原です。最後に一言。ここ、ビーチじゃない」
「それ三回目!」
退場したはずの野原が、締めの正論を置いていく。正論は置き土産としては重いが、今日に関してはちょうどいい重さだった。適量の重さ。重さは舌で測れない。心で測る。メートル法では測れない。
020
自動ドアが開く音が、ちゃんと聞こえる。ぷしゅ。外の空気は、冷房の冷たさと違い、湿りと埃と夕方の音を運ぶ。駐車場でカートの車輪がぎこぎこと鳴り、遠くで子どもがアイスを落として泣く。わーん。世界は音でできている。音は日常の呼吸で、呼吸は生きている証拠だ。僕はレジ袋を持ち直し、横断歩道の前で信号が変わるのを待つ。赤が青になり、青が歩けに変わる。ピッポッパ。変わることは良いことだ。変わらないことも、良いことだ。晩ご飯は、きっとどちらも肯定する。僕のポケットのなかでレシートがこすれ、しゃか、と鳴る。しゃか。小さな紙の囁き。
背後で小さく、鈴が鳴った気がした。ちりん。気のせいで構わない。気のせいの音も、僕には届く。届いたなら、それでもう十分だ。十分というのは、満腹ではない。満腹は眠い。十分は歩ける。歩ける夜は、良い。
021
家に着くまでのあいだ、袋のなかでコロッケが転がった。ころ。ころ。ころ。コロッケだけに。くだらないダジャレが自然発生する程度には、今日は良い日だ。良い日は、くだらないを許す。許す心は万能調味料。ほわっと笑う。誰も見ていないのに、笑う。笑いは独りでも成立する。独りの笑いは、世界の最小単位の祝祭だ。
信号待ちで、ふと振り返る。スーパーの看板が、夕焼けに染まっている。赤い。半額シールの赤と同じ系統の赤。赤は人を急がせる。急がせる色を背負って、店は今日も人を帰らせた。帰る場所があるだけで、勝ちだ。勝ち負けは、生活に持ち込むと薄まる。薄まるから、やさしい。
022
帰宅。玄関。ただいま。誰もいなくても言う。言葉は空にも届く。キッチン。皿。箸。湯。味噌汁。ネギ。とん。とん。とん。まな板の小気味。油を温める。じゅ。じゅわ。コロッケを温め直す。サク。サクサク。音が美味い。音も味だ。耳が舌になる。舌が拍手する。ぱちぱち。今日二度目の小劇場。
テレビはつけない。実況は、もう要らない。今日の実況は、今日で満腹。静かな台所で、音だけがある。鍋がこと。換気扇がごう。冷蔵庫がぶう。生活が鳴っている。鳴っているから、僕は僕だ。
023
食卓に座る。箸を持つ。いただきます。最小の祈り。祈りは胃の準備運動。まず味噌汁。ずず。塩気が帰ってくる。帰る味。コロッケ。サク。じゃがいものほろり。衣のかすかな甘み。油が少し笑う。笑い返す。無言のコール&レスポンス。刺身は買っていない。買っていないから、恋しい。恋しさは旨味の別名。明日の楽しみに残す。楽しみは未来の調味料。
024
ふいに、スマホがぶぶ、と震えた。通知。誰からでもない。広告。スーパーのアプリ。「本日のお買い逃しはありませんか?」あるよ。いっぱいある。でも、逃したからこそ、今日の食卓は軽い。逃すのも献立。献立は選択の積み木。積みすぎると倒れる。倒れない範囲で積む。積み木は楽しい。
画面を消す。台所の灯りをひとつ落とす。部屋が少し暗くなる。暗さは味を濃くする。目に頼らない舌は誠実だ。誠実は噛むほど出る。噛む人生。噛めば噛むほど、やわらぐ。やわらぎ鈴の音が、またどこかで、ちりん。気のせいの交響曲。
025
――錯綜するのは、物語だけじゃない。鮮魚の列も、人の列も、心の列も。今日も、順番は乱れ、でもちゃんと進んだ。進んだなら、拍手。僕は心の中で手を打った。音は、僕にしか聞こえない。聞こえないのに、ちゃんと鳴った。ちゃんと鳴ることが、ちゃんと生きることに似ている。似ているだけで、同じではない。違いは差ではない。差は争いではない。争わない夕飯は、たぶん勝利だ。茶色と少しの緑と、数え切れない音。今日の全部が、胃のなかで丸くなる。丸くなったなら、眠くなる。眠くなったなら、布団へ。布団は白旗。降参の旗。フラッグがここにあった。やっと見つかった。やっと降ろした。いい夜だ。いい夜は、静かに勝つ。




